第58話 藍川の家族
三月も中旬、私達が高校一年生である時期ももうすぐ終わりだ。三年生が卒業し、二年生と一年生だけとなった学校では、春休みへの高揚感と、新学期への期待感が高まる雰囲気が漂っていた。
まだほんのりと白くなる息を窓ガラスに吹きかけ、それをセーターの袖で擦る。そうやって、少し曇り空の窓の外を覗きながら茜が感慨深げに呟いた。
「あたし達ももう二年生になるんだね」
「一年間色々あったけど、終わってみればあっという間だったよな……てか三上、掃除サボんなよ」
放課後の掃除時間。教室の汚れを箒で掃く途中でそれを中断していた茜は、ちりとりでゴミを取っていた一宮の言葉に口を尖らせながらも「わかってるわよぉー」と言った。ぶつぶつと不満を吐きながらも箒を手に取り、
「箒掃除を放棄するー…………」なんて歌いだし、「「「……………………」」」私も藍川も一宮も何も言わず、「あれ、スルー?」と一人首を傾げていた。
教卓を雑巾で拭く藍川は苦笑しつつ頷く。
「本当だね。一年間色々あったよ、ありすぎたぐらいに。ねえ凪ちゃん?」
そう言って私の方に目を向ける、意味ありげな口調と共に。
黒板を消していた黒板消しを一旦置き、「そうだね」と苦笑する。そんな藍川と私のやり取りに不思議そうにしつつも、一宮はせっせとゴミを取っていた。
黒板に付いたチョークの粉を黒板消しで消していく。パラパラと下の出っ張りに落ちて溜まる粉を雑巾で拭き取る。チョークの粉は濡れ雑巾でも取れにくい。ぼろぼろと零れそうになってしまう。
「川瀬、おれやっとこうか?」
「やってくれる? じゃあお願い」
同じく黒板掃除をしていた男子に雑巾を任せ、黒板消しの汚れをクリーナーで吸い取る。ウィーンという機械音が教室に響く。
紙飛行機を飛ばして遊んでいた男子達が何か冗談を言い合って大きな低い声で笑う。廊下で掃除をサボってたむろしていた女子達が甲高い声で笑う。それを聞きながら無心で手を動かすものの、黒板消しの汚れはあまり取れそうになかった。
「古いやつなのかなこれ」
独り言を言いつつそれを片手に持って一歩下がると、途端に背中に何かが当たる軽い衝撃があった。振り向いて、
「あ……ごめんね」
「…………別に」
相変わらず無愛想な佳奈美が私を見下ろすように見つめ、顔を逸らす。佳奈美と私に一瞬目を向けたクラスの数人は、すぐに目を逸らす。こっちも相変わらず、佳奈美とは関わりたくないようだ。
そのまま佳奈美は廊下へ出て行ったが、廊下に出ていた女子達の談笑は一旦途切れる。佳奈美が前を通り過ぎて行く時だけ彼女を睨み、そしてすぐまた小声で話し始めた。内容は佳奈美の悪口だったけれども。
「――――おーい、終わったよ?」
「……ああ、うん。ありがとう」
黒板を消した男子に礼を言いつつ廊下を眺める。変わらない女子達の話し声、変わらない男子達の爆笑。そこにもう佳奈美はいない。
そろそろ掃除を終えても良い頃あいだろう。クリーナーの電源を切った。
「藍川今日部活無い? 無いんだったら一緒に帰ろ」
教室を出ようとしていた藍川にそう言うと、藍川はへらっとしたいつもの笑顔で「いーよー」と答える。それから私が廊下に出るのを待って、横に並んで歩く。
「……あー、雨降ってきちゃいそうだね。大分暗いや」
窓外ではいつの間にやら黒い雲が空を覆っていた。太陽が隠れ、暗い。藍川が少し眉を歪めて笑った。
「雷鳴りそう。早めに帰らなきゃね」
ははっ、と少し神妙な顔で呟く藍川に、少し目を細めて頷く。雷が苦手な藍川にとって、雷の中を帰ることは遠慮したいだろう。
玄関で靴を変え、外に出て。そこでまた、この間の黒猫を見つけた。
「あれ? あの黒猫、前もいたよね」
首に藍色のリボンを付けた黒猫。玄関前の木の下で横になっていたその猫は、私達に気が付き、伏せていた目を開ける。そしてまた藍川を一瞥し、歩き出す。私達と同じく下校中の生徒が猫を見て顔を綻ばせる。けれど触ろうとする人に猫は近付かない。するりと手の間を抜けて行ってしまう。そのままスタスタと、私達が帰る方とは逆方向へと歩き去って行った。
