第70話 好きです
鈍感だと言われて来た。
でも本当は気付いてないフリをしていただけだった。
怖かったから。
関係が壊れてしまうのが怖かったから。
長い沈黙が部屋に満ちる。カチコチという時計の唯一の音がやけに響く。風が私達の間を吹き抜けた。
一分一秒が長く感じるこの瞬間。心臓はむしろ落ち着き、静かに鼓動を体内に響かせている。
私が何かを言わない限りこの沈黙は続くだろう。私でさえ長く感じる時間、藍川にとっては永遠とも言える時間。それを早く終わらせたい。
例えばここで、笑いながら『ごめんね、風でよく聞こえなかった!』だなんてボケをかませば沈黙は消えると思う。藍川も、それが嘘であろうと真であろうとへらへら笑いながら話を流すに違いない。
だけどそれは藍川の気持ちをバラバラに壊すことになる。それは嫌だ。だから、返事は今この瞬間にしなくてはいけない。
「わ、たしは――――」
そこまで言ってから、その後の言葉に詰まった。
予想以上に掠れて震えた声、緊張で喉が痛い。夏だからという理由を置いても、体が熱く火照る。
選択は二者択一。
断るか、受け入れるか。
『凪ってさぁ、藍川のこと好きなの?』
突然茜の言葉が思い起こされる。
あれはいつだったか、忘れてしまった。だけど少し呆れたような茜の顔は鮮明に記憶に残っている。
『……良い友達だと思ってるけど』
『はー! 何それ、気付いてないの? 鈍感なの? 好きか嫌いか付き合いたいか付き合いたくないか。さあどっち!』
『いや、それこそ何それ』
恋愛話を過敏に面白がる人というのは多い。茜もその一人だったのだろう、異性の友達とは好き嫌いかの二択に分かれる、そんな考えで。
一宮とのことを問いただしたい気持ちをぐっと堪えて、私は曖昧な笑顔で答える。
『付き合うとかよく分からない。そもそも「好き」って何なの?』
茜は、分かってないなぁとでも言いたげにニヤリと微笑み、小さな子供に説明するように言った。
『その人と話していて楽しいと思ったら。その人のことをたまにふと考える時があったら。その人といて幸せだと思ったら』
息を吸い、
『――――それが、好きってことなんじゃないの!』
関係が壊れるのが怖かった。
だけどそれはもう、とっくに壊れていたのかもしれない。
元々、何かが壊れている私なんだ。
これ以上何かが壊れて恐れる事なんてないでしょう?
私が藍川と会って約一年。
最初に見たのは入学式の時、あまりにも堂々と眠りこける姿が面白かった。
最初に話したのはその後の休憩時間。茜と一宮ともその時に友達になり、仲良くなった。
最初に互いの秘密をしったのはその日の帰り道。佳奈美の兄と出会って殺して。
たくさんの最初を繰り返した。
それからも一緒に友達として仲間として常に傍にいて。他の仲間と会ったり、可笑しな殺人を繰り返して、警察と会ったり、庇って傷付いたり。
そんな日々を繰り返す度に、私は藍川に対してどんな感情を抱いていたのか。
心の中で弾けた赤い何かは、その中身をドロドロと流して心を埋め尽くす。
気付かないフリも今日でおしまい。
素直な気持ちをぶつければいい。
「私は」
話していて楽しかった。たまに家にいる時も頭の中に浮かんだりしていた。何気ない行動で私を守ってくれるのが嬉しかった。私を庇って死にそうになった時とても悲しかった。生きていて本当に心の底からホッとした。これからもずっと一緒にいたいと、そう願った。
私は藍川と一緒にいて幸せだった。
なら答えは簡単。
長い言葉は伝えない。心に満ちる感情を一言に凝縮して。
「藍川のこと」
きっとこの気持ちはそう言うのだろう。
「好き」
これが恋なんだ。
目をパチパチと瞬かせた藍川は、頬をぐにぐにと抓る。呆けた声で尋ねる。
「『好き』?」
「…………うん」
「僕を? え、好き? …………好きなの?」
