第2巻 第9話「いつも守ってくれてありがとう」その2
序文
人形には声がなく、涙もなく、慈悲もない。
かつて守護者であった英雄は、今や偽りの神の御意志のままに行進する。過去の絆が敵の残酷さによって踏みにじられる中、夜の舞台は悲劇的な紅に染まっていく。
一本の包丁、無頼な構え、そして命を懸ける覚悟の心。理性が失われたこの不条リな戦いの中で、深き服従の奥に隠された光を呼び覚まそうとする、決死の叫びだけが残されている。
その的確な言葉を耳にした瞬間、赤髪の少年は胸の筋肉が締め付けられるような、純然たる恐怖の悪寒に襲われ、息を呑んだ。
ケンゾウ:「あ……」
松明を掲げた群衆が、極めて統率の取れた動きで左右に割れて道を作った。その中央の闇から、シスター・マリアがゆっくりと、しかし確かな足取りで歩み出て、群れの最前線に立った。彼女は人間らしい温かみの欠片もない鋭い眼差しを、真っ直ぐに少年へと突き刺した。
自分を育ててくれた女性の姿を目に shitaケンゾウは、衝撃のあまり一歩後退し、周囲には聞こえないほどの消え入りそうな呟きで真実を漏らした。
ケンゾウ:「……姉さん!」
その瞬間、過去の記憶の奔流がケンゾウの脳裏に溢れ返り、目の前に立っている人物が、孤児院を率いる厳格なシスターという存在を遥かに超えた、本当は何者であるのかを鮮明に映し出した。
ケンゾウ:(覚えている。初めて出会った時……俺はただの泣き虫な子供だった)
過去の光景は、かつて小さな村であった場所の、未だ煙の上がる残骸へと彼を連れ去った。炎が木や藁の残骸を貪り食う全滅の惨劇の中、わずか三歳のケンゾウが地面に横たわり、煤にまみれた手で激しく泣きじゃくっていた。
ケンゾウ:(俺の故郷の村は、魔物によって完全に破壊された。両親はその虐殺で死んだ……。あの恐ろしい、巨大な単眼に、腹まで裂けた歪な口、そして長く骨張った四肢を持つ怪物どもだ。だけど……世界にたった一人取り残された俺を、彼女が見つけてくれたんだ)
混沌を切り裂くように、馬の蹄の音が響いた。一頭の堂々たる白馬が災害の地へと現れる。その背には、輝く鎧を身にまとった金髪の女騎士が跨っていた。灰の中で泣き叫ぶ幼子を見つけると、彼女は素早く馬から降りて近づき、その小さな身体を腕の中に抱き上げて、温かく包み込むような抱擁を交わした。
マリア:「もう泣かなくていい、坊や……。すべて大丈夫だからね。もう終わったのよ、あなたは安全だわ」
その時、彼女の部隊の騎兵二騎が、黒い馬を並べて任務の報告に近づいてきた。
騎士:「隊長! 周辺にこれ以上の生存者はいない模様です……。ただ、奥の一軒家で生きている赤ん坊を発見しました。桃色の髪をした女児です」それは赤ん坊の頃のアカリであり、二人が同じ理由で孤児になったことを証明していた。
女性はケンゾウを自らの胸に強く抱き締めながら、威厳と慈愛に満ちた声で返答した。
マリア:「私はここに生存者を見つけたわ。全員に装備をまとめるよう伝えて。すぐに撤退する」
隊長は幼子を抱えながら再び白馬に跨ると、未だ燃え盛る廃墟に背を向け、恐怖の地を後にした。
それから三ヶ月後。
騎士の鎧を脱ぎ、簡素ながらも戦士としての気品を保った衣服に身を包んだマリアは、かつてリョウとサムがクエストを受注した、あの冒険者ギルドの受付カウンターにいた。彼女の前には、現在も受付を続けている、あの頭の禿げ上がった屈強な男が書類を手に立っていた。
マリア:「こんにちは、ホセ。少し良いかしら……。ギルドを引退して、冒険者の登録を抹消しに来たの」
ホセは完全に驚愕した表情を浮かべ、書類を動かす手を止めた。
ホセ:「本気なのですか、マリア隊長? あなたはこのギルドでも最も重要で、尊敬を集める高ランク冒険者の一人だというのに」
マリア:「ええ、決めたわ。私には育てなければならない小さな子供がいるの。身寄りのないあの子を、ただ孤児院に放り込むようなことはしたくない。自分が救った命なのに、そのまま見捨てるのは間違っていると思うのよ」
ホセは隊長の状況を思案しながら、しばらく沈黙したのち、一つの代替案を提示した。
