第49話 二つのトラウマ要素
それから一週間冬音さんからの連絡は一切無かった。その間に殺人を犯すことは無かったが、念の為包丁の手入れは欠かさない。
皆には藍川と共に事情を説明したが、反応は各々によってかなり違うものだった。棺先生はいつも通りの飄々とした笑顔で少し驚くだけで、佐々木さんは少し訝しげに首を傾げていた。海月ちゃんは少し脅えていて、海星くんも同じように脅えていたようだったが表面上は気丈に振舞っていた。アリスは何とも言えない顔で黙り、俯いていた。
協力するだの報酬があるだの何だのと言っていても、今まで以上に危険が迫るであろうことは確かだ。それを皆は分かった上での反応だった。
これまで以上に凶器の手入れは欠かさない。これまで以上に警戒を怠らない。そんな一週間。
そして今、私は部室で携帯の画面を眺めながら椅子に座っていた。
「凪、何見てるの?」
パソコンの前の椅子に寄り掛かり、くるくると回りながらひなが尋ねて来る。酔わないのかなと思っていると案の定酔ったようで、少し青い顔をして口を押さえていた。
「んーっとね」警察のお姉さんから電話でもかかってこないかなって思ってるの、なんて言えない。「昨日撮った猫の写真」実際昨日帰り道にいたけどね、黒猫。人懐っこくてお腹を上にしてゴロゴロしてたからもう凄く可愛かった。
ひなはそっかーと頷き、そして時計を見ながら少し悲しそうな顔をする。
「…………哀歌、今日も来ないね」
「…………そうだね」
最近哀歌は滅多に部室に来なくなってしまった。青空相談室にも行ってみたが、そこにも哀歌は最近来ていないらしかった。由美先生と話したが、その時に彼女は気になる事を言っていたことを思い出す。
『哀歌さんがここにさえ来なくなったのは……その、あまり良い事じゃないんじゃないかしら』
『どういうことですか?』
『彼女はクラスでも家でも複雑な事情があるらしいんだけれど、そうなった時の心の拠り所としてここに来ていたのよ。それが無くなったってことは吹っ切れて精神的に強くなったか、それとも…………とても不安定な状況にいるのかどちらかよ』
『不安定な状況ですか』
『そう。そんな状況に陥ってしまった人はもう何もかもを諦めてしまってしまうことが多い。それで結果的に取る行動は…………』
そこまで言ったところで由美先生はハッとしたように口を閉ざしていた。ごめんね、変な事言って。とおどけるように笑って私にもう帰るように告げる。余計な詮索は避けて欲しいだろうから何も言わずに出て来たが、彼女の言いたかった事は分かる。
人は何かしら心に不安や苦痛を抱えている。それはいつも自分自身で解決しているように思うかもしれない、けれど本当はたくさんの人に支えられているんだ。そんな人々、心の拠り所が無くなってしまった人間が、一人で生きていこうと決意することは本当に難しい。
そんな人達が取る行動は限られている。そしてその中でも一番最低な行為は、自殺だ。
辛い事も苦しい事も悲しい事も全部無くなってくれる。それはそんな人々にとって夢のようなことだ。どんなに今までの人生が楽しかったって、どんなに今までの人生が幸せだったって、今の苦痛を無くす方がよっぽど魅力的に思えてしまう。だから、行動に移してしまう。
嫌と言うほどにそのことについては知っているつもりだ。
「わたし哀歌に嫌われてるのかな」
「え?」
唐突にひなが溜息を付きながら言う。ふんわりとしたウェーブがかった長髪を肩に垂らし、首を軽く傾げて泣き出しそうな顔をする。
「だって、哀歌わたしにクラスのこと何も言ってくれないし……。最近どんどん暗くなってきてるし、話しかけても無視されるし。……言いたくないならそれで良いよ。だけど、ちょっとぐらい頼ってくれてもいいじゃない。友達なんだよ?」
震える声でそう言って、膝を抱えて椅子の上で座る。固まったように動かないひなの隣に椅子を持って行き座る。
「別にひなを嫌っているわけじゃないでしょ。言いたいけど、哀歌だってきっと思うところがあって悩みを打ち明けられないんじゃないかな」
まだ無言のひなに、もう一つ付け加える。
「……でも、いれる時はいつでも哀歌の傍にいてあげなよ。どんな時でも良いから」
哀歌が何か変な事をしようとしてたら、止めてあげれるから。
