第39話 アリス
結局その日は学校を休むことになった。アリスを家に一人で置いておく訳にはいかなかったから。
茜や一宮、藍川からもメールは届いたが、『ごめん、登校中に捨て猫拾って世話してた。面倒だから適当に言っといて』と嘘のメールを返してアリスに向き直る。
「えーっと……じゃあ、取りあえず服でも買いに行こうか」
私の貸した少しきつめの服を着たアリスは、恥ずかしげにはにかみながら頷いた。
その後バスで数個進んだ所にあるデパートへ向かう。バスに乗っている間、アリスは非常に驚いた顔で窓の外を眺めていた。興味津々と言った感じに。
降りた先にあるデパートへ入ると、店内は暖房が効いていて適度に温かかった。ぼーっと店内の天井や品物や行き交う人々を見回すアリスの手を引いて、服屋の女性物の服の棚へ行く。
「わ、わー。凄くたくさんの服がありますね! 凄いです!」
確かに多様多種の服が並んでいるが、そこまで目を輝かせて驚くことだろうか。
不意にさっきのバスでの様子を思い出し、耳元に口を近付けてこっそりと呟く。
「……ねえ、アリス」
「はい?」
「さっきのバス……乗り物とか、乗った事ある?」
アリスは一瞬考え込んで、ハッキリと言う。
「乗り物は乗った事がありますけど……窓の外の動く風景とか、そういうのは無いです」
乗り物なのに窓の外の風景が見えない? …………地下鉄とか?
「それってどういう……」「お客様、何か気にいらした商品などございますか?」
アリスに言いかけた台詞を遮られる。店員のお姉さんがニコニコと私達に話しかけていた。アリスはいきなり話しかけられた所為か少しおろおろとし、私の方を見て「……帰ったら、説明します」とだけ言う。
店員のお姉さんはじろじろとアリスと私の体を見ながら適当に服を選んで行く。まあ服を選ぶのならプロに頼んだ方が楽か。私はよく分からないし。
「こちらの服などどうでしょう?」
そう言って真っ白な縦縞セーターを手に取る。続けて、「サイズもゆったりとしていて、着やすいかと思われますが」そうハキハキとアリスの、主に胸部を見つめて言う。悪かったな私の服で。
「えと……じゃあ、それで…………」
「でしたらこちらの赤いスカートなどもお勧めですよ。冬場ですし、足元はタイツや厚手のオーバーソックスなどもございます」
矢継ぎ早にぺらぺらと身振りを含めて畳みかけるお姉さん。アリスは目をぐるぐると回して混乱しながら服を手に取り、お姉さんに背中を押されて更衣室へ消えて行く。
「着替え終わったら教えてねー」
「は、はいぃ」
そしてカーテンで目隠しをした個室の中でアリスが着替え始める音がする。
壁に寄りかかって待っていようかとしていると、店員のお姉さんは私にも目を向けて微笑んで来た。
「お客様にも何か服を持ってきましょうか? スラリとした体型ですし、新作のノースリーブのジャケットなど……」
「いえ、いいです」
ニッコリと愛想笑いを返して断った。
そのうちカーテンを恐る恐る開けてアリスが姿を見せた。もじもじと内股気味に立ち俯きながら、私に上目遣いで「ど、どうでしょうか」と尋ねて来る。
「可愛いよ、本当に」
「そうですか?」
アリスが着替えた白いセーターは、アリスの体にぴったりだった。きつすぎる緩すぎず、それでいて楽そうで。下に穿いた赤いスカートも白と対照的でよく映える。足元には黒いニーソックスと、さっきとは大分印象が変わっていた。
「えへへ……ありがとうございます」
満更でもないようで、アリスはそう言ってはにかむ。大分この服が気に入ったようだった。
財布の中身を確認する。一応お金は多めに持って来ているので問題無い。レジへ向かって店員さんへ話しかけた。
「この子が着てる服買います。あ、着て帰っても良いですか?」
「はい、大丈夫ですよ! えーっと…………」レジを打ち、計算した答えが叩き出される。「全部で四千二百円になります」
そこそこかな。けれどアリスが一瞬だけ、「えっ!」と驚いた声を出す。
「何、どうかした?」
「あ、えっと……」
少し苦い顔をしながら、私にだけ聞こえるように耳元でこっそり呟く。
「服を買うのって……お金、いるんですか」
「…………」当たり前だ。だって『買う』んだもの。
アリスは本当に何も知らなかったような顔で困惑している。そう言えばここに来る時も手ぶらで、バスを降りる時もお金は私が払ってたからな。いや、普通に私が奢るつもりだったけど、まさか知らなかったなんて……。
「ど、どうしましょう。わたしお金持ってませんよ」
「だからいいって、私が払うから」
