第53話 錯乱会場
「まずはお前からだ。三分の一の確率で、それでも引くか?」
ニヤニヤと笑う堂本さんは、無表情の佐々木さんを見下ろす。銃を持っても表情を崩さなかった佐々木さんは、少しの間の後銃口を頭に向け、引き金に指をかけた。
私が息を飲むのと同時に、カチッと軽い音がする。
「不発だ」
淡々とした様子でそう呟き、銃を堂本さんに放り投げた。堂本さんは顔から笑みを消しながらそれを受け取る。
二人の間の空気がピリピリと張り詰めている気がした。お互い相手に一歩も引かず、銃に対する恐怖心も見せず、静かに睨み合う。
「次で最後だな」
堂本さんが言った。
そうだ、佐々木さんが撃ったので四発目。六発入りの銃だから、残りはあと二発。次に堂本さんが弾に当たれば私達の勝ち、当たらなければ私達の負けとなる。つまり勝とうが負けようが佐々木さんが銃を引く必要は無いと言う事だ。
堂本さんも、確率は二分の一、半分だ。その状態で引き金を引けるのか。
「……………………ところで君達は、俺が普段何をしているか知っているかい?」
「「は?」」
私と佐々木さんの訝しげな声が被る。顔を見合わせつつ、首を横に振る。堂本さんも「だろうね」と頷いた。
「やっぱりこういう仕事をしてると危ない目に遭う事も多くてねぇ。俺も何度も死にかけたことだってあるんだよ」
「仕事って、どんなのだ」
佐々木さんが尋ねると、銃を持ったままへらへらと笑いながら答える。雫ちゃんには少し言ったけどね、と堂本さんは私を一瞥してから話し始めた。
「――――臓器売買、薬物の取り扱い、殺人……ああ、最近は別の組と幼児誘拐もしてるな」
私も、それに佐々木さんも眉を顰めて堂本さんを睨んだ。特に佐々木さんなんて、睨み殺せるんじゃないかと思うほどに目付きが険しい。
「そんな怖い目で見るなよ。まあ、そういうことだから…………」
堂本さんはくるりと銃を回転させ、こめかみに付ける。
ゴツゴツとした親指が引き金を引いた。
「……………………」
「……………………」
私と佐々木さんが無言で見つめる中、
「……………………だから、こんな事だって怖くないさ」
無傷の堂本さんはニヤリと笑って言い放った。
「さあ、これで君達の負けだね。ルールはルールだ、大人しく従って貰おう」
堂本さんの言葉に、少し身体を強張らせた。そんな私に佐々木さんは軽く微笑み、「大丈夫だから」と小声で囁いた。それから堂本さんに向き直り、テーブルの上に置かれた拳銃を手に取った。
「これに弾が入ってるんだよな」
「ああ、そうだ」
「ふーん」
佐々木さんは何を思ったのだろうか。銃を軽く持ち、そのまま側頭部に突き付ける。
唖然と目を見開いた私と堂本さんの前で、佐々木さんは堂本さんを馬鹿にするように小さく舌を出す。
そして、
「バーン」
引き金を引いた。
銃口からは、何も出て来なかった。
「どうせ最初から入って無かったんだろ?」
煙も、火も、弾も、何一つとして飛び出して来なかった拳銃を弄ぶように持ちながら、佐々木さんは言った。
「いくらなんでも躊躇いが無さ過ぎる。数秒程度でも迷いが無いと逆におかしい。それならこれには何も入って無いと考えた方が正しいんじゃないかと、オレはそう考えた」そこまで言ったところで最後に、「まあ知らねえけど。本当はただの勘だし」そう締めた。
「えっ、あの……え?」
つまりどういうことなんだ。銃を撃っても弾は出て来なかった、つまり最初から入っていなかった。誰も死ぬことが無いロシアンルーレット、そんなゲームに私はあんなに慌てていたのかと思うと恥ずかしくなる。でも、その前に、じゃあ私達が負けと言うことにはならないのか。
