第3章 第3話 (まだ私のことを考えているの?)(後編)
その時、部屋の密やかな静寂を破るように、コンコンコンと控えめなノックの音が響いた。ケンゾーは不審に思い、立ち上がるとマリアに向かって優しくささやいた。
ケンゾー:「ちょっと見てくるよ、シスター」
扉に近づいて開けると、修道女の容態を心配そうに覗き込む孤児たちの姿があった。その中には小さなレイの姿もある。しかし子供たちのすぐ後ろ、廊下の奥には圧倒的な存在感を放つ人影が立っていた。ケンゾーはその姿を即座に認識した。
ケンゾー:「リョウ……!?」
リョウ:「通向してもらえるか? お前と、それからマリアシスターと少し話がしたい」
ケンゾー:「ああ、もちろんだ。ちょうど目を覚ましたところだよ」
リョウが一歩踏み出そうとした時、背後の廊下に隙なく控えていたオロバスとパンドラに向き直った。
リョウ:「お前たちはここで待っていろ」
オロバス・パンドラ:「御意のままに」
二人は寸分の狂いもない完璧な同調で深く頭を下げた。
リョウが館内へ足を踏み入れると、ケンゾーの案内で医務室へと向かった。室内に入ると、そこには既にアカリがおり、ベッドの脇の椅子に腰かけて静かに修道女の看病をしていた。ケンゾーがすぐに声をかける。
ケンゾー:「アカリ! 誰が来たか見てごらん」
少女が好奇心に満ちた目で振り返った。青年の姿を認めると、その瞳は歓喜に輝き、躍り上がるように椅子から飛び降りた。
アカリ:「リョウお兄ちゃん……! 怪我はもう大丈夫なの!? お兄ちゃんは……サムお兄ちゃんはどうなったの!?」
リョウ:「サムは休んでいる。心配いらない」
アカリ:「よかった……本当によかった、リョウお兄ちゃん」
リョウは小さく頷き、マリアのベッドの傍らへと歩み寄った。ケンゾーは空いている椅子に座り、彼女の意識を促すように優しく呼びかけた。
ケンゾー:「シスター……シスター、起きてください」
マリアは再び瞼を開き、集まった面々を困惑気味に見つめた。
マリア:「どうしたの、ケンゾー……?」
ケンゾー:「面会人が来てくれたんだ」
修道女はリョウに視線を向け、数秒間その姿を検分した。
マリア:「あなたが……村を救ってくれたという少年ですね?」
リョウ:「そうだ。初めまして、リョウだ」
マリア:「まあ……ケンゾーや私たちを助けてくれて、本当にありがとうございます」
リョウ:「お気になさらず。実は、贈り物を持ってきました」
前置きもそこそこに、リョウは懐に手を差し入れ、白蛇の洞窟から回収してきた純金貨が詰まった重厚な革袋を取り出した。そして、それをベッドの毛布の上に静かに置いた。
リョウ:「受け取ってください。これがあれば、当面は金に困ることはないはずだ」
不審に思った修道女が震える指先で袋を開いた。そこに広がる眩い黄金の輝きと圧倒的な純金貨の量を目にした瞬間、彼女は絶句し、驚愕に目を見開いた。
マリア:「こんな……こんなの多すぎます! 大金すぎて、到底受け取れません……!」
リョウ:「誰もが同じことを言いますね。素直に受け取ればいい……それに、一つ頼みがあります」
マリア:「頼み……? 一体どのようなことでしょう?」
リョウは視線を微かにアカリとケンゾーへと向けた。
リョウ:「この二人を、ギルドの任務に同行させてもよろしいでしょうか?」
マリア修道女は一瞬沈黙し、深い慈愛と聡明さを宿した瞳で子供たちを見つめてから答えた。
マリア:「まずは彼ら自身の意思を確かめてください」
リョウは二人へと鋭い視線を向けた。
リョウ:「どうだ?」
