第63話 屋上から飛び降りて
「どうしてあんな事をしたんだっ!」
ビリビリと張り詰めた空気と、低く腹に響く怒声が廊下に響く。
近くを通っていた生徒達が何事かと興味津々の様子で、怒声が聞こえてくる職員室の扉の傍で聞き耳を立てているが、迫力のある怒鳴り声にビクリと震えている。先生達が野次馬状態の生徒に教室に戻るよう伝えるが、生徒達はそれを聞き流すだけで戻ろうとはしない。と、そんな私も野次馬のように職員室を覗いているうちの一人なのだが。
職員室の薄く開いた扉の隙間からは中の様子が窺え、椅子に座って向き合っている人物の顔を見る事が出来た。
一人は一年の学年主任の髭が濃く、生徒から秘かに『クマ』と言うあだ名を付けられている先生。声の音量とその体格の良さから、迫力満点の目を付けられてはいけない教師として有名だ。
一人はまだ入学して来たばかりの一年生の女子。黒い三つ編みの彼女は、言うまでもなく紫乃ちゃんだ。彼女は特に有名でも無い普通の生徒だったのだが、つい先程、学校中から注目を浴びて有名になった小だ。
二人とも、有名とは言えど悪い意味でなのだが。
「まだ入学して来たばかりだろう!? しかも、先輩に手を上げるだなんてどう言う神経をしてるんだ! どんな理由があったところで、暴力を振るうのはいけないと知っているだろう! その上、何なんだあのバットは! 釘を刺しておくなんて、危険にも程があるだろう!!」
「あー、あー、あー。すみませんねぇ、イライラしちゃったもので……つい」
「『つい』じゃあないだろうがっ!!」
あまりにうるさすぎる声の音量と迫力に、ビクビクしつつ耳を両手で塞ぐ。それでも二人の声はハッキリと耳に届き、真正面から浴びせられる声に脅える様子を微塵も見せない紫乃ちゃんの表情も鮮明だ。その表情に神経を逆撫でされるのか、先生はその事を指摘する。
「その顔は何だ! 反省してないだろ! 一体自分がどれほどの事をやらかしたのか分かっているのか!? 分かってないだろ!!」
「いえ、十分に分かってますよ。先輩達を釘バットで襲ってトラウマ植え付けたってだけでしょ?」
「そんな簡単に言って終わる事じゃねえぞ!!」
顔を真っ赤にさせて怒る先生が自分の机を叩き、机が軋む重い音がした。けれど紫乃ちゃんは、面倒だなあ、とでも言いたげな顔で溜息を付き、なおかつニヘラッと口を緩ませて目を細め、ニヒルに微笑んだ。
「別に良いじゃないですか。だって私、あの人達に一切怪我は負わせてないんですから」
あの時、紫乃ちゃんは絶叫を上げる三人に釘バットを振り下ろした。そして、鈍く重い音と共に――――
釘バットは、柔道場の壁をめり込むように殴った。
「いぃっ、ぇ? あっ…………」
ガクガクと足を震わせ、滂沱の涙を流す三人の頭スレスレを狙ったバットは、狙いを逸らすこと無く壁に叩きつけられた。誰にも怪我を負わせずに。
「怖い? 怖いでしょう?」
シンと静まり返った外で、紫乃ちゃんの声が良く響く。
紫乃ちゃんが三人の頭の横の壁を蹴り、「ひっ」三人は反応良く声を上げた。
「哀歌先輩はこれ以上に怖かったんですよ? 一年だからとか、入学して来たばかりとか、先輩とはまだ出会ったばかりで交流も殆ど無いとか……そんなの一切関係無いんです。同じ部の、仲間として先輩として見てる。だから、私の先輩を傷付けるなんて、初対面の人相手でも許せないんですよ」
と、遠くの方からパタパタと足音が聞こえて来た。先生達がやって来たのだろう。紫乃ちゃんもそれを覚悟しているのか、遠い目をして頭を振る。
そして目を細めて三人を見下ろす。小鹿のように震えて脅える三人に、腹の底から出したような低く迫力のある声で呟いた。
