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第59話 藍川と愛ちゃん

「愛ちゃーん! 愛ちゃあぁーん! いたら返事してぇ――――!」

 大声を張り上げて探すことに最初は躊躇いと気恥ずかしさがあったが、そんなものすぐに吹っ飛んだ。近所迷惑になるであろう大きな声を張り上げて辺りを走る。

 最初は小雨程度だった雨は、いつの間にかざあざあと本降りになっていた。風も強まり、さっきコンビニで買ったビニール傘なんて殆ど使い物にならない。制服がずぶ濡れで体が冷えて来た。

 愛ちゃんはどこにも見当たらない。彼女が行きそうな場所でも分かっていたらいいものの、見当さえ付いていない。だから闇雲に探すしかない。

「…………どこ行っちゃったの」

 私が海を見つけたなんて言わなければよかったのかもしれない。もし言っていなければ、愛ちゃんは心配ではあったものの、外に出て探そうとなんてしなかったはずだ。

 せめて雨が降っていなければよかったのに。あの子は傘を持っていない。雨に濡れて風邪を引く事も勿論駄目だが、それ以上に――――

「あっ!」

 雨で濡れた草で滑り、土の地面に前のめりに倒れてしまう。固い地面に勢い良く当たった痛み。雨でぬるっとした泥が制服にべったりと付く。その上今の弾みでストッキングが破れてしまった、どこかにぶつけたのか薄く長い傷が出来て、ぷつぷつと小さな血の玉が肌に浮かんでいる。じわじわと痛い。

 立ち上がって再度見下ろした制服は、もはや明日着て行くことさえ叶わないほどに汚れていた。洗濯が面倒だと思いながらも、愛ちゃんを探すことがまず第一の優先事項だと思い直す。

 和彦さんと奈央子さんは私とは正反対の方向へと愛ちゃんを探しに行っていた。幾重にも入り組んだこの辺りを探すには、私一人では手が足りない。

 だけど、棺先生は今日は残業だと言っていた。佐々木さんの家には冬音さんがちょっと相談に行っていた。アリスは桃香さんに勉強を習いに行っている。茜や一宮は家が遠い。……それらを考えると、一緒に探してくれそうな人はこの近くに一人しかいなかった。

 だけど、大丈夫だろうか。

「…………よし!」

 迷っていても仕方が無い。背に腹は代えられないんだから。

 億劫な体に鞭を打って走りだす。





 アパートの五階までは階段を駆け上がって行った。こんな時に限ってエレベーターが十階に上昇中だったんだ、走って行った方が早い気がした。息を切らしながら階段を上がって廊下を駆けている最中、幾人もの人が私をジロジロ見ていた。そりゃあ、泥だらけ傷だらけの高校生が慌てながら走っていたら不審にもなるだろう。そんな怪訝な視線を期にしない事にして、目的の部屋の前まで辿り着く。

