第1巻・第2部 見知らぬ場所のように|エピソード3・第2分冊
リョウは真っ逆さまに急降下していた。人間の矢となり、大洞窟の熱い空気を切り裂いていく。魔法や魔物が存在する世界とはいえ、物理の法則は容赦してくれなかった。この速度で落下すれば、湖の水面は救いの場所ではなく、コンクリートのように強固な凶器と化す。現在の人間の肉体では、衝撃で骨が砕けるどころか、一瞬で跡形もなく飛散するだろう。
リョウ:(……制動をかけなければ)
風圧で顔の輪郭を歪ませながら、リョウは歯を食いしばって呟いた。
残された魔力の底の底から、彼は「水」の属性を呼び覚ました。瞬く間に、彼の周囲に中空の水の球体が具現化し始め、彼を包み込む保護の繭となった。内部には即座の窒息を防ぐための空気が保たれている。それは、運動エネルギーを吸収するために設計された流体力学の盾だった。
時速約500キロメートルという終端速度に達した人間魚雷が、ついに水面へと激突した。
――ズウゥゥゥッン、バシャァァァァァッ!!
激突の轟音は凄まじく、大洞窟の隅々にまで響き渡り、数メートルの高さに達する白泡と水蒸気の柱を巻き上げた。水面下でリョウは、球体が危険なほどに振動するのを感じていた。本来なら自分を確実に殺していたはずの衝撃を、その盾が身代わりに吸収してくれていた。
リョウ:「はっ……ぁっ……!」
慣性によって数メートルも深く沈み込みながら、リョウは泡の中で必死に空気を貪った。
減速の衝撃でまだ意識が朦朧とする中、魔力を節約するために球体を霧散させ、水中の薄暗がりに身を委ねて浮かんだ。水中で目を開き、方向を確かめようとしたが、その目に飛び込んできた光景に血の気が引いた。
彼の真下、湖の底知れぬ深淵から、常軌を逸した巨体を持つ一匹の怪魚が猛烈な速度で浮上してきていた。剃刀のように鋭い歯が幾重にも並び、盲目の白い瞳は、原始的な飢餓感を宿して怪しく光っていた。
驚いている暇はなかった。リョウは残された最後の魔力を両足に注ぎ込み、エネルギーを爆発させて水中を魚雷のように突き進んだ。
背後に怪魚の気配を間近に感じながら、黒い砂の広がる岸辺へと必死に泳ぐ。巨大な顎が閉じられるたびに水中に衝撃波が走り、リョウはブーツや足首にその牙の擦れる戦慄を感じながら、捕食を避けるために急旋回を繰り返した。
死に物狂いの最後のひと蹴りで、リョウは水面から勢いよく飛び出し、地下の砂浜へと転がり込んだ。すぐさま跳ね起き、全身から水を滴らせながら激しく息を切らした。背後では、獲物を逃した海洋の魔物が、不満をぶつけるように凄まじい音を立てて岸壁を叩いていた。
リョウ:「……危なかったな」暗い湖の底へと再び沈んでいく怪魚を見つめながら、彼は息を漏らした。「この場所は、一瞬の休息すら与えてくれないらしい」
リョウの言葉は、かすかな呟きとなって消えた。つい先ほどまで彼を突き動かしていた唯一の原動力であるアドレナリンが急激に蒸発し、代わりに耐え難い重疲労が全身の筋肉を侵食していった。
常に鋭く計算高かった彼の瞳は、マグマに照らされた洞窟の景色を捉えきれなくなり始めた。鮮やかな橙色の輝きが、ぼやけた斑点へと変わっていく。一歩を踏み出そうとしたが、平衡感覚が完全に彼を裏切った。
まず膝が屈し、鈍い音を立てて黒い砂の上に崩れ落ちた。慣性のままに一瞬だけ足を組んだ姿勢の席にとどまったが、すぐにその上体が力なく後ろへと倒れ込んだ。
リョウ:(クソッ……肉体が……)
闇に意識を刈り取られる寸前、それが彼の最後の思考だった。
彼は湖の岸辺に、完全に意識を失った状態で横たわった。呼吸は弱く、途切れがちだった。極限の疲労、魔力の枯渇、そして先の戦いでの負傷が、ついに彼の肉体に勝利を収めたのだ。その孤独で広大な地下の砂浜で、この戦略家は、下層世界の闇に潜むあらゆる脅威の前に、無防備のまま晒されることとなった。
◇◇◇
一方その頃、サムは深淵の縁に膝をついたまま、冷たい岩肌に拳を叩きつけていた。握りしめた拳の関節は白く突き出している。洞窟の静寂は彼の最大の敵であり、彼自身の絶望の残響だけを冷酷に返してきた。
サム:「ひっ……うぐ、あ……う、ぅ……」
自分の手から相棒の指先が滑り落ちていくのを、何一つ止められなかった己の無力さに胸を掻きむしられ、しゃくり上げる声が途切れ途切れに漏れる。
リョウを飲み込んだ絶対的な暗黒を見つめた。虚無が自分を嘲笑っているかのようだった。一瞬、この石の墓標の中で孤独の重さに押しつぶされそうになったが、その時、彼の瞳の奥の何かが変わった。痛みが、一れつの強情な火花へと変貌を遂げたのだ。土に指を突き立て、爪に泥を噛ませながら、彼はまっすぐに奈落の縁を凝視した。
サム:「違う……これで終わりなわけがない。リョウ!」何もない闇に向かって、彼は叫んだ。今度はその声は震えていなかった。「今から行く。お前が死ぬわけがないんだ……お前は、あんなところで終わるような奴じゃないだろ!? 違うって言ってくれよ!」
サムは洞窟の壁を支えにしながら、ゆっくりと立ち上がった。足はまだガクガクと震え、涙が頬を伝い続けていたが、その佇まいはもはや敗北者のそれではなかった。袖で手荒に顔を拭い、暗黒の縦穴に向かって、最後の誓いを込めた眼差しを向けた
サム:「待ってろよ、リョウ。どうやってかは分からないけど……絶対に、見つけ出してみせる」
振り返ることもなく、彼は目の前に広がるトンネルの入り口へと向き直った。それがどこへ続いているのか、一人きりになった自分にどんな恐怖が待ち受けているのかは分からない。しかし、彼は歩き始めた。暗がりを進むその一歩一歩には、決定された運命を断固として拒絶する者の、強い覚悟が宿っていた。
「時間の歪み」の原因を突き止める旅は、今、彼にとって個人的な復讐の戦いへと変わったのだ。




