第68話 馬鹿にするな
「え?」
頭の中が真っ白になった。
ナイフが肉を貫いて、血が飛び出して、顔が苦痛に歪んで、地面に転げるように倒れて。
私の体からは、一切血が出ていないのに。
「え?」
喉が渇き、声が震えた。
「あ……か?」
唾を飲んで、もう一度引き攣った声で呟く。
「藍川?」
私の目の前、呆然とナイフを手に立ち尽くす佳奈美の前。
私を庇うように刺された少年が倒れていた。
藍川が倒れていた。
「――――あ、え、ぇや。うそ、嘘。何、やだ、あい、あいか」
どう言う状況なのかを理解した瞬間、脳に電流が走ったかのような衝撃が走る。ズキズキと頭に痛みが現れる。
手が震える、足が震える、目が霞んでぼやける。崩れ落ちるように座り込み、藍川の肩を触る。
ひゅうひゅうと細い呼吸を繰り返す藍川の脇腹からは、ジュワリと滲むように赤い血が白い服を染めていた。
見えなかったわけじゃない、どうなっているのか分からないわけじゃない。ただ、考えが追い付かない。
『凪』と私の名を叫び、いきなり陰から飛び出して来た藍川は、名に反応して目を開けた私の前に立った。そして、そのまま佳奈美のナイフを避けようともせず、自ら刺されるようにその切っ先を受け入れた。
「ど、う、して?」
ようやく口から漏れた、言葉と言える声はそんな一言。
分からない。どうして、どうして藍川が。どうしてこんなことになっているの。ただそんな言葉だけが頭の中を渦巻いた。
「…………あし、あとが」
ポツリと藍川の口から声が発せられる。予想以上に、弱々しくか細い声だった。
気がつく。藍川はきっと、砂浜に付いた足跡を辿ってここに来た。……せめて、波で掻き消される場所を走れば良かった、そうしたらこんなことにはならなかったのに。今更遅すぎる。
藍川の顔は白く血の気が引き、ひゅうひゅうと細い呼吸を何度も繰り返していた。そんな彼にさえ容赦無く、いつの間にか激しくなっていた豪雨が体を冷やす。
「…………ねえ藍川、起きてよ。……伊織」
今起こしてあげるよ。全くお寝坊さんなんだから。学校遅刻するよ? それに、こんな所で寝てたら風邪引いちゃう。
早く学校行こう? 茜と一宮といつもみたいに笑ってさ、今日だったら授業中寝てても先生にバレないようにしてあげるから。なんだったら購買のカレーパンだって奢ってあげるし昼休みは皆で外で鬼ごっこでもしようか、子供みたいにはしゃいで。五時間目って棺先生の授業じゃないっけ、プリントやってないでしょ、しょうがないから写させてあげる。放課後一緒に帰ろうよ、家行ってご飯作ってあげようか。オムライス好きでしょ? それでまた次の日も学校に行って、また皆で遊んで。ほら早く起きて、起きてよ。藍川起きて、起きてってば。
ねえ。
「起きてよぉ……!」
いくら藍川の名前を呼んだところで藍川が何事も無かったかのように起き上がるわけじゃない。脇腹から流れ続けている血が止まるわけじゃない。藍川がどれだけ殺人に慣れていようが、大怪我を負っても立ち上がることなんて出来ない。
藍川が脇腹を押さえていた手をゆっくりと上げる。鮮やかな色の血で濡れた手の平が、私の頬を撫でた。
ぬるりとした血の色と臭いと感触に吐き気が込み上げる。頬に纏わりつく血が心底気持ち悪い。見慣れている赤色に憎悪を覚える。それでも、藍川の手の平は暖かく、優しかった。
「凪ちゃん」
細い声で、藍川が呟く。喋るだけでも辛い筈なのに、その顔には笑顔が浮かんでいた。
そして藍川はこう言った。
「泣かないでよ、凪ちゃん」
私の頬を伝って、水滴が私の手の甲に滴り落ちた。
「…………?」
それは、血と言うには薄く、雨と言うには色の濃い雫、血を吸った水の色。
ぽたぽた、ぽたぽた止めどなく溢れる雫が私の手や藍川の服を濡らす。
振り続ける雨の中で、私の涙が溢れ出す。
そして、私の感情が爆発する。
「ああああああああああああああああああああああ!!」
何度も何度も何度も何度も何度も何度も叫ぶ。
