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第3章 第1話「公国 」(後編)

男は、周囲を包み込もうとする熱波など意にも介さなかった。ただただ無関心に、ひとつのため息を吐き出す。


執事:「少し暑くなってきましたな……一撃で終わらせましょう。どちらの炎がより灼熱か、試してみようではありませんか」


執事は左の掌を掲げた。はじめは指先の上に小さな普通の火炎が揺らめいていたが、次の瞬間、その炎は劇的な変貌を遂げた。リョウが放つ攻撃と全く同じ、濃密で禍々しい漆黒の炎へと変化したのだ。


白蛇は、その炎の小ささを見て完全に侮った。


白蛇:「ハッ! そんな小さな火弄りで、この我に何ができるというのだ!?」


執事:「では、参ります」


巨獣は火炎の体を開き、巨口を広げて急降下した。男を己の炎体で包み込み、灰塵に帰さんとする。執事は平然とした態度を崩さず、その小さな黒炎を怪物の燃えさかる奔流へと投げ放った。


白蛇:「効かぬわぁぁぁッ!」


白蛇は頭蓋から絶大な火柱を解き放った。しかし、黒炎が怪物の構成体に触れたその真の瞬間――1分はおろか、一瞬の出来事であった――白蛇の全身を形作る炎が一変した。その火炎は突如として、呪われた闇の黒炎へと侵食されたのだ。


怪物自体が火炎そのものであるにもかかわらず、容赦ない灼熱の苦悶に体を激しくのたうち回らせ、悲痛な絶叫を上げた。


白蛇:「熱い……熱いぃぃッ!? 何だこれは!? ギャアアアッ!」


焦土の上で悶絶しながら、白蛇は己が格上の存在と対峙していることを悟った。純粋な生存本能から、心の中で叫ぶ。《逃げなければ……ここから去らねば……!》


凄惨に焼けただれた体を地面に引きずり、白蛇は絶望的な速度で這い進み、この殺戮の場から逃れるべく森の深淵へと没していった。


暗闇を逃走しながら、残された意識の全てが猛烈な怒りと狂おしい憎悪に塗りつぶされていく。《くそっ! 何が起きた!? あの呪わしい炎は何なのだ!? こんなもの、生まれてこの方見たこともない……それにあのガキども……全部あいつらのせいだ! いや、あの黒髪のガキのせいだ! あいつに見つかってから、何もかもが狂い始めた……! 殺してやる……絶対に殺して喰らい尽くしてやるぞ!!》


白蛇のシルエットは、森の濃密な闇の中へ完全に消え去った。遠ざかるにつれ、その体にまとわりついていた黒炎も緩やかに霧散し、夜の静寂の中にその残光を消したのだった。


執事の男は森の開けた場所に佇み、完璧な静寂と余裕を保っていた。寸分の隙もないタキシードには一筋の傷すらなく、白い手袋も完璧な清潔さを保っている。数秒の沈黙の後、彼は優雅に身を翻し、メイドがリョウの手当てを続けている場所へと歩み出た。


到着すると、女性は紅い瞳を少しだけ上げ、静かな声で問いかけた。


メイド:「逃がすのですか?」


男は彼女の隣に立ち、軍人のように背の後ろで手を組んだ。


執事:「あの炎の後遺症から生き延びられるとは思えません。仮に生き延びたとしても……引導を渡すのは、時が来た際の我が主の役目でしょう」


メイドは再びリョウの顔へ視線を落とし、その奇跡的な速度で胸の皮膚が塞がっていくのを見つめながら、優しく彼の髪を撫でた。


メイド:「わかりました。そうしましょう」


その瞬間、リョウの意識からは最後の光と音が完全に消失した。極度の疲労に限界を迎えた精神は崩壊し、そのまま深い絶対の闇の中へと落ちていった。


数時間後――。

すでに朝を迎えていた。朝の温かな日光が、部屋の窓から一気に差し込んでいる。外では鳥たちが惨劇など知る由もなくさえずり、生き残った村人たちの声や、救援活動を指揮する指示がはっきりと聞こえていた。多くの家々が灰となったが、幸いにもすべての建物が破壊されたわけではなかった。


その時、リョウは跳ね起きるように目を開ました。


彼は木造の天井をじっと見つめたまま身を固くし、思考を整理しようと自問自答した。(何が起きた……? 一体どうなったんだ……?)