ホセ:「では、シスターとして叙任されてはいかがですか? 孤児院の院長に就任すれば、時折ギルドの任務をこなすことも可能です。あなたが不在の間も子供を施設で安全に預かることができますし、現役としても活動を続けられます」
マリアは顎に手を当て、その提案を熟考した。
マリア:「うーん……。それは確かに助かるわね。それなら、私の高ランク報酬のおかげで孤児院が資金難に苦しむこともなくなるわ。素晴らしい名案ね、ホセ」
ホセ:「完全に去ってしまうわけではないと知り、深く安堵いたしました、隊長」
マリアは去り際に、輝くような笑顔で空に手を振った。
マリア:「またね、ホセ。元気で」
ケンゾウ:(そうして俺たちは出会ったんだ……。物心がつく前から、お前は俺を世話し、守ってくれた。お前は俺の家族だ……、俺の姉さんだ)
そして、現在。
ケンゾウは瞬きをし、夜の冷酷で不気味な現実に引き戻された。彼はシスター・マリアの前に不退転の決意で立ちはだかり、自分の恩師が虚ろな器と化していることへの恐怖と痛みを撥ね退けた。
ケンゾウ:「誰にも……、絶対に誰にも、お前の理想や本当の姿を汚させやしない!」
ケンゾウはありったけの力で拳を握り締め、それを顔の高さへと掲げた。彼が軍事訓練を受けたこともなく、正規の戦闘技術を持ち合わせていないのは明白だった。ただ、自らの生存本能が命じるままに構えを取っただけだ。経験者から見れば、それはあまりにも無頼で無秩序な、その場しのぎの喧嘩の構えに過ぎなかった。しかし、赤髪の少年の紅い瞳に迷いはなく、ただ家族を取り戻すために命を懸ける弟の、純然たる決意だけが宿っていた。
霧がケンゾウの足元に渦巻き、額から滲み出た汗を冷やしていく。彼の前で、シスター・マリアは微動だにしなかった。その顔には憎しみも、怒りも、憐れみすらもなかった。それは人間の生命の輝きを一切失った、平坦で冷徹な無表情だった。松明を持つ村人たちは道の両脇に整列し、石像のように静止しながら、オレンジ色の光で森の境界に不気味な影を躍らせていた。
マリアが一歩前へ踏み出した。足元の枯れ葉が鳴る微かな音が、彼女の構えが完全に変化する唯一の予兆だった。両脚を肩幅の正確な位置に開き、膝を軽く曲げて重心を落とすと、左腕を半開きの拳にして顎の高さへと突き出し、右腕は肋骨の近くへと引き絞った。
それは何百もの戦場で磨き抜かれた、最小限の動きで防御を最適化し、致命的な反撃を繰り出すための、完璧な軍隊式の構えだった。
喉に溜まった苦い唾を飲み込みながら、赤髪の少年は彼女が先制するのを待たなかった。彼は純粋な挫折の叫び声を上げると、距離を潰して前方へと突進し、女性の顔面を目がけて野生的な右ストレートを放った。その一撃には彼の全体重が乗っていたが、技術的な洗練は皆無だった。
マリアは瞬き一つしなかった。左前腕をかすかに動かすだけで、ケンゾウの拳の軌道を外側へと受け流し、少年の無防備な無防備な胴体を完全に晒させた。直後、シスターの右拳が少年の腹部へと深く突き刺さった。
ケンゾウ:「がはっ……!」
衝撃によりケンゾウは前かがみに折れ曲がった。しかし、赤髪の少年は歯を食いしばり、倒れ込む勢いを利用して、相手の顎を狙った凄まじい左フックを繰り出した。マリアは頭をわずか数センチ後ろに傾けるだけで、少年の拳を顎の寸前で虚空へとそらした。その鋭い構えの流動性を失うことなく、女性は踵を軸に鋭く回転し、少年の胸部へと強烈な横蹴りを叩き込んだ。ケンゾウの身体は三メートルほど吹き飛び、湿った地面へと背中から激突した。
近くの木の根元で、包帯の巻かれた脚を押さえながら見ていたアカリが、恐怖のあまり悲鳴を呑み込んだ。ケンゾウは土の上を転がり、一筋の唾液を吐き出しながら、膝をついて立ち上がろうとした。その手は震えていたが、最愛の姉の肉体が操り人形として利用されていることへの激しい怒りが、彼に立ち上がる力を与えていた。
ケンゾウ:「諦めるかよ……!」
赤髪の少年は咆哮し、再びあの無秩序な喧嘩の構えで拳を掲げた。
彼は再び距離を詰め、狂乱の如き猛攻を繰り出した。右のストレート、左の裏拳、そして前蹴りを立て続けに放つ。しかし、経験の差はあまりにも絶望的な深淵だった。マリアは軍隊の正確なメトロノームのように動いた。最初の右ストレートを手のひらで受け止め、裏拳を肘の円運動で払い、一歩正確に身を引くことで、少年の蹴りを完全に空振らせた。