「…………そうだよっ! 何度も言わないでよ馬鹿!」
何度も繰り返して言われると、途端に羞恥心が溢れる。顔にどんどん血液が流れて熱くなっていくのが分かった。
そんな私を見て、藍川は表情を変える。
呆けたようにから神妙に。
神妙から考え込むように。
考え込むようにから口角を緩ませ。
口角を緩ませている笑みから満面の笑みへ。
そして、感極まったように藍川の手が私の背中へ回される。ようするに、抱き締められた。
「わっ!」
「凪ちゃん! 凪ちゃん、凪ちゃん!」
ベッドから身を乗り出すように藍川は私を抱き締め、私も椅子から立ち上がってベッドに上半身を乗りあげる。
藍川は何度も私の名を叫ぶ。少し苦しかったけれど、藍川の手の震えは私の口を閉ざす。
心臓の音が聞こえる。バクバクと激しく脈打つ音が。弱々しくない、元気な音。
生きている。藍川は今生きている。その事実が改めて実感出来て、思わず涙が零れそうになる。
私もそっと藍川の背に手を伸ばし、抱き締め返す。
何だか嬉しくて、それが少し気恥ずかしくて、クスクスと笑ってしまう。藍川が同じように笑う声が聞こえる。
しばらくそうしていただろうか、藍川が私からゆっくりと離れ、お互いに顔を見つめる。窓から風が吹いて、ふわりと新鮮な風を送り込む。
世の中には場の流れというものがある。その場のノリでつい、というやつだ。
だからこれも場の流れなんだろうと、冷静な頭の片隅で考える。
私と藍川の唇が触れあったのも、流れなんだ。
「……………………」
「……………………」
軽く触れ合うだけの軽いキス。お互い目をキツク閉じ、チョンと軽くくっ付く。ただそれだけ。
…………ただそれだけ。
なのに、顔は本当に火が出るんじゃないかと思う程熱かった。
する瞬間は冷静だったはずの思考は、終わった瞬間にパニック状態で混乱している。『唇』『キス』『彼氏彼女』とかそういう単語がぐるぐると駆け巡っている。
「…………うん、嬉しい」
沈黙を破ったのは藍川の声だった。
はにかんだ顔は一見余裕そうに見えて、けれどその両耳は赤い絵の具で染め上げたように真っ赤だった。
素直な言葉だからこそ心に来る。『嬉しい』という言葉は私の顔を更に赤くさせた気がした。
顔が熱い。
「っ、わ、私っ! ちょっと外行って涼んでくる!」
そう言って立ち上がる。ズルッとこけそうになるのを藍川が支えてくれる。
「だ、大丈夫?」
「大丈夫大丈夫、平気だよへいっ……!」
カラカラと笑いながら歩き出そうとしてベッドの脚に脛をぶつけた。あ、これ地味に痛い。涙目になりつつ必死に笑顔は崩さない。
藍川が笑いを堪えるように口元を手で押さえている。それを睨みつけるが、藍川の顔を見た瞬間に顔がまた熱くなった。
「外の風吸えばいいよねっ! また戻って来るからっ、じゃ!」
早口でそう言って、部屋の扉を開けて出ていく。その際扉に頭をぶつけたけどもう何も思うまい。
藍川の微笑ましそうな視線を背後に感じつつ私は早歩きで廊下へ出て。
そして廊下に勢揃いする皆を見た。
『あ』
私と皆の声が重なる。
皆――――棺先生と佐々木さんと海星くんと海月ちゃんとアリスが。一同ニヤけた顔で私を見つめていた。
そう言えば出てくる時、扉には少し隙間があった。たった数センチの隙間からは中の様子は見えない。だけれど、声は問題無く聞こえる。
「…………いや、入って行こうとしたんだけどな。面白そうなことになってたからな」
藍川に気付かれないようにか、小声で棺先生が言う。ニヤニヤと歪む口元を押さえきれていない。
顔の筋肉が硬直する。ふるふると弱々しい力で、残りの皆に顔を向ける。
「良かったじゃないか、おめでとう」
爽やかな微笑を浮べながら佐々木さんは言う。飾り気のない単純な祝いの言葉…………でも佐々木さんも聞いてたんですよね?
