第18話 決意の出発と、外堀の埋まった氷狐
成田国際空港、第2ターミナル出発ロビー。
行き交う旅人たちの喧騒とスーツケースの車輪の音が響く中、その一角だけが妙に落ち着いた、それでいて別れを惜しむ特有の熱を帯びていた。
「忘れ物はないか? 現地のギルド支部には話を通してあるし、何かあったらすぐにクランの緊急回線を使ってくれ。……あと、あんまり無理しないでね。優奈は探索者じゃないんだから、夜道とか絶対に一人で歩くなよ」
「ふふ、大丈夫だよ。裕二くんこそ、私がいない間にまた無茶して、凪沙くんやスズネちゃんを困らせちゃダメだよ?」
燃えるような赤髪の巨漢――Aランク探索者の裕二は、普段の戦場での猛々しさが嘘のように、甲斐甲斐しく優奈の荷物と旅程を確認していた。一方、凪沙とスズネは少し離れた柱の陰から、そんな「いつもの二人」の光景を保護者のように眺めている。
一ヶ月間のフランスへの海外出張。一般企業に勤める優奈にとっては大きな挑戦であり、裕二にとっては、彼女という最大の心の拠り所が傍にいない「初めての長い夜」の始まりだった。
「優奈ちゃん、気をつけてね! お土産は本場のパフェがいいな! 現地でしか食べられない、すっごく甘いやつ!」
「スズネちゃん、それじゃ日本に帰ってくるまでにドロドロに溶けちゃうよ。……凪沙くん、裕二くんのこと、よろしくね」
「ああ。……心配しなくても、こいつが馬鹿な真似しようとしたら、俺が物理的に止めるから安心して行ってこい」
搭乗ゲートへと向かう優奈の小さな背中を、三人は彼女が人波に紛れて完全に見えなくなるまで見送った。
◇◇◇
優奈の姿が消えた後、裕二は深く、長く、肺の中の空気をすべて吐き出すように溜息をついた。
空港の展望デッキへと場所を移した彼の表情は、先ほどまでの「優しい恋人」のものではなく、幾多の死線を潜り抜けてきた一人の探索者としての険しさを帯びていた。
「……なあ、凪沙。今回の件、俺は自分が心底恥ずかしいよ」
金網越しに、轟音を立てて離陸していく飛行機を見上げながら、裕二がぽつりと零した。
「ハワイで浮かれてたってことか?」
「それもある。……けど、一番は自分の『弱さ』だ。Aランクって肩書きに、どこかで見合わない自信を持ってた。今回のデュラハン戦、お前がいなきゃ俺は死んでたし、優奈を悲しませてた。……死はいつだって隣にいる。そんな当たり前のことを、俺は平和ボケして忘れてたんだ」
裕二の太い拳が、手すりの上で白くなるほど固く握りしめられる。
「……Aランクだからって、調子に乗ってたよ。結局、俺は『世界顕現』すらできねえ半端者なんだ」
その自虐的で重苦しい言葉に、凪沙は呆れたように鼻で笑った。
「裕二、お前な。世界顕現ができる奴が、この世界にどれだけいると思ってるんだ?」
凪沙は手すりに寄りかかり、気怠げに空を指差した。
「17人いるSランクの中でも、それが可能なのは俺を含めてたった6人。Aランクに至っては、全世界で1万人以上いて、顕現に辿り着いたのはたった13人しかいない。……横でぴょんぴょん跳ねてる狐がおかしいだけだ。お前が弱いわけじゃない」
「ひどいっ! スズネは努力の天才なの! あと、なぎさの隣で足手まといになりたくないから、死ぬ気で必死で頑張った結果だもん!」
スズネが白銀の尻尾の毛を逆立てて抗議するが、凪沙はそれを華麗にスルーして言葉を続けた。
「顕現は才能や努力の先にある『バグ』みたいなもんだ。お前は黒炎の出力を磨け。……あの盾《双星の絆》があれば、お前はもう並のSランクよりよっぽど硬いんだからな。自信持てよ」
「……そうだな。……サンキュー、凪沙」
裕二は少しだけ憑き物が落ちたような顔をすると、意を決したように、はるか西の空を真っ直ぐに見据えた。