リョウは弱々しく手を伸ばし、目眩を鎮めようと頭を押さえた。まさにその時、すぐ隣から荒く規則的な寝息が聞こえてきた。


サム:「……んむ……」


そこにはサムがいた。彼は の椅子に腰掛けたまま、ベッドに上半身と腕を預けて完全に眠りこけていた。一晩中寝ずに友を看病し続けた疲労の現れであった。


その光景に胸を打たれたリョウは、かすかな呟きを漏らした。


リョウ:「サム……」


しかし、サムが眠るすぐ後ろに視線を向けたリョウは、息をのむような光景を目にした。昨夜のあの謎めいた二人組みが、部屋の隅に佇み、絶対の沈黙の中で彼を見つめていたのだ。主が意識を取り戻したことに気づくと、女性は寸分の乱れもない一礼を捧げ、男は再び片膝をついた。二人は揺るぎない忠誠を込めた声を揃えて口を開いた。


二人:「おはようございます、我が主。お体に障りはございませんか」


リョウは暫くの間、二人を凝視した。怯えたり取り乱したりする代わりに、彼はただベッドへ背を預け直し、大の字になって両腕を広げた。天井を静かに見つめ、意図的に二人を無視した。


部屋の中に、重く静かな緊張感が5秒ほど流れた。やがてリョウは冷ややかで神秘的な静けさを湛えた声で、その沈黙を破った。


リョウ:「どれほどの時が流れた……オロバス……そして、パンドラ?」


パンドラは穏やかな声で答えた。


パンドラ:「およそ四千年の時が流れました、我が主」


オロバスもその体勢のまま即座に言葉を挟んだ。


オロバス:「私にとっては、およそ四千五百年の時が流れておりますが」


リョウは過ぎ去った途方もない歳月のスケールを噛み締めるように、黙って天井を見つめ続けた。


リョウ:「そうか……随分と長い時間だな。俺とこの村を救ってくれたのは、言うまでもなくお前たちなんだな?」


この時すでにパンドラは姿勢を正していたが、オロバスは従順と敬意の姿勢を保ち、膝をついたままであった。


オロバス:「私どもの最優先事項は我が主をお救いすることにございますが、言ってみれば左様にございます。村も救う結果となりました」


リョウ:「お前たちがなぜここにいるのか……いや、どうやってここに辿り着いたのか説明してくれるか?」


パンドラ:「私どもの契約は魂の絆にございます、我が主。ゆえに、私どもは主がどこにおられようと共におります。主が命を落とされようとも、私どもは永遠に主に仕える存在なのです」


リョウ:「だからこの世界にも存在できるわけか。そうだな、忘れていた……そうだとするなら、お前たちも通らざるを得なかったはずだ……」


パンドラ:「左様にございます、リョウ様。私どもも冬眠の刻を経ねばなりませんでした」

リョウ:「そして、俺の影の中に潜んでいたというわけか」


オロバス:「御意にございます、我が主」

リョウは長い息を吐き出すと、ようやくベッドから起き上がった。彼はサムのもとへ静かに歩み寄ると、優しく彼を抱きかかえてベッドへ横たえ、過酷な夜を明かした友を心ゆくまで休ませてやった。それを終えると、リョウは振り向いた。


リョウ:「村の様子を見てくる」


オロバスは重大な報告を伝えるべく、すぐさま彼を引き留めた。


オロバス:「我が主、あの白蛇と共にいた老者を捕縛いたしましたことをご報告申し上げます」


リョウ:「そうか……それは村人たちに任せればいい」


そして、青年は二人の従者へまっすぐな視線を向け、心からの本音を口にした。


リョウ:「助けてくれたことには感謝する。だが、今の俺にはお前たちの主でいられるような力も階級もない。お前たちは己の人生を歩むべきだ」


オロバスは跳ね起きるように立ち上がり、主の言葉に明白な動揺を見せた。


オロバス:「滅相もございません、我が主! 私どもにとって、主はお方ただおひとりにございます! 主に従うことこそが私どもの使命であり、何より私どもは、リョウ様を深固にお慕いしているのです!」


パンドラも即座に同調し、同様の献身を示した。


パンドラ:「その通りでございます、リョウ様。私どもは主のために死し、主のために生きます」


二人の揺るぎない忠誠心に押し切られ、リョウは敗北感を滲ませて視線を落とした。


リョウ:「分かった、分かったよ……だが、誰かに尋ねられたら『精霊』だと名乗れ」


二人は力強く声を揃えた。


二人:「ハッ!」


リョウは部屋の机へ向かい、自分のシャツを手に取ろうとした。しかし、持ち上げた瞬間に布地に穿たれた巨大な穴と、乾いた血で赤黒く染まった惨状が目に入った。彼は苦々しく口の端を歪めた。


リョウ:「む……」


その時、パンドラが助け船を出した。


パンドラ:「数時間前、修道女の方々が新しい衣服をお持ちになりました、我が主」


リョウは用意された衣服を見つけ、状態を確認してから身につけた。以前着ていたものと全く同じ仕立てであったが、当然ながら完璧な状態であった。支度を終えると、リョウは周囲を見回した。