と、服の裾を軽く引っ張られて視線を下げる。海星くんと海月ちゃんがニンマリとした笑顔で私を見上げていた。「ぬふふ」と奇妙な声で海月ちゃんが笑い、
「お姉さんお姉さん。ようやく恋人になったんですね、長かったですね、良かったですね」
「お姉ちゃんもとうとうお兄ちゃんと付き合うのね! やったね、おめでとー!」
二人はそう言ってから、キャッキャとお互いに顔を見合わせてはしゃぐ。無邪気な喜びは嬉しいけれど、同時に直球で私の心に羞恥心を芽生えさせる。
「おめでとうございます凪さん、今日はお赤飯ですね」
ふふっと大人っぽい静かな笑みを顔じゅうに浮かべ、アリスが言う。ニコニコとした邪気のない笑顔。
「……………………」
無言で皆をじっと見つめる。
素直に嬉しかった。祝って貰えることが、幸せで嬉しくて。詰まる喉から必死に音を出す。
「あ、ぅ」
心に溢れる精一杯の気持ちを込めて。
「――――……っ、あ、りが、っとぉ!」
俯いたから皆の顔が見えない。嬉しくて嬉しくて、顔が真っ赤になって、熱くて。
外の空気を吸ってくる、と震える声で言って廊下を歩く。
皆は追い掛けて来ない。藍川の病室に入ったのか、私をまだ見送っているのかは分からない。
ゆっくりとした足取りは次第に早歩きになり、そして小走りになり。叫び出したい衝動を足に注いだ全力疾走で廊下を走り抜ける。
看護師さんの「廊下は走らないでください!」と言う声が聞こえるまで、私の足は止まらなかった。
バンッと勢い良く屋上の扉を開ける。室内の涼しい空気から一転、じわじわとした暑苦しさが身を包む。肩で息を切らし、立ち尽くして呼吸を整える私を訝しげな目で見ながら、屋上で煙草を吸っていた患者衣姿の初老の男性が入れ違いに屋上から出ていく。煙たい紫煙に一瞬咳き込んだ。
「…………はぁっ」
ふらりとした足で屋上を歩く。コンクリートの床を進んでいると、蜃気楼が見える気がした。そして私の肩まである頑丈な手すりを握り、屋上の端に立つ。
深呼吸をして心を落ちつけよう。
「すー、はー…………」
音ではなく言葉で呼吸を再現する辺り、どうやら私は混乱しているようだった。と言うかそれどっちも息吐いてるでしょう、と自分に突っ込む。
再度呼吸を試みて、今度は上手くいく。そしてそれを数回繰り返し、脳に酸素を巡らせる。
……………………。
「あああああああああああああああああああ」
低い声で呻く、頭を抱える。壁に頭をぶつけてズリズリと左右に揺らす。痛い。でもそれ以上に熱い、体も顔も。
口が開いて言葉を漏らす。風が強くて、何て言ってるのか自分でも分からない。
入道雲が高くのぼる青空を見上げ、うあーと小さく叫ぶ。
太陽の光が眩しくて熱い。けれど不思議と不快感は感じない。
「好きです」
ポツリと一人、空を見上げて呟いてみる。話し相手のいない私の小さな独り言は、青に薄らいで消える。
「大好きです」
もう一度。
「…………愛してる」
そこまで言って。盛大に息を付きたい気分になる。
凄いことをしたんだという実感が胸の奥から湧きあがって来る。
鏡があれば、私の顔がどれだけ赤いのか分かったのに、と少しだけ口を歪めて笑った。
顔の赤色と対照的に、空は澄んだ爽やかな青色に満ちていた。




