第65話 許さない
「おはよう川瀬」
「おはよう。今日は早いね」
「昨日早めに寝たからなー」
登校してすぐ、玄関で一宮と会った。靴を履き替え一緒に教室まで向かいながら談笑する。途中、窓の外を一宮が長め、感慨深げに「そろそろ本格的な夏だなぁ……」と呟いた。
今日は六月十日、制服もついこの間夏服になったばかり。最初はまだ多少風が肌に冷たかったけれど、今ではすっかり空気も暖かい、むしろ暑い。
「今で暑いんだから、七月にでもなったら大変だろうねー」
「確かに。それに夏って食べ物腐りやすくなるじゃん。俺、あれ嫌なんだよな。去年買い置きしてたパン部屋に置いといたら腐ってさ! 食ったら腹痛くなったし」
「いやそこは食べないでよ」
適当に話を続けつつ、階段を上って教室へ向かう。教室に入った時、真っ先にクラスの隅にいた茜が私達を見つけ笑顔になった。続いて、茜と談笑していた藍川が私達を見て微笑む。
「二人ともおはよっ!」
「おはよー。暑いね今日も」
そして私達はいつものように駄弁り、いつものように笑い合う。しばらくすれば先生もやって来て、ホームルームが始まるだろう。
そしていつも通りの一日が今日も続く。
そう思っていたけれど、今日は少し変わっていた。
二時間目終了後の休み時間、トイレへ向かった私はそこで佳奈美と鉢会わせる。
個室から出て来た佳奈美は私を見て一瞬眉根を寄せたように見えたけれど、すぐに無表情を取り繕って、洗面台で手を洗う。そのまますぐに教室に戻るかとも思ったけれど、佳奈美は私に振り向いて冷たい眼差しを浴びせた。
そして一言呟いた。
「今年で一年」
「…………え、何が?」
意味が分からない、と半笑いを浮かべて首を傾げる私に、佳奈美は一度目を瞑り言う。
「あたしの兄が死んでから」
笑みを浮かべたまま黙り込んだ私に、彼女はどう思っただろうか。
佳奈美は鏡に顔を向け、そこに指を這わせる。鏡越しの佳奈美の指が私の首を這い、一瞬だけ締められたように見えた。
まるで絞殺するかのように。
気の所為……じゃあ、ない。
「お兄ちゃんがしんでから、家族も周りも、皆変わった」
佳奈美はそう囁くような声で呟き、話し始める。
「お母さんは前以上に暗くなった。お兄ちゃんが部屋に引き籠ってた時はまだ少し明るかったけど、今でもお兄ちゃんの遺影の前で独り言を喋ってる。お父さんも、ピリピリしてあたしやお母さんに怒鳴るようになった、夜遅くまで帰って来ない時もある。あたしも、周りから避けられる。それだけならまだいい。けど、ひそひそ噂されたり、あからさまに悪口言われたりさ」
佳奈美が頭を下げ、肩を揺らす。笑っているのだろうけれど、その顔は俯いて私には見えない。
一段階トーンを上げた声が明るく笑う。
「あははっ! おかしいよねぇ、皆さあ。あたしはお兄ちゃんのことなんてどうでもよかった、引き籠っててただウザイだけだった、死んでくれて清々した!」
それは嘘よ、本当は死んで欲しくなかった。微かな振動を含めた佳奈美の声は、そう言っているように私には聞こえた。
「なのに被害を受けるのはあたし達遺された人の方じゃない! 一番悪いのは犯人の方なのに! それなのに、被害者のあたし達が苦しむことになるんだ!!」
哀歌が自殺しそうになった時、それを止めたひなは、泣きながら言っていた。『どんなに憎まれる人でも、死ぬべき人はいない』。それは、憎まれる人を殺し続けている私にとって、進むべき道を否定されたような気分に陥った。
依頼者からの依頼として、冬音さんや桃香さんからの仕事として、個人的な感情として、私は今までたくさんの人を殺して来た。周りから嫌われているから、恨まれているから、罪を犯したから、そんな理由で。
そもそも『犯罪』が公認の『仕事』となった時点で、私は正直浮かれていたのかもしれない。始末して欲しい人を仕事として殺す。強制された義務であり必要とされている行為、そう思っていた。
それらが全て否定された、そんな気持ちだった。
私がそんなことでショックを受ける立場じゃないことは重々承知している。それでも私はそう思っていた。だからその時、私はこう思ったのだ。
『だったら私がしていることは、一体何なのだろう』
「……………………あたしは決して、犯人を許さない」
佳奈美が顔を上げる。その顔を見て、私は心臓が凍り付くと言う表現を知った。
背筋を悪寒が這う。ザラついたどす黒い何かが身体を覆っていくような、酷い嫌悪感。逃げたいのに目を逸らしたいのに何も出来ない、足が動かない。
