第66話 皆さんさようなら
一学期最終日、明日から夏休みに入るという今日この日、教室はいつも以上に賑やかになっていた。
教室に入った瞬間から、ざわついた話し声があちらこちらから聞こえている。どこへ行こう何をしよう誰と遊ぼう、そんな言葉の欠片があちこちから耳に届く。
楽しそうな会話の内容に、ちょっぴり寂しさを胸に抱いた。
「あ、凪おっはよー!」
ぶおんと風が吹いたかと思うと、茜が私の体に抱き付くように飛び込んでくる。ふわりとしたシャンプーの香りがした。
今日はテンションが高いのか、ニマニマとした笑顔で私から離れようとしない。頭から音符マークでも飛び出しそうな勢いだった。
けれど無言な私を不思議に思ったのか、茜は小首を傾げて私を見上げた。「凪?」
「…………おはよう」
そう言って微笑み、茜の頭を撫でる。くしゃくしゃと髪を撫でられることに特に茜は抵抗も見せないが、少しだけ神妙な顔で私を見上げていた。
「…………凪?」
そしてもう一度呟く。不安そうな顔で。
…………どうして私の周りは鋭い人が多いんだろう。
「よー、おはよう川瀬」
その時タイミングよく挨拶を投げかけて来た一宮に、くるりと振り向いて笑顔を作った。茜は私の背後で顔は見えない。
「おはよう一宮。あれ、藍川は?」
「今日ちょっと遅刻するって」
「はは、終業式だってのに相変わらずだね」
全くだ、と一宮は肩を揺らして笑う。
一宮は大丈夫、気付かれて無いみたいだ。
その後先生がやって来て、それから藍川も遅れてやって来て、そのまま私達は体育館へと向かった。夏休み前の終業式の為に。
と言ってもただ校長の話を聞いて立っているだけで、その内容は蒸し暑い空気に攫われて少しも耳に残らなかった。まあ校長の話をしっかり聞くなんて先生達も無いんだろうけど。
学年ごとに体育館から出ていく。終業式が早めに終わったので、それから次のロングホームルームまで時間があった。教室に入って皆と駄弁る。
「うぇーい! 皆元気ぃ?」
突如聞こえたそんな声と同時に、机の傍に立っていた藍川が「げふっ!」と背後から誰かに突進される。一瞬よろめきかけた藍川を一宮が掴み、呆れたように突進して来た人物にポツリと言う。
「元気だな……岡野は。暑くないの?」
「勿論暑い!!」
「あたしはあんたの方が暑いけどね」
夏休み前だと言うのに少し日焼けしている岡野がケラケラと白い歯を見せながら立っていた。爛々と光り輝いている目が私達を眺める。
「おうどしたどした川瀬ー! 元気ないんじゃねーかー?」
そう言われながら無理矢理肩を叩かれる。その力強さにうんざりしたものの、一瞬どう答えようか躊躇した。
「暑いからだよ。私は寒い方が好きなんだよ」
暑いだけじゃあないけれど。もっと、別な理由だけれども。
岡野はふーんと呟き、そしてふっと口元を歪め、細い声で言った。
「でもまあ委員長として……出来る事なら、皆揃って夏休み入りたかったけどな」
その細く締められた目が指しているのは、教室の中で目立つ一つの空席。
その席の主はここずっと学校に来ていない。プリントを届けに行ったという岡野の話によると、部屋にこもって何かをしていると母親が言っていたそうだ。
兄のように引きこもりになるのかな、とクラスの誰かが呟いていた。
でも引きこもってくれた方が安心じゃない? とクラスの誰かが笑っていた。
その会話は佳奈美に届く事は無い。
「高校二年の夏休みだ。万引きや犯罪は決して起こさないように、事故や災害には気を付ける事。以上!」
起立、礼、と続けて日直の男子が言った。ガタガタと音を立てて椅子を引き、立ち上がる。さようならーと間延びした声を合わせて一礼し、途端に教室から数人の生徒が飛び出して行った。