アカリが即座に一歩前へ踏み出し、意気込みと決意に満ちた声で叫んだ。
アカリ:「私、行きたい! それに、サムお兄ちゃんのそばにいて看病してあげたいの!」
リョウはケンゾーへと視線を移した。
リョウ:「お前はどうする、ケンゾー?」
ケンゾーは後頭部をかきむしり、明確な迷いの色を顔に浮かべた。
ケンゾー:「分からないよ、リョウ……こんな状態のシスターを置いていくなんてできない」
拒絶の言葉を口にする前に、ベッドから修道女の優しい声が彼を制した。
マリア:「私のことは心配いりませんよ、ケンゾー。他の子供たちがついていてくれます。行きなさい」
ケンゾーは修道女を見つめ、それからリョウへと視線を戻した。重苦しい沈黙の後、彼は深く息を吐き出して折れた。
ケンゾー:「分かった……一緒に行くよ。でも、今回だけだからな。これ以上は何も要求しないでくれ」
リョウ:「構わない。金曜日までに出発の準備を整えておけ」
ケンゾー:「ああ、約束する」
リョウ:「では」
青年は短く言い放ち、立ち去ろうと身を翻した。
ケンゾー:「リョウ、待ってくれ!」
部屋の中央で足を止め、リョウは肩越しに振り返った。
リョウ:「何だ?」
ケンゾーは視線を落とし、最終決戦以来抱え続けてきた罪悪感を吐露するように拳を強く握りしめた。
ケンゾー:「謝りたくて……本当にごめん。白蛇との戦いで君が重傷を負ったのは、間違いなく僕のせいだ。あの時、僕は怒りで冷静さを失って、すくんでしまって何もできなかった……命を救ってくれたことに感謝する。そして、僕のせいで怪我をさせてしまったことを許してほしい」
リョウはその言葉の成熟ぶりに僅かに目を見張った。しかし、関心すらないといった様子でシャツの裾を掴み、あっさりと胸元を肌蹴させて見せた。
リョウ:「気にするな。見ろ、すでに完全に治っている」
ケンゾーは絶句した。傷跡一つないこと以上に彼を打ちのめしたのは、リョウの規格外の肉体であった。華奢な少年の体を想像していた彼の前に現れたのは、美しく鍛え上げられた腹筋と、凄絶な腕力を物語るしなやかで強靭な上腕二頭筋であった。
ケンゾー:「そうか……それでも、謝罪撤回はしないよ」
リョウは shirt の裾を戻すと、そのまま出口へと歩みを進めた。
リョウ:「勝手にしろ。じゃあな」
静かな足取りで部屋と孤児院を後にしたリョウは、廊下で待機していたパンドラ、オロバスと合流し、サムが待つ小屋へと向かって星空の下を歩み始めた。
さらに時は流れ――。
リョウは小屋の中で木製椅子に腰かけていた。その時、ベッドの上のサムがゆっくりと意識を取り戻し始めた。大きなあくびを噛み殺し、身体の強張りをほぐすように深く伸びをして体を起こした。
サム:「ふあぁぁ……っ」
視線を巡らせると、椅子の上の友の姿が目に入った。その瞳が驚きと安堵で大きく見開かれる。
サム:「リョウ……!? もう大丈夫なのか!?」
リョウ:「ああ。お前は丸一日眠っていたぞ。体調はどうだ?」
サム:「うん、すっかり良くなったよ! 君が無事で本当によかった!」
リョウは床に置いてあった包みに手を伸ばし、小さな箱を持ち上げた。
リョウ:「途中で飯を買ってきた。食うか?」
サム:「もちろんだよ! お腹が空いて死にそうだったんだ!」
リョウが主包装を開くと、中には温かい食事の入った四つの個別箱が収められていた。一つをサムに渡し、腕を伸ばして椅子の背後に佇むオロバスとパンドラにも一つずつ手渡した。
リョウ:「ほら」
二人:「心より感謝申し上げます、我が主」
二人は完璧な同調で深く一礼し、給仕を受け取った。