最初はただの大声だった叫び声が、段々と絶叫へ近付いていくのが自分でも分かった。掠れた声で、それでも私は叫ぶのをやめない。悲痛な声は獣の咆哮のように、布を切り裂く鋭利な絶叫のように、泣き叫ぶ子供のように、私たちのいる空間の空気を震わせる。
佳奈美でさえ泣き出しそうな顔で立ったままで、叫ぶ私に近付きはしなかった。
藍川に死んで欲しくない。
死なないで。死なないで。
私はあなたに死んで欲しくない。
死なないで、伊織。
藍川の名前を呼びながら、叫びながら、私は気がついていた。
学校へ行って茜と他愛も無い話をして遊びたい、悩み相談とか日常の話とか、もっとたくさんしてみたい。一宮に勉強を教えて貰いたいし一緒にバスケでもしたい。岡野の暑苦しい話も本当は面白かった、熱血なところも嫌いじゃなかった。ひなと日向ぼっこしたりしてほのぼのしたい、帰りにクレープ屋に寄ってみたり。哀歌と本を読みたい、漫画でも貸し合ったりして笑いたい。紫乃ちゃんにバットの振り方とか体の動きとか習いたい。桜ちゃんとも仲良くなって、佐々木さんとまた仲良くなるように応援したい。唯くんをもっと明るい性格に戻して、また誠の家に行っておじさんとおばさんと唯くんと昔みたいに仲良くしたい。誠の墓参りに行ってたくさんの事を話したい。お母さんとお父さんが海外から帰ってきたら、たまには目いっぱい甘えたい、そしてぎゅって抱きしめて貰いたい。桃香さんに可愛くなる秘訣でも教えて貰って、大人の女性に近付きたい、桃香さんのお話をもっと聞きたい。冬音さんと恋愛話でもして、佐々木さんのことについて顔を赤くさせるのをからかってみたい。アリスと一緒に買い物行って、きっと今まで行ったことのないプリクラとかカラオケとか行って、女の子同士の友達として過ごしたい。海星くんに勉強教えたり、ミニカーとかサッカーボールとか買って一緒に遊んで、いっぱい頭を撫でてあげたい。海月ちゃんの髪を結んだり可愛い洋服を着せたりして、お姫様みたいにして遊んで、嬉しそうな笑顔を見たい。佐々木さんと一緒に教会に行って子供達と遊んだり、マリアさんに佐々木さんの小さい頃の写真を見せて貰ったり、佐々木さんともっと遊んだりしたい。棺先生の部屋に行ってベッドの下の本の趣味を変えるように言ったり、オバケの写真を見せてからかってみたい、授業や日常の話を聞きたい。藍川と一緒に遊んだり話したり笑ったり、これからも一緒にいたい、ずっとずっと、いつまでも一緒にいたい。
皆と一緒にこれからも過ごしていきたい。
私にはまだ、生きてたくさんやりたい事があるんだ。
私はまだ死にたくない。
「ごめんね佳奈美」
叫び声をピタリと止め、私は座り込んだまま佳奈美に顔を向ける。叫び続けて掠れた声で、佳奈美に言う。
「私、やっぱり死ねないや」
怒るかと思った。佳奈美は、発狂して私に飛びついてくると思った。
だけど佳奈美は、全てを悟ったような顔で、泣きそうな顔で、「ああ」と呟いただけだった。
「…………そう」
静かにそう呟いた佳奈美は、ふらりとよろけるように横に倒れそうになる。彼女の顔も青白く青ざめていた。
藍川を刺したことだと分かる。どれだけ決意していようが、人を刺した事は初めてなんだろうから。
地面に横たわる藍川に目がいくと、心臓が飛び跳ねたように鼓動を早める。それを強制的に落ち着かせながら、今にもまた叫び出しそうな口を必死に噛み締める。
ごめんね藍川、もう少し待っててね。
どうにせよ佳奈美を放って藍川を病院へ連れて行くなんて出来ない。そんな隙にやられてしまうのがオチだろうから。
だから今は、佳奈美をどうにかすることが最優先。
「私はあなたを倒すから」
地面に刺さったままの包丁を引き抜き、泥を服で落としながら立ち上がる。ざあざあと降る雨さえも気にならない。我ながら変な台詞だと、心の中で笑う。
「…………勝手に言ってなさい、畜生が」
呼吸を落ち着かせながら佳奈美はナイフを握り直す。
ピシャリと、とうとう近くで雷が光る。
地を震わせるような轟音が轟くのを合図に、私達は駆け出した。