 玄関前のチャイムを押す。心臓が早鐘を打ち、息も荒く、焦る私の心境とは裏腹に、ピンポーンという呑気な音が家の中から聞こえた。そして、億劫そうにゆっくりと扉が開く。

「はい…………って、え、 凪ちゃん? どうしたのその格好!?」

「そんなに酷いかなあ、私」

 全身を映す鏡でも無いと全体図は分からない。まあ、服だけでもかなり泥だらけになっているんだから、相当なものだろう。

 私の姿をギョッとした目で見つめていた藍川は、まだ私と同じように制服姿だった。ベッドの中で暴れでもしていたのか、髪はぐしゃぐしゃで制服の皺も酷かった。

「え、ちょ、どうしたの!? 着替えなきゃ……」

「別に良いから。それより聞いて!」

 慌てながら部屋に戻って着替えを取りに行こうとした藍川を制止し、一度唾を飲み込んでから告げる。

「さっき藍川も会った子いるでしょ? 愛ちゃん。あの子がいなくなっちゃったの」

 藍川はその言葉を聞いて少し目を細める。決して笑顔とは言えない悲痛な顔で、私を見つめた。

「それで、凪ちゃんがあの子を探してるの?」

「うん。奈央子さん……あの女の人も、男の人も。この雨だし、もう真っ暗だし、危な」辺りが一瞬明るくなり、轟音が轟いた。「うひゃっ!」「っ!」

 遂に雷まで鳴りだした。しかも近い。藍川が豪雨の降る空を見上げ、眉を顰める。

「僕はいかない」

「……何で」

 首を横に振り、俯きがちに呟く。

「僕はあの子のことを何も知らない、ついさっき初めて会ったばかりの子だ。そんな子の為にこの雷の中を捜し回るなんてごめんだね」

 冷たく突き放すような言葉。聞いているうちに段々と顔が熱くなり、拳を握り締めた。

「――――っ、馬鹿じゃないの!?」

 玄関の扉を思いっ切り拳で叩く。激しい音と痛みが走るが、それよりも怒りの方が勝っていた。音にゆっくりと顔を上げた藍川の顔は酷く暗くて、それがよけい神経を逆撫でる。

 近所迷惑だとかそんな事はもうどうでもいい。感情に任せて藍川を罵った。

「この雨と雷だからこそ、危険だって言ってるんだよ! あんな小さな子が見つかって無いんだよ? もし増水してた川に落ちてたら? 足を滑らせて高い所から落ちたら? ねえ、どうするの? それに、愛ちゃんとは関係無い? 何言ってるの!? 藍川の妹でしょ!! 雷が怖いとか初対面だとかどうでも――――」


「凪ちゃんこそ何も関係ないだろ!? 黙っててよ!!」


 激しい怒りが密集されたようなその怒鳴り声にビクッと動きを止めた私を見て、藍川は我に返り悲しそうな顔になる。

「…………もう、放っておいてくれよ……」

 そう震える声で呟き、片手で顔を覆う。ふるふると肩を震わせるその様子を見ながら、ただ私は雨に濡れたまま立っていた。

 藍川の気持ちの全てが分かるわけじゃない。心底辛いことを強要しているんだってことも分かってる。

 でも。

「それでもさ」

 意図せず出た低く静かな私の声に、目を赤くさせ細めた藍川が私を見つめる。その目を見つめ返しながら、その台詞を吐いた。

「お兄ちゃんなんだよ」

 今まで会ったことが無くても。父親の事が大嫌いでも。その娘であるあの子の事が嫌いでも。血が半分しか繋がっていなくても。

 それでも、藍川はあの子のお兄ちゃんなんだ。

「……行こうよ」

 そう最後に囁きながら藍川の手を掴む。雨で冷え切った私の手より遥かに暖かいその手は、

「……………………」

 無言で静かに、私の手を握り返した。





「愛ちゃん! 愛ちゃーん!」

 この雷と豪雨の中、傘は意味が無いだろうと持って来なかった。声の殆どを騒音に掻き消されるのを知っていても、更に喉が潰れそうになるまで私は声を張り上げる。

 私の横で、真剣な表情で走りながらも藍川は無言だった。愛ちゃんを探そうとはしていても、名前を呼ぼうとはしない。それを見て、ふと思う事があった。藍川は、あの子の名前が嫌いなんじゃないだろうか、と。

 あの子の名前である『愛』なんて、藍川が幼い頃に一番欲しかったはずだ。両親に見捨てられ、いつも寂しい生活の中、愛して欲しいと願った事なんて何回もあるだろう。それなのに、両親から愛され十分な愛情を受けている義妹あのこの名前がそれだなんて。名付けた父親のことも、そして名付けられた愛ちゃんのことも、藍川は許せないんだろう。

「次行こうか」

 そう言って藍川の手を握る。


 公園にも、海の方にも、林の方にも、愛ちゃんは見つからなかった。愛ちゃんの名前を呼びながら探す私と、無言で走りまわって探す藍川。学校の手前で私達は奈央子さんと和彦さんに会った。

 和彦さんは藍川を見て一瞬気まずそうな顔をし、藍川も同様に目を背ける。

「あ、あの……いましたか?」

 仕方が無いので私が尋ねてみる。奈央子さんが切羽詰まったような表情で勢い良く首を横に振り、ボロボロと大粒の涙を零した。

「それが、どこにもいないのよ! まだ引っ越して来たばかりだしあの子の好きな場所なんて分からないし海の行きそうな所も分からないしっ! まさか……誘拐とかされてないわよね!? ああ、どうしましょう!!」