佐々木さんを見つめる私の目は、きっと焦燥の色が滲んでいただろう。そんな私を見ながら佐々木さんは軽く微笑み、頭をポンポンと叩く。それだけで、少し気分が落ち着いた。
「つまりオレ達は負けてないってことだよ」
「はぁ……」
じゃあ、と堂本さんに目を向け、途端にゾワリと悪寒が走った。
今までの笑みから一転、彼は酷く険しい目付きで私達を睨んでいた。
ゆっくりと、懐から何かを取り出した。それは小型だけれども鋭そうなナイフで、今私が隠し持っている物と似ている。
だけど私達は悲鳴を上げない。そんなもの見慣れているし慣れている。勢い良く弾丸が飛び出る拳銃よりも、そこまで一瞬で人の命を奪う事は無いナイフの方が、まだ平気だ。勿論それでも警戒は強くする。
「何で怖がらないかねぇ、君達は」
ポツリと憎々しげに、そして呆れた様子で呟かれる。ナイフを握る手に力がこもったのが分かる。
「…………最初にルール違反をしたのは、そっちじゃないですか」
私が声を振り絞ってそう言うと、あからさまな舌打ちを返される。……私が自分のナイフを取り出すのはいつにしようか、まだ早いだろうか。
「俺はルール違反なんてした覚えは無いな。別に、『弾が入っている』なんて言って無かったじゃないか。」
そんなのただの屁理屈だ。だけどそれを言ったら、私達だって、佐々木さんが代わりにやっていることへの揚げ足を取られるだろう。
堂本さんが苛立った様子で腰に手を当てる。もう片方の手で頭をガリガリと掻いて、ソファーからゆっくりと立ち上がった。佐々木さんも同様に、警戒しながら立ち上がる。
「そうさ、俺も君達も何も違反はしていない。弾が入ってるなんて言って無かったし、交代が無しだとも言っていない。最初に言っていなければなんだってルールになる。……それに」
声を少し低くして、目付きを鋭くさせながら堂本さんがうごいた。
「――――銃がそれだけなんて言っていないさ」
そう言って、素早い動きで腰から取り出した銃を、佐々木さんに――――
「やめろっ!!」
思わず出た私の叫び声に近くを歩いていた女の人が振り向いた。最初は怪訝そうにしていた表情が堂本さんを目にしてみるみるうちに凍りつく。次の瞬間、女特有の甲高い悲鳴が辺りに響いた。
空気を切り裂くようなその声は、騒音並みの音楽さえも一瞬消し去った。周りの人々の数人が振り返り、何事かと私達に目を向ける。後ろの方にいた人達は前の人達が邪魔で見えていないようだけれど、前列の人は状況を把握し、次第にざわめきが広がっていく。
「ねえ、ちょっと何アレ……本物?」「いや違うだろ多分。何かの出し物、じゃあ無いよな」「あぁ? 何だようるっせーな! せっかく寝てたのに起こしやがって!!」「えぇ、でもあれ、マジじゃないのぉ?」「そもそもこんな場所だし。それに、演技って感じじゃ……」「…………じゃああれ、本物なのかな?」「そうでしょ。え、じゃあ、あたし達危ない?」「え、えぇ、ヤバいだろ、マジ。……逃げようぜ」
次第に混乱していく会場。これが演技だと思って少し楽しんでいる顔の人もいれば、本物だと理解して恐る恐る後ずさりしている人もいる。悲鳴を上げた女の人は腰が抜けたようにその場にへたり込んでいた。この騒ぎだ、冬音さん達もきっと私達に気付いているだろう。
堂本さんは冷たい目で辺りを見渡す。面白がっている人も恐ろしがっている人も全てが鬱陶しいようで、心底嫌そうな顔で銃口を少しだけ逸らす。佐々木さんから、少し右へ。けれど銃口の向きが変化したことに、周囲の人は殆ど気付いていないようだった。