「ふざけるなよ」
その言葉で、堰を切ったよう嗚咽する三人の前で紫乃ちゃんは踵を返す。そして、ようやくやって来た先生達に笑顔を見せ、そのまま職員室へと連れて行かれた。
放課後、図書室に入ると誰もいない。ひなも哀歌も紫乃ちゃんも、誰も。
まだホームルームが終わってないのかな。もうしばらく待ってみよう。そう考え、本でも読むかと棚に向きかけた時、扉がガラリと開く音がした。
「…………あ、凪、さん」
「やあ哀歌」
入って来た哀歌は、私を見て驚いたように目を見開く。そしてすぐ目を逸らし、その光彩を濁らせた。
訝しげに思い、「哀歌……?」と手を伸ばしたものの、ビクリと脅えた目を向けられ、手を止める。
今日の哀歌は何かがおかしかった。
「っ、きょ、今日はもう……帰りますねっ」
「え、哀歌!? ちょっと待ってよ!」
くるりと踵を返しかけた哀歌の左腕を咄嗟に掴み、ぐいっと引っ張る。
「! やめ……っ、やめてください!」
そう叫びながら、哀歌は必死に体を揺すり、腕を引っ張って私の拘束から逃れようとする。
初めて見る哀歌の切羽詰まった表情と激しい抵抗に驚きながらも、この手は離してはいけないような気がして、更に強く握り締める。哀歌が手を引っ張り、私の掴んだ手が左手首に触れた瞬間、雷に撃たれたかのように哀歌が跳ね上がり、表情を歪めた。痛みを噛み締めているかのように。
…………まさか。
「あっ!」
哀歌の左手を覆っている黒いセーターを肘まで捲る。中に着ているしっかりとボタンを止めたワイシャツのボタンを取り、肌を見る事が出来るように服を捲る。
「……………………哀歌」
乾いた喉ではやっとのことで名前を呼ぶだけしか出来なかった。
哀歌の細く白い左手首には、幾重にも渡って赤い一本線が引かれていた。
薄い物から深い物まで、ぷつぷつとした血の玉が線の赤い線の上で固まったり、白い肉がはみ出している物なんかも。一番上の線は最近付けたばかりなのか、まだ僅かに鮮血が滲んでいた。
「……どういうことなの? ねえ、何してんの」
私の口から吐き出される言葉に、哀歌は黙って下を向いているだけだった。混乱する思考は、思った事を直球で口から吐き出してしまう。
「こんな事してるってどうして言ってくれなかったの。こんなに悩んでるなら相談してよ。どうしてこんなになるまで我慢してたのさ、ねえ!!」
「私だって分かんないよ!!」
絞り出したような悲痛な叫びが図書室に響く。それは私が初めて聞く、哀歌の叫び声だった。
驚く私の前で、哀歌は一瞬ハッと我に返ったようになるが、自虐的な笑みを浮かべ、目尻に涙を溜めて叫ぶ。
「言えるわけないでしょ? 言ったところでどうにもなるわけないでしょ!? 虐めが一旦止んだところで、それで終わると思うの!? 家にいても辛いし、学校にいても辛いしっ、もう私どうしていいか分かんない! 分かんないよ!!」
そして私の手を乱暴に振り払い、そのまま鞄を放り捨てて出て行ってしまう。慌てて追いかけ、彼女の名前を叫んでも廊下を走り続けて行く。周囲の生徒達が訝しげにこちらを眺めてくるが構ってなんかいられない。私も走り出そうとした時、傍らから、
「あれ、どうしたの? 凪」
「先輩、何かあったんですか?」
ひなと紫乃ちゃんが不思議そうに私を見つめていた。どう説明したものか迷いつつ、取りあえず哀歌が駆けて行った廊下の先を指差し、「哀歌が!」と叫ぶ。
二人とも瞬時に状況を把握したようで、顔を引き締める。ひながふと何かを思い出したように目を細め、サッと顔を青ざめて走り出した。どこかから、廊下を走るなと言う教師の怒鳴り声が聞こえたが無視をする。
「ひな? どうしたの?」