「どこ行くんだろうね。あっちって何かあったっけ?」
「さあ……あ、工事中のデパートあったかも」
「ふーん」
まあ良いか、と猫に背を向けて歩き出す。雨を気にして、私も藍川も少し早歩きだ。
スーパーを通り過ぎ、文具店を横切り、コンビニの前を素通りし、車通りの少ない住宅街に入って。道中、他愛も無い会話を広げていた。
「そう言えば凪ちゃん、冬音さん達との仕事、次はいつだろうね」
「んー……来月とか再来月にあってもよさそうだけど。どうなんだろ、次は海月ちゃん達も参加するのかな。私としては、あまり危ない目に遭わせたくないんだけどさ」
「僕もだよ。海星くんも、二人ともまだ十一歳なんだし。あまり罪を重ねて欲しくは無いな。本当は、アリスちゃんも」
「うん…………海月ちゃんと海星くんはまだ、犯罪をしても年齢的になんとかなるかもしれない。でもアリスは食欲が理由だからね。中々止められないだろうな」
「だねー…………」
しばらく沈黙が続き、二人分の足音だけが耳に届いていた。まだ肌寒い風に身を震わせながら歩く。
公園の横を通り過ぎる時、藍川が明るい話題を出そうとでもしたのか、明るい表情で私の方を向いて口を開く。
「ねえ凪ちゃん、僕さ――――」
「――――――――伊織?」
普段滅多に誰からも呼ばれる事が無かった藍川の名前。それを呼ぶ声が公園の方から聞こえた。
少し驚いたような顔をした藍川と、そして私もそっちに顔を向ける。
「……伊織、だよな?」
そう続けながら、公園の入り口に立っていた一人の人が近付いてくる。
短い黒髪の年齢不詳の男性。若々しい顔付きだからまだ二十代だろうか。背は高くひょろっとして、スーツ姿。彼は藍川を見て、戸惑ったような驚いたような嬉しそうな悲しそうな、そんな気持ちがごちゃ混ぜになったような顔をしていた。
藍川はその男性を見て、最初は訝しげだった。けれどすぐに目を見開き、驚愕の表情となる。唇が何か言いたげに震えていた。
「……………………」
男性と藍川はよく似ていた。
背格好が、顔が、雰囲気が。
藍川が震える唇を開き、同じく震える声でこう呟いた。
「お…………父さん?」
男性は少し苦い顔をしながらも、小さく頷いた。
藍川の家族の話は、一年の最初の頃に聞いた。
父親と母親との三人家族で幸せに暮らしていたものの、父親のリストラが原因で家庭崩壊。父親が家を出て行き、母親は新しい男をとっかえひっかえし、どちらもまだ幼かった藍川の事を考えていなかったと。
母親が事故死した時、父親は葬式にも墓参りにも一切来なかったと。彼が家を出て行った時、藍川はまだ八歳だった、そしてそれ以来二度と会っていなかったと。
そんな父親が数年ぶりに今、藍川の目の前に現れたんだ。
「ひ……久しぶり、だな。元気にしてたか?」
藍川のお父さんが明るい笑顔でそう言った。作ったような笑みだったが、笑った顔も藍川と酷似している。
藍川は何も答えない、俯いて地面を見つめている、表情は隠れて読み取れない。男性はその態度にちょっと困っていたものの、表面上はへらへらと笑う。
「今どうしてるんだ? 一人暮らしか? 学校とか、生活とかどうしてる? 毎日大変だろう?」
「……………………」
藍川は何も答えない。
「……その、俺も昔のことはすまなかったな。あの時はどうかしてたんだよ」
「……………………」
藍川は何も答えない。
「でもしょうがなかったんだ。紗代とお前を置いて行ったことは悪いと思ってるよ。でもな、俺だって事情があったんだよ」
「……………………」
藍川は何も答えない。
「どうだ、今からでも一緒に暮らさないか? 生活費や学費だって出してやるし……そうそう、新し」「うるさい」
父親の言葉を遮って。いつもよりずっと低い、冷たい声で藍川が答えた。
顔を上げた藍川の表情は、それはそれは怒りに満ちていて。ギリッと男性を血走った目で睨み、赤くなった顔で叫ぶ。