ちらりと私が見た銃口の先には、少し慌てながらも楽しげな顔で私と佐々木さんに交互に視線を配っている一人の女性。鮮やかな赤いドレスにほっそりとした身を包んだ、茶髪のお団子ヘアーの人。その人は私の視線に気が付き、少しだけ顔を輝かせた。
そしてその顔は私が瞬きをする間に、上顎から上の全てが飛び散った。
耳を劈く重い銃声に反射的に耳を塞ぐ。ふわんと鉄臭い匂いが鼻孔に届いた。
赤い舌をだらんと垂れ下げたまま、その女性は数秒間だけ立っていた。舌から上は何も無く、ピンク色の柔らかそうな脳味噌の破片がぶちゅっと床に落ちる。肉片と多量の血がカーペットを鮮やかに彩っていた。力が抜けたように足が崩れ、女性は床に倒れ伏す。ほんの少しだけ間をおいて、ごぼりと口から血を流した。
「ギャアアアアアアアアアア!!」
その人の隣にいた女性が、青ざめた顔で発狂する。自分のドレスにかかった血と脳味噌を無視して、血走った目をしてその場から駆け出した。
周囲の人々が一斉にパニックに陥る。目の前で人が死んだ恐怖と銃に対する恐怖が入り混じり、我先にと人混みを掻き分けて出口へ走ろうとする。けれど、人が多すぎる所為かなかなか進まず、銃声が聞こえなかった人達と衝突しては乱闘が起きていた。
「あちゃあ、しまった。死なすまではしなくても良かったかなぁ……もしくは男にしときゃあ良かった」
堂本さんはぶつぶつ言いながら俯いてしまう。反省している様子も、自分がした行動に脅えている様子も無い。ああ、やっぱりこの人は本当に人を殺した事があるんだな。私と同じだ。
「…………川瀬」
私にしか聞こえないくらいの小さな声で佐々木さんが囁く。佐々木さんが堂本さんを顎で示し、私に目配せをした。堂本さんはぶつぶつと呟いているままだった。俯き、私達の方を見ていない。私たちはゆっくりと、そしてじりじりと、彼から離れる。
「…………それで、どこへ行くんだい?」
だけどやっぱり気付かれてしまう。ソファーから離れた、女性の死体のすぐ傍まで行った所で堂本さんは顔を上げてしまった。そして銃を私達に向ける。
撃った所を弾丸が通過する程度ではなく、破裂させるほどに威力が強い銃。佐々木さんが持っているものよりも遥かに恐ろしい。
「…………ふざけるなよ」
佐々木さんが、いつもより数倍低い声で言った。ギロリと、銃を恐れさえせずに堂本さんを睨みつけ、微かに震える声を吐き出す。
「臓器とか薬物とか、そっちだって確かにおかしいさ。だけどよぉ、何で小さい子供まで誘拐する必要があるんだよ」
血走った目でそんな事を言う佐々木さんを面白そうに見つめながら、同じくギロリと睨み返して堂本さんは不敵に微笑む。
「なんだい、今更そこに食いついて。そっちの趣味でもおありか?」
「それはオレの友人だ」
確かにそれは棺先生のことだ、幼児趣味って言うか、幼女趣味だもの。……あ、でも佐々木さん、棺先生のこと友人だって思ってるんだな。そのまま軽く首を振って続ける。
「子供が一体お前らに何をしたって言うんだよ。なあ、おい」
そう言う彼の血走った目はどこか遠くを見つめているようで。そうだ、思い出した。佐々木さんは孤児院で育ったんだっけ。私が協会に行った時、そこの子供達が佐々木さんの事を『お兄ちゃん、お兄ちゃん』と慕っていたのを覚えている。
頼りになるお兄ちゃんとして、たくさんの子供達と暮らしていた彼は、子供に対してとても優しいんだろう。海星くんといい、海月ちゃんといい。
だから、純粋な子供が事件に巻き込まれる事なんて耐えられないんだ。
けれど、そんな佐々木さんの心境を無視するように、堂本さんは呆れたような表情で言い放った。
「それの何が悪いって言うんだ?」