後ろを追いかけながら尋ねると、全力疾走のひなはそのまま角を曲がり、廊下の端の階段を駆け上る。下がるんじゃなくて、上る。その行動に私と紫乃ちゃんの顔も青ざめたのが分かった。
ひなが叫ぶ。
「こっちの階段、屋上に繋がってるの!」
階段を屋上の前まで駆け上がり、扉に目を向け気が付いた。
屋上へ繋がる鉄扉には鍵がかかり、屋上へは入れないはずだった。けれど校則で禁止されていると人間どうしても行ってみたくなるもので、鍵穴に針金が刺してあったりしたのを見た事がある。しかし今は鍵穴自体、ドアノブが誰かに壊されて鍵としての役目を果たしていない。数ヶ月前に不良が壊したと生徒間で噂になっていた。……つまり、今の屋上には誰でも自由に行き来出来るということになる。
そしてその鉄扉は現在、ほんの少し隙間が開いていた。屋上に誰かがいるんだ。
「哀歌!」
ひなが叫び、勢い良く扉を押し開ける。そしてすぐに息を飲み立ち止まったので、後ろから走り出そうとしていた私がぶつかり、私の背に紫乃ちゃんがぶつかった。
痛む鼻を押さえながら固まるひなの背を退き、目の前の光景に顔を上げた。
静かに佇む哀歌が屋上の手すりを乗り越え、こちらに目を向けていた。
哀歌が一歩でも踏み出せばバランスを崩し、あっさりと落ちてしまうだろう。不運な事に、今日は風も強い。哀歌の黒い髪が風にはためく。
「…………先輩、こっち、来て下さいよ。そこ危ないですよ」
紫乃ちゃんが静かに言うが、哀歌は同じように静かな目で私達を見つめていた。手すりを握る手は弱々しく、今にも離れそうだ。
哀歌の姿は校舎の方から見えるだろう。けれど、今はまだ誰も気づいていないようで、悲鳴など一切聞こえない。グラウンドの方から野球部の野太い声が上がっているだけだ。
「こっちおいでよ、哀歌。ね?」
ひなが震える声で言い、数歩前に歩み出す。けれど哀歌との距離が三メートル程になったあたりで、哀歌が一言「来ないで」と呟く。いつも挙動不審に震える声は今、静まった水面のように揺らぐことは無かった。
ひなが立ち止まったのを見届けた哀歌は悲しげな顔で笑い、私を見て言った。
「凪、さっきはごめんね。思わずムキになっちゃった。でももう大丈夫、私、もういいんだ」
言葉が詰まって何も言えない。ただ目を見開いて立つ私の顔は一体、どうなっているのだろうか。
哀歌は次に紫乃ちゃんを見つめ、微笑む。
「紫乃ちゃん、私の為に色々してくれてありがとう。凄く嬉しかった。短い間だったけど、ありがとう」
紫乃ちゃんは何とも言い難い表情で立ち尽くす。目を細め、何か言いたげに口を開くが、言葉は出て来なかった。
そして最後にひなを見つめる。ひなは目に今にも零れんばかりに涙を溜め、震える手で胸を掴んでいた。
「ひな、今までありがとう。私の友達になってくれてありがとう。たくさん助けて貰ったし、感謝してもし尽くせない。ひなの明るい性格に、私、何度も救われたんだよ。…………でも、でもね、私はそれでも駄目だったみたい。弱くてごめんね、迷惑かけてごめんね。もう、ひなに頼る事も迷惑をかけることもしないから、安心して」
哀歌がスッと息を吐き、今まで見たことのない、輝いた満面の笑みを浮かべる。
「皆、今までありがとう。大好きだよ」
そして一番強い風が吹き、哀歌の髪が風に舞う。
「さようなら」
哀歌の手が、手すりから離れた。
哀歌が倒れて行く様子がやけにゆっくり見え、紫乃ちゃんの驚く顔と、ひなが口を開く様子が見える。
哀歌の顔が、倒れて行く姿が、その言葉が。
やけに幼馴染のあの子と重なった。
「――――ま、こ」
私の伸ばした手は、あの子にも、哀歌にも、届かない。