 そう嘆きながら奈央子さんはその場にへたり込む。服が泥で汚れるのも気にせず、泣きながら。

 『誘拐』という言葉を聞いた時、私と藍川は目を合わせて少し焦った表情になる。この間の殺人の時のことを思い出したから。最近、幼児を誘拐し売買する事件が増えていると。

「そんなことないじゃないさ! 心配しすぎだよ」

「そんな悠長なことが言ってられる!? もしそうだったらどうするのよ!?」

 ヒステリックに旦那に怒る奈央子さんを見ながら、和彦さんは少し引き攣った顔をする。

「私、もう少し探してきます!」

 そう言って二人に背を向け、走りだそうとした瞬間。

「あっ!」

「え!? 何!」

 藍川のハッとしたような声に驚き、足を止める。目を大きく見開いていた藍川は、思い出したように手を叩いた。

「そうだよ凪ちゃん、あそこって行って無かったよね?」

「どこ? それ」

 藍川は指をピッと差し、こう言った。

「工事現場!」





「これ入口ってどこかな」

 工事現場の周りは、泥や穴だらけの古びた青いシートのような物で覆われていた。叩きつける雨でボッボッと言う奇妙な音がシートから聞こえる。張り紙が貼ってあって、『危険! 立ち入り禁止!』と書いてあった。

 新しく建設される建物は大きなデパート。四方だけでも大分広いから、入口を探すだけでも一苦労だ……と思っていると。

「凪ちゃん凪ちゃん、ここ隙間開いてるよ。入れそう」

 藍川が探し当てたのは、シートとシートの間。上の方はしっかりと閉じられているものの、下の方に隙間がある。大人はギリギリで通れるか通れないかだけれど、子供なら余裕で通れそうな程の。その上、

「この端っこ、ちょっと泥付いてるよね……それに、地面に足跡が付いてる」

 シートの端に、まだドロドロとしている泥が。ぬかるんだ地面には小さな足跡が。まず間違いなく、子供がここに入って行った事が分かった。

 ここまで来たら地面にへばり付く事さえ抵抗が無い。這いつくばるようにしながら、私と藍川はその隙間から入って行く。



 カッと、すぐ隣にいる藍川の顔が青白く光る。直後、耳元で大太鼓を叩き散らしたかのように爆音が轟いた。

「キャ――――!!」

「うぎゃ――――!!」

「いやぁ――――!!」

 辺りに三人分の悲鳴が聞こえた。

「「……………………」」

 私と、藍川と、

「「ん!?」」

 誰!?

 よく耳を澄ましてみると、豪雨の中から微かに泣き声が聞こえていた。しゃくり上げるように泣いている。一瞬息を吸ってから、肺の空気を一気に吐き出す。

「愛ちゃあぁん!!」

「……………………だぁれぇぇ?」

 涙でくぐもった声が返事をした。

 弾かれるように声のした方向に走り出す。たくさんの重機の間を潜るように走る。雨で不安定な地面は足を踏み込むと滑りやすく、何度も転びかけた。それでも何とか辿り着いた先には、大きな穴が開いていた。穴を掘っている最中だったのか、穴の傍らにはユンボが静かに置かれている。

「愛ちゃん! 大丈夫!?」

 そう言いながら穴を覗く。そこに、愛ちゃんはいた。

「お姉ちゃん? お兄ちゃん?」

 涙でぐしゃぐしゃになった顔で私達のいる穴の縁を見上げながら、愛ちゃんが穴の底に座りこんでいる。抱え込まれた膝の上には見慣れた黒猫が座り、「にゃあ」と鳴き声を漏らした。

「あのね、海がね、穴の傍にいて、わたしが助けようとしたらね、滑って一緒に落ちちゃってね」

 しゃくり上げながらそこまで言い、愛ちゃんは再度声を上げて泣き出す。

 愛ちゃんが落ちた穴は、広く深い。愛ちゃん一人じゃ勿論ここまで届かないし、私が精一杯手を伸ばしても届くかどうか分からない。それでもやってみなければ何も始まらない。近くの大きな岩に左手をしがみつかせ、右手で愛ちゃんに手を伸ばす。

「愛ちゃん、捕まって!」

 ぐずりながらも愛ちゃんは立ち上がる。白いワンピースは雨でベットリ濡れ、泥だらけ傷だらけ。よくよく見てみれば、愛ちゃん自身も全身に擦り傷を負っているようだった。それでも海を脇に抱え、ジャンプを繰り返して私に手を伸ばす。ああ、届くどころか掠りさえしない。

