第43話 交戦
通路は最初に通った時より、冷たい空気が充満している気がした。皆足音を立てないようにそっと、けれど急いで通路を歩く。そんなに時間は経たず、さっきの扉の前に来た。
「関係者以外立ち入り禁止……か」
アリスがいる以上、関係者になるんじゃないかな? そんな単純な考えで扉に触れる。ひんやりとした鉄の冷たさが痛い。そして試しにゆっくりと押してみた。
「…………お」
扉には何故か鍵がかかっていなかった。ギギギと鈍い音を立ててゆっくりと扉の向こう側の光景を映す。真っ暗な暗闇の中に、錆びれた螺旋階段が設置されているのがギリギリ分かった。
それからもう少し扉に手をかけ、幅を広げる。すると向こう側の一層冷たくなった空気が一気に私達の体を包んだ。
「寒いね」「うん、寒い」
海星くんと海月ちゃんが呟き、お互いに少しくっ付き相手の背中を擦る。体を軽く震わせて白い息を吐いた二人に佐々木さんが尋ねる。
「お前ら、ちゃんと物は持ってるか?」
二人はその言葉にリュックを下ろして中身を確認した。そして自分達の目当ての物を取り出し、満面の笑みで微笑んで頷く。
海星くんは、分厚いガラスの瓶に入った透明な液体を持ち、海月ちゃんは細長い道具を持って、
「持ってます」「持ってるわよ!」
「ならよし、絶対に無くすなよ。……それと、自分達が危なくなったら迷わずにそれを使うんだぞ、分かったか?」
真剣な面持ちの佐々木さんに、二人も唾を飲み込みながら真面目な顔付きで再度頷く。そしてまたリュックを背負い、真っ先に螺旋階段の元へ駆け寄った。
そんな二人に佐々木さんも続き、棺先生、藍川と続く。私もその後に続こうとして、ふとアリスがぶるぶる震えだしていることに気が付いた。
ほんの少し青ざめ、握りしめた拳は汗ばんでいる。
「……大丈夫? アリス」
「はい、大丈夫です」
そしてフードから覗く青い顔のまま、アリスは口元だけ微笑む。
「これは武者震いですから!」
ぎしぎしと軋む螺旋階段を上り切った所は、ステージの上空を通る狭い通路だった。荒い隙間が多いその通路からはステージの様子が見れる。多足のハートの女王はもうすでに出番を終えたのかおらず、最後のシメらしき演劇が行われている。詳細を言うと、表舞台の人達が今までの芸を一気に同時公開しているだけなのだが。ジャグリングや投げナイフ、綱渡りに空中ブランコ。仮面を付け素顔の分からない彼らは表面上だけでも楽しそうに演技をしていた。そして団長の姿もステージ上に見える。これは好都合だ。
「今、この時間だけが裏舞台の皆だけでいるはずです。急ぎましょう」
アリスの言葉に頷き、通路をまた渡る。
通路を渡り終えるとまた螺旋階段が現れた。極力足音を立てないように下り、扉を開けて通路に出た。
こっち側の通路は真っ暗で、一歩先も見えない程だった。両手で辺りをまさぐると、すぐに左右の壁に手が付く。大分狭い通路らしい。
「……こっちです」
アリスの声が聞こえる。そして小さな足音が私達からどんどんと離れた位置に響いた。アリスの足音を追って背後を歩く。
狭く冷たく暗い通路に皆の足音が響く。けれど何故か、アリスの足音だけが少し大きく聞こえた。
そしてとある一ヶ所で、アリスの足音が止まった。私達も止まり、辺りは途端に静まり返る。しんとした、呼吸音も聞こえない暗闇がしばし続いた。
そして唐突に、目の前に光の筋が通った。
視界が眩しく何も見えない。一瞬誰かに見つかったかと焦ったけれど、その光が強まるにつれ、ギギギと言った扉の開く音が聞こえた。
光の幅は広がりそして止まった。その時、唐突に声がした。
「誰?」
少し高い少年のような声だった。光に慣れ、その光景がはっきりと見えるようになる。
……………………凄い光景だった。