サムは一口食べようとした手を止め、黒衣を纏った二人の異様な佇まいを凝視した。二人とリョウを交互に見比べ、飲み込んでから問いかけた。
サム:「ところでリョウ……その人たちは一体……?」
リョウは一口含み、静かに咀嚼してから暗い瞳をサムに向けた。
リョウ:「俺の使い魔だ。契約の下にある護衛の精霊で、これからの旅に同行させる」
サムは感嘆と好奇心を瞳に宿して二人を見つめ、自ら声をかけた。
サム:「はじめまして! 僕はサムっていうんだ!」
パンドラとオロバスは即座に完璧な礼節をもって応じた。
パンドラ:「我が主のご友人とお会いできて光栄に存じます。私はパンドラと申します」
オロバス:「オロバスとお呼びください」
サムは瞳を細め、笑顔で答えた。
サム:「仲良くしてくれると嬉しいな!」
二人は寸分狂わぬ同調で、変わらぬ恭順さをもって応えた。
二人:「こちらこそ、よろしくお願い申し上げます」
三日前――。
数キロメートル離れた、ヴィクターやセレーナ一行が滞在する宿場町の旅籠にて、けたたましい叫び声が部屋の静寂を打ち破った。
「な……何だってぇぇぇ!?」
アカネは目を丸くし、ヴィクターとセレーナの顔を交互に見つめながら絶句していた。
アカネ:「ほ、本当なの……? 妊娠してるの、セレーナ!?」
ルシアが温かな笑みを浮かべ、緊張をほぐすように前へ出た。
ルシア:「なんて素晴らしい知らせなの! 本当におめでとう。二人の間に子供が生まれるなんて感動的だわ」
壁に背をもたれかけ、冷ややかな視線で事の顛末を眺めていたスリーは、ヴィクターに暗い視線を向け、苦々しい笑いを漏らした。
スリー:「傑作だな……一人の息子を失った途端に、もう次の子供か。親としての資質がないのか、それともただの痴れ者なのか、疑いたくなるぜ」
ヴィクターの身体が怒りで硬直し、身勝手な不躾さに拳を強く握りしめた。
ヴィクター:「貴様……! 失ったわけではないと言ったはずだ! リョウの件はすべて不運な誤解だったんだ!」
スリー:「へいへい、好きに言えよ」
口論が激化する前に、セレーナが愛おしそうに腹部に手を当て、静かだが毅然とした声で割り込んだ。
セレーナ:「私はただ……一刻も早くリョウを見つけ出したいだけよ。そうすれば家族全員で再会できるし、あの子も新しく生まれてくる弟か妹に会えるわ」
ヴィクターはその言葉に表情を緩め、彼女の手を優しく握りしめながら愛おしそうに見つめた。
ヴィクター:「心配いらないよ、セレーナ。どこに we いようと、必ずあの子を見つけ出すと約束する」
そして仲間の冒険者たちに向き直り、真剣な面持ちで告げた。
ヴィクター:「そういうわけで、当面はこの村に滞在する。妊娠初期のセレーナに無理な移動はさせたくないんだ。みんなは自分たちの旅を続けてくれて構わない。状況が落ち着いたら、こちらから連絡を入れるよ」
スリーは溜息をつき、腕を組んだが、その声調は僅かに柔らかさを帯びていた。
スリー:「俺には急ぎの用もないからな。ここに残ってやるよ。お前らの背中を護るくらい朝飯前だ」
ヴィクター:「感謝する、スリー。残ってくれて本当に心強いよ」
続いて二人の女性陣に視線を向けた。
ヴィクター:「二人はどうする?」
アカネ:「私たちも緊急の依頼があるわけじゃないし、ここに残るわ」
ルシア:「それに、この数日間すごく楽しかったもの。ここで別れるなんて退屈だわ」
仲間の揺るぎない絆に胸を打たれたヴィクターは、深く頭を下げて感謝を示した。
ヴィクター:「みんな、本当にありがとう……感謝の言葉もないよ」
