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危機のたびに異世界の職業を思い出すおっさん、ダンジョン社会で生きる  作者: kage3
第三章 おっさんは警備員

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第43話 危機と逃げた盗賊の記憶

床が、大きく傾いた。


視界が揺れる。足が空を蹴り、支えを失った身体が横へ流れる。踏みとどまろうとした瞬間、靴底が滑り、重心が崩れた。


次の瞬間、身体は制御を失って斜面へ投げ出される。石の感触が背中を削り、肺から空気が強制的に吐き出された。


落ちている。いや、転がっている。


斜面だ。しかも急すぎる。足場を探そうと伸ばした脚が空を切り、そのまま身体が縦に横にと回転する。視界が明滅するたび、灰色の石壁と暗闇が入れ替わる。


前方に、小さな影。


アイノだ。


彼女の体も同じように弾かれ、跳ね、石に叩きつけられている。細い腕が一瞬浮き上がり、すぐに斜面へ吸い寄せられる。


速い。


思考が追いつくよりも速く、固い地面に叩きつけられる痛みでまともに考えられない。


止まらない。終わりが見えない。


暗闇が続いている。先がどうなっているのか分からない。壁か、段差か、落下か。


この速度でぶつかれば――


骨折で済めばいいほうだ。


次の衝撃が肩に入る。鈍い音が自分の内側から響く。だが痛みを処理する余裕はない。


問題は私じゃない。


前を転がる、あの小さな背中だ。



追いつけるか。


いや、追いつくしかない。


暗がりの中で、アイノの細かな様子までは見えない。だが、私自身が受けている衝撃と痛みを思えば、無傷でいられるなどと楽観できるほど非常識ではない。


石に叩きつけられるたび、骨が軋む。皮膚が裂ける感触もある。これだけの勢いだ。このまま減速もせず終着点に叩きつけられれば――その衝撃がどれほどのものか、想像はつく。


