第31話 閑話:匿名の波紋
それは、ひとつの匿名投稿から始まった。
探索者向けの情報共有サイト。
無数の書き込みが流れては消えていくその場所に、ローポーションとミドルポーションの調合手順が、簡潔な文章で投下された。
そこには名乗りも、主張もなかった。
ただ、必要な素材と工程だけが淡々と並べられている。
だが、その文章の端々からは、どこか切実さがにじんでいた。
特定の誰かが独占するには危うい情報を、あえて広くばらまくような。
――一人だけが作れる状況のほうが、よほど厄介だ。
そんな打算と予防線が透けて見える、冷静な匿名性だった。
最初の反応は、疑いだった。
またデマだろう。
素材だけ書いて肝心な工程が嘘だ。
スキルがなければ無理だ。
そんな評価が大半を占める。
だが数時間後、空気が変わる。
成功報告が、ぽつりと上がった。
偶然だろう、という声。
再現性がないのでは、という疑問。
しかし翌日には、別の成功例が確認される。
素材の分量や工程の微調整まで検証され始め、検証スレッドは異様な速度で伸びていった。
そして決定打となったのは、調合成功と同時に「調合スキル」を獲得したという報告だった。
それまで報告されていたのは、戦闘系スキルばかりだった。
身体強化、武器適性、属性魔法。
生産系スキルは存在しないのではないか、とさえ言われていた状況での発現報告。
条件を満たせば、生産系スキルも獲得できる。
その事実は、探索者たちの認識を大きく揺さぶった。
やがて、動画付きの成功報告が上がる。
加工工程の効率化が共有され、さらには「加工スキル」発現の報告まで現れる。
疑いは、確信へと変わった。
ローポーションは作れる。
ミドルポーションも、条件次第で可能。
それは単なるアイテム製作の話ではなかった。
回復手段が個人のスキルやダンジョンアイテムに依存しなくなる。
それは探索効率の飛躍的向上を意味する。
同時に、これまで希少性によって成り立っていた市場構造が揺らぎ始めた。
ポーションを投資対象として抱えていた者は値下がりに直面し、
医療関係者は代替医療としての可能性を無視できなくなる。
そして何より――
回復手段の安定供給は、ダンジョンへのハードルを下げる。
ダンジョンは、
一部の選ばれた者の戦場から、
多くの人間が手を伸ばせる領域へと変わりつつあった。
それは希望であり、同時に管理不能の兆しでもある。
匿名の投稿者は名乗らない。
だがそのレシピは、
すでに探索者の間だけでなく、
経済界、医療界、そして国家の中枢へも届いていた。
大型モニターの数字が、赤く染まっていく。
午前九時三十二分。
東京市場、寄り付きから三分で急落。
「……は?」
思わず声が漏れた。
今熱いダンジョン関連銘柄を中心にポートフォリオを組んでいた。
素材流通、探索装備、ダンジョン保険、回復薬卸。
どれもここ数ヶ月、右肩上がり。
昨日まで資産は増え続け、正直ウハウハだった。
だが今日は違う。
画面も――そして自分の顔面も、青一色だった。
ニュース速報が画面下を流れる。
「ネット上に拡散されたポーション調合レシピの影響で、市場に混乱が広がっています」
アナウンサーの声は冷静だ。
これまでポーションという魔法薬は、富裕層も国家も喉から手が出るほど欲しがる存在だった。
供給は常に不足し、価格は上昇の一途。
特にハイポーションは別格だ。
オークションでは平然と十桁を超える。
資産家のステータスであり、国家備蓄の柱でもある。
その前提で、市場は動いていた。
「さらに、新たに確認されたミドルポーションが、一部ハイポーションの代替となり得る可能性も指摘されています」
「は……?」
思考が止まる。
ミドルポーション?
代替?
それはつまり――
ハイポーションの絶対的価値が揺らぐということだ。
保有評価額。
昨日比マイナス二千三百万。
まだ下がる。
板は売り一色。
誰も買わない。
ダンジョンは危険だ。
だからこそ、その内部に眠る資源がどれだけ有用でも、探索者の絶対数は伸び悩んでいた。
命の保証がない場所に、誰もが踏み込めるわけではない。
だからダンジョン関連企業は、リスクヘッジとして高額な保険を購入した。
万が一の損失に備えなければ、事業そのものが成り立たないからだ。
そして重傷から救える数の少ないハイポーションには、富裕層が群がった。
生存確率を買うために、いくらでも積んだ。
有用なダンジョン資源は高額でも飛ぶように売れた。
希少だからだ。
命懸けでしか手に入らないからこそ、値が吊り上がった。
だが――
回復薬が手軽に手に入るならどうなる?
