第64話 誰一人として
「がっ、あ゛、ああぁぁああぁああああぁああっ!!」
獣の咆哮のような絶叫が耳元で聞こえた。同時に、何かが弾かれたように飛び出し、物凄い勢いで駆ける。
哀歌がふわりと倒れ、その両手が天を仰ぐ。
その瞬間だった。
ガシャリとフェンスにひながぶつかり、そのまま自分の手を精一杯に伸ばす。所々切れたフェンスの金網が腕の肉に引っ掛かろうが、構わず肉と皮と散らしてフェンスを駆けあがる。
大きく軋んだ音を立ててフェンスを上ったひなは、必死な形相で哀歌の空に浮かぶ手を掴んだ。
その瞬間、元から古かったのか、二人分の重さにフェンスが大きく歪み、ひな諸共空へ投げ出そうと傾く。
「ああぁあぁああぁあ!」
絶叫と共にひなの右手に力が籠もる。左足がコンクリートの床に叩きつけられ、ザリザリと肌を床で擦りながら滑る。けれど靴の爪先が角に引っ掛かり、滑りを一旦止めた。
そして、ひなが再度絶叫する。血走った目で哀歌の手を握り締め、そのまま無理矢理に自分の体を後ろへ傾けた。
当然、哀歌もひなに手を握られているわけだからそれに釣られるように引きずられることになり。
唖然とした顔の哀歌は、ひなによって屋上へ引き上げられ、そのまま床へと叩きつけられた。
「ぶっ!」
顔面から床に強打した哀歌は顔を押さえてジタバタと足を落ち着かせない。
それを見届けたひなは目から涙をボロボロと零しながら立ちつくし、引き攣った顔でその場に仰向けに倒れ込んでしまった。
「……………………」
「……………………」
あっという間の出来事だった。私と紫乃ちゃんが何かを言う隙も与えず、私達は顔を見合わせてポカンと口を開けていた。
「……………………、っ、哀歌! ひな!」
「あっ、せ、先輩!!」
ただし私達もすぐ我に返り、哀歌とひなの傍へと駆け寄る。
ひなが顔を押さえていた手を離し、潤んだ目で私達を見上げた。叩きつけられた衝撃によるものだろう、顔は真っ赤になり、鼻からは一筋鼻血が垂れている。痛みに泣きそうな目のまま、「痛い」と一言呟いた。
一方のひなは泣きながら仰向けで空を見上げていたが、ガバリと起き上がって首を振る。何度も何度も、酔ってしまいそうなくらい。そして同じく倒れている哀歌に視線を送り、ゆっくりと起き上がって哀歌の傍らに座り込む。
哀歌はそんなひなに気付き、気不味そうにしながらも上半身を起こした。
私と紫乃ちゃんは二人から一歩引き、固唾を飲んで二人の状況を見守る。
「哀歌」
「……はい」
静かに名前を呼ぶひなと、それに静かに頷く哀歌。
ひながスッと息を飲み、キツイ眼差しで哀歌を睨んだ。そして、
「ばかぁっ!」
パァンと良い音を鳴らし、強烈な平手を哀歌の頬に叩き込んだ。
哀歌はそれを受け入れていたのか、痛みに顔を顰めながらも何も言わない。哀歌の胸にひながドンドンと拳を何度も打ちつける。その度に、目からはボロボロと涙を零す。
「馬鹿っ、馬鹿っ、馬鹿野郎! 何で死のうとするのよ、何でわたしに何も言ってくれないのよ!」
私が同じようなことをさっき言った時、哀歌は激昂した。今もまた、哀歌は瞳を曇らせてひなの言動を見つめているだけだった。
それでも何で、どうして、同じ言葉を何回も繰り返すひなに、哀歌が目を細めて言い放つ。
「でも、私が死んだところで、皆どうせ笑うだけでしょ?」
その口調は自虐的で、その表情も、悲しげに歪んだ笑顔だった。
哀歌の台詞に言葉が詰まり、呆然とその顔を見つめるひなに、哀歌は続ける。
「だってそうでしょう? 私が死んでも親は悲しまないだろうし、クラスメートは喜ぶよ。あの気持ち悪い奴がいなくなった……って。悲しむ人だっていないでしょう?」
そこまで言ってから哀歌は鼻から垂れる血を手で拭って立ち上がる。妙に晴々とした表情で明後日の方向を見つめるが、その心境が穏やかでない事は分かった。
「あーあ! もういいよ、もうどうでもいい。私が死のうが皆笑っていれるんだから、私がいなくなってもその人達の人生何にも変わらないんだから。だから、ねえ? もういいでしょ?」
クルリと哀歌が私達に顔を向ける。涙を零しながらも、晴れやかな表情で。明るい太陽の日差しを浴びながら、哀歌は明るく言い切った。
「もう私、死んでもいいよね!」
「いいわけないでしょ馬鹿!!」