午前十二時、一学期の学校も終わりだ。最後に机をそっと一撫でしてみる。
これで最後だと思うと、掘った落書きの跡があるこの机にも愛着が湧く。
「藍川、川瀬、じゃあな!」
「二人ともばいばーい!」
手を振りながら一宮と茜が教室を出て行こうとする。二人は今日も部活だ、体育館までは一緒に行くのだろうか。そう思っていると、「あ、そうだ」という小さな声が廊下から聞こえ、ひょこんと茜が顔を教室に覗かせた。そしてコクリと唾を呑み、私と藍川に向かって言う。
「今年の夏休み、また遊ぼうね! 約束だからね!!」
そしてすぐ、ばいばい! と言う言葉を付けたして教室からも消える。廊下の方から、「何て?」「何でもー」といった一宮と茜の会話が聞こえていた。
……多分あれは、茜なりの精一杯の励ましなんだろう。元気がない私を慰める為の、そして本当に夏休み皆で遊びたいと言う願いの為の。
ありがとう。でも、それはきっと無理なんだ。
そう言って謝りたかったけれど、それは出来ない。茜に本当のことを言ったら絶対に泣かれてしまう。
二人と会うのも今日で最後なんだなと思うと、胸の奥からツンと何かが込み上がる思いがした。首を振ってそれを振り払う。
「凪ちゃん、僕今日部活無いんだけど……一緒に帰らない?」
「ごめん藍川。私も部活無いけど、ちょっと友達に話したい事あってさ」
そっかー、と藍川はガッカリしたように肩を落とすけれどすぐに、しょうがないかとへらっと笑う。
「そう言えば今日学校来た時に棺先生に言われたんだけど、今日棺先生の家で何か話し合いするから来てねって言われたよ。凪ちゃんも終わったら来れる?」
頷き、分かった行くよ、と笑って答える。藍川はそれを聞いて頷き、「それじゃあまたあとで」と呟いて跳ねるように教室を出て行った。
「…………さて」
私も他のクラスの友達に会いに行こう。
皆に別れの挨拶をしに。
「あれ、皆いた」
図書室に皆はいた。私が入ってすぐ、皆が私の方を見て笑う。
「やっほぅ凪! どうしたの? 今日部活無いけど」
「凪さんこんにちは。今日も良い天気ですね」
「凪先輩! こんにちはです!」
ひな、哀歌、紫乃ちゃんと順に言う。
「何となく来たくてさ。すぐ帰るから」
そう言って私はカウンターに行き、三人の傍の椅子に座った。ギシリと軋む音を立てながら寄り掛かる。そして図書室の中を眺めた。
本がたくさん入った本棚がずらりと並び、いくつか並んだテーブルでいつでも本を読める。窓際の席は日差しの所為で暑いけれど、図書室全体は全開に開けた窓から入り込んでくる風のお陰で涼しい。すうっと深呼吸をすると、微かな紙の香りがした。
…………ここは落ち着くなぁ。
「凪さん、聞いてくださいよ。昨日久しぶりに家族で買い物行ったんです。その時、お母さんが服買ってくれたんですよ!」
キラキラと輝く瞳で哀歌が嬉しそうに話した。その表情は明るく、滲み出る幸せが伝わって来た。
哀歌は変わった。まだ少し暗い性格が残ってはいるものの、明るくなるよう努力をしている。自分が変化すると周囲も変化するのか、クラスの虐めは沈静化、家庭でも家族と歩み寄ろうとしているらしい。
嬉しそうな笑顔に私も思わず微笑む。ニコニコと笑っている哀歌は前と別人のように可愛らしくなっていた。
「先輩達ぃ、私の話も聞いてくださいよおぅ」
紫乃ちゃんがグテンと椅子に座りながら言う。哀歌が「なぁに?」と微笑みながら紫乃ちゃんに顔を向けた。紫乃ちゃんは少し嬉しそうにしながら話し始める。
「今日の朝、桜と一緒に購買行ったらですねぇ、なんと! 苺ミルクが売り切れてたんですよ! こりゃあ一大事だねって言ってたら……これまたなんと、男子がラストの苺ミルク持ってるの見つけたんです! 譲って貰えないかと思ってはなしかけてみたらですねぇ」