わけが分からないと言いたげな顔に変化する。コロコロと表情を変える人だと思った。どの顔が本当の顔かは分からないが。
銃を佐々木さんに向けつつ、空いているもう片方の手で身振りを踏まえて淡々と話す。
「子供、特に幼い子供はよく売れるんだ。しかも手に入れるのも最近はそこそこ簡単になって来てね。何故だか分かるか? 養護施設だよ、孤児院。そこに捨てられたばかりの子に目星を付けて、外見は優しそうな夫婦に見える男女を使う。親が出来ると思った子供は喜んで食いつくし、後は好きに出来る」
佐々木さんが唾を床に吐き、苦虫を噛み潰したような目で睨み続ける。中身の入っていない銃を後ろの方放り投げる。それは何かに、誰かにぶつかり、遠くの床に落ちた音がした。
「さいっ……てい」
周りに響く騒音と人々の叫び声の所為もあるのか、頭がガンガンと痛んでくる。
私は殺人以上に、人権を無視するような行動の方が本当は重罪じゃないかと思っている。殺人は殺される方にも責任は多少なりともある場合が多いし、どうにせよ最後には命が終わる。だけど誘拐や監禁や売買など、それらの行為は基本的人権の尊重にもなりやしない。それに、苦痛に喘いだところで死ねるわけじゃない。
だからこういう、人を物として扱うような人はきっと、殺人犯よりも精神が歪んでいるんだろう。それが怖くて堪らない。
ふと、隣にいる佐々木さんの肩が震えていた。
ふるふると顔を俯かせたまま震わせる肩と、荒い呼吸。今にも目の前にいる堂本さんを殺しかねない様子の佐々木さんに、追い打ちがかかる。
「どうだ、素敵だと思わないか?」
「――――ふざけんなっ!!」
佐々木さんの低い怒鳴り声と同時に、パンッと甲高い破裂音が響いた。
「――――――――っつぅ…………!」
堂本さんが顔を歪めて体を震わせる。銃を持っている右の肩に小さな赤い穴が開き、ドクッと血が流れ始める。頬を脂汗が伝ったが、それでも彼は銃を落としてはいなかった。
佐々木さんの持つ銃は煙が上がっている事も無い。元より弾は入っていなかったのだから。さっき堂本さんが撃った銃とはまた違う、高い発砲音に耳を塞ぐ私の後ろ。キンキンとした耳鳴りの中で、聞き覚えのある声が叫んだ。
「そこの男! 銃を捨てて大人しくしなさい!」
後ろを向くと、黒いドレス姿の冬音さんが、拳銃を両手に構えて堂本さんを睨んでいた。今まで見た中でも一番凛々しい表情で、キツイ相貌をしている。
私達に素早く目配せする様子を見て、慌てて憤っている佐々木さんの手を掴んで駆け出す。もう大分外に逃げ出したとは言え、部屋の中はまだたくさんの人で溢れていた、その人混みに紛れて堂本さんから離れる。
「ひっ!?」
水槽の向こうまで行った所で肩を軽く叩かれ、悲鳴を上げながら振り向いた。
「わっ、ちょ、落ち着いてよ。僕だよ僕!」
「……あ、あい、あ…………楓」
人混みで少し乱れたのか、ぼさっとしたツインテールの藍川が後ろに立っていた。私の反応を見て少し困ったようにへらっと微笑みながら、「多分もう偽名はよさそうだよ。普通にでいいよ」と呟く。
「あ、ああそう。あのね、これね、さっき、私がね……」
切羽詰まった状態でなんとか話そうとすると藍川は首を振って、言わなくていい、と言う。その言葉に口を噤んだ時、まだ佐々木さんの手を握っていたことに気付く。それも力強く。
「あっ、す、すみません」焦って手を離して言う。
「……ああ、うん。…………あのままだったら多分突っ込んでただろうし、危なかった。ありがとな」
佐々木さんが息を吐いてそう言う。顔の赤みが取れ、落ち着いてきたようだった。