心臓が早鐘を打つかのように激しく鼓動し、逆に顔からは血の気が引いていく。手の指先が細かく震え出す。
どうして、どうしてこんなに恐ろしく感じるんだろう。
佳奈美はただ、怒りも不安も悲しみもない混ぜにして全て押しつぶしたかのような、あまりにも不自然な晴れやかな笑顔をしているだけだと言うのに。
「――――それじゃあまたね、川瀬凪」
佳奈美がそう言ってトイレから出てすぐ、休み時間終了のチャイムが鳴った。すぐ行かなくては授業に遅れそうだと頭の片隅で思いながらも、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
鏡に映る私の顔は今にも泣き出しそうな顔になっていて、別に泣きたいわけじゃないのに不思議だなと呆けたように思った。
あの子はきっと、全部知っているんだろう。
佳奈美が教室に戻って来ないと知ったのは五分後、学校に佳奈美が来なくなったのは、それから数日経った後だった。
「凪さん、どうかしました? 顔色が優れないようですけど……」
アリスに顔を覗きこまれながらそう言われた時、私はすぐに表情を取り繕って笑顔を見せた。
六月十五日、土曜日。私はアリスの部屋に遊びに来ていた。
部屋と言ってもアリスが住むこの部屋はとあるマンションの一室、隣には棺先生の部屋があり、しばらく前までアリスは棺先生と同居をしていた。けれど冬音さん達と関わるようになって収入が増えてきた時、棺先生はアリスに一人暮らしを勧めた。世間と離れて過ごしてきたアリスには、多少常識というものが足りない。それを一人で生活することによって補おうと言う考えだった。最初こそアリスは戸惑いはしたものの、棺先生と隣の部屋ならば困った時にはすぐ助けて貰えるだろうという考えからか、それを了承する。そして現在、アリスは日常の常識について並みの知識を身に付けていた。
そしてそんなアリスは今、カーペットの上に座る私の横に座っている。
「大丈夫、何でもないよ」
「…………そう、です、か」
多少納得のいかない顔をしたアリスだったけれど、これ以上聞く事は躊躇われるのか口は半開きのままで言葉は発しなかった。そのまま黙ってしまうのもどうかと思ったので、話題を振る。
「そうそう、アリスの部屋素敵だね! このぬいぐるみとか凄く可愛い」
そう言いながら私はベッドの脇にあったぬいぐるみに視線を送る。長くピンと立った耳と真っ赤な瞳が特徴的な白兎のぬいぐるみだ。アリスもそのぬいぐるみが気に入っているのか、表情を明るくする。
アリスの部屋は最初、必要最低限の物しか置かれていなかった。小さな明かり、小さなテーブル、少ない食料、小さな布団。生活感の殆ど見られない家具に駄目だしをしたのは桃香さんだった。桃香さんは今時の女子が買う物はたくさんあるでしょう、などと言いながらアリスの手を引き街を歩いた。数時間後に帰って来た時、アリスはぐったりと疲れた顔をしてすぐ布団に潜って寝てしまった。数日後にトラックがマンションの前に止まり部屋にたくさんの荷物を運びいれた時、アリスは目を大きく見開いてその光景を眺めていた。
結果的にアリスの部屋は最初の頃と比べ大きく変わっていた。ピンクを基調とした家具は、可愛らしいフリルの付いたカーテンだったり、小さいが使いやすそうな可愛いポットだったり、ふわふわとした綺麗なベッドだったり。部屋にはふんわりとした甘い香りが常に漂い、まるでおとぎ話のお姫様が住んでいるような部屋へと変貌した。
「そうですよね! わたしも、その子が一番お気に入りなんです!」
嬉々とした顔で楽しげに語るアリスは、両手を広げて微笑む。
桃香さんの話によると、買い物を巡っていた中でアリスが唯一自分から欲しがったものが、そのぬいぐるみだったという。ぬいぐるみの一つや二つ、九つでも十でも何でも今のアリスなら買うことが出来た。けれどアリスが欲しがったのはその一つだけ。そのぬいぐるみは大切な宝物として、ベッドの脇にキチンと座らされている。
「毛がふわふわしてるし、目はクリクリして可愛いし、大好きなんです! …………それにやっぱり、『白兎』だからっていうことも、あります」
ふとアリスは遠い目をして空を見つめた。ぬいぐるみを拾い上げ、愛おしそうに両手で抱きかかえる。そして頬を緩ませ気恥ずかしそうな顔になった。
「えへへ、やっぱり駄目ですねー。皆のことが忘れられない。このぬいぐるみ抱いてると、いつも昔の事思い出しちゃうんですよ。あんなに毎日辛かったのに、それでも忘れられない」