「「みたら?」」
「これが、同じクラスの男子だったんです! いやあ吃驚。で、友達になりました」
何だか色々と省略し過ぎな気がするけれど…………桜ちゃんと友達になった経歴といい、無理矢理友達として認定したのかな。まあともかく友達が出来た事は先輩としても嬉しい。
「良かったじゃない。その子の名前って?」
紫乃ちゃんは口を開け、白い歯を見せて笑った。
「品木唯っていう子です! 陰鬱そうなやつだけど、面白いんですよ!」
「…………へぇ、そうなんだ」
思いがけない人物にちょっと驚いた。唯くん、友達は作りたくないって言ってたけど…………うん、まあ、友達は作った方がいいよ、うん。
カラカラと椅子を動かして、ひなが私の方へとやって来る。コテンと体を横に倒して、私の顔を見て微笑んだ。
「ねー、凪。明日から夏休みだねー」
えへへと笑うひなは、暑そうに額の汗を拭う。それに頷きながらひなの顔をまじまじと見つめてみた。
私がこの部活に入ったのもひなによってだった。無理矢理図書室に引きずり込まれ、
「…………? 何、わたしの顔になんか付いてる?」
「いや何も」
「…………ハッ! ま、まさか凪はわたしのことを……!? いやんっ、凪ちゃんったらぁ!」
何故か照れたように頬を押さえ、片方の手でバシバシ私の背を叩く。痛いんですけど、何言ってんですか。
でも今は、こんな行動さえも少し嬉しく思ってしまう。頬を緩ませる私にひなが怪訝そうに顔を歪め、
「あれ、女好きだけじゃなくてMもだったの?」
「違うから」
呆れたように答えながらも、私は笑った。
さて学校を出て棺先生の所へ向かおうとした時、
「あ、川瀬さん」
そんな言葉に振り向くと、そこに桃香さんが立っていた。
夏だと言うのに長袖の黒いスーツ、下もズボン。髪は後頭部でポニーテールのように縛られているが、やっぱり暑そうで、頬には汗が滲んでいた。
それでも表情だけは涼しげに桃香さんは私の方に近付いてくる。私の隣に立ち、ニコニコと微笑んだ。学校前に立つスーツ姿の女性は目立つのか、チラチラと生徒の目が私達に向けられる気配を感じる。それでも桃香さんは意にも介さず微笑んでいた。
「奇遇ですね、これから帰りですか?」
「はい。これから棺先生の家に行って、会議? みたいなものをやるんだそうです」
「ああ……そう言えば冬音が言っていましたね、そんなのがあるとか」
妙に嬉しそうに署を出て行ったのはそれだったのかー、と頷く桃香さんに、「桃香さんは行かないんですか?」と尋ねる。桃香さんは首を振り、肩を竦めた。
「残念ながら仕事がありましてね」
ふふっと含みを持たせた笑みに何かを察する。…………大変だなぁ、桃香さんも。
「時に川瀬さん。最近、何か悩み事でもありましたか?」
「えっ?」
ピクンと驚いた顔を見せた私に、桃香さんは目を細めて微笑を保つ。
「いえ、お気を悪くさせたのならすみませんが、どこか表情が曇っているように感じたもので」
嘘、本当? と慌てて手を顔に当ててみたけれどそうしたところで分かるはずもない。ペタペタと手が顔に貼り付くような感覚になる、暑苦しい。
そんな私の様子をクスリと笑う桃香さんに、笑顔を作って見せてみる。
「直りました?」
「うーん、もうちょっと自然な笑顔の方が良いかもしれませんよ」
ほらこんな風に、と桃香さんは口角を上げた。成程それは自然に素敵な笑顔だけれど、話の流れからして作り笑顔なのだろう。私もそれを真似しようと口角を上げるけどなかなか上手くいかない。
楽しい事を思い浮かべると笑顔が出やすいですよ、桃香さんはそう言った。