水槽越しに向こうを覗くと、冬音さんと堂本さんは互いに銃を構えた状態で動こうとしていない。動くに動けないんだろう。
「藍川、今まで何してた?」
尋ねると、藍川はちらりと私を見てから水槽に目を戻す。
「……僕は、いろんな人のところに行って話しかけてた。情報を集めに。あまり良い情報はなかったけど、この部屋のどこかに薬物の束が隠してあるんだって。そこを見つければ、いけるかもしれない。―――――ああ、棺先生はいつの間にかいなくなってて、桃香さんは誰か男の人と別の部屋に消えてたよ」
「そう…………と言うか、あれ! どうするの!?」
銃を構えて対峙したまま動かない二人を差して、小声で叫ぶ。藍川は少し考え込んだ様子で目を細め、
「あのままだといつまでも固まったままだろうし、僕らが何か、行動を起こすしか……「伏せろっ!」っつ、わあぁっ!?」
ぐんっと頭を押し下げられて、地面に肩から倒れる。耳元で何か風を切るような音がした。同時に佐々木さんの呻くような声。
肩の鈍い痛みを無視して、慌てて顔を上げる。隣では同じように藍川が倒れていて、私と藍川の上に佐々木さんが馬乗りになった状態だった。そしてその後ろで、誰かがニヤリと笑いながら立っている。宙に藍川のツインテールの髪が数本舞い落ちていた。
「何だよもぉ、堂本さんも人使いの荒い人だなぁ。で、何だ。お前ら誰だよ」
それは一人のまだ若い男の人。ベリーショートの金色の髪を左手でぐしゃぐしゃ掻きながら、血が少し付いている、鋭そうなナイフを私達に向けていた。堂本さんと言ったところから、きっと彼の部下か何かなんだろう。
「佐々木さん? ……佐々木さんっ!」
呻き、一瞬だけ苦痛の表情を見せた佐々木さんに言う。右手で左肩を押さえつつも、金髪の男の警戒は解かない。口元を歪ませながら軽く笑う佐々木さんは頷く。
「大丈夫、ただの掠り傷だ」
そう言って右手を離す。肩の服は破れ、そこから見える肌には赤い一筋の線が走っていた。大分長い線だし、それに深い。ドクドクッと筋からは脈打つような赤い血液が流れていた。
「おい聞いてんの? お前ら何なの。ただの客ってわけじゃ無さそうだしぃ、警察? あの女もそれっぽいし…………おいぃ、何だよそんなに睨むなよ」
キツク彼を睨む私と藍川を見て、男はニヤリと不気味に笑う。手に持つナイフを握り締め、躊躇いも無く左足を踏み出し、右手を大きく振りかぶってナイフを横に振る。
「…………お」
「銃じゃなければ、ナイフなんて慣れてるよ。舐めんな」
私がドレスの下から取り出したナイフと、男が振りかざしたナイフが空中で交わった。ガキンと金属の擦れる嫌な音が耳に届いたが、どちらの刃も刃零れすることは無かった。
すぐにどちらも身を引き、ナイフを構えて相手を睨む。私はキツイ表情で男を睨み、男は少しだけ驚いたような顔で私を睨む。
「たくましいね、君」
「そりゃど――――もっ!」
ぐっと足を踏み込み、勢いを付けて飛びかかる。彼は唐突な行動に慌ててナイフを構えるが、それより早くそこを走り抜けた。ぶんっと背後でナイフを振り下ろす音が聞こえた時に足を止め、ぐるりと男の背後に回って背中をナイフで切り裂く。
「ぎゃっ!」
痛みに悲鳴を上げた男は、ビクリと体を震わせて動きを一瞬止める。その隙を狙って首筋にナイフをあてがい、ほんの少しだけ突き刺した。プツリと薄い皮膚が切れる音がして、小さな丸い血の粒が少量出る。男が痛みから危機感へと意識を戻した時にはすでに遅い。
「この部屋のどこかに、薬物が隠してあるんでしょう? そこに連れて行ってください」
「…………本当、たくましいわ」