「俺、優奈が帰ってきたら……プロポーズしようと思ってる」
「……ゴボッ!?」
凪沙が飲もうとしていたペットボトルのミネラルウォーターを、展望デッキの床に派手に吹き出した。
「ついに、か。……まあ、あいつがお前以外の誰かと結婚する姿も想像できないしな。……っていうかお前、それ探索者界隈で一番やっちゃいけない『死亡フラグ』だぞ」
「うるせえ! だからこそ、この一ヶ月で俺はもっと強くなる。優奈に『絶対に死なない』って、胸を張って言えるようになるために」
親友の確かな成長と覚悟。
そんな、男たちの「決意の対話」をすぐ横で聞いていたスズネが、突然もじもじと身をよじらせ始めた。
「ついに、二人もくっつくのかぁ……。……いいなぁ。プロポーズかぁ。……私は、どうなるかなぁ……」
スズネが上目遣いで、じーっと、穴が開くほどの熱烈な視線を凪沙の横顔に送り始める。
「……もう23歳なのに、まだ一度も彼氏できてないもんなぁ……。20年、ずーっと、一人の人に片想いし続けてるのになぁ……。どうして伝わらないのかなぁ。ねえ、なぎさ?」
(チラッ、チラッ)
視界の端から、琥珀色の瞳と揺れる狐耳による、強烈な物理的圧力がかけられる。
「…………(エア、助けてくれ)」
あまりの直球すぎる圧力に耐えきれず、凪沙は左目の相棒に救いを求めた。
『……凪沙様。私の完璧な演算に基づけば、あなたが大人しく彼女の告白を受け入れた方が、諸々の事態の解決が圧倒的に早いと推測されます。破壊的な発情期の合法的抑制、防衛力の向上、精神的安定……メリットしかありませんよ? ………もしくは、とうに外堀が完全に埋まっている『あの事実』を、さっさとバラすか、ですね』
「(わかってる……わかってるけどさぁ! スズネが今まで、何十回も……いや、何百回も告白しようとして、『私、凪沙と、その、つ、つ、』『……月見そば食べたい!』ってヘタれて誤魔化す姿をずっと見てきたんだぞ!? ここまで来たら、意地でも最後まで言わせたいっていうか……俺から言うのは、なんか負けた気がするだろ!)」
『あの事実』――それは、凪沙がすでにスズネの実家に出向き、彼女の両親に「スズネのことは俺が一生面倒見ます」と頭を下げて筋を通し、両家公認で「世羅家の嫁」として扱われているという、決定的な既成事実だ。
肝心のスズネ本人だけがその事実を何も知らず、「私、まだ告白できてないのに! このままじゃ一生独身だ!」と一人で焦りまくっているのである。
「(『あの事実』は絶対にバラさん。向こうが真実に気づいて、顔を真っ赤にして叫ぶとこが見たいんだよ)」
『…………最強のSランク探索者の「見栄」と「意地」としては、人類史上最低レベルの低次元な争いですね。見ている分には面白いですが、その不毛な心理戦の間に、私の演算リソースが無駄に割かれるのですよ?』
脳内で心底呆れ返るエアを放置し、凪沙はわざとらしく大きな伸びをした。
「あー、腹減ったな! 帰りにラーメンでも食ってくか! チャーシュー麺特盛りで!」
スズネの渾身のアピール視線を全力でスルーし、凪沙は足早に歩き出した。
「ああっ! また逃げた! なぎさのバカ! 意気地なし! 冷血人間! 電池野郎!」
「誰が電池だ、誰が。お前はラーメン奢らねえぞ」
「食べる! チャーシュー増し増しで食べる!」
夕暮れの空港。
愛を誓う準備を始めた親友と、外堀が完全に埋まっていることも知らずに20年の想いを叫び続けるポンコツな少女。そして、そのどちらからも目を逸らしながら、左目の奥で毒舌な相棒と言い合う最強の男。
彼らの「日常」という名の愛おしい戦場は、まだまだ平穏には程遠いようだった。