刃先が私の左腕の皮膚を裂く。瞬間的な痛みが走るが、歯を食い縛って堪えながら佳奈美の目を狙う。けれど寸前で佳奈美はそれをかわした。いや、闇雲に動き回っている所為で、当たらないだけだ。
佳奈美は短く絶叫を繰り返して動き回り、ナイフを振り回す。私の突き出す包丁はナイフで弾かれ、上手く当たらない。その隙にと言わんばかりにナイフの刃が私の肌を数ヶ所切り裂いていく。
「…………っ!」
喉を真横に切り裂こうとしていたナイフを、首を全開まで後ろに傾けて避ける。髪の先をはらりと切ったナイフはその勢いを衰えず、今度は太腿を切り裂いた。呻きながらも飛び退き、佳奈美と数十センチの距離を取る。
厄介だ。舌打ちをしながらそう考える。
佳奈美は人を殺す目的で刃物を握った事なんて無いだろう。ナイフが私の肌を裂く度に、ナイフ越しに佳奈美の驚いたような細かい振動が伝わる。そしてその度に驚愕は怒りへと変わり、ナイフの動きを速めていく。
どこを狙うかどこを刺せば良いかなんて一切考えていない攻撃。傷も浅かったり深かったりと様々。私も人の事は言えないが、素人だ。そして素人だからこそ、その動きは厄介なものになる。
考えていないから、攻撃が予測出来ない。躊躇いがあるから、傷が増えて動き辛くなる。闇雲に振り回すから、私の攻撃が当たらない。
その上私の動きもいつもより鈍い。藍川がいるから、そっちに気を取られて集中出来ないんだ。
頬に汗と血が滲む。攻撃が出来ないから避け続けるしかない。だけどそれだと、時間がかかって藍川が危険になっていく。
「あぐ!」
焦燥の所為か、うっかり攻撃を避けきれなかった。私の肩はズバッと切り裂かれ、痛みに肩を押さえる。……このままじゃあ藍川だけじゃなく私も危ない。
「は、はは。痛い? 痛いでしょ? 今まであんたが散々やって来たことよ」
自分は殆ど傷付いていないのに、顔を青くさせ涙を流しながら、佳奈美は呟く。
「ねぇどうなのよ、自分が負ける気分ってのは」
答えず、私はただ荒い呼吸を繰り返す。佳奈美はそれを知ってか知らずか私を嗤う。
「お兄ちゃんだけじゃない、今まであんたに殺されて来た人達皆思ってたのよ。まだ生きたい、死にたくない、って」
そしてチラリと藍川に視線を向ける。私はビクリと肩を震わせ、佳奈美の視線から藍川を守るように視線の先に立つ。一瞬見た藍川は、ただの転がる死体のように青ざめ動いていなかった。目を閉じ、呼吸さえしているのかどうか。恐怖に満ちた心を無理矢理奮わせ、なんとか体の震えだすのを止める。
「…………そいつも、藍川もあんたと同じだったんだ。人殺しだったんだ」
別の意味で背筋が凍るような思いになる。一瞬息が止まり、ひゅうっと細く吸った空気は氷のように冷たく感じる。
「あんたを庇った時は驚いたわよ。何でこいつがここにいるのかって、でもああそうなのね、あんたと同じだったって言うんなら、ここにいる理由も庇う理由も分かるもの。…………同じだから庇うの」
佳奈美の言葉が、じわりと心を染めていく。口が開き、呼吸が漏れる。
「結局あいつも、ただのクズなんだね」
「黙れ」
漏れた言葉は低く冷たい。私の言葉に、佳奈美が呆れたような顔を向ける。
「…………何?」
「黙れって言ってるんだよ」
拳を握り歯を噛み締める。
佳奈美は私の雰囲気が変わったのに気がついたのか、目を見開き、ナイフで再度切りつけようとする。それを、私は包丁で受け止める。ギィンと金属同士のぶつかる音がして、刃がかけた。そこで私は包丁を戻さず、全力で横に薙ぐ。
「いっ」
佳奈美の指先を刃が掠め、鋭い痛みに佳奈美が肩を跳ねる。その隙に私は口を開いて叫んだ。
「私のっ――――」
一瞬の間をおいて、雷が鳴る。轟音と豪雨の中でも、私の叫び声はよく通った。
「――――大切な人のことを馬鹿にするなあぁっ!!」
包丁を振り下ろしながら、佳奈美の目と私の目が合った。
私の叫び声に驚愕の色を浮かべたその目は、どこか悲しげに揺らいでいた。
そして包丁は、ザクリと突き刺さる。




