第42話 見世物達の曲芸
そして舞台袖から一人の男性がやって来た。紫の癖っ毛ヘアーの青年で、虚ろな金色の瞳で会場を見渡している。濃いピンクと紫のボーダーというその服装は、不思議の国のアリスのチェシャ猫をイメージしているのだろう。彼は口元を大きな布で覆い隠している。その理由はすぐ分かるだろう。
少しざわめく会場の中、ステージ上で。その『チェシャ猫』は口元の布を下ろした。
会場が一瞬にして静まり返った。
いくつもの目が彼を凝視し、そして離さない。耳が痛くなるほどの静寂に包まれた会場では、誰かが息を飲む音も聞こえた。
彼はニヤニヤと笑っていた。いや、笑うしか出来なかった。
彼の口は耳元まで大きく裂け、両端を糸で縫い合わせられ、まるで本物のチェシャ猫のように笑っているのだから。
「――――キャアアァッ!」
前の方の席に座っていた女性が悲鳴を上げて椅子から立ち上がる。そのまま青白い顔をして出口へ走り去って行った。
実際私は、他のお客もその女性と同じ反応をするのではないかと思っていた。事前に中身を聞いて、多少はこういう物に耐性がある私でさえ、悪寒が止まらないのだから。
けれど、
「…………素晴らしい!」
その女性の近くに座っていた中年の男性が、そう叫んで拍手をする。
そしてそれを初めとしたように、そこら中で喝采が巻き起こった。
「最高だ!」「ありえないわ!」「素敵だ!」「もっとよく見せろ!」「こっちに来て見せて頂戴!」
わあわあと老若男女問わずお客が歓喜する。後ろを振り返ってお客の顔を見てみると、皆歪んだ笑顔をしていた。嬉しそうな笑顔楽しそうな笑顔輝くような笑顔。笑顔笑顔笑顔。その様子を見ていると、心の底からゾッとした。
私たちよりもはるかに、この人達の方が頭がおかしいんじゃないか。
「聞いてはいたけど、悪趣味だねえ」
藍川が吐き捨てるように呟く。腰のポーチの上に手を置き、見下したような目で藍川はステージ上にまだいた団長を見つめた。裏舞台では団長は舞台袖へ戻らないのか、ニヤニヤと笑いながら見世物を眺めている。
チェシャ猫の笑顔と団長の笑顔では、明らかに団長の笑顔の方が醜悪な笑顔だった。
アリスの手がまたガタガタと震えだした。だけどそれは不安でも恐怖でもなく、自分の元仲間が見世物にされている怒りだろう。現に、アリスのキツク噛み締められて白くなった唇からは、一筋の血が流れていた。
大道芸人が出てきて、チェシャ猫に何かを投げつける。床に落ちたそれを彼は両手にはめた。口がパクパクと開く、黒い猫のパペットだ。チェシャ猫はニヤニヤと笑う口を閉じたまま、その人形を動かす。
「『こんばんは! 今日はサーカスに来てくれてありがとう!』」
右手の黒猫パペットがパクパクと口を動かしてそう言う。腹話術か。
次に左手の人形が口を開いた。
「『オレ達はちょっと見た目は怖いけど、皆に楽しんで貰えるよう頑張るよ!』」
そして両手のパペットが同時に口を開く。
「『『楽しんでいってね!』』」
チェシャ猫が一歩下がって、礼をする。そしてそのまま舞台袖へと消えていく。お客からは大きな拍手と笑い声が届いていた。
その笑い声は彼の口を嘲笑するものばかりで、皆がその奇形を馬鹿にしていた。
次に出て来たのはさっき私の前にやって来たピエロだった。彼らはピエロ服を着ておらず、ぶかぶかの長い布のような服を着ていた。それもまた二人一緒に。
二人はペコリと同時にお辞儀をし、そして笑う。
「「初めまして」」
そして右側から顔を出している男の子が、「ぼくはディー」そして左側の子が、「ぼくはダム」。「「二人合わせてディー・ダムでーっす!」」
ああ、今度は双子のディー・ダムか。そう、まだ十二歳程度にしか見えない彼らを見て思う。
二人はさっきも思った通り、顔が見分けのつかないほどそっくりだった。丸っこい黒髪も真っ黒な目も全てが同じだ。けれど少し、顔や首の首の辺りに小さい傷がたくさんあることに気が付く。