「……………………どうですか?」
今私の顔がどんな表情になっているのかは分からない。けれど彼女は一瞬キョトンとした後顔を綻ばせ、頬に赤みを差した優しい笑顔で「出来るじゃないですか!」と嬉しそうに言った。
「えへへ、一回やってみると案外いけますね」
そう言って頬を摘んでぐにぐに動かす私に、桃香さんが首を傾げて「何を思い浮かべたんですか?」と聞いた。
私は本当の笑顔でふふっと笑い、
「内緒ですっ」
跳ねるような声でそう答えた。
「凪お姉ちゃあぁん!」「凪おねえさあぁん!」
「うわっ…………!?」
マンションの棺先生の部屋の玄関の前に立っていると、勢い良く内側から扉を開けて二人の子供が突進して来た。危ない、こける。
ドアノブに掴まって体勢を立て直しながら、私の制服の裾を力強く握って離さない二人の子供達の顔を見る。説明するまでも無く、海月ちゃんと海星くんだ。何故か二人とも、髪がぐしゃぐしゃに乱れ、ヘアピンだの花飾りだの色々と付けている。
「な、何々、どうしたの」
そう尋ねながら二人の顔を覗き込むと、微妙に潤んだ瞳が私の目とパチリと合う。取りあえず中へ入って扉を閉めていると、部屋の奥の方から棺先生が顔を出す。
「よう、来たか」
「はい…………ってか、どうしたんですかこの子達」
私がまだ私に抱き付く二人に視線を送ると、棺先生は軽く笑っていた。その後ろからひょっこりと顔を出すようにアリスが姿を見せる。左手にはクシ、右手にはヘアゴムを持ち、嬉々とした笑顔を浮かべていた。
「あー、凪さんこんにちは! 二人とも駄目じゃないですかぁ、逃げたりなんかしてー」
ふわふわと揺れるような声に、海月ちゃんと海星くんがビクリと肩を跳ね上げる。そんな二人にアリスはニコニコと微笑んだままゆっくりと近付く。正直ちょっと怖い。
海月ちゃんと海星くんはゆるゆると二人で顔を見合わせ頷き、同時に部屋へと向かって駆け出す。
「先手必勝! 逃げるが勝ちで……うわぁ!」
足がもつれたのか、数歩走ってすぐに海星くんが転んでしまう。べちゃっと前のめりに倒れ、鼻を押さえて痛そうに悶える。海月ちゃんが「海星ーっ!」と部屋に到着してそこから叫んでいる様子が見えた。
「ふふっ、捕まえましたよぉ」
「うーわー!」
そんな海星くんをアリスが抱きかかえるように持ちあげ、海星くんはジタバタと抵抗する。けれどアリスはそれを押さえこむように抱きしめ、そのまま部屋へ戻る。海月ちゃんが「海月ーっ!」と再度叫びながら部屋の奥へ逃げる。あ、助けにはいかないのね。
棺先生の意味深な笑顔に首を傾げながらも、私達も部屋へ向かう。そこにはもう皆が集まっていた。冬音さんが私を見て「来たわね」と短く言い、佐々木さんが私を見て軽く右手を上げる、藍川が私を見て表情を明るくした。
「ふふふぅ、海星くん、お肌もちもちすべすべですねぇ。羨ましい」
そんな中でアリスは海星くんの髪を弄って遊んでいた。茶色い髪をクシで梳かしたり、ヘアゴムで髪を縛ったり、ぷにぷにと頬を突いたり。海星くんは無言で目の前の空を見つめている、諦めたみたいだ。
「アリスちゃんが二人の髪弄りたがってね、二人して逃げてたんだよ」
「あー成程、それで」
藍川がクスクス笑いながら説明し、それに納得する。髪を弄られる海星くんは神妙な顔付きだが、アリスは満面の笑みで頬を緩ませている。一時期一緒に住んでいて、現在もお隣さんという近い状況にいるからだろうか、アリスが段々棺先生に似てきている気がする。
俺もやりたい、と棺先生がアリスに言う。良いですよぉ、とアリスが微笑み、二人で海星くんの髪を弄り始めた。海星くんの顔が何とも形容しがたい顔になっている。