あの小さな体が、無事で済むとは思えない。


歯を食いしばる。


自分の身体が可愛くないわけじゃない。痛いものは痛いし、できれば怪我なんてしたくない。


だが、目の前でアイノが傷つくのを黙って受け入れられるほど、私のメンタルは硬くない。


それに――自慢じゃないが、私のほうが丈夫だ。


年季が違う。基礎の体格も違う。さらに身体強化を重ねれば、その差はもっと開く。


おっさんは盾に向いているのだ。


そして何より、私自身の心を守るために、アイノを守らなきゃならない。


次の回転に合わせ、魔力を練る。


風を纏う。


斜面に沿って、身体の下へ流す。減速ではない。逆だ。


加速する。


自分から速度を上げる。


正気じゃないかもしれない。


だが、ビルから飛び降りた大人を全力でキャッチしたことに比べれば、大したことはない。


あのときに比べれば、魔術の技術も魔力操作レベルも向上している。


身体が風に後押しされ、空気を裂く音が耳元で弾ける。石に叩きつけられる衝撃が増すが、構うものか。


距離が縮む。


抱き込むしかない。正面から止める余裕はない。


――後で「セクハラです」と言われたら土下座で許してもらおう。


おっさんの覚悟を決めた。


次の跳ね上がりで、手を伸ばす。


伸ばした手が、空を切った。


指先が虚しく闇を掻く。掴めない。


一瞬、心臓が跳ね上がる。


まずい。


焦りが喉元までせり上がる。だが、ここで力めば動きが雑になる。焦る気持ちを必死に抑え込む


すぐそこにあるのに、なかなか手が届かない。


ほんの腕一本分の距離が、やけに遠い。


時間が引き延ばされたように長く感じる。視界に移る映像がゆっくりになる。衝撃の間隔が広がる。だが実際には一瞬だ。


もう一度、腕をアイノへ伸ばす。


残りの距離を考えれば、ここで届かせなければ間に合わない。


だから――届かせる。


指先が布を掠め、今度は掴んだ。袖を引き、身体ごと引き寄せる。細い手首が掌に収まる。


軽い。


だが、触れた感触に背筋が凍る。


服の上からでも分かる。石で裂けた切り傷がいくつもある。血の匂いが微かに混じる。


身体と腕で包み込む。


自分が斜面側へ回り込み、体ごと盾になる。腕だけでなく、胸も肩も使って覆う。


無駄に面積のある体が、こういうときには役に立つ。若い頃からの、ささやかなコンプレックスも悪くない。


次の衝撃が来る。


背中を打つ。


痛みはある。だが、さっきまでと同じだ。歯を食いしばり、只々耐える。


腕の中の重みは、ちゃんとある。確かな呼吸に安堵する。


治癒魔術を発動させ、触れている部分からアイノの傷を治す。擦過傷。裂傷。浅い打撲。大きな骨折はない。


細かな傷が閉じていく。


まだ斜面は続いている。


このまま終点まで、盾になる。


覚悟を固めた、その直後。


壁が、視界いっぱいに迫る。


分かっていたけど、回避はできない。


最後の瞬間、アイノへの衝撃を最小限にするためにさらに抱き寄せ、自分の体で覆う。


……後で謝ろう。


加速したスピードが全て衝突エネルギーに変換される。


鈍い衝撃が背中から全身へ、骨が軋み、肺の空気が押し出される。


だが、コツコツと練習し続けた身体強化のおかげで、耐えられない痛みじゃない。


腕の中の重みをしっかり感じる。


斜面を転がる勢いもここでようやく殺され、粉塵が静かに落ちていく。


しばらく動かず、呼吸を整える。


アイノの落ち着いた呼吸を確かめる。


生きている。


その安堵で力が抜けた指先に、何かが触れた。


ざらり、とした感触。


視線を落とす。


革製の手袋。


分厚く、指の腹に吸い付くような質感で、掌には細かな滑り止めが刻まれている。


――異世界品。


そう理解した瞬間、視界の奥がゆっくりと揺らぎ、石壁の景色が溶けるように遠ざかっていく。


湿った空気と腐臭が混じる狭い路地。崩れかけた壁。積み上げられたゴミの山。裸足同然の足でそれを漁る痩せた子供の感触が、まとめて胸の奥へ流れ込んでくる。


隣には、同じように痩せた相棒。


残飯を奪い、捨てられた布を拾い、他人の懐に指を滑り込ませ、見つかれば迷路のような裏路地を駆け抜ける。殴られ、蹴られ、それでも二人で笑う。痛みも空腹も、分け合えば少しだけ軽くなった。


生きるために、何でもやった。


盗みに入った家で見つかり、殴り殺されかけた夜もある。骨の奥まで響く恐怖。それでも、逃げ延びたあと、荒い息のまま顔を見合わせて笑った。


二人なら、生き延びられると信じていた。


やがて体は大人になったが、スラムは抜け出せなかった。犯罪組織に身を寄せても、やることは変わらない。危険な仕事を請け負い、刃物を握り、背中を預け合う。


相棒がいる。


それだけで、踏み込めた。


――あの日までは。


いつものように受け取った仕事。標的は元騎士の家。


嫌な予感はあった。だが報酬は大きい。断れない額だった。


夜。侵入。足音を殺す。呼吸を揃える。


次の瞬間、空気が変わった。


気配。


重い足取り。


振り向いたときには、相棒は床に組み伏せられていた。


速い。圧倒的だった。


剣を抜く暇もない。力の差は、一目で分かった。


助けに踏み出せたはずの一歩。


出せた。


出せた、はずなのに。


足が、動かなかった。


騎士だから勝てない。相手が悪い。無理だ。


頭の中で言い訳が、次々と並ぶ。


そのあいだにも、相棒は押さえつけられ、叫び声が途切れた。


目が合った。


一瞬。


責めるでもなく、ただ驚いたような目。


その視線が、焼き付いて離れない。


逃げた。


背を向けた。


足が勝手に動いた。


振り返らなかった。


振り返れなかった。


その夜、相棒は処刑された。


逃げ延びた自分も、やがて捕まった。


縄を掛けられ、引き立てられ、処刑台の上に立ったとき、怖くなかったとは言わない。


だが胸を締め付けていたのは、死の恐怖ではない。


あの一歩を踏み出さなかったこと。


あの瞬間、逃げたこと。


もし戻れるなら。


捕まってもいい。処刑されてもいい。


今度は、踏み出す。


そう思いながら、首に縄を掛けられた。


後悔だけが、最後まで消えなかった。


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