ディー・ダムはニンマリと笑い、ディーが左手を、ダムが右手を高々と掲げる。
「「ではこれより、奇形児のストリップショーをご覧にいれましょう」」
最低最悪な台詞を笑顔で叫んだ彼らは、おもむろにその布のような服を脱ぎ出した。するりするりと布が落ち、彼らの裸体が露わになる。
上半身半裸状態の彼らの体は、すっかり痩せ細り、骨ばっていた。
そして何より。二人の体は首の下、肩から一つになっていた。
「確かあれって、結合双生児ってやつだよな。シャム双生児とも言うけど」
棺先生がポツリと呟く。お客の歓喜の声の中でも、その声ははっきりと私の耳に届いた。
ディー・ダムの二人は自分達に対する反応にくすくすと笑い続けていた。一つの体から生えている二つの頭を揺らして。
服を脱いで分かった事がある。二人の一つの体は、ちょうど真ん中を縦に無数の傷が見えた。刃物や爪で引っかかれたようなそんな傷跡。
「……何よこれ…………最低」
それまで黙っていた海月ちゃんが、ぶるぶると震えながらディー・ダムを睨むように見つめていた。その視線は二人に向けられたものではなく、その後ろでニヤ付いている団長に向けられているものなんだろう。海月ちゃんの右隣にいる海星くんも、無言ながらも団長を睨みつけていた。
きっと二人は双子だから。だから尚更親近感でも湧いているんじゃないだろうか。
海月ちゃんが佐々木さんの服を掴み、泣きそうな顔で小声で叫ぶ。
「ねえ、なんなのこれ。おかしいよ! なんで皆笑ってるの? あの子達が可哀想だと思わないの? こんなの酷いよ、ねえ。……おかしいよ!」
そして遂には佐々木さんの服に顔を埋め、肩を震わせて泣き出してしまう。海星くんもぐっと俯き何かを堪えるようにして、それを棺先生が軽く頭を撫でる。
あの子達はきっとまだ、十二歳。そして海月ちゃん達も今は十一歳。たった一つ違いでしかもどっちも双子で。まだ小さいんだ、感情移入してしまうのも無理は無い。
海月ちゃんも海星くんも、いくら人殺しと言えどまだ子供だ。本来なら純粋で優しい性格のこの子達はちゃんとした人の心を持っている。そう、少なくとも今、ステージ上の見世物に歓喜の声を上げている人々よりはずっと。
「……………………」
次は誰が出て来るんだろう。
次に出て来たのはシルクハットと燕尾服姿の長身の男性だった。
彼はステージの中央に来てシルクハットを取ってペコリとお辞儀をする。帽子を被っていることから、彼は帽子屋の設定なのだろうか。黒く跳ねた長髪は彼の顔の左側を覆っている。そして彼は左側の髪を上げ、ピンで止めた。
「……火傷だね、痛そう」
藍川がそう簡単に呟いた通り、彼、帽子屋の左側の顔は酷い火傷で覆われていた。
顔の左側殆どが焼け爛れ溶け引き攣った肌は左目をほぼ隠して。そこから覗く僅かな左目も、黒目の無い真っ白な目だった。かなり整った顔立ち故にその火傷は異様に目立つ。
彼の見た目が今までの人達よりはマシだからか、そもそも私が慣れて来たのか、さほど嫌悪感を感じる事は無くなって来た。……うん、やっぱり麻痺して来たんだろうな。
帽子屋は手に持つシルクハットを持ち上げ、ニッコリと微笑んだ。
「紳士淑女の皆様、この度はようこそお越し下さいました。お礼と言っては何ですが、簡単なマジックでも致しましょう」
言って彼はどこからか短いステッキを取り出した。それを一振りすると途端にステッキは長くなり、その長いステッキでシルクハットを叩く。
「ワン、ツー、スリー!」そう言ってシルクハットを空中に投げた瞬間。
ポポンッと軽い音が周囲に響き渡り、唐突に様々な花と花弁が舞った。
赤や青や黄色、ピンクに緑それに紫。大きい花から小さな花まで、多様多種の花と花弁が空中から舞い降りて来た。
お客はその光景にしばし見惚れ、そして歓声を上げる。特に女性の人々は自分の近くに落ちて来た花を手に取り嬉しそうだった。これ、どういう仕掛けなんだろう。