海月ちゃんはと言うと、佐々木さんの影に隠れ、アリス達の方を凝視しながら呟いていた。
「海星…………あなたの犠牲は忘れないからね、寝るまでは」
「せめて一週間はもたせてやれよ」
何かを悟ったように微笑む海月ちゃんに、佐々木さんが苦笑しながら呟く。そして何を思ったのか、アリスが床に落としたゴムを拾い、海月ちゃんを抱き上げて膝の上に乗せた。キョトンとした顔の海月ちゃんだったが、髪を佐々木さんに握られビクッと反応した。
「お、お兄ちゃん?」
佐々木さんは無言でクシで海月ちゃんの髪を梳かす。ウェーブがかった長い茶髪がクシによってサラサラとしてくる。慣れた手付きだが、よく二人の髪を梳かしてやってるのかな。そのままゴムで器用に海月ちゃんの髪を一本に縛る。綺麗なポニーテールだ。
「よし」
「あんたもか!」
海月ちゃんは心なしか満足気な顔を佐々木さんに呆れたように突っ込みながらも、佐々木さんが渡して来た手持ち鏡で自分の髪をしげしげと眺める。口は真一文字に結ばれながらも満更でも無さそうな顔だ。
何やってるのよ……と完全に呆れた顔の冬音さんに佐々木さんが顔を向ける。冬音さんが慌てて目を逸らす。と、佐々木さんが冬音さんの背後に回って新たなゴムを手に取った。
「は!? え? ちょっと、何して!?」
「ちょっと大人しくしてろ」
慌てふためく冬音さんにそう一言佐々木さんが言うと、彼女は黙る。体を強張らせる彼女に佐々木さんは気付いていないようで、無言で黙々と冬音さんの髪を梳かす。
肩まで届くか否かの短い茶髪にサラリとクシが通る。髪質良いな、と佐々木さんは独り言を呟きながらヘアゴムで後頭部の髪を小さく縛っていく。
海月ちゃんは俯き加減の冬音さんの顔を覗き込むように彼女の横に座り、じっと眺めていた。
「…………『お姉ちゃんの顔真っ赤だよ? ……ハッ、二人はまさかそういう関係!?』っていうやつなのかな? 藍川」
「いや、どちらかと言うと『お、お兄ちゃんはあたしのなんだから! お姉ちゃんには渡さないんだからね!』みたいな?」
暇だった私はそれを眺めながら藍川と小声で話す。海月ちゃんの思考を当てはめて遊んでみる。
佐々木さんが体を移動させ、冬音さんの前へ移動しヘアピンを手に取った。
「ヘアピン付けたい。顔上げてくれ」
そう言いながら冬音さんの顎を軽く持ち上げ顔を上げさせる。
「っ!」
冬音さんの顔は想像通り真っ赤だった。耳まで赤く紅潮し、その目は潤んでいる。佐々木さんの顔を直視し、挙動不審に視線を動かす。
「かっ、顔! 近い!」
「すぐ終わるから」
冬音さんの切羽詰まった声にそう返し、佐々木さんは冬音さんの前髪を持ちあげる。そして手を動かすが、目をギュッときつく閉じた冬音さんにそれは見えない。
「…………はい、出来たぞ」
そんな声に恐る恐る目を開けてみれば、目の前に差し出された鏡に、前髪をヘアピンで止めた髪型が映る。少し幼い印象で可愛らしかったが、そこで彼女は自分の顔が真っ赤な事に気が付いたのか手で顔を覆ってしまう。
「おお、自分で言うのも何だけど似合ってるな」
佐々木さんはしげしげと冬音さんを真正面から見つめて言い、ふっと微笑みを浮かべ、
「可愛いじゃん」
と言った。
冬音さんはもはや何も言わず、ただ更に顔を赤くさせるだけだった。煙が出そうだという表現も今なら通用しそうな程に。
「う、あー、…………は、早く説明するわよ! 遊んでないで仕事よ仕事!」
ふいっと顔を背けてしまった冬音さんは、部屋の中央にあった小さめのテーブルに何やら書類を叩き付けるように置く。佐々木さんは不思議そうな顔でそんな彼女を見ていたが、棺先生が振り向いてニヤニヤと二人を交互に眺めていた。
「冬音さん可愛いね」
「ねー」
