第17話:Sランクの威厳(ロスト)と、最適解のアンサー
「……ったく、散々な誕生日明けだったぜ。なあ、優奈。俺、そんなに情けなかったか?」
「ううん。凪沙くんとスズネちゃんが来てくれるまで、たった一人でみんなを守ってたじゃない。裕二くんは、私の自慢の騎士様だよ」
場所は、喧騒から少し離れた路地裏の居酒屋「酔いどれ坊主」。
ジョッキのぶつかる音と紫煙が漂う座敷の奥で、優奈は二日前のAランクダンジョンで裕二が負った火傷や打撲の痕に、丁寧に高純度回復薬入りの軟膏を塗り込んでいた。裕二は照れ隠しのように特大ジョッキの烏龍茶を煽り、視線を逸らしている。
その傍らには、激戦を物語るように表面がわずかに煤けた特注盾『双星の絆』が、傷一つない誇らしげな姿で立てかけられていた。
今回の「ハワイ旅行からの強行軍」、そして「変異体デュラハン戦」での殿という無茶な役回りに至るまで、裕二には彼なりの、そして彼が所属する武闘派クラン『紅蓮の牙』なりの複雑な事情があった。
「……思い出すぜ。いくら記念日だからってよ、クランの奴ら、完全に目が血走ってたんだぞ」
裕二が枝豆を乱暴に口に放り込みながら愚痴をこぼす。
「『裕二さん、交際七周年なんだろ!? 優奈さんの差し入れクッキー、マジで五臓六腑に染み渡るし、ここは俺たちに任せてとっとと行ってこいよ!』って、俺の背中を物理的に蹴り出しやがって……」
本来、上位探索者ともなれば体調管理は絶対だ。時差ボケを残したまま高難易度迷宮に潜るなど、副リーダー失格と言われても仕方が無い。だが、今回ばかりはクラン全体が彼をハワイへ「叩き出した」のである。最大の理由は別のところにあった。
『補足します』
凪沙の脳内から、いつもの涼やかなシステムボイスが個室の空気を震わせた。
『私がギルドのサーバーを経由して『紅蓮の牙』の暗号化チャット履歴をスキャンし、割り出したメンバーの意識調査データがあります。「優奈様の手作りクッキーのためなら、副リーダーの多少の時差ボケ攻略も許容できる」が98%。「裕二様のノロケ話を聞くのは苦痛の極みだが、優奈さんの幸せは我々の命に代えても絶対に守りたい」が100%でした』
「おいエア、勝手に他所のクランの通信傍受すんな! 国家のサイバーセキュリティどうなってんだ!」
『……優奈様は、実質的にあの屈強な武闘派コミュニティを裏から完全に支配する、Sランクの聖母《教祖》と言えるでしょう』
「すごいね優奈ちゃん。一歩間違えたら宗教じゃん!」
「あはは……。みんな、いつも凄く美味しそうに食べてくれるから、つい作りすぎちゃうんだよね」
スズネがタレの滴る焼き鳥の串を頬張りながら白銀のキツネ耳をパタパタと動かし、優奈はふんわりと照れくさそうに笑う。彼女のその無自覚な包容力こそが、死線を潜る探索者たちにとって何よりの救いなのだと、凪沙も密かに納得していた。
「……ま、その『余裕』だったはずのダンジョンで、あんな化け物が出るなんて誰も思わねえよな」
裕二がジョッキを置き、真顔に戻る。
『はい。今回のデュラハンは、Aランク相当の魔馬『フレイム・バイコーン』を従え、かつ聖属性と火属性耐性を完備した突然変異体。確率にして、0.003%の不運です』
「……運が悪かった、で済ませるにはデカすぎるツケだったな」
凪沙が気怠げに呟く。その隣では、スズネが「道頓堀のたこ焼きの方が熱かったよ!」と、全く参考にならない独自の基準でデュラハンの火力を評価していた。
◇◇◇
「それより凪沙、お前……あの後、ギルドの連中に変な目で見られてなかったか?」
不意に、裕二が思い出したようにニヤニヤと意地悪く笑いながら問いかけた。
凪沙の箸が、ピタリと止まった。脳裏を鮮明によぎるのは、第73階層の隠し部屋を開けるために大声で叫んだ、人類史上最も不名誉なあの合言葉。
「…………その話はするな。エア、関連する音声データはすべて消去しろと命じたはずだぞ」