「……わ、これ可愛い」
ぐすぐすと泣いていた海月ちゃんも、自分の頭に落ちて来た花を手に取り感嘆の声を上げる。黄色い花がちょこんと立ち、ちょっと可愛い。
「あ、それフリージアだな」
「ふりーじあ?」
棺先生が花を見て言い、海月ちゃんは首を傾げる。
「南アフリカらへんにあった花。色によって花言葉が変わるらしいんだが、黄色は……無邪気、だったかな」
「ふーん、無邪気かぁ……」
満更でもないように、海月ちゃんは手の内にあるフリージアの花を弄ぶ。少しだけ微笑んで。
その時ステージ上の帽子屋が床に落ちた一つの花を拾い上げ、最前列に座っていた女性に手渡した。燕尾服の裾を少しはためかせ、わざわざ左の髪の毛を下ろして火傷を目立たせなくさせてから、女性に微笑む。
「お譲さま、こちらの花はご存知ですか?」
いきなり近寄られた女性は、少し体を彼から引かせながらも「え、ええ。……ペンステモンでしょう?」と、紫がかった白い花を握りながら言った。
「それでしたら花言葉は?」
「言葉…………い、いいえ」
帽子屋は手慣れたように女性の手の甲を取り、軽い口付けをする。そして柔らかな顔で微笑む。
「ペンステモンの花言葉は『あなたに見惚れています』。――――どうやら私も、あなたに見惚れてしまったようです」
うっわキザ過ぎる。さっきとは別の意味で悪寒が走りそうだった。
けれど女性は、そんなロマンチックな言葉にでも憧れていたのか、「まあ…………」などとうっとりとした台詞を吐く。ああ、帽子屋が火傷を隠したのもこの為か。顔が良い人からロマンチックな台詞を言われれば、大抵の女性はクラッと来てしまうだろうから。私からは女性の後姿しか見えないが、きっとその顔は少し赤くなっていることだろう。
ふと気が付けば舞い散った花弁が床にたくさん落ちていた。掃除が大変そうだなと思いつつ、同時に私の足元にも一本の花が落ちていた。白くふわふわとした感じの花だった。
なんだったっけなーこれ。小学生の時とか、通学路の途中の原っぱにたくさん生えていた気がする。確か……シロ、シロ「シロツメクサだ」「そうだ、それだよ」と、横を向くと藍川が私の手元の花を覗き込んでいた。
「ふわふわしてて可愛いねー、これにも花言葉とかあるのかな」
「やっぱりあるんじゃない? 花なんだし。――――先生、この花言葉って知ってます?」
棺先生が私の花を見る。少し考えてから、
「えっと、幸運、感化、約束だったかなあ」
「へえ、そうなんですか」
と、棺先生がまた唐突に思い出したことを口にする。
「あ、そうだあと一つ。『復讐心』ってのもあった」
そう言われた瞬間、心臓の鼓動が強くなったのが分かった。ドクンとした強い鼓動が体に響く。
喉が一気に乾き、舌がつっかえる。言えたのは
「そうですか……」
という質素な返事だけだった。
「凪ちゃんどうかした? 顔青いよ」
藍川が私の顔色を見ながらそう心配そうに呟き、フードを少し捲りながらアリスも私を心配したように見つめる。
「いや大丈夫。うん、何でもない」
そう答えてステージを真っ直ぐ見つめる。帽子屋はまだマジックを披露していた。
…………『復讐心』なんて花言葉、昔の私にはぴったりだなと、マジックを見ながらそう思った。
次は二人同時の出演だった。
舞台裏から出て来た二人のうち一人は、棺先生と同じような真っ白な髪をツインテールにした見た目十代後半の人だった。そしてもう一人はその白い髪の人に引きずられながらずるずると床に寝転んだ子供。
そしてそのうち白い髪の人を見て、アリスは微かな反応を見せる。フードからちらりと一瞬覗いた目は、今にも泣き出しそうなほどに涙を溜めていた。
白髪の人はステージの中央にもう一人の子を引っ張ると、一度手を離して額の汗を拭った。そして寝ている子の肩を強く揺らすと、その寝ていた子も目を擦りながら欠伸をし起き上がる。寝てたのかよ。