頬に汗を垂らしながら、へらりと男は笑う。それから軽く呻き、両手を振って身振りを付ける。
「俺はただの下っ端みたいなもんだからぁ、それがどこにあるかとか分かんねえよ。上司の人達もそれが閉まってある部屋に行ってーしさ」
「じゃあやっぱり、他にも何人かそっちの人がいるんですね」
そうだよぉ、と呑気に笑う。ナイフをもう少し突き刺して「真面目にしろ」と喋ると、複雑な表情で黙り込む。
嘘を言っているのかどうかは分からないが、尋問する時間は無い。ちらりと藍川と佐々木さんを一瞥すると、藍川は手を後ろに回して微笑み、佐々木さんは血が垂れている肩を押さえて辺りを警戒していた。
「そうですか」
私がそう言って、これ以上の答えを諦めた時。
「そうだ、よっ!」
彼が首のナイフも気にせず、勢い良く体ごと振り向く。パアッと赤い血が首から飛び、目をぎらつかせて私に笑う。手に握ったナイフを私の目に狙い、突き刺す寸前。
鈍く重い音が彼の背後から聞こえた。
目付きが急に虚ろになり焦点を定めない。口から吐息を漏らし、ナイフを手放し、そのままゆっくりと前のめりに倒れかける。私が一歩後ろに下がって彼を避けると、顔面から床に衝突した。
「大丈夫? 凪ちゃん」
首を傾げて微笑んでいる藍川が、倒れた彼の後ろに立っていた。振り下ろしている格好で止まっている右手には見慣れた金槌が握られている。
「……ああ、うん、ありがと」
手を引かれて、倒れている男を飛び越える。床に落ちていた男のナイフを拾い上げて見つめた。傷もくすみも殆ど無く、多少汚れているくらいだ。まだ使える。それを開いていた左手に持ち、元々持っていたナイフはドレスの中に仕舞う。
その時、銃声が辺りに響き渡る。
部屋の音楽が鳴り止んだ。
「あっ、ぐぅっ!」
冬音さんの呻き声が聞こえ、振り向く。堂本さんが煙の上がる銃を構えて立ちつくしている向かいで、冬音さんが右手を押さえて震えていた。右手に持っていた銃が、カシャンと床に落下する。
しまった、と言いたげな表情のまま冬音さんは右手を押さえてその場にへたり込む。床に落とした銃を急いで左手で取ろうと手を伸ばし、その手を靴で踏みつけられる。
「うあっ!!」
「くそっ! わざわざ嗅ぎ付けて来やがってよ、ええ? おい!」
ぐりぐりと固い靴の裏で冬音さんの左手が踏みつけられる。苦痛を歯を食いしばって耐えている様子の冬音さんを見ながら、堂本さんは舌打ちをする。そして、左手に持ち替えた銃を彼女の頭に向けた。
冬音さんが殺されてしまう。そんな焦る私の横を、誰かが走り抜ける。髪が乱れ、一瞬視界が隠されたが、その隙間から見えた光景に息を飲んだ。
「え」
驚いている私と藍川の前で、堂本さんが引き金に指をかけ、
そのままの状態で横に吹っ飛んだ。
「…………え?」
一番驚いている顔をしていたのは冬音さんだった。靴の跡が痛々しく付いた手よりも今の状況が気になるようで、呆気にとられた表情で目の前の光景を眺めていた。
顔面を殴られて吹っ飛んだ堂本さんと、全力の力で彼を殴った佐々木さんを。
床に倒れる堂本さんの手から離れた銃を、佐々木さんは足で蹴って部屋のどこかへと移動させる。人混みに紛れてそれは見えなくなった。
殴ったのは右手でだけれど、左肩の傷が痛むのか少し眉を顰める佐々木さんを見て、冬音さんが少し慌てる。
「えっ、ちょ、あんた……大丈夫、なの?」
「それはこっちの台詞だよ」