『いいえ、私は「善処する」と申し上げただけです。ちなみに、ギルドの公式救助報告書には【世羅凪沙Sランク探索者は、精神干渉系の罠を無効化するためか、あるいは周囲の士気を高めるためか、独特の気合(ミラクルな雄叫び)を上げながら隠し部屋を攻略した】と、極めて真面目に記載されていましたよ。歴史に残りますね』
「気合じゃねえよ!! 文字通り『クソ』みたいな状況で強制されただけだ!」
凪沙は頭を抱え、テーブルに突っ伏した。日本唯一のSランクとしての絶対的な威厳が、音を立てて崩れ去っていく。
「あはははっ! 『ミラクル・ハッピー・きゅるるん・オープン!』だっけ? なぎさ、いっそあれ新しい必殺技の名前にすればいいのに!」
スズネが無邪気かつ残酷なモノマネで追い打ちをかけ、最強のSランクの心に会心の一撃を与える。
「……もういい。俺はこれから、手に入れた特級魔道具『バカ送り』をお前らの顔面にいつぶつけるかだけを考えて生きることにした」
凪沙が恨めしげに睨むと、裕二が慌てて両手を振る。
「おい待て、それは私闘だぞ! あと優奈にぶつけたら俺が黙ってねえからな!」
『見栄を張らないでください、凪沙様。私は知っていますよ』
エアの声が、冷徹な真実を突きつける。
『あなたが既に『バカ送り』の空間干渉術式をこっそり魔改造し、ご自身の仮住まいのホテルのベッドを「緊急帰還地点」として登録したことを。スズネ様が発情期のノリで「もう遅いから一緒に寝よ!」と迫ってきた際、照れ隠しで自分にぶつけて強引に逃げるためのファストトラベル準備ですよね?』
「……っ!! お前、マジで一回黙れ。権限奪うぞ!」
図星を突かれた凪沙が耳まで真っ赤にして怒鳴り、裕二が腹を抱えて大爆笑する。
「なぎさのバカ! 逃がさないもん! ぶつけられる前に私が抱きつくからね!」
スズネが尻尾の毛を逆立てて抗議する。
本当に、この男は「理不尽な力の使い道」を間違える天才だった。国宝級のアーティファクトが、ただの「幼馴染からの逃走用装置」に成り下がった瞬間である。
◇◇◇
笑い声が絶えない個室の中で。
凪沙はパーカーのポケットにそっと手を通し、懐に忍ばせた【不壊の緋勾玉】の丸く滑らかな感触を、指先で確かめていた。
エアが「仕様」と言い張って、勝手に凪沙の魔力波形に固定した、死を欺く一度きりの奇跡。
(全盛期で復活、か……)
喧騒から一歩引いた思考の中で、凪沙は17歳のあの暗い闇を思い出す。
左目を失い、自身の強すぎる雷に細胞を焼かれながら、名もなき演算核と出会ったあの日。もしあそこで「死にたくない」と強がらずに死を受け入れていたら、この騒がしくもくだらない夜は存在しなかった。
凪沙は、自分のために勝手に「生」を予約した相棒の演算核に、意識下で小さく語りかける。
(……ありがとな。お節介なAI様よ)
『……。感謝の言葉より、明日の朝食に使う卵の特売情報を共有してください。私の演算リソースは、あなたの「生」と「日常」を完璧に維持するためにあるのですから』
脳内に響くエアの声は、いつも通り事務的ですげなかった。
だが、凪沙の右目の視界の端に表示されたナビゲーションの光のラインは、どことなく照れたように、いつもの冷たい水色から、ほんのりと淡い桜色に揺れている。
『脈動するこの勾玉が、あなたの心臓の隣にある限り。……私は何度でもあなたを、この「くだらない日常」へと引き戻します』
エアは、世界の誰にも聞こえない、凪沙の脳内という完璧な密室で、そっと囁いた。
『……それが、名前もなかった私に『エア』という名を与えてくれたあなたへの、私からの唯一の最適解ですから』
「……お前は本当に、重い相棒だよ」
凪沙は誰にも聞こえないほどの小さな声で呟き、呆れたように、けれど心底嬉しそうに微笑んだ。
「なぎさー! 私の唐揚げ食べないでよー!」
「お前が俺のネギ食ったからだろ」
「こらこら、二人とも喧嘩しないの。裕二くん、ほら、お肉焼けたよ」
「おうサンキュー! 優奈の焼いた肉は最高だな!」
最強の探索者たちの、騒がしくも温かい夜は更けていく。
彼らの明日が、どうかまた「平和なフラグ」と「特売のスイーツ」で満たされることを祈って。