危険度は下がる。
死亡率も下がる。
探索者は減らない。
むしろ、安全性の向上で参入者が増える。
探索人数が増えれば、
ダンジョン資源の供給も増える。
供給が増えれば――
価格は、下がる。
それは単なる一時的な暴落ではない。
構造そのものが変わる、ということだ。
「たった一つの匿名投稿で……?」
信じられなかった。
だが市場は、信じる信じないでは動かない。
数字は残酷だ。
画面の赤が、さらに広がる。
誰が投稿したのかは分からない。
だが確実に言えることがある。
――もう、元の相場には戻らない。
ダンジョン省本庁舎、最上階の大会議室。
本来なら冷静に数字を確認するはずの定例会議は、開始五分で空気を失っていた。
「これはどういうことだ!?」
机を叩いたのは大臣だった。
大型モニターには、グラフが並ぶ。
探索済みエリア拡大率――急上昇。
新規探索者登録数――過去最高。
死傷率――緩やかに低下。
そして別画面。
ポーション市場価格――暴落。
「なぜ事前に察知できなかった! レシピだと? 匿名投稿だと? そんなものを放置していたのか!」
怒声が響く。
だが本当に大臣の顔色を悪くしているのは、国家運営ではなかった。
隣に控える秘書官が、小声で囁く。
「大臣、関連ファンドの評価額が――」
「言うな!」
顔色はすでに青い。
ポーション関連、ダンジョン医療、希少素材流通。
“成長国家戦略”として推進してきた分野だ。
そして個人的にも、かなりの比率で資産を預けていた。
「ローポーションが量産可能? ミドルポーションがハイポーションの一部代替だと? そんな話、誰が信じる!」
「事実です。既に現場で複数報告が」
「だからこそ問題なのだ!」
声が裏返る。
危機感はある。
だが方向がずれている。
「価格が崩れれば企業が倒れる! 保険モデルが瓦解する! 国家戦略が――」
その声を、会議室の隅で二人の男が静かに聞いていた。
ダンジョン対策局長と、情報分析官。
モニターの別画面には、一般には出ていないデータが映っている。
「……死亡率は確実に下がっています」
「はい。重傷者の生存率も改善。探索継続率が上昇しています」
「探索済みエリアは?」
「先週比で一・四倍。最前線の押し上げ速度が異常です」
局長は目を細めた。
問題は市場ではない。
構造だ。
「新規登録者数」
「倍増です。ただし――」
「経験不足者の比率が高い」
「はい。母数が増えたことで、軽傷者総数はむしろ増加傾向です」
ポーションがあるから死なない。
死なないから参入する。
参入するから事故も増える。
そして。
「海外の動きは?」
「欧州連合、非公式照会。米国、防衛省ルートで情報収集中。
“なぜ日本だけ進行が早いのか”を分析しています」
画面には別の資料。
黒崎ら四人の探索記録。
深層到達速度。
「彼らが“偶然”とは思われていません」
「日本のダンジョンに秘密がある、と?」
「はい。レシピは国外にも拡散しました。にもかかわらず成果が出ているのは日本のみ。
原因は環境か、人材か、管理体制か――調査対象になっています」
局長は小さく息を吐いた。
「スパイは?」
「既に増えています。ダンジョン関連企業、大学研究室、探索者コミュニティ。
動きが活発化しています」
会議室中央では、まだ大臣が叫んでいる。
「価格安定策を講じろ! レシピ公開者を特定しろ! 勝手に市場を混乱させた責任を――」
その声を背景に、局長は静かに言った。
「レシピ公開者は探します。だが処罰目的ではない」
「管理ですか」
「そうだ。管理できない技術は、国家のリスクになる」
そして、視線を上げる。
「最悪の場合、海外に確保される可能性もある」
沈黙。
市場の混乱。
探索の加速。
海外の介入。
すべての中心にいるのは――
匿名の投稿者。
「……見つけろ」
局長は低く命じた。
「国家が先に見つけなければ、別の誰かが見つける」
会議室ではまだ、怒声が続いている。
だが本当に重要な会話は、
隅で静かに進んでいた。