少し呆れたように佐々木さんが言って、それから堂本さんに近寄る。呻き立ち上がりかけた彼の腹を容赦無く蹴り上げると、堂本さんは「がっ」とくぐもった吐息を吐き出す。佐々木さんはそれでもまだ蹴り続けた。腹を、足を、頭を、顔を。その度に堂本さんは呻き、身をよじる。立ち上がろうとしても佐々木さんはその前に蹴り上げる。最後にもう一度顔を全力で蹴り上げると、何かゴリュッという奇妙な音がして、堂本さんは動かなくなった。
完全に意識が落ちていることを確認した佐々木さんは、再度冬音さんに近寄り、しゃがみ込んで顔を覗き込む。
「手、大丈夫か?」
「え、ええ。だいじょ――――っつぅ」
冬音さんの右手を佐々木さんが軽く掴み上げると、冬音さんは肩を跳ねさせて目を閉じた。私と藍川も冬音さんに駆け寄って、手の様子を見る。
手の平を弾丸が貫通していたり、数本指が吹っ飛んでいるとか、そういうものでは無かった。けれど手の右端が抉れ、ぐじゅぐじゅとした肉が見え血が溢れだしている。床に突いている右手の方にもくっきりと黒い靴の跡が残り、痛々しい。冬音さんの手はほっそりと白いからか、傷がよけいに目立っていた。
「別にこれくらい、致命傷じゃないもの。大丈夫よ」
そう言って強気な表情を見せる冬音さんだったが、佐々木さんはムッとした顔で言い返す。
「そう言う問題じゃないだろ。綺麗な手なんだから、傷とか付いたら駄目だろう」
「きっ!?」
『綺麗な手』という言葉に反応して、冬音さんは顔を赤くさせる。目を白黒させて、手を握っている佐々木さんを見つめる。
佐々木さんはそれに気づかず、そっと彼女の右手を撫で、どうとでも無いような台詞でその言葉を口にした。
「それにお前、女の子なんだから」
「っ!」
本当に茹でダコのように、更に顔を真っ赤にさせた冬音さんに佐々木さんが不思議そうに首を傾げる。赤い顔を覗き込み、
「どうした? やっぱり痛いのか?」
「…………何でもないわよっ!」
首をぶんぶんと振りながら冬音さんは否定し、そっぽを向く。真っ赤な耳元が隠せていない事は言わないでおこう。
「そっ、それに、あたしもう女の子って歳じゃあ無いもの! あんたより、年上だしっ」
「え? だっけ? 何歳だよ」
「二十六…………ってぇ! 女に年齢聞いたりしないでよ!!」
照れ隠しなのか、左手で佐々木さんを軽く殴る。たった二歳じゃないかと不思議そうな佐々木さんを見て、藍川が私だけに聞こえるように呟く。
「冬音さん、佐々木さんのこと好きだよね」
「うん。ついさっきからだと思うけど。まあ、顔良いし」
そんな人に優しくされたら、大抵の人は恋に落ちるだろうし。
「でも佐々木さんって鈍そうだからなぁ、冬音さんも大変そうだよ」
そう私は続け、一人でうんうんと頷く。
前から思っていたが、佐々木さんはとても優しい。
子供に対しても、女性に対しても、とても心配してくれるし優しくしてくれる。自分よりもそっちを優先する事の方が多そうだ。
一見怖そうだし表面上は無愛想だから、外見だけだと顔が整っているけれど性格は悪そうに見えるかもしれない。だけど、根は優し過ぎる人なんだ。
不器用で無愛想で、だけど優しくて。教会の子供や海月ちゃん達が彼に懐いているのは、子供の方が人の本性を見抜くからなのかも。
「……………………凪ちゃんがそれ言うんだ」
複雑な顔で目を閉じながら、長い沈黙の後に藍川がそう言った。
「え、何が?」
言って藍川を見るけれど、藍川は「何でもないよ」と溜息を付く。
「気になるんだけど……。何、私の事好きな人でもいるの? 何何、誰?」
言った後に、自意識過剰だったかなとも思ったけれど、藍川は変わらず形容しがたい顔のままだった。
「…………何でもない」
そう言って小さな溜息と同時に俯く。ツインテールが垂れ、顔が見えなくなった。
もしかして藍川? 藍川、私の事好きなの?
