第32話 虐め
次の日から、クラスの皆は佳奈美から一歩引いた態度を取るようになった。
佳奈美が近くを通る時、体育の授業で一緒に組まされた時、トイレにいた時。目を逸らすだけの人もいれば小さく悲鳴を上げる人もいた。
女子の髪を切ったということは、その女子が友達が多かった所為もあるのか瞬く間に広がり、別のクラスからも避けられるようになっていた。
佳奈美は普段通りにどうとも思っていないようだったし、そんな態度だからこそ虐められるという事も無かった。
それでも佳奈美は、確実に孤立して行った。
「……またなの」
「やあ」
そんな孤立した佳奈美と自動販売機の前で会ったのは、季節が十月に入った頃だった。
ここで会うのは二回目だろうか。今だ外に設置されている自動販売機の前で、佳奈美は飲み物を選んでいる所だった。
放課後の今の時刻は数人の人が飲み物を買いにきていてもおかしくないが、何故か今は佳奈美しかいなかった。
「何買うの?」
「紅茶」
十月になり、気温も少しずつ下がって来たような気がする。まだ暑い日もあるけれど、今日は半袖で少々肌寒い日でもあった。温かい飲み物も出てきたようだ。
「ココアとか出れば良いのに」
「……好きなの?」
「まあまあかな」
そう答えた後は、空でも眺めて佳奈美が買うのを待つ。
空は厚い雲で覆われ今にも雨が降りそうだった。帰りに雨が降ったら嫌だな。そもそも傘持って来てたかな。
ボタンを押し、飲み物が落ちる音が聞こえ、視線を戻す。佳奈美が自動販売機から出てきたレモンティーを開けて飲んでいた。
「ん」
横にずれて私の場所を空ける。軽く礼を行って選ぶ。適当で良いかな、とまたオレンジジュースを出した。その時、佳奈美が言う。
「あんたは怖くないの?」
「は?」
私がポカンと口を開けている間に、佳奈美は続ける。
「周りから避けられてるあたしに、何でそうやって近付けるの? さっきだって、他のクラスの奴がここに来たけど、あたしを見て帰ってったし」
……そこまで嫌われてたんだ。何か凄いな。避ける方も、避けられても無反応の佳奈美も。
そんな私の心境も知らずに、佳奈美は私を見る。心なしか睨んでいるようにも見えた。
「あんたはあたしが怖くないの?」
「…………」
確かにその通りだ。
佳奈美は人に避けられても当然の事をしたし、恐れられてもしょうがない。実際皆佳奈美のことを嫌っているし避けているし恐れている。
なのに私は何で普通に接しているんだろうな。
「分かんないや」
取りあえず正直に述べてみる。佳奈美は無言で見つめて来るだけだったので、きっとこれだけでは納得できないのだろう。だから続ける。
「私だって佳奈美のことはちょっと怖いと思ったよ」あの時は。
だけど、
「だけどそれだけで避けるまでにはいかないんだよ。正直お前のことは好きでも嫌いでもないよ? だから、避けないし普通に接するんだと思う」
その代わり、助けもしないし好きになる事も無いから。
佳奈美はまだ不満気な様子だったが、舌打ちをしてから黙った。
二人の間に沈黙が流れる。何故か同時に手元の飲み物を飲んだ。……あー酸っぱい。
「…………さっき、先生に言われたの」
先に言葉を発したのは佳奈美だった。「何を?」と尋ね、話すのを聞く。
「『そのままだと、お前は駄目な大人になる』って」
へえ。
ポツリと雨が一粒落ちてきた。コンクリートの地面に吸い込まれ、そこの色だけ少し濃くなる。
本降りになる前に屋根の下に避難し、佳奈美が口を開いた。
「駄目な大人って、何なのかしら」
「さあ」知らねえよ。
少し早口に、長い文が口から紡ぎ出された。
「駄目な大人なんていないのよ。駄目な人は『駄目な人』で分類されるだけで、他はちゃんとした大人に決まってるじゃない。子供だってそうよ。駄目な子供も『駄目な人』で、残りはちゃんとした人間なんだから」