「届かないよぉ……!」

 不安を顔に浮ばせ、ぼろぼろと泣き続ける愛ちゃん。何度も何度も繰り返しては失敗し、遂には穴の壁にもたれるようにぐったりとしてしまった。

 ただでさえこの雨の中ずっとここにいたんだ、体力ももう限界だろう。そんな焦りが私を急き立てたのか、それとも雨で濡れていたのが悪かったのか、はたまたそのどちらもか。

「あとちょっと! がんば……あっ」

 左手の指が滑る。岩の冷たく固い感触が指から離れ、更に私は穴に身を乗り出すような体制になっていた。当然、落ちる。

 ぐらりと体勢が前のめりになり、体を浮遊感が包む。穴の中の愛ちゃんの驚く顔がよく見え、そのポカンと開いた口が開いていくのも分かった。

 声が聞こえる。

「お姉ちゃん!」


「凪ちゃん!!」

 体が止まり、すぐに後ろの方向へと引きずり倒される。「ひゃっ!」地面にじかに尻もちを付き、スカートが濡れる。気持ち悪い……だけど、背中が何だか温かい。

「……っぶねー、間に合ったぁ」

 ちょっと口調の崩れた低い声で、心底ホッとした囁き声が耳元から聞こえた。どうやら、藍川が私を抱きこむように引っ張ってくれたようだ。地面に座り込む格好の藍川は、私を見てへらっと笑ってから立ちあがる。

「僕がやるよ。凪ちゃんは待ってて」

 そう言ってくしゃっと私の頭を撫でる。穴の縁へ行き、穴の下の愛ちゃんをじっと見つめる。私の所からも愛ちゃんの顔は見えていたが、藍川を見て愛ちゃんは少しホッとした表情になってこう言った。

「お兄ちゃん……?」

 喉を詰まらせたような顔で藍川が苦い顔をする。首を横に何度も振り、何か雑念を振り払うようにしてから手を伸ばす。だけどそれはさっきの私よりほんのちょっと先に伸びたぐらいで、愛ちゃんの手にはまだ届かない。

 藍川がもう一歩進もうかと足を踏み出した時、足元の泥が滑り、慌てて足を戻す。苦虫を噛み潰したみたいな顔で舌打ちをする藍川の手を、私は握る。

「! 凪ちゃん……」

「私が握ってるから。大丈夫! もっといけるよ」

 そんな私の言葉に藍川は微笑み、手を強く握り返しながらぐいっと体を穴に向ける。さっきより大分伸びた腕は、愛ちゃんの手を掠めた。

「もう少しだ、頑張れ!」

 藍川が愛ちゃんに叫ぶ。愛ちゃんは泣きそうな顔になりながらも、ピョンピョンとジャンプを続ける。

「お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん! ――――きゃあっ!」

 雷が鳴り、愛ちゃんが悲鳴をあげる。近くに落ちたようだ、激しい光と音の衝撃がここまで届いた。私でさえ体が震えたその雷だったが、

「…………大丈夫、僕がいるから!」

 雷が大の苦手なはずの藍川は悲鳴一つあげず、しっかりと愛ちゃんに手を伸ばしていた。

 藍川が限界まで手を伸ばし、息を吸う。そして、


「愛!」

 妹の名前を叫んだ。

 海が一声鳴き声を上げ、愛ちゃんも叫ぶ。

「お兄ちゃん!!」

 愛ちゃんの小さな手が、藍川の手に届く。





「愛! 愛!! よかった、無事で、本当によかった……!」

 愛ちゃんを家に帰す道端、必死に探していた和彦さん達に出会う。奈央子さんが泣きながら泥まみれになった愛ちゃんを抱きかかえ、愛ちゃんも泣きながらお母さんにしがみ付く。雨も気にせずわんわんと泣きながらも嬉しそうな笑顔を浮かべる二人を微笑ましく見ている私達に、和彦さんが目を向けた。