「…………うるさい、うるさい、うるさいっ! 今更何言ってんだよ、何父親面なんかしてんだよ! ふざけんなよ!!」
口調も態度も雰囲気も、何もかもがガラリと変わっている。傍から見ている私は、今まで見たことがない、どちらかと言うと温厚な方の藍川のその怒りように驚き、困惑していた。だけど、二人の間に割って入る事は出来ない。ただ傍で見つめていることしか出来ない。
藍川は父親に詰めよるように叫び続ける。まるで、今まで約八年間溜まって来た思いの丈をぶちまけるかのように。
「あんた僕のこと無視してたじゃないか! 母さんと喧嘩ばっかで、僕のことなんて見てくれなかったじゃないか! 母さんの葬式にも墓にも来ないで、ずっと一人で逃げてっ! ――――そもそも、原因はお前の所為だろう!?」
父親のことを『お父さん』と呼んだのは最初だけだった。威嚇するような表情になってからは、父親の事を『あんた』とか『お前』だとかの呼び方で。
自分を置いて出て行った男の事を、父親だと認識したくないのかもしれない。
「伊織……」
男性がそう言って手を伸ばすも、その手を乱暴に払いのけ、藍川は嫌悪感が溢れる顔で吐き捨てるように続ける。
「あんたに名前なんか呼ばれたくない! 今まで、今まで何してたんだよ? 僕と母さんを置いて出て行ってからずっとずっとずっと、何してたんだよ? ふざけんな! お前なんか、僕の父親じゃない!! お前なんかっ、あんたなんかっ――――」
この勢いのままだったら、藍川は彼を殴り殺してしまうんじゃないだろうか。爪が食いこみ、指が白くなるまで力強く拳を握り締めている藍川を見て思う。
けれどそんなことは無かった。
藍川が何か言おうと息を吸った時、声が聞こえたんだ。
「お父さん!」
藍川が目を見開いた。男性は、しまったとでも言いたげに声がした方へ目を向けた。
冷たい風に黒く長い髪を靡かせ、いつの間にやら明かりが付いていた街灯の光を浴びて、大きな目をパチパチを瞬かせる。
私達の背後に、小さな女の子が立っていた。
「和彦さん? その子達は……?」
その女の子の後ろには、まだ若い風貌の一人の女性。
女の子は白くふわふわとしたワンピースに身を包み、その上から防寒対策か薄ピンク色のカーディガンを羽織っている。黒く長い髪はさらさらと艶やかなストレート、黒い目はパッチリと大きい。まだ幼げな顔立ちで、年齢は七歳ぐらいか? 不思議そうに私達の方を見つめていた。
女性の方は、エレガントな私服に身を包み、薄い化粧を顔に施している。柔らかそうな茶髪のボブショート。女の子と同じように私達を不思議そうに見つめている。女の子の母親であろうことは、その子への何気ない態度から読み取れる。
問題は、女の子だった。
その子はさっき、藍川の父親の事を『お父さん』と呼んだ。そしてその母親も、彼の事を『和彦さん』と。それだけで言うと、つまり彼女達は男性の妻子なのだろう。
「…………お姉ちゃん、今いくつ?」
二人を見て呆然と立ち尽くしている藍川の代わりに、しゃがみ込んでその子と目を合わせる。キョトンとする女の子に尋ねる。小さい子供がよく尋ねられる質問だ。慣れているのだろう、その子は微笑んで、元気な声で両手を出した。右手の指を五本全部立て、左は人差し指だけを立て。
「六歳! あ、でも四月になったら七歳!」
「そっか、ありがとう」
藍川が悟ったように呟く。その意図を、私は多分理解している。
この子が今六歳で藍川は十六歳、今から約八年前程に生まれたことになる。藍川の父親が出て行ったのは藍川が八歳の頃、今から八年前。
藍川の父親は、藍川と前妻と住んでいた時から、今のこの女性と関係を持っていたと言うことになる。
藍川の実母の葬式に出なかったのも、それから一度たりとも姿を見せなかったのも
笑顔で頭を撫でる。嬉しいのか、その子はニッコリと微笑んだ。
その子の笑顔は藍川とは少し違う。だけどそれでも、顔立ちや雰囲気が、どこか似ている。
「…………そうか、そう言うことだったんだ」、子の所為か。
「分かったよ、よく分かった」