「ふう…………はいはーい、皆さんこーんばーんはー!! ほら、ヤマネも挨拶して」そう言って白い髪の人は隣の子の肩を軽く叩く。
「……………………こんば……んは」ぼんやりとした顔で、その子も小さな挨拶を返す。そしてまたゆっくり目を閉じようとして頭を引っ叩かれていた。
正面から見た白髪の人は肩幅や胸元、全体的な体型からすると男なのだろう。ツインテールという髪型は正直どうかと思ったが、まあ似合っている。肌が異様なほどに真っ白なのが気になる。日焼けを一切していないとかそう言うレベルじゃなく、本当に真っ白だった。
そしてもう一つ気になるのは、彼の顔に継接ぎがあるってことか。左目辺りをぐるりと継接ぎが覆い、その部分だけ肌の色が深緑色になっている。それらは首回りを一周していたり、腕や足にも所々見られ、まるでハロウィンのフランケンシュタインのコスプレのようだった。そして目が異様に真っ赤でまるで白兎みたいだって、あーそっか、あの人は白兎役か。
不思議の国のアリスでは、アリスは白兎を追いかけて不思議の国へ迷い込む。白兎とアリスは深い関係にあるから、きっとアリスがサーカスにいた時も、二人は仲が良かったんだろう。さっきの反応も踏まえると。
「…………眠いんだけど」
呑気にそう言いつつ欠伸をするもう一人の子は十三……十四くらい? 私とそこまで変わりなさそうな見た目だ。見た目で言えば、この子は特に変わった点は見られない。ただちょっと見た目が中性的過ぎて、性別が分からない。男のようにも見えるし女のようにも見えるし。服装もどこかからか適当に持って来たという感じのだぼだぼの茶色い服を着ていて、体型が分かりづらかった。長いボサボサの茶髪を掻きながら、その子はまた目を擦る。さっきの白兎の言葉から、あの子はヤマネの役だろう。
また舞台袖から仮面を付けた人が何かを押しながらやって来た。それは大きな十字架型の木の板で、持って来た人は乱暴にヤマネの腕を引っ張る。ヤマネはそれに対して特に抵抗も痛がりもせず、ただ眠そうに引っ張られて歩く。
木の十字架によじ登り、仮面の人に足首や両手を固定された。ぎゅうっときつく縛られたその縄にもヤマネは反応せず、がくりと首を垂らしてまた眠り始めていた。磔にされた様子は、よく絵画などで見るキリストの処刑と酷似している。そのままカラカラと十字架が動かされ、ステージの左端に移動された。
別の仮面の人が現れ、白兎に何かを押し付ける。白兎は少し溜息を付きながらその人に一言二言話しかけて、貰った物を腰のベルトにはめる。ステージの右端へ移動する。
そして会場が暗転し、二人のみにスポットライトが当てられる。どこか少し緊張の高まりそうな音も聞こえ始める。私も他のお客も、見入るように二人を眺めていた。
「……………………」
白兎の目付きは一瞬で鋭くなった。肉食動物が草食動物を捕えようとする目で、磔にされたヤマネを見つめる。
それから、ベルトに数本置いた鋭い投げナイフの一つを手に取った。
「…………ふっ!」
息を吐き、俊敏な動きで白兎は投げナイフを投げる。
空気を裂くように素早く、そして鋭利なナイフは寸分違わない位置へと真っ直ぐ飛んで行く。
そしてヤマネの右腕に、深々と突き刺さった。
「っ、え」
失敗したのかと一瞬思った。お客からも小さく悲鳴とざわめきが上がる。
けれど、自分の右腕からぼたぼたと赤い血が流れていてもヤマネは眠りこけたまま目も開けず、白兎も不敵な笑みを浮かべていた。そしてまた投げる。当然、刺さる。
ザクリザクリとナイフは容赦無くヤマネの皮膚を破り、肉を裂き、血を吹き飛ばす。何本かのナイフは骨にでも当たったのか、弾かれて床に落ちる。
白兎が腰に付けていたナイフを投げ終わった時。ヤマネの顔を除いた体には何本ものナイフが刺さり、血や脂肪や肉片などをぼたぼたと垂らしていた。そしてそれよりなによりも、
「ふわあー……白兎ぃ、今日はもう終わった?」
「うん、投げ終わったよ。お客さんに挨拶しようね」