「…………伊織」

「…………何?」

 藍川の声はまだ少し冷たかったけれど、それでも少し刺々しさは無くなっていた。

 それに気が付いたのかどうかは分からないけれど、和彦さんは一歩下がり、深々と頭を下げる。驚く藍川にこう言った。

「本当にありがとう。愛が無事だったのは、お前のおかげだ。ありがとう」

 そして頭を上げた時の和彦さんの顔は、少しやつれていながらも、慈悲に満ちたようにに微笑んでいたそしてその顔は、本当に藍川と似ていた。

「……ねえ、お兄ちゃんはわたしのお兄ちゃんなんでしょ?」

 両親と出会えたことで安心したのか、愛ちゃんがそんな台詞を藍川に吐いた。愛ちゃんを抱きかかえていた奈央子さんも、和彦さんも、ギョッとした顔をする。正直その質問に今は触れたくなかったのだろう。だけど、藍川はフッと微笑みながら頷いた。

「そうだよ。僕は、君のお兄ちゃんだ」

 和彦さん達が今度は藍川に目を向ける。驚きと呆然の視線に気付かず、愛ちゃんは無邪気に尋ねる。

「じゃあ、何で一緒にお家住んで無いの? 家族は一緒のお家でわいわいするって、幼稚園の先生言ってたよ? 伊織お兄ちゃん、一緒にお家行こうよ」

「…………そうよ、伊織くん。私達と一緒に暮らしましょう? あなただって、私達の家族なんだもの」

 奈央子さんも少し戸惑いつつ、けれどしっかりと微笑みながら言った。和彦さんは神妙な顔で頷き、藍川を見つめる。三人の瞳が藍川に注がれる。

 藍川はじっと無言のまま立ちつくしていた。ざあざあと雨の降る悪天を見上げてから顔を戻し、切なげな笑顔を浮かべる。

「――――悪いけど、僕は今のアパートに住み続けるよ」

 えっ、と皆が驚く中、愛ちゃんが「何で?」と首を傾げる。藍川はそれに答える。

「まだ僕は高校も途中だし、いきなり生活を変えたら多少なりとも支障が出そうだから。急にそっちに行かせてもらっても、遠慮しちゃうし、皆も気を使うでしょ? ……それに今までずっと一人暮らしだったんだ、もう一人の方が気楽になっちゃったんだよ。少なくとも、高校の内はやめておく」

 そんな答えに愛ちゃんは何か言いたげそうだったけれども、その半開きの口から次に出た言葉は「ひくしゅっ!」というくしゃみだった。奈央子さんが少し慌てた様子で愛ちゃんの体をさする。

「これ以上外にいたら風邪引いちゃうわね。もう、帰りましょうか?」

 奈央子さんが少し残念そうに呟き、和彦さんも頷く。それから二人は数言小声で話し、奈央子さんが愛ちゃんを抱えたまま藍川に言った。

「遠慮なんて私達はいらないわ。私も愛も和彦さんも、いつだってあなたを待ってるから。いつだって来ていいからね」

「お兄ちゃん、またね!」

 そう言って二人は先に歩き出す。和彦さんは藍川を見下ろし、呟いた。

「伊織。俺はお前も、母さんも、愛してたし愛してるぞ」

「……浮気?」

 藍川がポツリと呟き返した言葉に、和彦さんはくくっと笑う。

「違う違う。奈央子のことも愛の事も、俺は愛してる。でも、お前を愛してなかったわけじゃない。――――いつだって待ってるからな」

 そう言ってくしゃりと藍川の頭を撫で、和彦さんは奈央子さん達の方向へと歩いて行く。

 私が隣に立ちつくす藍川の顔を覗きこもうとしていると、藍川が小さく呟いた。

「…………さんとは、認めてないけど」

「え?」

 聞き返そうとした時、藍川が息を吸い、大声で叫ぶ。

「と……っ、さん! またね!!」

 声に振り向いた和彦さんは、少し驚いた顔で藍川を見ていた。そして、嬉しそうに笑い、手を上げて「またな!」と叫び返した。



 三人が見えなくなるまで見送って、それから藍川は微笑む。

「帰ろうか」

 雷が鳴る。さっきよりは少し小さくなってきた音だけれど、それでもまだ強い。その音に体を震わせながらも、藍川は何故か嬉しそうに笑った。

 そして、

「雷の日も、悪いことばかりじゃないかもしれないね」

 とても嬉しそうな藍川の横顔を眺めながら、

 そうだねぇ、と微笑んだ。

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