一同は衣服の塵をはらい、部屋の出口へと向かい始めた。
スリー:「俺たちはギルドで手頃な依頼でも探して時間を潰してくる。また後でな」
ヴィクター:「ああ、また後で!」
仲間たちが去り、室内には再び静けさが戻った。ベッドのヘッドボードに身を預けていたセレーナは、愛おしさと小さな咎めの色のこもった視線を夫に向けた。
セレーナ:「あなた、そんなに心配しなくても大丈夫よ。私は平気だし、必要なら旅を続けることだって……」
ヴィクター:「一度子供を失いかけたんだ、セレーナ……今度こそ、我が子に万が一のことがあってはならない。それに、リョウの捜索は俺自身の手で行う」
ヴィクターはマットレスの端に腰を下ろした。しかし、その顔からは先ほどの力強さが消え失せ、深い罪悪感と過去のトラウマに苛まれた陰鬱な表情が浮かび上がっていた。長年連れ添った妻には、その苦悩が痛いほど理解できた。
セレーナ:「あなた……私に隠していることがあるでしょう? 一体何を抱え込んでいるの?」
ヴィクターはゆっくりと振り返り、震える手で彼女の頬を優しく撫でた。
ヴィクター:「お前には何でもお見通しだな……」
セレーナ:「あなたの妻ですもの」
ヴィクターは深く息を吐き出し、天井へと視線を投げかけた。過去の亡霊がその瞳を暗く陰らせていく。
ヴィクター:「幼い頃……僕の目の前で両親が殺されたんだ。僕たちはごく普通の家庭で、父も母も僕たちと同じ冒険者だった。日銭を稼ぐのが精一杯で、まだ小さかった僕はいつも留守番をさせられていた」
喉の奥に塊が詰まるのを感じながら、ヴィクターは記憶を反芻した。
ヴィクター:「鮮明に覚えているよ……激しい嵐の夜だった。二人とも全身濡れネズミで、傷だらけで、狂気じみた異様な恐怖を顔に張り付かせて帰ってきた。だが子供だった僕は気に留めず、夕食を食べて眠りについた。そしてその夜遅く……厨房から響く激しい悲鳴で目が覚めたんだ」
セレーナは息を呑み、静かに耳を傾けていた。
ヴィクター:「跳ね起きて見に行くと……父さんが床に倒れて死んでいた。そして母さんは……母さんは父さんと全く同じ姿をした『何か』に、何度も刺されていたんだ。母さんが息絶える直前に叫んだ最後の言葉は『逃げろ』だった。恐怖で身体が勝手に動き、僕は雨の中を夢中で走った。脚の感覚がなくなるまで走り続け……そうして孤児院へ辿り着いたんだ」
ヴィクターは歯を食いしばり、当時の怒りと恐怖を蘇らせた。
ヴィクター:「成長してから、あの怪物が何だったのか調べ上げた。それは『シェイプシフター』――殺害した人間の姿を完全に模倣する、絶滅したはずの怪物だった。両親は最後の依頼で奴と遭遇し、叶わずに逃げ帰ったが……あの悪魔は家まで追ってきたんだ。だから……だからリョウがあんな異様で変貌した姿で現れた時、トラウマがフラッシュバックした。頭の中では……あの時の monster が目の前に現れたと錯覚してしまったんだ」
悲惨な過去の真実を知り、セレーナの胸は締め付けられた。彼女は躊躇することなく身を乗り出すと、ヴィクターの首に腕を回し、その頭を自らの胸元へと強く抱き寄せた。
セレーナ:「もう自分を責めないで、あなた……必ずリョウを見つけ出して、すべてを話し合いましょう。大丈夫よ」
ヴィクターは妻の温もりの中で首を垂れ、溢れ出る涙を必死に耐えていた。
ヴィクター:「そうであることを祈るよ……」
薄暗い部屋の中、セレーナは夫を強く抱きしめ続けた。ヴィクターがその生涯を通じて静かに背負い続けてきた、目に見えぬ深い傷痕を包み込むように。