何人もの子供がはしゃいで走り回ってもぶつからない程に広い空間。汚れた白い布の床と壁以外は何も置いてない部屋。
そこに、ステージで見た見世物達が全員集まっていた。
最初に声を発したのは床に座っている白兎。継接ぎ部分の緑色の肌を触りながら、こっちを真っ赤な目でぎょろり見つめていた。その白兎の隣には、ぼろぼろの大きな布団を被ったヤマネがすやすやと眠っている。
白兎の後ろには布を外してニヤニヤ笑っているチェシャ猫が、隣には帽子を被ってニコニコ微笑んでいる帽子屋が、そして少し離れた所には三本の足を器用に組んで椅子に座るハートの女王がいた。
「……誰?」
白兎がもう一度同じ事を言ってこっちを睨む。その場の視線がこっちに集中し、私や藍川達もアリスの方を見つめた。
アリスはフードから覗く唇を震わせ、そしてぐっと何かを決意してからフードを取った。
「白兎っ!」
泣きそうな……いや、実際に両目からぼろぼろと大粒の涙を零して、アリスは彼らに笑いかけた。
白兎はポカンと口を開けてアリスを凝視していた。白兎に限らず、他の人達もかなり驚いた様子でアリスを見つめている。
白兎の開いた口が、みるみるうちにニヤけていく。そして彼もまた目に涙を溜め、立ち上がってアリスに駆け寄る。
「――――アリスッ!」
ガバッとアリスを抱き締め、嬉しそうな顔で泣き出す。アリスもまた彼を抱き締めながら泣いていた。
「会いたかった……! 会いたかったよぉ!」
「ボクも会いたかったよぉ、アリス!」
わんわんと二人は泣き続け、その様子を私達は黙って見守る。二人は泣き崩れたように床にへたり込み、お互いを強く強く抱き締めていた。
「…………で、どうしてアリスはここに戻って来たの?」
散々二人が泣き続けて疲れてぐずぐず鼻を啜っていた頃に、二人の泣き声で目を覚ましたヤマネが眠そうに呟いた。
その言葉に白兎はハッとした様子で、また一段と赤くなってしまった目をアリスに向けた。
「そうだよ……どうして、戻って来たの? アリス、ここ逃げ出したんじゃない」
「それは…………」
アリスは一度目を閉じ、強い意志を持った瞳で皆を見上げた。
手を大きく振り、身振りを加えて喋り出す。
「皆、ここを逃げ出そうよ!」
意外にも、その言葉には誰も反応しなかった。アリスは不安げな表情になり、無言の中で帽子屋が言った。
「どうして?」
「え…………?」
ニコニコと微笑む帽子屋に、アリスはたじろぐ。少し挙動不審に帽子屋を困惑して見つめ、首を軽く傾げた。
「何で……って、そりゃ、あの…………ここにいても皆、団長や仮面の人達に虐められるだけなんだよ? ここにいても、辛いだけだよ! だから……逃げようよ」
帽子屋はニコニコニコニコと微笑んでいる。アリスは少し脅えたようにしながらも続ける。
「わたしだって、皆のおかげだったけど、逃げられたんだよ! それにほら!」
そう言ってアリスは私達に振り向く。一人一人の顔を見つめて、
「わたしの……えと、新しい仲間も連れて来たんだよ! もう団長だって怖くないよ。……ねえ!」
ふるふると震えながらアリスはまた涙目になる。微笑み続ける帽子屋と、無言の仲間達にアリスは「なんで……」と呟いた。
そんなアリスに、今まで黙っていたハートの女王が声をかける。
「ねえ、アリス。あなたは自分の言っていることが分かってるの?」
「…………」
無言のアリスに溜息を付き、苦笑した女王はアリスに諭すような口調で、
「あなたが言っているのは私達全員がここを出るってことでしょう?」
アリスは未だに、意味が分からないと言った様子で泣きそうな顔をしている。
私は何となくだけれど、帽子屋と女王の言わんとしていることが分かったような気がしていた。それは私と出会った時のアリスが悩んでいた事と、同じ事でもあった。
「それはね、つまり」
「そこで何をしているんだね?」
