第32話 希望と現実
フォレストビーストに腹の脂肪を削られてから、三か月がたった。
あの巨体と真っ赤に燃えた姿は、まだ夢に出ることがある。
目が覚めると腹のあたりに薄く残った傷を無意識にさすっている。
――もうあんなのは、勘弁だ。
正直なところ、もうダンジョンには近づきたくない。だからこそ、ダンジョンと関わりのない仕事を探して職業安定所に通っている。
ダンジョン災害法が適用され、前に勤めていた会社の未使用だった雇用保険を受け取れることになった。
そのおかげで、こうして最低限の生活は維持できている。
もっとも、ここ三か月は「仕事を探している体」で通っていただけだ。
求人票を眺め、端末を操作し、相談窓口で当たり障りのない話をする。
本気で働く気がなかったわけじゃない。
ただ、どこかで時間を稼いでいた。
だがその猶予も、来月で切れる。
そろそろ、本当に決めなければならない。
コンビニ?もちろんクビになった。
一週間も連絡が取れなかったバイトを、あの店長が優しく迎えてくれるわけがない。
急に休んだのは私だ。そこは飲み込んでいる。
謝りに行ったときには、私の倍の時給で若い女の子を雇っていたよ。
世の中、分かりやすい。
嫌な事を思い出して思わず整理番号札をぐしゃりと握りしめてしまった
平日の昼前だというのに、席はほとんど埋まっている。
誰もが画面を見つめ、あるいは書類を握りしめている。
ここには、それぞれの事情がある。
壁際のテレビから、昼のニュースが流れていた。
『急落していたダンジョン関連株が回復基調に――』
『ポーション需要の拡大が背景と見られ――』
ポーションその言葉に、ほんのわずかだけ胸の奥がざわつく。
篠原さんの娘さんは、元気になっただろうか。
ミドルポーションで回復するはずだ。
理屈では分かっている。
それでも彼女に会う勇気はなかった。
感謝されるのも、責められるのも、どちらも居心地が悪い。
だから、あの後すぐに引っ越した。
テレビの音声が遠のき、現実に引き戻される。
整理番号を見下ろす。
電子音が鳴り、掲示モニターに番号が表示された。
手元の整理番号と同じ数字を確認し、腰を上げる。
逃げ場のない現実に呼ばれた気分になる。
指定された窓口に座ると、二十代半ばほどの女性相談員がこちらを見て、事務的に会釈した。
若い。
たぶん私より一回り以上は下だ。
私の焦りなんて、分からないだろう。
私は視線を合わせないように、カウンターの端に目を落とした。
「本日は、どのような職種をご希望ですか?」
「……えっと、できれば……前職に近い、開発系を……」
自分でも歯切れが悪いのが分かる。
相談員は履歴書を確認し、端末を操作した。
「プログラマーのご経験は十年以上ですね。プロジェクトマネージャーのご経験はありますか?」
「いえ……そこまでは」
「業界横断的な大規模システムの設計や、上流工程の統括などは?」
「……ありません。基本は実装と、部分的な設計が中心で……」
キーボードを打つ音が淡々と続く。
その音だけがやけに大きく聞こえた。
「現在募集が多いのは、マネジメント経験者や上流工程を任せられる人材です。申し訳ありませんが、実装中心のご経験ですと、年数が長くても紹介できる案件は現時点ではご紹介が難しい状況です。」
やはり、という言葉を飲み込む。
長くやってきたことが、そのまま武器になるわけではない。
「派遣や短期案件でしたらいくつかございますが、報酬面は前職より下がる可能性が高いです」
モニターに表示された数字は、現実的だが魅力的ではない。
生活はできる。だが、貯金に回す余裕はない。
「未経験可の求人もありますが、体力を要する業種や交代制勤務が中心になります」
休日が不規則。拘束時間が長い。
若いころならまだしも、今の身体で続くかどうか。
腹の奥に残る鈍い違和感が、ふと意識にのぼる。
沈黙が落ちる。
相談員は淡々と画面をスクロールしている。
私は雇用保険の残り日数を思い出していた。
来月まで。
それを過ぎれば、ただの無職だ。
「ご希望条件を少し広げていただければ、紹介できる案件は増えると思います」
広げる。
つまり、妥協しろということだ。
「……あ、はい。分かりました……」
小さくうなずく。
選べる立場ではない。
だが、簡単に割り切れるほど追い込まれているわけでもない。
その中途半端さが、いちばん厄介だった。
相談員が履歴書をもう一度見直す。
何かに気づいたように、指先が一か所で止まった。
相談員の指先が止まったまま、履歴書の一か所を見ている。
「……ダンジョン探索許可をお持ちですよね?」
心臓がわずかに跳ねた。
「は、はい……一応、持ってます」
視線は相変わらず机のあたりをさまよっている。
彼女の目を見ることはできなかった。
「現在も有効ですね。……あ、探索許可エリア、かなり広いですね」
少し驚いたような声色だった。
「そ、そうですか……」
自分では意識していなかった。
許可エリアの広さなど、もう関係のないものだと思っていたからだ。
「それでしたら、こちらの求人が該当します」
画面をこちらに向ける。
「ダンジョンの警備業務です。新規探索者の増加により死傷者数の増加が問題となっており、その対策として行政が民間委託で行っている案件になります。探索許可を持っている方限定の募集で、かなり優遇された内容です」
――ダンジョン。
その単語が耳に入った瞬間、腹の傷跡が熱を持った気がした。
無意識に、そこへ手を当てそうになるのをこらえる。
「……警備、ですか」
喉がわずかに乾く。
「はい。主な業務は入退場管理とトラブル時の初期対応・初心者の同行などです。深層には立ち入りませんし、基本は低層区域のみになります」
低層。
あのときの光景が脳裏に浮かびかける。
だが――。
中層のようなモンスターはいない。
燃え上がる赤い巨体も、絶望的な咆哮も、そこには存在しないはずだ。
「報酬はこの通りです。各種手当も充実しています」
提示された条件を見て、わずかに息を呑んだ。
他の募集に比べて頭一つ以上、上だ。
派遣の単発案件とは比較にならない。
「勤務はシフト制ですが、体力的な負担はそこまで大きくありません。探索経験がある方であれば、十分対応可能です」
腹の傷を無意識に押さえてしまう。
そこにあるのは、鈍い記憶と、もう治っているはずの感触。
低層のモンスターなら今想像しても恐怖はない。
本当に、そうだろうか。
自分の中で何かが静かに揺れた。
断る理由はある。
だが――
逃げ続ける理由も、もう残っていない気がした。
「……少し、詳しく聞いてもいいですか」
かすれた声が、思っていたよりも素直に出た。
相談員は小さく頷き、資料を開いた。