リョウ:「俺の剣はどこだ?」


パンドラ:「こちらにございます、我が主」


リョウが振り向くと、パンドラがその手に剣を捧げ持っていた。近づいて武器を受け取ると、刃に焼け焦げた痕跡が残っていることに気づいた。彼は心の中で呟いた。(この焼け跡……黒炎を使った時のものか)


まさにその瞬間、リラがリョウの目の前に姿を現した。彼女は申し訳なさそうにうつむき、罪悪感から彼の目を直視できずにいた。


リラ:「申し訳ありません、ご主人様……私、戦いでお役に立てなくて……」


リョウが彼女を凝視すると、その腕に焼け焦げの痕があることに気づいた。剣の刃が受けたダメージが、彼女の精神体にもそのまま刻まれていたのだ。


リョウ:「気にするな、リラ。剣を使うのは人間だ。気を取られていたのは俺の方だ。それに、お前は黒炎に耐え抜いた。それだけで十分な頑丈さの証明だ」


オロバスも傷ついた精霊に対し、珍しく同情の入り混じった視線を向けながら付け加えた。


オロバス:「我が主のおっしゃる通りです。地獄の炎に耐え得る存在など極一握り。恥じることはありません」


温かい慰めの言葉を聞き、リラは耐えきれずにリョウへ強く抱きついた。彼の胸に顔を埋め、感極まった声を上げた。


リラ:「ありがとうございます、ご主人様……!」


リョウは抱き返すこともできず、完全に硬直した。深い羞恥心から、その顔はみるみるうちに真っ赤に染まっていく。その光景をいつもの冷徹な気品で見つめていたパンドラが、遠慮のない一言を放った。


パンドラ:「我が主は、既に妻をお娶りになられたようです」


リョウは目を見開き、あまりに唐突な指摘に愕然とした。慌ててリラの手を払いのけながら、苛立った声を上げた。


リョウ:「何を言っているんだお前は!」


パンドラ:「大変失礼いたしました、我が主」

リョウは平静を装いながら、どこかへ出かけようとするかのように背中の剣をしっかりと固定し直した。


リョウ:「よし、行くぞ。ギルドへ向かって昨夜の件を報告する。いいか、誰かに聞かれたら『精霊』と答えるんだぞ」


オロバスとパンドラは再び声を揃えた。


二人:「御意のままに、我が主」


全ての準備を整え、リョウは安らかに眠るサムをベッドに残し、部屋を後にしようとした。


外に出ると、リョウは自分がいつもいた孤児院ではなく、見覚えのない小屋の中にいることに気づいた。主の惑いに気づいたパンドラが、先回りして説明を添えた。


パンドラ:「村の方々が、主により深い休息をとっていただくため、こちらへお運びしたのです」


リョウは軽く頷き、自らの状態を確認すべくメイドを横目で盗み見た。


リョウ:「俺は正確にはどれくらい眠っていたんだ?」


オロバスが敬意を込めて答えた。


オロバス:「戦いのあった夜の間だけでございます、我が主。主の計画は完璧に機能いたしました。お怪我を負われたものの白蛇は退けられ、村人たちも正気を取り戻しております」


その言葉を聞き、目覚めた瞬間からリョウの頭の中に渦巻いていた疑念が確信へと変わった。彼は足を止め、二人を鋭く見つめながら問いただした。


リョウ:「お前たち……俺がこの世界に来てからずっと見張っていたな? いや、それどころか、もっと前から……」


事態が露呈したことを知ると、オロバスとパンドラは耐えきれなくなった。二人は背中合わせに振り向くと、口元を手で覆いながら忍び笑いを漏らし、小声で囁き合った。


二人:「クックッ……お気づきになられましたか」


二人が真面目に向き合わず、あからさまに自分をからかっている様子を見て、リョウは眉をひそめた。持ち前の冷ややかで厳格な声で、きっぱりと咎めた。


リョウ:「おい、話を聞いているのか?」


まるでスイッチが切り替わったかのように、二人は即座に反転して身を正し、上官の前に立つ兵士のように直立不動となった。そして至高の庄重さを込めて返答した。


二人:「ハッ! 我が主! 大変失礼いたしました!」


リョウはほんの一瞬だけ腕を組んだ。


リョウ:「プライバシーの欠片もないな……」


それ以上は何も言わず、青年は背を向けて歩みを再開した。


リョウ:「行くぞ」


オロバスとパンドラが静かに後を追い、三人はいまだ瓦礫の残る村を抜け、ギルドへと向かってまっすぐに歩を進めていった。


圧倒的な力の差――。凄まじき力を秘めた存在たちがリョウを救う。


しかし、彼らは一体何者なのか? その行動の裏にある目的、そして真意とは――。


「公国」――人々にとっては未知なる存在。

だが、リョウにとっても果たして「未知」なのだろうか――?

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