少しだけ落ち着いた声音で呟く藍川。けれどその言葉は、もう全てを諦めたと言う感じだった。溜息を一つ付き、それからちらりとその女の子を、自分の義妹を見つめる。そしてこう言った。
「ねえ。君、何て名前なの?」
その子は私が尋ねた時と同じように、無邪気に微笑む。そして自分の目の前にいるお兄さんに、自分の義兄に答えた。
「愛だよ。藍川、愛」
その答えに、ほんの少しだけ藍川は目を細める。それはどこか愛ちゃんを、恨めしそうな、羨むような、そんな視線。そして瞼を一度閉じ、開く。
据えた目付きで自分の父親を捕え、冷たく、けれど悲しげに、吐き捨てるように言い残した。
「あんたなんて、大っ嫌いだ」
驚いている愛ちゃんと、その母親。そして悲しげに顔を歪める父親の前で、藍川は私を見つめて微笑んだ。
「凪ちゃんごめん。僕、先帰るね」
そして私の返事も待たずに、全員の前を走り抜けて行く。
「っ、藍川……!」
追いかけようかと足を踏み出す。手を伸ばす。
――――でも、追いかけたところで何が出来るわけでもない。
追いかけようとした足を止め、手を下ろして。その時もうすでに藍川は見えなくなっていた。
「お母さん? あのお兄ちゃん、どうしたの?」
愛ちゃんがそう言って母親を見上げるが、彼女も答える事が出来ず困ったように首を傾げていた。そんな中男性が私の方を向き、
「凪さん……かな? ちょっと、お話しないか?」
そう言った。
彼らに付いて行った先にはとある一軒家が建っていた。白いコンクリート壁と藍色のトタン屋根は亀裂や汚れが一切無く、まだ新居だ。
「さあ、雨も降ってしまいそうだから、あがって」
「あ、お邪魔します」
女性に扉を開けて貰い、頭を下げながら玄関をくぐる。ふわんとラベンダーの香りが鼻をくすぐり、玄関の靴箱の上にラベンダーの香りの消臭剤が置かれているのを見つける。玄関の向こうには、ピカピカと綺麗な木目の廊下が続いていた。愛ちゃんが靴を脱ぎ捨てるように勢いよく駆け上がり、白い靴下でタタタッと近くの部屋に入る。そしてすぐに出て、また違う部屋に。出て、違う部屋。
「愛、そんなことしてないでリビング行きなさい。寒いでしょ」
窘めるように女性が言ったが、それに愛ちゃんは悲しそうな顔で抗議する。「でも、海を見つけなきゃ!」海? そんなの家の中には無いでしょ、浜辺行かなきゃ……ああ、何かペットの名前なのかな。
女性は困ったように口を真一文字に結びながらも、首を振って愛ちゃんが脱ぎ散らかした白い靴を揃え、家に上がる。そして一部屋の扉を開け、私に手招きをする。それに私は付いて行き、部屋の中へ入る。
「……うわっ、綺麗な部屋ですね!」
思わずそんな台詞が口を付いて出る。
リビングらしきその部屋は、黒いソファーとテーブル、テレビなど以外に、海を描いた綺麗な絵画が飾ってあったり、可愛い小物が所々に並んでいたり。ふわふわのカーペットや、レースのカーテンなど。母親か父親のセンスが良いのか、色や形が部屋ととても合っている。
「ふふ、ありがとう。凪さんは座って待ってて下さいな。紅茶とコーヒー、どちらがお好み?」
「あ、コーヒーです。ありがとうございます」
女性は微笑みながらキッチンへと向かう。良い育ちなのだろう、笑顔や仕草に上品さが滲み出ている。私もソファーに座ろうかと腰を下ろした。……うわ、ふかふか過ぎ。逆に落ち着かないな。いや、落ち着いてても駄目だけど。
妙に緊張しながら待っていると、しばらくして和彦さんがやって来た。スーツの上を脱ぎ、白いワイシャツ姿になっている。ふーっと息を吐きながら向かいのソファーにどっかりと腰を下ろした。そして私を見つめて笑う。
「さっきは変な所を見せてしまって悪かったね。君は伊織の…………彼女さん?」
「いいえ、クラスの友達です」
あと、殺人犯としては仲間。そう続けてみたらどんな反応が返って来るかな。言わないけど。
「なぁに茶化してんの和彦さん。はい、コーヒー」