藍川と微笑みながら冬音さんを見つめる。含みのこもった私達の笑いを目にし、冬音さんは赤い顔のまま首を横に振る。
「だあぁっ! いいからっ、さっさと説明するわよ!! 私を見るな!」
本当、見ていて微笑ましい。
「――――電車で三十分程の場所に二人、他県に三人、そしてこの付近に一人の目標。分かったわね?」
数分後、ようやく平静さを取り戻した冬音さんは資料を皆に配り説明を始める。渡された紙に書かれていたのはとあるグラフや表で、犯罪者の数や人物像をまとめた物だった。難しい言葉で並べられた文章に、アリスや藍川は頻りに首を捻っていた。海月ちゃんに至ってはそれで紙飛行機を折り始めている。
「…………はぁ、全く連続殺人が話題に上らなくなったら、今度は他の犯罪が多発し始めるなんて……しかも、どれも重い罪のものばかり」
片手で頭を抱えながら冬音さんが呻く。その髪にまだヘアピンは残っていた。
確かに最近この市で犯罪が増加していることは新聞でも話題になっていた。私達、連続殺人犯の事件が公にされなくなった時、他の犯罪が目立つようになってきたのだ。元から発生していた事件もあれば新たに発生した事件もある。ここの治安は悪くなって来た。
その為私達の仕事も増える。収入も相応のものを貰えはするが、同時にそれは私達が危険な目に遭う事も増えているということだ。児童誘拐事件では海月ちゃんと海星くんの潜入捜査のお陰で事件を無事解決することが出来た。けれどその際、二人は大分危険な目に遭った。私達だってそれは他人事ではない、常に危険な目に晒され、最悪死ぬより辛い目に遭わされることもあるだろう。
「……………………」
「凪お姉さん?」
ふと気がつけば海星くんが眼前に寄って来ていた。私の顔を眺め首を傾げ、「大丈夫ですか?」と心配そうに眺める。
すぐに私は笑顔を取り繕った。桃香さんから教えて貰ったやり方で。大丈夫、自然な笑顔が作れているはず。
「何が? 大丈夫よ。それより、海星くんの髪可愛いことになってるね」
「わっ、笑わないでくださいよぉ!」
そう言って海星くんは、即答部に付けた花の髪飾りからチョコンと飛び出す髪を押さえる。サイドテールとかいうやつだったかな。
「それで他方の方には私と、白林か佐々木のどちらか。付近のは誰か三人が。残る一つは桃香と、それと大人」
冬音さんがそう言って書類を見つめる。誰がどこへ行って仕事をするか、ということだ。
佐々木さんが頭を掻きながら冬音さんを見つめ、言う。
「じゃあオレがお前と行く」
「…………あぇっ!?」
素っ頓狂な声を上げた冬音さんだったが、すぐにハッと気が付いたように頷き、「あ、ああそうね。仕事のね。分かってる」と呟いた。それから、ニヤリと笑う棺先生に頬を赤くしながら睨みを送る。
「じゃあ残った雨宮とのは俺が行くのか」
「そうね、そう言う事になる」
棺先生がそっかーと頷く。多分その二つは数が多いか、重労働なんだろう。成人男性にしか頼めない。
じゃあ残る一つはどうしようか、と残った私達子供がお互いに目を合わせる。そこで、私が手を上げた。
「私が行くよ」
「私も行きます!」
「あ、僕も行く」
アリスと藍川も手を上げた。海星くんと海月ちゃんも行きたいという目で冬音さんを見つめていたが、
「人数的に三人がちょうどいいのよ。多すぎても困るし、署の方で待ってて貰えるかな?」
冬音さんの肩を竦めた笑みに、渋々とした様子で頷く。良い子よ、と冬音さんが二人の頭を撫で、それから、
「それじゃ、説明はここまで。日は改めて連絡するわ」
そう言って書類を閉じた。
「はー……本格的な仕事、初めてだったりします。今からもう緊張しますね」
「アリスちゃんはあまりやったことないんだっけ。でも僕も何回やっても緊張しちゃうよ」