反射的に皆が声のした方向へ体を向けた。
灰色の短い髪、長い顎鬚、濁った青い瞳。右手に持つ、持ち手が絢爛な装飾の杖で体を支えながら。口元を不気味に歪ませてニヤニヤと私達に視線を向けている。
団長がそこにいた。
「っ、あっ、……だ、だん、ちょっ」
喉を震わせながらアリスが団長に目を見開く。団長の方はアリスの存在を見つけると、ギョロッと目と杖を回して嬉しそうに両手を広げる。笑みを一層強めて、目を細くして、
「これはこれは! 我がサーカスのお姫様のご帰還か! …………久しぶりだねぇ、アリス」
アリスは歯をガチガチと鳴らして団長を見つめる。もう一度団長の顔を見た。気味の悪い笑い方と嫌らしい目付きが私達を射抜いている。細く骨ばった指がアリスに近付き、そのまま頬に触れる。もう一度アリスは肩を跳ね上げ逃げようとするが、足が震えて動けていなかった。目からは大粒の涙が零れ出し、小さな呻き声を上げる。
「たった一年、されど一年。ずいぶんお前も変わったものだねぇ。わざわざここから逃げ出した癖に、何故戻って来たんだい?」
「う、ぁっ……あぁ…………」
言葉にならない小さな声で震えるアリスの肩に団長は杖を持った右手を置く。顔を歪めて、楽しそうに嬉しそうにアリスの頬をもう一方の手で撫でながら畳みかける。
「どうせだからこの際、戻っておいで。お前のステージは用意してあるんだ。
「やめろっ!」
そんなアリスを庇うように、白兎が団長の手を叩いてアリスの前に立つ。両手を広げて団長を睨み付けた。足を竦ませて目に涙を溜めつつも、その視線は団長を射抜く。
息を荒くする白兎の後ろで、アリスはただ黙って立っていた。団長が、私達に目を向ける。
「こちらにいらっしゃるのは、お客様か? 今宵は我がサーカスにようこそおいでくださいました。して、ご感想の程は?」
「ええ……とても」最悪「凄かったです」
私も団長を、出来る限りの憎悪を込めて睨む。そんな私の反応にも彼はニヤニヤとした笑いを保つだけだった。
「お客様方、このような場所にいらっしゃっては駄目ですよ。注意書きを見なかったのですか? ――――まあそれはともかく、お見送りいたしましょう」
そう言って団長は片手を振った。それが合図だったのだろう。
扉の向こうから、何人もの仮面を付けた人達がぞろぞろと出て来た。
女性も男性も皆が皆、手に何かを持っている。それは銀色に鈍く光る、私がよく持っている物。ナイフだった。
「お見送りって……どこにだろうね?」
藍川が腰のポーチから金槌を取り出し、笑った。後ろを軽く振り向くと、棺先生も佐々木さんも海月ちゃんも海星くんも、皆手に持つ物があった。
「出口ではないだろうなあ」
私が藍川にそう答えるのと同時に。
一斉に仮面を付けた人々が、私達に駆け寄って来た。
まず見えたのは、一番前にいた私の足元をすり抜けて行く小さな人影。まず聞こえたのは、液体がばら撒かれるような水音。
次に見えたのは聞こえたのは、前方にいた仮面の人々の苦痛の表情と絶叫。
「いぎっ……ぎゃあああぁぁああぁあぁぁあああ!!」
仮面がドロドロと溶け、人々の顔からは白い煙が上がる。肌がボロボロと崩れて溶ける。赤い顔の肉が露出した。
手足をばたばたと動かしながら、仮面を急いで取る人々。その顔が露わになったが、それは特に変わり映えのない普通の顔だった。単眼だとか口唇口蓋裂だとかそういうことは一切無い、普通の顔だ。まあ、今は焼け爛れているのが殆どだけども。
「……うわ…………っは、ぁ、あ。……凄い、これ」
肩で息をしながら、少し興奮したように海星くんが頬を赤らめる。海星くんは今、私の目の前に立っていて、その左手には今半分中身をぶちまけたばかりの小瓶に入った濃硫酸があった。
「凄いな、硫酸ってこんなになるんだ」
棺先生も感心した様子でそう呟いていた。