店員さんに五千円札を渡し、八百円のお釣りを貰う。ありがとうございましたーという声を背に受け、少し慌てるアリスと店を出た。
「う、うわ、ごめんなさい! そのうち絶対お金は返します!」
「いいって別に。私だって奢るつもりで来たんだし」
「そう言う訳にはいきません! 働いて返します!」
別に、本当にいいのに。そう考えながらアリスと歩く。
アリスはデパートに来た事も初めてなようで、興味深げに周りを見ていた。特に、ボールプールや柔らかいクッションが置いてある子供の遊び場の前を通りかかった時に、子供達をじっと見つめていた。
「ちょっと休憩してく? あそこで」
「え……あ、はい。今はお腹もいっぱいだから、大丈夫です」
一瞬何の事か分からなかった。けれどすぐ、今朝会ったばかりののアリスの行動を思い出して納得。同時に肩が少し痛んだ。
今はお腹がいっぱいだから、子供を見ても食べようとはしない、ということなのだろう。
自分の子供を微笑ましそうに見つめるお母さん方やお父さん方の座っている、遊び場をぐるっと囲んだソファーに座り、私達も子供を眺めた。
三歳ぐらいのちいさな子から小学生くらいの子まで、数人の子供たちがきゃいきゃいと遊んでいる。ソファーの円に沿ってぐるぐる走る子がいたり、積み木型のクッションの取り合いをする子もいれば、それを小学生の子が宥めたり。
可愛いなあ、と思いながらそれを眺めていると、ぐるぐると走っていた子が私達の目の前で転んだ。
「あっ、だ、大丈夫?」
その子にすぐ声をかけたのはアリスだった。少し慌てつつも優しく体を起こしてあげる。
まだ四歳ぐらいのその女の子は、転んだショックなのか目を潤ませている。泣きだしはしていないしここの床は柔らかく出来ているので怪我は無いだろうが、驚いたのだろう。
私も頭を撫でて「大丈夫だよー」と声をかけるが、目の潤みは止まらなかった。
その時、アリスがその子の視線に合わせてちょっとしゃがみ、おでこをコツンと合わせる。キョトンとしたその子に、微笑みながら言った。
「痛いの痛いの飛んで行けー。――――わぁ凄い、痛いのがどっかに飛んでっちゃった!」
子供が良くお母さんにやって貰う台詞を、アリスがその子に言った。私も昔怪我をした時、お母さんに同じ事をして貰ったことを思い出す。
子供は少し驚いていたが、目を擦って笑った。「おねえちゃん、ありがとぉ」頬のえくぼが可愛らしい。
「あ、そおだ」
その子が思い付いたように服のポケットをごそごそと探る。私とアリスが見つめる中で、その子は小さな丸い手に何かを乗せて出して来た。
「はい。これ、あげる。あたしのおきにいりなんだぁ」
それは赤いヘアゴムだった。それを二個、アリスの手に乗せる。「いいの?」アリスが尋ねると、「うん!」と元気良く頷いた。
と、そこへその子の親らしきお腹の膨らんだ女性が早歩きでやって来た。
「すみません! うちの子が失礼しました!」
「あ、ママー!」
その子は顔を輝かせてその女性の元へ駆け寄る。女性はその子に軽く怪我の事を心配してから、何度も私達に浅くお辞儀をしてお礼を言った。
「私がちょっと目を離してしまったもので……大変失礼いたしました!」
「いえ、大丈夫です。可愛いお子さんですね」
私がそう女性に言い、女の子は女性の服を引っ張ってアリスを指差す。
「あのねママ、あたしあのおねえちゃんにかみのけのゴムあげたの。いいでしょ?」
「え? あのヘアゴム? 赤いの?」
そしてアリスが手に持っている赤いゴムを見て、女性はニッコリと微笑んだ。
「あ、あの……これ、返した方が…………?」
「いえ、どうぞそのままお持ちください。そんな物では駄目かもしれませんが……お礼にどうぞ」
アリスは女性に少しはにかみながら頭を下げ、満足気な表情をする女の子に「ありがとね」と言った。
「では、私達はこれで。ありがとうございました」
「おねえちゃんたち、バイバーイ!」
小さな片手で私達に手を振り、もう一つの手で母親と手を繋ぎながら、その子達は去って行く。
手を振ってからアリスを横目で見ると、アリスはどこか遠い顔をしながら二人を眺めていた。
「ところでさ、アリスはどうしてあそこにいたの?」
「……あー、林のこと、ですか?」
家に戻った時にアリスに尋ねた。アリスは少し困惑したような表情で、ソファーの隣に座る私を見つめた。
「わたしが、あの……人を……た、食べる、ってのは分かってますよね?」
うん、と頷く。アリスは小声で顔を歪めながら話す。やっぱり人食というのには自己嫌悪を覚えるものなのだろう。
