第43話 危機と逃げた盗賊の記憶
床が、大きく傾いた。
視界が揺れる。足が空を蹴り、支えを失った身体が横へ流れる。踏みとどまろうとした瞬間、靴底が滑り、重心が崩れた。
次の瞬間、身体は制御を失って斜面へ投げ出される。石の感触が背中を削り、肺から空気が強制的に吐き出された。
落ちている。いや、転がっている。
斜面だ。しかも急すぎる。足場を探そうと伸ばした脚が空を切り、そのまま身体が縦に横にと回転する。視界が明滅するたび、灰色の石壁と暗闇が入れ替わる。
前方に、小さな影。
アイノだ。
彼女の体も同じように弾かれ、跳ね、石に叩きつけられている。細い腕が一瞬浮き上がり、すぐに斜面へ吸い寄せられる。
速い。
思考が追いつくよりも速く、固い地面に叩きつけられる痛みでまともに考えられない。
止まらない。終わりが見えない。
暗闇が続いている。先がどうなっているのか分からない。壁か、段差か、落下か。
この速度でぶつかれば――
骨折で済めばいいほうだ。
次の衝撃が肩に入る。鈍い音が自分の内側から響く。だが痛みを処理する余裕はない。
問題は私じゃない。
前を転がる、あの小さな背中だ。
追いつけるか。
いや、追いつくしかない。
暗がりの中で、アイノの細かな様子までは見えない。だが、私自身が受けている衝撃と痛みを思えば、無傷でいられるなどと楽観できるほど非常識ではない。
石に叩きつけられるたび、骨が軋む。皮膚が裂ける感触もある。これだけの勢いだ。このまま減速もせず終着点に叩きつけられれば――その衝撃がどれほどのものか、想像はつく。
あの小さな体が、無事で済むとは思えない。
歯を食いしばる。
自分の身体が可愛くないわけじゃない。痛いものは痛いし、できれば怪我なんてしたくない。
だが、目の前でアイノが傷つくのを黙って受け入れられるほど、私のメンタルは硬くない。
それに――自慢じゃないが、私のほうが丈夫だ。
年季が違う。基礎の体格も違う。さらに身体強化を重ねれば、その差はもっと開く。
おっさんは盾に向いているのだ。
そして何より、私自身の心を守るために、アイノを守らなきゃならない。
次の回転に合わせ、魔力を練る。
風を纏う。
斜面に沿って、身体の下へ流す。減速ではない。逆だ。
加速する。
自分から速度を上げる。
正気じゃないかもしれない。
だが、ビルから飛び降りた大人を全力でキャッチしたことに比べれば、大したことはない。
あのときに比べれば、魔術の技術も魔力操作レベルも向上している。
身体が風に後押しされ、空気を裂く音が耳元で弾ける。石に叩きつけられる衝撃が増すが、構うものか。
距離が縮む。
抱き込むしかない。正面から止める余裕はない。
――後で「セクハラです」と言われたら土下座で許してもらおう。
おっさんの覚悟を決めた。
次の跳ね上がりで、手を伸ばす。
伸ばした手が、空を切った。
指先が虚しく闇を掻く。掴めない。
一瞬、心臓が跳ね上がる。
まずい。
焦りが喉元までせり上がる。だが、ここで力めば動きが雑になる。焦る気持ちを必死に抑え込む
すぐそこにあるのに、なかなか手が届かない。
ほんの腕一本分の距離が、やけに遠い。
時間が引き延ばされたように長く感じる。視界に移る映像がゆっくりになる。衝撃の間隔が広がる。だが実際には一瞬だ。
もう一度、腕をアイノへ伸ばす。
残りの距離を考えれば、ここで届かせなければ間に合わない。
だから――届かせる。
指先が布を掠め、今度は掴んだ。袖を引き、身体ごと引き寄せる。細い手首が掌に収まる。
軽い。
だが、触れた感触に背筋が凍る。
服の上からでも分かる。石で裂けた切り傷がいくつもある。血の匂いが微かに混じる。
身体と腕で包み込む。
自分が斜面側へ回り込み、体ごと盾になる。腕だけでなく、胸も肩も使って覆う。