アリスと藍川が談笑する。
「私はそろそろ帰って準備でもしておこうかな」
私が立ち上がり、藍川も「僕も帰ろうっと」と立ち上がる。笑顔で皆に挨拶し、さようならーと手を振った。
玄関先まで送るよ、と棺先生が言って付いてくる。靴を履いて、おじゃましました、と藍川が先に出て、私も玄関を出ようとした時、
「あ、川瀬川瀬。凪ちゃんやい」
「何ですか?」
奇妙な呼び声と共に、棺先生に腕の裾を掴まれ引きとめられる。先生はいつもの飄々とした笑顔だったけれど、その瞳の奥に一瞬光が消えたのを私は見た。
「あのさぁ、俺って先生じゃん?」
「はい、一応」あまりそんな感じはしないけど。若いし性格の所為もあってか同年代っぽい印象だけど。
だからー、そのー、と棺先生は珍しくちょっと言葉に詰まる。口元に手の甲を当て、私を真正面から見据え言う。
「何か悩みとかあったら言えよ?」
驚いた。
棺先生が本当に教師らしく見えた。その真剣な顔と、僅かに力のこもった手が嬉しかった。
「…………ありがとうございます」
素直に心の底からの感謝の気持ちを述べた。
「そうですねー、なんだか最近学校にオバケが出るって噂があって怖いんですよー。先生が退治してくれません?」
「えっ」
一気に青ざめた顔をした棺先生に、「冗談です」と言って笑う。
「それじゃあ棺先生、さよならっ」
学校の友達に別れの挨拶でもするように、軽い調子で言って笑った。オバケという言葉に引き攣った顔をしている棺先生も、手を振って返事をしてくれた。
玄関の外では藍川が待っていた。「何話してたの?」「秘密ー」「えー」と会話しながらマンションの通路を歩く。通路の端に着き、エレベーターのボタンを押ししばらく待つ。
「ねえ凪ちゃん。夏休みって何か予定ある?」
「んー……いや、特に無いかな。お母さん達も今年は帰れるか微妙って言ってたし」
「そっかー」
エレベーターが来て乗り込む。ゆるく重力が体にかかる感覚を感じながら、エレベーターの中ではお互いに無言だった。
一階に下りてマンションを出る。外に出ると、冷房が効いた中から一転、蒸し暑い空気が体を覆った。
「うわ、あっつ」
思わずそう言った。涼しい中から一気に暑い中へ出ると、不快感を感じる。藍川も相槌を打って手で服をバサバサとはためかせる。
「家帰ったら準備しなきゃね」
「そうだね」
「仕事も大変だね」
「本当にね。……そうだ、藍川最近、愛ちゃんの所行って?」
ふと、藍川の義妹の愛ちゃんのことを思い出す。夏の昼間は暑いのか、海が散歩している姿も見かけない。
藍川の周囲の空気は一瞬揺らいだように感じたけれど、すぐに頷きが返って来た。
「と…………父さんも奈央子さんも愛も、皆良くしてくれるよ。変に気を使う事もないし。こないだ、皆で買い物行ったんだ」
「へぇ……良かったじゃん」
柔らかくそう言うと、藍川は少し照れくさそうにしながらも微笑む。
「うん。奈央子さんは『私の事をママと呼びなさい!』とか言ってね。嫌じゃないんだけど、やっぱりまだ恥ずかしいんだ。父さんとも今度一緒にドライブでも行こうかって誘われてるし。愛も、新品のランドセル背負って学校行ってる。友達も出来たみたいで凄く楽しそう」
すん、と鼻を啜り、藍川が少し顔を上げる。
「やっぱり…………家族って良いものだね」
私はただ、微笑んだ。
分かれ道で藍川と別れる。
「ばいばい凪ちゃん」
「さよなら藍川」
手を振り笑顔で、そのまま背を向け去っていく藍川をしばらくの間見つめた。
角を曲がって見えなくなったところで私も背を向け歩き出す。
少し潤んだ瞳を拭い、前を見据えて歩き出す。
さあ、準備を始めようか。