両手で買ったばかりの赤いスカートを握り締め、目を伏せがちにして。
「その、それで……………………」
「…………」
「…………」
「…………」
アリスはしばし黙り込む。口をもごもごと動かし、言い出すことが難しそうに。
そして私に顔を向け、しっかりとした目付きで言った。
「わたし、とある所から脱走して来たんです」
…………は?「脱走?」「はい」
脱走とはどういうことだ。よく漫画とかで見る、人体実験施設からの脱走とかそういう系なのだろうか。いや、あれは漫画などでしか見た事が無いし、実際にあるとは思えない。……あ、そうだ、だけど似たようなものは聞いた事があるじゃないか。それもつい最近。
海月ちゃんと海星くんが見たいと言っていて、佐々木さんの話にも上った、あの、
「サーカス」
「っ!」
アリスの肩が跳ねる。すぐに顔を上げて私に視線を向け。『どうして知ってるの?』と言いたげに。
考えて見れば思い当たる節なんていくらでもあった。というかあり過ぎた。むしろ何故気がつかなかったのだろうか。
本名が分からない彼女の『アリス』という偽名も、カニバリズムという性癖も。佐々木さんの話に出ていた青いドレスの少女と全く同じじゃないか。
皿に乗った人の心臓や脳味噌を一心不乱に食べていたという、あの少女と。
「でしょ?」
「……はい」
苦い顔をしながらアリスは頷く。その後ほんの少しだけ口角を上げ、苦笑した。
そして破顔一笑し、澄んだ声で話し始める。
「わたしは、とあるサーカスでつい最近まで働いてました。世界各地を渡り歩くそのサーカスには団長と、そしてわたしの仲間達がいました」
ゆっくりとした説明口調で、言葉がアリスの口から紡がれる。
「そのサーカスでは何人もの人達が働いて芸をしていました。……けれどその人達と、わたしや仲間は全く違う演技をしてたんです。最初に演技をする人達は派手な衣装や化粧をした、それでも表舞台の普通の人達。わたしや仲間は、おかしな見た目や行動をする、裏舞台の奇形達として」
アリスは悲しがっても切なげでも無い様子で、明るく語る。
声は微かに震え、スカートを握る手はキツク皺が出来ている。
「表舞台の人達はわたし達のことを嫌悪し、団長もわたし達のことは人間扱いしてくれませんでした。でも、それでもわたしは裏舞台の仲間の事が大好きだったんです。チェシャ猫さんも、ディーくんとダムくんも、帽子屋さんも、ヤマネくんも、三月兎も、女王さんも――――白兎も」
「それって……不思議の国のアリスのキャラクター、だよね?」
アリスは頷く。
「わたし達裏舞台の皆は、親に捨てられたり住む場所がなかったり、居場所が無い人達でした。それを団長が拾ってくれたんです。団長も、最初のうちはとても優しい人でした。本名を知らなかったり忘れたかったわたし達に、偽名を与えてくれました」そこでクスッと、自虐気味に微笑んだ。「今思えば団長が優しかったのもわたし達を拾ってくれたのも、登場人物を集めたかったからなんでしょうけど」
意味が分からず首を傾げる。アリスは続ける。
「とにかく、ある日を境に団長は豹変しました。わたしや仲間に暴力を振るい、体罰を与え、見世物にされ。そんな生活はわたしがサーカスに来た五歳のときから去年まで、ずっと続いていました」
五歳から去年まで……。
「そういえば聞き忘れてたけど、アリスって何歳?」
「あ、確かですね……」指を折々数え始める。「……誕生日はまだ迎えてないので、十七歳です」
「へー、じゃあ私より一個年上なんだ、私誕生日二月だし。敬語使った方が良い?」
「えっ、いえ! タメ口でいいですよ!」
「そう? というかむしろアリスもタメ口でいいよ? 私の方が年下なんだから」
「うぇっ!? いえいえいえ! タメ口なんて失礼ですよ!」
そう言ってアリスは私に敬語を使う。……うーん、私も一応敬語使った方がいいんだろうけど、アリスが嫌がりそうだなあ。
「話戻して――――じゃあアリスは十一年間、そのサーカスにいたってこと?」
「はい」
あっさり言っているけど、凄い事だ。精神的にも肉体的にも辛かったであろう場所に十一年間もいたなんて。もし私が同じ立場になったらどうなるだろう。耐え切れずに自害するかもしれない。
それよりそもそも、「アリスはどうしてそのサーカスに来たの?」
言ってから、ちょっと軽はずみな発言だったかと焦った。けれどアリスは特に気にしていない様子で淡々と語る。
「わたしがサーカスに来たのは……お母さんに、直接そこに預けられたからなんです」
直接?