ひなは私の言葉に顔を上げる、赤くなった目には涙が溜まっていた。何も言わなかったけれど唇が白くなるほど噛み締めて頷いた。私もそれ以上は何も言わず、椅子から立ち上がって近くの窓へと近付く。開けた途端に図書室の中が冷気で満たされるが気分転換にはちょうど良いだろう。
残雪の残る地面は所々土が見えているものの大半を雪で埋め尽くされている。大きな半分溶けた雪だるまがバケツを被って笑っている。その雪の上では女子生徒達の一人が転んで友達と笑っていたり、男子達が深く積もった雪に飛び込んだりしているのが見えた。空を見上げると、厚い雲の隙間から覗く太陽の日差しがほんのりと暖かい。けれどすぐに冷たく冷え切った風がその温もりを消し去ってしまう。風は顔に当たると、冷たいを通り越し、痛い。何気なく屋上に目をやった。
哀歌が屋上のフェンスを乗り越え、縁に立っていた。
「っ」
喉が詰まり小さな声が出る。急に顔から血の気が引いた気がして、窓の手すりを強く握る。口を閉ざしたまま挙動不審にひなに目をやるも、ひなは未だ俯いたままで私には気がつかない。
「ひっな……あ…………ぁー、あ、あぁ」
呼びかけようとして、やめる。あんなことを言っていた直後にあの光景を見せたくは無い。……幸いひなはまだ気がつかない。
でも、どうすればいいんだ。
哀歌はあそこから飛び降りてしまうんだろうか? 虐めに耐えかねて、生きるのに疲れて。嫌だ、そんなの駄目だ。哀歌がいる場所の高さはこの学校の中で一番高い場所だ。四階の校舎の貯水タンクがある屋上。前に私が棺先生に突き落とされた時の屋上より二倍ほど高い。それに、あそこには木も草が生い茂った茂みもない。落ちたら下の地面に叩きつけられて即死だ。
ここから叫んだところで気付くかどうか分からない。そもそも私の方に気が付いた所で哀歌が決心を変えるとも思えない。今から私が屋上に向かったって遅いかもしれない。どうすれば、どうすればいいの。どうしたらいいの。
やめて。やめて、嫌だよ、駄目だ。やめろ。お願いやめて。
「…………嫌」
じんわりと脳内から蘇る光景。ああ、これだけはどれだけ月日が経とうと忘れることが出来ない。
緑色の草の上の鮮やかな赤。だれかの靴を濡らす血だまり。どこの部分か分からない肉と、耳や鼻や体から出ていた血と、歪んでおかしく曲がった体と、少しだけ笑ったような泣いたようなあの顔。
思い出すけど、思い出したくない。
ふいに屋上から哀歌が動く。それは私の予想外の動きで、哀歌は少し体を揺らしたようにし、フェンスに足をかけてよじ登り、屋上へと戻って行った。そして髪を靡かせながら屋上の扉を開けて校舎の中へと戻る。
「……………………」
哀歌は何がしたかったのか。でも、飛び降りなくて良かった。そう思うと同時に、体全体が冷や汗を掻いていたことに気が付いた。心臓もドッドッと激しく早鐘を打ち、なぜか笑えてくる。近くの椅子を引き寄せて倒れるように座り込む。手や足が震えている。そのことにも気が付き、込み上がって来た笑いを噛み殺す。
どうしてこんなに焦っているんだろうか。確かに哀歌は大切な友達だけれど、悪く言ってしまえば一年の春に会ったばかり。そんなに深い友情があるわけじゃない。勿論人が死ぬと言うことにはこれほどの、これ以上の危機感を持たなければならないものなのかもしれないけれど、私はそんなことは正直よく分からない。
そもそも飛び降りなんて、棺先生の得意分野だろう、他殺的な意味で。私も仕事なんかで何度か棺先生の殺害現場を見た事もあったし。被害者の悲鳴も、死体も。でもその時はこんなに焦ったり混乱することは無かった。じゃあ、何故今は。
友達だから? いや、その他にもあるだろう。例えば、誠と哀歌の共通点。
「……………………」
それは哀歌が虐められているからかもしれない。
『虐め』という二人の共通点。それに私は酷く混乱してしまうのだろう。自分の友達や身近な人が虐めによって自殺するとしたら、それこそどんな方法でもうろたえてしまうかもしれない。
でも、それだけ? 他殺は得意なのに、自殺は苦手なのか、私は。
…………ああ、よく分からない。
自嘲気味な笑顔を浮かべる私の顔が、窓ガラスに薄く映った。