湯気の立つコーヒーを三つお盆に載せて運んで来た女性がそう言って和彦さんに言う。私の前に一つ置いて、「お好きな分だけどうぞ」と砂糖とミルクの入った小籠を机上に置いた。和彦さんはそのまま飲み、私は砂糖を二個とミルクを一つ入れて飲んだ。美味しいです、と言うと女性は嬉しそうに微笑んで男性の隣へ座る。そして、
「和彦さん、教えてちょうだい。あの子の事」
真面目な目で和彦さんを見つめる。彼は少し驚いたように見つめ返し、
「大体雰囲気で分かるわよ。あの子が…………昔話してた子なんでしょう?」
「…………気付いてたか」
鼻の頭を掻きながら彼は首を振る。そして頷き、
「そうだな。お前には、それに凪さんにも、知ってるかもしれないけれど説明しておこう。伊織の事を」
そんな出だしから始める。
話の内容は、私が聞いていたものと変わらなかった。だけど、父親視点からのそれは藍川の話と多少語弊がある。それは藍川の事を本当は連れて行きたかっただとか、実際は母親から守っていたとか、そんなもの。
私は基本的に無表情で聞くよう努めたが、女性はころころと表情を変えていた。驚愕、悲哀、憤慨、同情。そんな中、彼は淡々と自分視点の過去話を話し、
「――――そんなわけで、今日に至るってわけだ」
そう終えた。
「話には聞いてたけど、まさか、そんな……」
女性が口元を両手で押さえ、目を見開く。その反応から察するに、話を聞いたと言っても大雑把な点しか聞かされてなかったのだろう。
失礼かと思ったが、気になっていた所を尋ねる。
「それで、今まで藍川と一切会わなかったのは何でですか? 数年間一度もっていうのは難しいですし」
和彦さんは頷き、答える。
「伊織の元から去ってすぐ、俺は奈央子と別の街に引っ越した」奈央子って、こいつのことな、と女性を見つめて微笑む。そうか、彼女は奈央子さんと言うのか。「正直、前妻だった紗代と会いたくは無かったから……。それから今までその街で暮らして来たけど、愛が小学校に入るのを期にここに越して来たんだよ。まさか、伊織も引っ越してここに暮らしてるとは思いもしなかったからね」
入学を期に市や県を引っ越すのはよくあることだ。けれど引っ越し先で別れた子供に会うのはよくある事じゃない。
「和彦さんって昔っからそうよね。おっちょこちょいで、大切な事は何も話さない。だから後で大惨事になるのよ」
奈央子さんがそう言った。それから少し苦笑しつつ、私に話す。
「八年前の当時、私と彼の間には子供が――――愛がいたの。私は和彦さんと付き合ってる間何も知らなくて。だから、妻子がいたけど離婚したって話を聞いた時はそりゃあもう怒ったわよ。騙された! って思ったし、離婚も考えたし。……でも赤ん坊だった愛を抱えてシングルマザーも辛いから、そのままずっと結婚は続けてね」
それから和彦さんの方を少し睨むように見つめ、
「本当、いざという時に駄目になっちゃうのよね、この人。あの子は半分しか血が繋がって無くとも、れっきとした愛のお兄ちゃんだって言うのに」
あーあ、私なんでこんな人と結婚したのかしら。と少し面白そうに微笑み。和彦さんもそれに苦笑していた。
「お母さん? あの人、わたしのお兄ちゃんなの?」
小さな声に私も、二人も驚いて扉の方を向く。不思議そうな顔の愛ちゃんが扉の隙間から私達を覗いていた。こちらに歩み寄って来て、母親の傍へすり寄る。そんな彼女の頭を優しく撫でながら奈央子さんは答えた。
「そうね、あのお兄ちゃんは、愛のお兄ちゃんなんだよ」
「本当? わたしのお兄ちゃん?」
そうよ、と奈央子さんが頷くと、愛ちゃんは顔をキラキラと輝かせた。そして純粋無垢な笑顔で叫ぶ。
「やったぁ! わたし、一人っ子だったから兄弟が欲しかったの! お兄ちゃんができたよ、わーいっ!」
諸手を上げて喜び、そして「海は喋れないからなー」と言って。あ、そうだ。
「その『海』って、誰のことなの?」
愛ちゃんは奈央子さんの膝の上に頭を乗っけてごろごろとしながら、へらへらと答える。
「海はねー、まっ黒けな猫さんなの! オスでね、とっても頭がいいんだよ! 可愛いの!」
黒猫?