「わたしは覚えていないんですが……お母さんがわたしを産んでから四年後。お母さんに抱っこされていた時にわたしは、お母さんの指を齧ったらしいんです。甘噛だとかそんな生易しいものではなく、本気で、幼児だとは思えない程の力で。そしてお母さんの指を食べちゃったらしいんです。ゴックンと」
いやいやいや、ゴックンとじゃない。
お母さんからそう聞かされました、と言って、構わずアリスは続ける。
「その日以来お母さんはわたしに冷たくなりました。とは言ってもわたしが覚えている優しいお母さんなんておぼろげな記憶の中にしか無かったんですけど。お母さんはわたしを他人の目に触れさせないように育ててましたがやはりそこに愛情は無かった。そしてわたしが五歳の頃、お母さんはわたしを連れて海外に旅行に行ったんです。その時、森にそのサーカスがやって来ていました」
お母さんはサーカスの噂を聞き、わたしを預ける為にわざわざ海外まで行ったんです。お母さんに手を引かれて暗い森の奥を歩いた時の、あの恐怖は忘れられません。そうアリスは苦笑する。
「団長の元へ体を押され、お母さんが『この子をよろしくお願いします』とわたしに背を向けました。何を叫んでもお母さんはわたしを無視して、でもその時団長がこっそりと、わたしにだけ囁きました。『君の欲望に忠実になってごらん』って。当時のわたしは意味が分からなかった。けれどその言葉を聞いてお母さんの背中を見て駆け寄って。……今でも、覚えています」
一度溜息を付いて、顔を歪め、唇に人差し指を這わせる。
「美味しかった」
「…………」
少しだけ切なげに微笑みを浮かべ、アリスはそこで口を閉ざす。
一気に色々と聞き過ぎて、少しだけ信じられないような気持ちだった。私の目の前にいるこの少女の半生は私の日常とはあまりにかけ離れている。
何でもいい、声をかけようとアリスに手を伸ばした時だった。
テーブルの上に置いてあった携帯が鳴りだした。
「わっ」「ひゃっ!」
アリスがソファーの上で飛び跳ね、驚いた目で携帯を見つめる。テーブルの上の携帯は鳴り続け、一人の名前が表示されていた。
「あ、棺先生だ」サボったのバレたかな、今日そういや理科あったし。
携帯を開き耳に当てる。
「はいもしもし、凪です」
『ああ、凪か? 今日休みだけど風邪か?』
棺先生の声がする。職員室でかけているのか、背後から数人の教師達の喋り声が聞こえていた。
床に落ちていたクッションを広い抱き締め、目を丸くしているアリスを見る。そして答える。
「いえ、ちょっと急用が出来まして」あ、そうだ。「先生、今日の放課後私の家に来ませんか?」
『ん?』棺先生はちょっと黙ってから、『何、お誘い?』何のだよ。
「お話があるんですよ。ほらあの、仕事関係の」
『仕事? ……ああ。――――人か内容か、どっちだ?』
その台詞の意味が一瞬分からなかった。けれどすぐ、仕事の内容か、仲間のどちらかを尋ねているのだと理解する。
「…………人です」
『そうか』
電話の向こうの棺先生は今、どんな表情をしているのだろうか。ニヒルな笑みでも浮かべているんじゃないか。
『それじゃ放課後行くから』「はい、待ってます」
そう言って電話を切る。アリスに目を向けると、アリスは何故か未だにビクつきながら携帯を凝視していた。
恐る恐る右手を上げて、人差し指を携帯に差す。
「あ、あの……」
「うん?」
ゴクリと喉を鳴らし、続ける。
「それ…………な、何かの魔法ですか?」
「はい? え、携帯のこと?」
アリスはすみませんっ、と焦ったように謝り、衝撃の言葉を吐く。
「その、あの、わたし、そんな物見た事なくて…………小さい箱で凪さんが喋っているので、それであの……すみませんっ」
「あー…………」
態度から、冗談ではなく本気であろうことが読み取れる。
バスにも乗った事が無い、服屋に驚く、携帯を見た事が無い。それらの事実はアリスが今まで、あまり外部に接する事が無かったから故の、無知なんだろう。
母親からは外部に触れる事を禁止され、サーカスでは裏舞台であるからあまり外に出る事も無く。いわゆる極端な箱入り娘状態なんだ。
「アリス」
「はい?」
おどおどと私を見つめるアリスに笑いかける。アリスも多少ぎこちないながらも微笑んだ。
知識も常識も性癖も、全ては後回しにしよう。そう考え、ソファーに座って時間が経つのを待っていた。