「…………そういうもんだよ。むしろ、それで良いと思うな。今も未来も大切だけど、過去だって忘れる事は出来ないもの」
私がそう言うとアリスは「そうですか?」と笑い、それからまたぬいぐるみを抱きしめた。
「でもわたし、今皆さんといる時だって凄く幸せです! 今を生きてるこの瞬間も、ずっと忘れたくない大切な思い出なんですよ」
えへへ、と微笑むアリスに、私も笑いかけた。
殺人犯になってから失う物はたくさんあった。大切な物がどんどん手から滑り落ちるように零れていって、二度と取り戻すことは出来ない。何度も泣いたし、ストレスの所為で眠れない日が続いた。けれど今、得る物もまたたくさんあったと知った。大切な人が出来、楽しい思い出が増えた。
失った物と得た物は同じくらいたくさんあったけれど、その全てが悪かったとも言えるし良かったとも言える。
「……私も、今みたいな毎日が幸せだと思ってるよ。死ぬまでずっと皆のことは忘れたくない」
そう言った私に、アリスは無邪気な笑顔で頷いた。私もただ、アリスに笑いかける。
私の言ったその台詞は、どうせすぐ果たされることになってしまうだろうと思いつつ。
「もうすぐ夏休みだね! また今年もたくさん遊びたいな! 海とか山とかプールとかお化け屋敷とか…………」
机にぐてーっと伸びたように座り藍川はニマニマと笑う。私は向かいの机の椅子に逆向きに腰掛けながら藍川の机に肘を付いてそれを見ていた。
夏休みまで残り数日。学校中が、近付く長期休みに浮かれ足立っていた。
「宿題は?」「楽しみだねー」「おい」
補習受ける事になるよ? と言うと、藍川は喉を詰まらせたような顔で私を見つめる。恨みがましそうに見上げ「そんなのどうだっていいんだよぅ」「いやいや、よくないから」そんな会話をして互いに笑った。
藍川のサラサラとした黒髪が日の光に照らされて艶やかに光る。藍川はそんな日差しに暑そうに目を細めていたが、日光は容赦なく私達を照らす。握り締めている手は暑さに汗ばみ、伸びた腕はスラリと細い。
何気なく藍川の髪に触れる。と、ピクリと藍川の肩が跳ね、上目がちな目が私の顔を不思議そうに見つめた。
「あ、ごめん。嫌だった?」
「い、いや。別にいいよ?」
そう言って藍川は机にペタリと顔を付け、窓の方に視線を向ける。私からその表情は見えなくなったが、了承を得たので折角だから触ってみようと髪に手を伸ばした。
「……………………」
一本一本の髪の毛は細く、撫でると指からするりと抜けていく。サラサラフワフワとした髪は撫でていて気持ちが良く、思わず何度も梳いて撫でる。
「気持ちいー」
思わずそう呟きながらフフッと含み笑いが漏れた。藍川は一言も喋らず動かない。髪の間から覗く耳に軽く触れると、少し熱を持っていた。
「去年の夏は色々あったよね」
私が囁くようにそう言うと、藍川がモゾリと動き、小さな頷きで返事をした。それに微笑み私は続ける。
「佐々木さんに会ったり、海星くんと海月ちゃんに会ったり、茜と一宮と海行ったり宿題したり。ああ、あと夜の学校行ったり。棺先生の反応面白かったね」
思わずその時の先生の顔を思い出す。今にも泣き出しそうな、いつもの飄々とした態度が吹っ飛んでしまったような態度が脳裏に浮かぶ。肩を揺らして笑うと、藍川も笑った。
「本当…………色々ね」
夏に限った話じゃない。去年は一年間、本当にたくさんの出来事があった。人生の中で一番充実していた年と言っても過言ではない。
本当に楽しかった。だから、もういいんだ。
「今年の夏も、楽しくなるといいね」
唐突に、藍川がそう呟いた。
相変わらず顔はそっぽを向いたままだったけれど、その言葉だけ、藍川の声がしっかりしていたように感じた。
一瞬言葉が出なかった。コクリと唾を飲み込み、喉に詰まった感情ごと飲み下す。
「…………うん」
藍川に気付かれないように、机の下に置いていた左手をきつく握る。泣き出しそうな声を必死に押さえる。
グッと目を細めて教室を見渡すと、そこではいつもと変わらない光景があった。
皆が友達と喋ったり、本を読んでいたり、昼寝をしていたり、思いのままの行動を取っている。ガヤガヤと談笑で賑わう教室内に、佳奈美はいない。
もしも佳奈美が私を許さないとしたら、必ず私を殺すだろう。
復讐の為に私を殺そうとする。それは、中学生の頃の私と同じだ。
だから、私はそれを受け止めよう。佳奈美の気持ちを受け止めよう。
だって私は、もう、
――――誠を虐め殺した子達と同じになってしまったのだから。