体中傷だらけのヤマネも、ナイフを投げ続けた白兎も。何事も無かったかのような飄々とした顔で軽く微笑んでいることが不気味だった。
白兎が磔にされたヤマネの紐を解き、床に下ろす。血を流し過ぎたのかヤマネは少しふらついていたが、すぐに軽い足取りでステージの中央に歩いて行った。白兎もそれに続き、中央に二人並んでペコリと礼をする。
「「ありがとうございました」」
そう言って二人は舞台袖へ戻って行った。
次の人が来る前に、何人かの仮面を付けた人達がモップを持って来て、血や肉で汚れた床を拭く。その手付きは乱暴で乱雑なものだったが、幾分か汚れは拭き取っていた。
そして後何人かが頑丈そうなロープを引きずりながら持って来て、梯子を使ってステージ上空へ上り付けていた。そして床にはロープに届くくらいの長さの螺旋階段を設置した。
「次の人で最後です」
アリスがぽつりと呟いた。
その最後の人は、優雅な足取りでステージに上がって来た。
真っ赤で薄く、肌を露出させるような豪華な服を身に纏い、頭には煌びやかな王冠を被っている女性だった。彼女が表しているのは『ハートの女王』だろう。
カツコツとハイヒールの音を鳴らし、他の見世物達と同じようにステージ中央で一礼をする。その際またハイヒールを鳴らした。
彼女はとても綺麗な人だった。
どこか色気を漂わせる整った顔立ち、アリスと負けず劣らず豊満な胸と、引き締まったウエスト。足は皆スラリと伸びている。けれどやはり彼女は見世物だった。彼女には異様な点が二つあった。
一つの異様な点は、髪がとてつもなく長い事。ストレートに伸びた艶やかで燃えるように真っ赤な赤髪は、床に付くほどに長く、少し引きずっている。
そしてもう一つの異様な点、
彼女の足は三つあった。
「本日はようこそお越しになったわね。ワタシが最後で最高の見世物、女王よ」
ニッコリと微笑み、女王は優雅に器用に足を組む。そして身を翻し、螺旋階段を上り始めた。カッカコツコツ、三足のハイヒールの音が鉄の螺旋階段で反響する。
ロープの手前まで上ったところで彼女は、緊張した面持ちも前振りも見せずに唐突にロープを渡り始めた。ぎしりとロープが軋む音がする。
「綱渡りか……命綱もクッションも無いんだね」藍川が呟いた。
「当たり前だよ。普通そういうものだし」それにきっと今ステージにいる団長は、彼女が落ちて死んだとしてもそれすら見世物にしそうだ。
彼女は三本の足を使って悠々とロープを渡る。一歩進むごとにロープが軋む。そしてちょうど中央ほどまで進んだ時だった。
ずるっと彼女の足が一本滑る。ロープから足が外れた。
「あ」
ロープがほんの少し黒く染まっているのがその時分かった。さっきロープを持って来た人達が床に引きずっていた時拭き取れていなかった血が染み込んでしまったのだろう。
彼女の体がぐらりと倒れ、周りから甲高い悲鳴が上がる。私も一瞬息が詰まり、彼女が頭から床に叩き付けられて頭蓋骨を砕きながら死んでいく様子を想像してしまった。
けれどそれは杞憂に終わった。
「…………っ、セーフセーフ」
ぶらりと彼女は逆さまの状態で笑っていた。
長い髪を逆さまに垂らして、彼女は逆さまになっていた。一本の足はロープから外れていたが、もう二本の足がロープを挟んでいた。ぶらぶらと今だ不安定に揺れる彼女だったが、それでもまだ落ちてはいなかった。
「よっと!」
思いっ切り体を振って、彼女は起き上がる。二本の腕でロープを掴み、俊敏な動きでまた立ち上がる。
お客からは歓声と拍手が上がり、彼女は嬉しそうに笑顔を振り撒いていた。
と、その歓声の中棺先生が呟いた。
「そろそろ行くか」
そう言えばすっかり忘れていた。私達がここに来た理由を。服の下に隠している包丁の位置を再確認し、椅子から離れる。
幸い他のお客やステージの人々は、演技や女王に目を奪われていて私達には気付いていない。
そして私達はこっそりと、さっき通って来た通路に戻った。