「……もしかして、首に藍色のリボン付けてない? その子」
と、愛ちゃんはくりっと目を大きく見開いて体を起こし驚く。「どうして知ってるの!?」やっぱりか。
「いや、今日見かけたから。この間も見かけたし。ふらふらとどこかに歩いてた……よっ!?」
愛ちゃんが俊敏な動きで私に詰めよる。「いつ! どこに? どこ行ってたの!?」
「こら、愛! お客さんに詰めよるんじゃない!」
和彦さんの声に愛ちゃんが驚いて肩を振るわせる。それから泣きそうな顔で彼を睨み、ゆっくりと立ち上がって部屋から出て行ってしまう。
「ごめんね凪さん。うちでは黒猫を飼ってるんだけど、ちょっと放浪癖があって。普段なら三日以内には帰って来るんだけど、今回は一週間戻って来なくて。愛は海と仲が良いから心配しちゃってて」
奈央子さんが私に謝る。私もぺこぺこと頭を下げる。「ペットがいなくなって心配になるのは分かりますから。大切な家族ですしね」
そうね、と微笑む奈央子さんの横から、和彦さんが身を乗り出して私に聞く。
「ところで凪さん。凪さんを呼んだのは他でもない。ちょっと、尋ねたいことがあるんだ」
私が聞かれたのは、藍川の私生活についてだった。どんな生活をしているか、生活に困ってないか、悩み事はあるのか。その全てに私は答える。マンションで一人暮らし、生活費は祖父母からの仕送りやアルバイトで何とかなっている、悩みは勉学以外は無さそうだ。
和彦さんは私の答えに安心したような顔を見せる。父親として息子を心配しているのか。それにしてはどこか遅い気もしたけれど。
とにかくそんな話題をしていると、ふと窓の外で雨の音が鳴りだしていたのが分かった。目を向けると、小降りの雨が降っている。空は雨の所為で暗いが、それ以前に時間的にも空は暗い時間だ。
「おっとすまない、長居させてしまったね。家まで送ろうか? 親御さんも心配してるだろう」
ソファーから腰を上げかける和彦さんに首を振る。「いえ、気になさらないでください。それに親も……」出張中ですし。そう続けようとした時に、奈央子さんが言った。
「愛は?」
私と和彦さんが、奈央子さんに目を向ける。奈央子さんは少し不安そうな顔で扉の方を見つめていた。
「どうした、奈央子? 愛なら別の部屋にいるんじゃないか?」
「いや……何だか、不安なの」
言いながら奈央子さんが立ち上がり、部屋を出て行く。私達も少し遅れてから廊下に出ると、二階から奈央子さんが愛ちゃんを捜す声が聞こえていた。「ちょっと失礼」和彦さんも一階の各部屋を回り出す。
「愛? 愛? いたら返事して! 愛?」
奈央子さんの声が次第に必死な口調へ変わる。どの部屋にも見つからない、その様子と奈央子さんの焦燥感は私にも伝わって来る。和彦さんも同様に、愛ちゃんを捜す為に物をどかしたりしている音が次第に乱暴になっていっていた。
ふと私は玄関へ向かい、靴を見る。
大きい和彦さんの靴、奈央子さんの上品な靴、私の学校指定ローファー、それだけ。愛ちゃんの履いていた白い靴がどこにもない。失礼して下駄箱を覗いても、無い。
「愛の靴、無いのか?」
背後から和彦さんの声がした。振り向くと、少し顔を赤くした和彦さんが私の行動を見ていた。小さく頷くと、彼は「そうか……」と顔に手を当てて苦い顔をする。
「外に行っちゃったの? この雨の中!? 風邪引いちゃうじゃない!」
少しヒステリック気味の奈央子さんが二階から下りて来て叫ぶ。和彦さんが落ち着け、と言っても、落ち着いてなんかられないわ! と。
今すぐにでも飛び出していきそうな奈央子さんと、それを制止する和彦さん。そもそも愛ちゃんが出て行ったのは何故だろうか、お父さんに怒られたから? いや違う。理由とすれば……そう、猫を探しに行ったんだ。
「あのっ!」
思わず叫び、二人の視線が私に集中する。ちょっと気押されながらもそっと手を上げ、こう言った。
「――――私が、愛ちゃん探しに行ってきます!」