棺先生は理科教師だ。学校の実験用だと偽れば、硫酸や塩酸なども手に入りやすい。そしてその濃硫酸は学校の実験に使われることは無く、今こうして人間の皮膚や肉を溶かしている。箱に書いてあった『人に向けて零してはいけません』と言った注意書きなんて無視をする。
目の前で人々が肉が露出して煙の上がっている顔を押さえているのを見た後方の仮面の人々は、たじろぐ。それは仲間を心配しているという意味では決して無く、次に行動したら自分もこうなってしまうのだろうか、といった恐れだ。
と、左の方で鈍い打撃音がした。
反射的に首を左に向ける。そこには一人の男性に馬乗りになって、頭を金槌で叩いている藍川の姿があった。
微笑を浮かべながら何度も男性の顔や頭部を叩く。男性の方は叩かれるごとに悲鳴を上げて、必死に逃げようとしていた。
「ちょっとー、逃げないで下さいよっ! 早く殺されましょう?」
「ぎゃっ! ぢょっとまっ……ぎゃあっ! ぎっ、がっ!」
藍川が次の一撃を与えた時、仮面がパキッと割れて、その次の一撃で顔にめり込んだ。
「ギイィィガアアアァアッ!!?」
獣のような雄たけびを上げる彼の目から血が数滴飛んだ。仮面の破片が目に刺さったのか、目を押さえている手の隙間からは血の筋が一筋垂れる。
息を荒くして、手探りをする彼の手を藍川が足で踏み付ける。そして、金槌を思いっ切り振り下ろした。
ゴシャッと鈍い音がする。
「……………………」
海月ちゃんが首をそっちから背け、苦虫を噛み潰したような顔をする。そしてまた、自身も手に持つ物を握り締めて、自分の後ろからナイフを振り下ろそうとしていた仮面の女性に突き付けた。
「キャアアッ!?」
激しく痙攣して足を震わせその女性はへたり込む。涎を垂らして体を傾かせ床に倒れ込んだ。
バチバチと激しい音を立てて電流を流しているそのスタンガンを右手に持ち直し、海月ちゃんは彼女のナイフを奪って彼女の心臓に突き刺した。瞬間女性の口は大きく開いたが、そこから言葉は漏れる事なく力が抜ける。ナイフを抜く時のぐちゅっという生々しい音に、海月ちゃんは苦い顔をしていた。そして言う。
「死んじゃえ」
そう言わなくてももう、彼女は死んでいると言うのに。
一度に何人もが死んでしまった。その光景を仮面の人々は呆然と突っ立って見つめていた。
団長が苛立ったように叫ぶ。
「何をしている? とっととこいつらを殺してしまえ!」
その張りのある声に仮面の人々はびくりと肩を震わせる。そして口元を引き締め、一斉に私達に襲いかかって来た。
藍川が金槌を使い、頭や腕に全力をお見舞いする。ナイフが頬や腕を掠っているのに、痛がらないし怖がらない。目を見開いて、笑顔で金槌を振り回す様子は、少し怖かった。
海月ちゃんと海星くんは背中合わせで互いをフォローする。海月ちゃんはスタンガンとナイフを使って気絶させたり胴にナイフを突き刺したり。海星くんはバッグから何個もの小瓶を出して硫酸や塩酸をばら撒く。一応やはり毒殺犯と言ったところか、自分の手や味方にはかからないように計算された手付きだった。
「あっ……!」
「海月っ!」
海月ちゃんが手を蹴り上げられ、スタンガンを落下させてしまう。そしてその隙にと、一人の細身の女性が海月ちゃんに襲いかかった。
海星くんの硫酸をばら撒いたら海月ちゃんにもかかってしまう。私の距離からも二人には間に合わない。
危ない、と思った時だった。
「オレの妹に何すんだ?」
女性が宙に浮かんだ。いや、正確には首をロープで絞められ、力任せに持ち上げられた。女性はそのロープに驚き、ナイフを手放してロープと首の間に手を入れようともがくが、ロープの力はギリギリと強まって行くばかりだ。
そのロープで女性の首を絞めている佐々木さんは、今まで見た中で一番怖い顔をしている。目を見開いて瞳孔を小さくさせた目が彼女を貫き、ロープを握り締めた手の力を弱める事は無い。