完璧な防御に焦れたケンゾウは、予測不能な動きを試みた。シスターの足を狙って低く飛び込み、タックルでの組み伏せを試みたのだ。しかし、相手の肩の動きからその機動を完全に予期していたマリアは、常人離れした速度で右膝を突き上げ、赤髪の少年の頬骨へと直撃させた。
ケンゾウ:「あぐっ……!」
膝蹴りによって頭部を激しく後ろへと弾かれ、少年の口から苦悶の悲鳴が漏れた。
その一撃は彼を朦朧とさせ、視界を曇らせながら千鳥足にさせた。マリアは感情を一切見せぬまま、その隙を見逃さず素早く二歩踏み込んだ。少年の肋骨へと鋭い二連撃のストレートを叩き込み、手刀による強烈な一撃をケンゾウの首筋へと見舞った。その衝撃で少年は再び地面へと叩きつけられ、土を噛みながら、酸素を求めて自らの喉をかきむしった。
シスターは数歩離れた場所に立ち、交差の間にわずかに乱れた黒い法衣を整えた。彼女の瞳は少年の身体を凝視し、脳内に組み込まれた命令を遂行すべく、彼が再び立ち上がるのを静かに待っていた。
ケンゾウは拳を地面に突いた。肋骨の痛みは激しく、傷ついた頬骨から流れ出る血で顔が熱かった。彼は村人たちの松明の光に照らされた、シスターのシルエットを見つめた。かつて三歳の頃、崩壊した故郷の廃墟の中で、彼女が自分を温かく抱きしめてくれたあの記憶が蘇る。
ケンゾウ:「そんなの……、そんなのお前じゃない……!」赤髪の少年は極限の苦痛の中で、震える脚をどうにか固定して立ち上がった。「まだそこにいるんだろ、姉さん! 目を覚ませ!」
最後の力を振り絞り、ケンゾウは彼女へと突進した。今回は直接的な打撃を狙わなかった。顔面へのパンチを偽装して防御を強制させ、最後の刹那、身体の軌道を強引に変えて、すべての体重をシスターの腕の中へと投げ出した。彼女を絶望的な抱擁で抑え込み、その動きを封じようとしたのだ。
その執拗な特攻は、マリアの機械的な戦術の裏をかいた。二つの肉体が激しく衝突する。ケンゾウは女性の腰に両腕を回し、筋肉に残された最後の力を振り絞って強く締め付けた。
マリア:「……っ!」
衝撃と少年の体重による圧迫を受け、シスター・マリアの喉から低く詰まった音が漏れた。
この夜初めて、女性の完璧な軍隊式の構えが一瞬だけ崩壊した。しかし、マリアの表情が変わることはなかった。感情の失せた平坦な無表情が、即座にその顔へと戻る。凄まじい冷酷さとともに、シスターは両の拳を固く突き合わせると、赤髪の少年の背中へと容赦のない槌の如き一撃を振り下ろした。
ケンゾウ:「あがっ……!」
脊椎を突き刺すような激痛に、ケンゾウは悲鳴を上げ、拘束する力を緩めざるを得なかった。
マリアはそのわずか一瞬の隙を見逃さなかった。常人とは思えぬ怪力で少年の両肩を掴むと、技術的に完璧な腰の回転を見せ、鮮やかな一本背負いを敢行した。ケンゾウの身体は岩の地面へと叩きつけられ、その凄まじい衝撃の音が森の境界に響き渡った。
その一撃は彼の意識と酸素を完全に奪い去った。ケンゾウは仰向けに倒れ込み、暗い空を見つめたまま、衝撃によるショックで手足を一歩も動かすことができなくなった。
彼が正気を取り戻すよりも、あるいは這って逃げ出すよりも早く、シスター・マリアは決定的な一歩を進め、彼の上に完全に跨るようにして、状況の完全な制圧を確実なものとした。そして一秒の猶予もなく、女性は両手を前方へと伸ばし、赤髪の少年の首をその指で固く取り囲んだ。
マリアは鉄の万力のような力で、ケンゾウの喉を締め付け始めた。気道を完全に塞がれた少年は、即座に窒息の苦しみに襲われた。酸素の欠乏により顔面は急速に赤黒く染まり、その瞳は絶望に大きく見開かれた。
ケンゾウは残されたわずかな力で両腕を上げ、シスターの手首にしがみつこうと必死に手を合わせた。それを引き剥がそうと爪を立て、袖の布をかきむしったが、マリアを支配する謎の怪力は、その両腕を大理石の柱のように微動だにさせなかった。
濃い霧が立ち込める地面の上で、ケンゾウが首を絞められながら微弱な抵抗を続ける中、シスター・マリアは彼を上からじっと見下ろしていた。その顔には、憐れみも悔恨の欠片もない、恐ろしいほどに冷徹で平坦な表情が張り付いたままだった。