そう聞いてみたいような気もしたけど、それを聞いたら本当に自意識過剰だからやめておこう。
それにしても、と私は思う。
殺人犯へ警察が恋をする。
恋に性別も年齢も何も関係無いとはよく聞くけれど。これは、許されることなのか。報われない恋になってしまうそうだ。
それでも、冬音さんの思いが報われるといいな。
「あーもう、わけ分かんない……」
真っ赤な顔を靴跡の残る左手で押さえながら冬音さんは溜息を付く。それからふと我に返って辺りを見渡し、
「桃香と、白林は?」
そう尋ねた。
そう言えば、桃香さんは別の部屋に行っているんだとして、棺先生が見当たらない。もうこの部屋には殆ど人もおらず、それは堂本さんだったり金髪の男だったり私達だったり、そしてこの騒ぎでも目覚めない泥酔している客だったり、虚ろな目でボーっとしている人だったり。
他の客はもうとっくに逃げ出しているが、扉の向こうからは微かに怒声や叫び声が聞こえている。
「どっかに隠し扉でもあるんじゃないですか?」
そう言って私は近くの壁に手を付ける。無機質な冷たい壁からは、ぺたぺたと私の手が付く音しかしない。そのまましばらく近くの壁に手を付けてみるが、音に変わりは無い。
「あっちとかは?」
藍川が部屋の隅の方に指を差す。そっちはさっき私が倉田さんと優奈さんと話していたテーブルの方だった。
藍川を先頭としてそちらの方へ小走りで駆けていき、壁に接しているソファーの前まで来て、ソファーの上で優奈さんが寝そべっている事に気が付いた。
顔は赤く、目は虚ろ。起きているのだろうがこの惨状に反応すらしない。そして何か独特の甘い匂いが彼女の周りから漂っていた。ただ酔っただけとは言い難いその表情に、真っ先に冬音さんが眉を顰める。
「この子、薬やったみたい」
それから辺りを見渡し、近くの壁の一ヶ所に目を付ける。暗い室内の中で目立たない黒色のカーテンが一つの扉にかかっていた。さっきまでここにいた私でさえ気付かなかったその扉の色も黒。黒づくしの扉。
「ここが怪しいよな」
佐々木さんがそう言って扉に手をかける。ギイッと軋む音がして、扉が少し開いた。鍵はかかって無いらしい。
「私が先に行くわ」
冬音さんが銃を構えながら身構える。そんな彼女の肩をぐいっと引き寄せ、佐々木さんが言う。
「オレが行く」
「はあっ!? 何で……」
憤り、不満顔の冬音さんを無視して続ける。
「すぐそこに隠れてて、こっちの銃も奪われたらやばいだろ。オレの後ろに立ってろよ」
「…………」
何も言わず、何も言えず、冬音さんはただ渋い顔で頷いた。
佐々木さんはそれを確認してから、私達に振り向く。
「大丈夫か?」
覚悟は出来ているか、という意味合いのその言葉に、私と藍川は頷く。
「大丈夫です」
「オッケーでーす」
佐々木さんも微笑み、それから少し開いた扉に手をかける。
「行くぞ」
そして、佐々木さんは勢い良く扉を開けた。