「それで話ってなぁに? 何でも言っちゃってね、川瀬さん」
「ありがとうございます」
結局今日も哀歌の不在していた部活動。その後に、私は青空相談室へ向かった。
私と向かい合うように座る由美先生は湯気の立つコップを手に微笑んでいた。私の目の前に置いてあるコップも同じように湯気が経つホットココアだ。一口飲んで口を湿らせてからこう切り出す。
「私の友達の話なんですけどね」
先生はにこやかな笑みを浮かべたまま、黙って私の言葉に耳を傾ける。私の言う『友達』が、本当に誰か見知らぬ友達の話なのか、それとも私自身のことを暗に示しているのか、そんなことはどうでも良いようだった。
「小さい頃、ちょっと事故に遭ってしまったんですよ、交通事故。軽自動車に跳ねられて足を骨折しちゃって。でも車に乗ってた人は怖くて逃げちゃったみたいなんです。友達は通りがかった親切な人に病院に運んでもらって入院して」
そんな事は事実無根の嘘だけど。私の友達に交通事故に遭った人なんて今まで一人もいないさ。
「で、大きくなった今でも友達は車をとても怖がるんですよ。でもそれがちょっとおかしくて、単なる車は平気なんです。だけど車に幼児とか小さな子供が乗ってるのを見てしまうと凄く怖がっちゃって……。何でそんな風になってしまったのか、私分からないんですよ」
自分でも。
この話は私を例えにした嘘の文。だけど筋は通っているから問題なんて無いはず。
ただちょっとさっき思い付いただけなんだ。私自身分からない自分の精神は、精神科医の由美先生なら分かるんじゃないかって。
由美先生は目を閉じて足を組む。薄いピンク色の口紅を引いている唇に指を当て、口角を上げた。
「…………例えばの話なんだけど、こんな例があるわ」
ソファーから身を乗り出すように体を前に傾け、身振りを加えて先生は喋り出す。
「とある外国のある街に一人の男の子が住んでいた。その子は父親から日常的に暴力を受けていたの、でもいつも暴力の際は木製のバットを使って殴ってた。その後色々あってその子は親戚の家に預けられて父親とは縁を切った。で、重要なのはここからよ。その子は中学生になってから野球部に入った。バットを見ても持っても特に反応を示さずに、一生懸命部活に打ち込んでいたわ。元々野球が好きだった子みたいで、ぐんぐんと実力も伸びていった。でもその子は大人になってから野球を止めてしまったの。オリンピックにも出れる実力かもしれないって周りからは言われていたのに。勿論その子は何度も聞かれていたわ。どうして? って。その度にこう答えていたらしいの」
一度切って息を吸い、小さく吐き出す。
「『大人の男がバットを持っているのを見ると、どうしても怖くなってしまうんだ!』」
くくっと肩を揺らして笑い、由美先生は微笑む。そして人差し指を私に差して、「どうしてだか分かる?」と聞いて来た。
私は少しだけ考えてから首を横に振る。そんな反応を確認してから先生は説明を始めた。
「その子は自分自身自覚していなかったトラウマを抱えていた。それは勿論父親の暴力によるものだったけれど、その発生の仕方が少し変わっていたのね。『大人の男』と『バット』が単体で存在しているのならばそれはトラウマが蘇ることにはならなかった。だけどそれが二つ組み合わされた時に、その子はトラウマが蘇ってしまった」
黙って聞く私に、由美先生はこう続ける。
「だからその友達も同じように、二つの事柄に同時に出会ってしまうとトラウマを思い出してしまうんじゃないかしら」
「そうなんですか……そうですか」
うんうんと頷いてココアを一気に飲み干す。温かいココアが喉を通って胃に落ちるのを感じ、細く長い息を吐いた。
私もそうなのかな、と思った。『虐め』も『自殺』もどっちも元々大嫌いだけれどそれが二ついっぺんに現れてしまうと、とても混乱してしまうのか。少しだけ分かりそうな気もするけれど、やっぱり分かりづらい。
ふと由美先生が窓の外を眺めて呟く。
「……曇ってきちゃったわねぇ」
釣られるように顔を向けると、さっきまで太陽が覗いていた空が一面の鈍い灰色になっていた。寒々しい色の曇り空。すぐにでもまた雪が降り始めるのだろう。
「明日は晴れると良いのにね」
そんな由美先生の言葉に黙って頷いた。