ひなの怒りのこもった叫びが屋上に響く。哀歌は少し驚いた様子でひなを見つめていたが、静かに「どうして」と言った。
ひなが立ち上がり、哀歌の胸倉を掴む。そして叫び出した。
「哀歌が死んだら皆喜ぶだとか! 悲しむ人は誰もいないとか! そんなのどうでもいいんだよ!! 例え全世界の人が哀歌を嫌おうが死んでも喜ぶとしても! それが、死んでいい理由にはならないのよ! 人の事はどうだっていいのよ! あなた自身、哀歌自身が人生を謳歌すればいいじゃない!」
ガクガクと脳震盪を起こすんじゃないかと思う程に揺すられても、哀歌はわけが分からないと言った風にひなを見つめていた。泣きながらそう叫んでいたひなの手の力が急に抜ける。哀歌にもたれるように立ちつくし、震える声で続けた。
「周りから一切好かれていない人でも、嫌われてても、憎まれてても。それでも……それでも、死ねばいい人間なんて誰一人としていないのよ!」
それは小さい頃などに、よく耳にする言葉だった。『死んだ方が良い人間なんていない』。その言葉は偽善だの嘘だのと散々貶されるけれども。その言葉を信じている人だっているんだ。今の、ひなのように。
その言葉は、私の耳に痛かった。それって、つまり、その言葉は――――
哀歌は黙って、泣き続けるひなに抱きしめられていたけれど、恐る恐る両手を伸ばし、ひなの背中に回してしがみ付く。
「そんなの嘘に決まってるでしょ」
そう言って笑うが、その声は震えていて。背を抱く手がギュッと握られて。乾いたコンクリートの床にポタポタと涙の雫が滴り落ち、そこの色だけを黒くする。
「…………でも、ありがとう」
しばらく二人は抱き合って泣き続けていた。泣き崩れてへたり込んでも、二人はお互いを抱きしめる手を緩めなかった。
屋上から聞こえる声と音に教師が駆けつけてくるのは、もう少し後の事だ。
「――――すみませんでした。はい、それでは失礼します」
そう言って一礼をし、私達は指導室を出て行く。ガラガラとやけにうるさい音を立てる扉を閉め、ホッと息を吐いた。
あの後見つかった私達は、屋上に勝手に入った事とフェンスを破壊した事を怒られた。哀歌の自殺未遂の件については、ひなが上手く説明してくれたのかバレ無かったようで。指導の先生の後ろに立っていたカウンセラーの由美先生だけは、私達の様子を見て状況を把握したようだったが。それでも哀歌のすっきりとした顔を見て、上手く隠してくれた。
「いやー、先生怖かったですね。まるで鬼の形相! って感じ?」
人差し指を頭上に掲げ、鬼をまねる紫乃ちゃんはケラケラと笑う。全く反省はしていないようだったが、それもまあいいか。
「…………ごめんね、皆。迷惑かけちゃって」
ポツリと哀歌が呟いた。眉を下げて申し訳なさそうな笑顔を作るけど、それに紫乃ちゃんが答える。
「何が迷惑ですか? 私達何にも迷惑なんてかけられてませんよ?」
「え?」
キョトンとする哀歌に、紫乃ちゃんが体を傾けて哀歌の前に立つ。三つ編みをゆらりと揺らし、ニコニコと笑った。
ぐぅ、と小さな音がした。ふと哀歌を見つめれば、哀歌は一瞬目をぱちぱちと瞬かせた後に顔を真っ赤にしてお腹を押さえた。
ひながそれを見て、目を細めて笑い、言った。
「お腹空いたね! 帰りにファミレス寄らない?」
「それ先輩の奢りですかぁ? だったらカレー食べたいです!」
「じゃあ私はハンバーグが良いな。勿論ひなの奢りね」
そう笑う私と紫乃ちゃんに、ひなが「何だと!」と叫ぶが聞こえないフリをする。その後、しょうがないなぁと溜息を付き、ニヤリと笑う。
「でも、わたしより先に着いたらだよ! 駆けっこだ!」
そんな小学生みたいな、という私の台詞も耳に届かずひなは走り出す。紫乃ちゃんは面白がって後を追いかける。ポカンと口を開けて立っている哀歌に振り向き、
「ほら哀歌、早くしないと置いて行かれるよ!」
「……え、あ」
哀歌の手を引っ張り、私達も駆け出す。
一瞬躊躇してもつれかけた哀歌だったけれど、すぐに私の後ろを付いてくる。
ポツリと哀歌が言葉を漏らした。私は聞こえなかったフリをして無言で走った。
哀歌が私の手をキュッと握り返す。顔は見えないけれど、きっと微笑んでいるんだろうと思った。
哀歌の呟いた、『ありがとう』という言葉は、私の背中にしっかりと届いた。