無駄に面積のある体が、こういうときには役に立つ。若い頃からの、ささやかなコンプレックスも悪くない。
次の衝撃が来る。
背中を打つ。
痛みはある。だが、さっきまでと同じだ。歯を食いしばり、只々耐える。
腕の中の重みは、ちゃんとある。確かな呼吸に安堵する。
治癒魔術を発動させ、触れている部分からアイノの傷を治す。擦過傷。裂傷。浅い打撲。大きな骨折はない。
細かな傷が閉じていく。
まだ斜面は続いている。
このまま終点まで、盾になる。
覚悟を固めた、その直後。
壁が、視界いっぱいに迫る。
分かっていたけど、回避はできない。
最後の瞬間、アイノへの衝撃を最小限にするためにさらに抱き寄せ、自分の体で覆う。
……後で謝ろう。
加速したスピードが全て衝突エネルギーに変換される。
鈍い衝撃が背中から全身へ、骨が軋み、肺の空気が押し出される。
だが、コツコツと練習し続けた身体強化のおかげで、耐えられない痛みじゃない。
腕の中の重みをしっかり感じる。
斜面を転がる勢いもここでようやく殺され、粉塵が静かに落ちていく。
しばらく動かず、呼吸を整える。
アイノの落ち着いた呼吸を確かめる。
生きている。
その安堵で力が抜けた指先に、何かが触れた。
ざらり、とした感触。
視線を落とす。
革製の手袋。
分厚く、指の腹に吸い付くような質感で、掌には細かな滑り止めが刻まれている。
――異世界品。
そう理解した瞬間、視界の奥がゆっくりと揺らぎ、石壁の景色が溶けるように遠ざかっていく。
湿った空気と腐臭が混じる狭い路地。崩れかけた壁。積み上げられたゴミの山。裸足同然の足でそれを漁る痩せた子供の感触が、まとめて胸の奥へ流れ込んでくる。
隣には、同じように痩せた相棒。
残飯を奪い、捨てられた布を拾い、他人の懐に指を滑り込ませ、見つかれば迷路のような裏路地を駆け抜ける。殴られ、蹴られ、それでも二人で笑う。痛みも空腹も、分け合えば少しだけ軽くなった。
生きるために、何でもやった。
盗みに入った家で見つかり、殴り殺されかけた夜もある。骨の奥まで響く恐怖。それでも、逃げ延びたあと、荒い息のまま顔を見合わせて笑った。
二人なら、生き延びられると信じていた。
やがて体は大人になったが、スラムは抜け出せなかった。犯罪組織に身を寄せても、やることは変わらない。危険な仕事を請け負い、刃物を握り、背中を預け合う。
相棒がいる。
それだけで、踏み込めた。
――あの日までは。
いつものように受け取った仕事。標的は元騎士の家。
嫌な予感はあった。だが報酬は大きい。断れない額だった。
夜。侵入。足音を殺す。呼吸を揃える。
次の瞬間、空気が変わった。
気配。
重い足取り。
振り向いたときには、相棒は床に組み伏せられていた。
速い。圧倒的だった。
剣を抜く暇もない。力の差は、一目で分かった。
助けに踏み出せたはずの一歩。
出せた。
出せた、はずなのに。
足が、動かなかった。
騎士だから勝てない。相手が悪い。無理だ。
頭の中で言い訳が、次々と並ぶ。
そのあいだにも、相棒は押さえつけられ、叫び声が途切れた。
目が合った。
一瞬。
責めるでもなく、ただ驚いたような目。
その視線が、焼き付いて離れない。
逃げた。
背を向けた。
足が勝手に動いた。
振り返らなかった。
振り返れなかった。
その夜、相棒は処刑された。
逃げ延びた自分も、やがて捕まった。
縄を掛けられ、引き立てられ、処刑台の上に立ったとき、怖くなかったとは言わない。
だが胸を締め付けていたのは、死の恐怖ではない。
あの一歩を踏み出さなかったこと。
あの瞬間、逃げたこと。
もし戻れるなら。
捕まってもいい。処刑されてもいい。
今度は、踏み出す。
そう思いながら、首に縄を掛けられた。
後悔だけが、最後まで消えなかった。