か細く呼吸をしようとする女性は喉を掻き毟り、涎を垂らしながら顔をどんどん赤くさせていく。ナイフを手放さなければ良かったとでも思っているのかもしれない。もしかしたらロープを切れたかもしれないのだから。けれどそのナイフは今、呆けた顔をした海月ちゃんの手に二本目のナイフとして収められている。
「死ねよ」
佐々木さんがそう言って、一気に手を左右に引っ張る。女性の首が仰け反り、動きを止める。小さくボキンと言う音がしたのはどこが折れたのだろうか。
左手をロープから離すと、ロープは簡単に女性の首から離れる。紫色の痣を首に残した女性は硫酸の零れた床に顔から倒れ、じゅうっと顔を焼く。それでも彼女が起き上がる事はなかった。
「……さ、佐々木お兄ちゃん」
「ん?」
海月ちゃんが少しだけ頬を赤くして、おどおどと佐々木さんに尋ねる。
「今、その、妹って…………」
「あー…………」
ふいっと佐々木さんは海月ちゃんから顔を背け、仮面の人々と向かい合いながら言う。
「妹みたいなもん、だからな……うん」
「……………………そ、そうなの」
海月ちゃんも少し赤らんだ顔のままで仮面の人々と向き合った。佐々木さんの耳が少し赤くなっているのは海月ちゃんからは見えないだろう。
二人とも、似たような性格だなと思った。
棺先生も藍川と似たように、笑いながら周りの人を刺していっていた。小型のナイフで攻撃を避け、頭を刺す。ひょいひょいとナイフを避けながら攻撃しながら。楽しそうに笑っていた。
「やっぱりさー、死体って綺麗だよな。凪もそう思わない?」
「えー…………思いませんね」
次々と床に転がっていく死体を棺先生はうっとりと見つめる。顔が焼け爛れた人や頭が潰れた人、目玉が抉り取られている人などもお構いなしに。
私も私で襲いかかって来る人々と交戦する。使い慣れた包丁を片手に切っては刺し切っては刺しの繰り返し。
前から向かって来た、体格的に女性だろうその人がナイフを振る。慌てて後ろに体を倒すとわずか鼻の数センチ先をナイフが掠めた。
女性は何度も私に向かってナイフを振り回していたが、私も包丁でそれを受け止めた。腕や足をナイフが掠め血が滲む。
「いった……」
ナイフが掠る度に、熱さと痛みが電気のようにその箇所に走る。空気に晒された傷口はひりひりと痛んだが、今は悠長に痛がってもいられない。再度振り回されたナイフを避け、私も包丁を振り回した。
私は運動神経も普通だし、漫画みたいに相手の攻撃を華麗に避けて華麗に反撃なんか出来るはずも無い。適当に振り回し、適当に当たったら幸運だ。
「キャッ!」
そして幸運にも女性の頬に包丁が掠めた。数滴の血が飛び、瞬間的な痛みに女性は一瞬だけ動きを止める。その一瞬で十分だ。
私は包丁を握り直し、女性の左胸に深々と突き刺す。勢いに任せて彼女を包丁ごと押し、彼女の後ろにいた仮面の男性と共に床に倒した。
途中で抜いた、ベットリと鮮やかに赤く汚れた包丁を見て掃除が大変そうだと顔を歪める。そして背後を振り向いて一人の男性がそこにいたのを確認し、思いっ切り体を後ろに回して勢いを付けて男性の腰に包丁を突き付ける。
正直、とても楽しかった。
ナイフが深く腕を掠めても、顔のギリギリを掠めて危なかった時でも、どんどんと人を刺す事が面白くなっていった。
最近あまり人を殺していなかったからかもしれない。それまでの鬱憤を晴らすかのように人を刺しては殺していく。肉を突き刺す感触が、溢れ出る血の匂いが、床に転がる死体が、どれもこれもとても綺麗に思えた。さっきの棺先生の言葉に今なら頷ける。
それからしばらく、仮面の人々と私達の交戦は続いた。
その時の私の顔は、藍川達と同じように笑顔になっていたはずだ。