あたしは、それに分類されるのよ。そう言って佳奈美は唇を噛んだ。
……なるほどね、そう言う考えもあるのかな。
佳奈美は私に向き直り、子供の頃の『人に指を差しちゃいけないよ』という教えを無視したように指を付き付ける。そしてハッキリと、
「あんたも駄目な人間よ」
「…………そう」
そう、それで合ってる。
私は良い子供じゃないから良い大人にもなれない。その運命を変えられる人もいるだろうけど、私は絶対に無理だろう。
なんせ、人間として終わっているんだもの。
不意に、校舎の隅の方からバシャバシャという水音が聞こえた。雨にしてはおかしいし、そもそも雨はまだ小雨程度だ。
「何?」
気になったので、こっそり近付いて覗く。その光景がはっきりと見えた。
「……や、やめて、よぉ」
「あははっ! 止めるわけないじゃん!」
二人の女子が水道のホースを引っ張り、一人の女子にかけている。どう見ても水遊びなどには見えないし、虐めであることは一目瞭然だった。二人の女子はいかにも不真面目そうな服装で、その行為に夢中になっているようだ。水をかけられている黒いセーター姿の女の子はこちらに背を向けているので、よく顔は見えない。セミロングの黒髪は水に濡れ、ぽたぽたと水滴を垂らしていた。
……でももしかして、あの声は、
「…………何よあれ。虐め?」
いつのまにか背後で同じように覗いていた佳奈美が呟く。私が軽く頷いた時、その黒髪の女子が顔を上げた。顔が私に見える。
「あ」
哀歌だ。
同じ図書部で、自分の名前が嫌いで、気弱で、ジト目で、相談室によくいて、私の友達で。
そんな哀歌が今虐められていた。
「やめてっ。おねが、やめ……」
弱々しい口調で懇願するものの、そんなので止めることが出来たらこの世に虐めは無い。むしろ更に苛立った様子でホースを持った女子は哀歌に近付く。水が更に哀歌にかかる。
「お前うざいんだよ。いつもそうやってなよなよしてさぁ」
「その名前も気持ち悪いしね。何なの僕って! じゃあウチらは女王とか?」
便乗して言ったもう一人の女子の台詞に、哀歌が酷く傷付いた顔になる。
唇を震わせ、目には涙を溜めて、何かを言おうとする。けれど結局それが口から言葉として出る事は無く、小さな呻き声となっていた。
「…………」
こんな場面に出くわして、無視するのは気分が悪い。助けたら今度は私がターゲットになるとか、そういうのはどうでも良い。
私は虐めが大嫌いだ。
「――――ちょっと、何し「ねえ」……え?」
私の一歩前を佳奈美が通り過ぎた。
二人の女子と哀歌が同時にこちらを振り向き、驚く。
「……あ、凪、さん」
哀歌が私に、驚いたような悲しそうな顔を見せた。
女子二人は、私よりも佳奈美の方に視線を向けていた。冷や汗を垂らし、警戒するように足をずらす。
「何してんの?」
佳奈美が尋ねる。
「……み、水遊びしてるだけよ? 悪い?」
佳奈美は「ふうん」と呟き、女子に歩み寄る。脅えたように退こうとする女子の手からホースを取り、眺める。
びちゃびちゃと水の溢れるホースをしばし見つめた佳奈美は、その口先を地面に向け、軽く手を握り、水の出口を狭める。
小さくなった出口から出る水は威力を増し、勢い良く吹き出していた。
そしてそれを躊躇うことなく、
「えい」
「きゃっ!」
女子二人に向けた。
水があっという間に二人を濡らし、軽く整えられたウェーブ状の髪を乱す。顔に当てると唇付近から薄い赤色の水が流れた。口紅が流れたんだろうか。半袖のブラウスも、中の下着が透けて見えた。
哀歌も私も、驚愕混じりにその光景を眺める。二人の女子は水から必死に背を向けながら怒る。
「いきなり何すんのよ!」
「水遊びだけど?」
ぐっと言葉に詰まった様子を見ながら、佳奈美は一度ホースを持った腕を下げる。濡れ鼠となった二人に佳奈美は軽く首を傾げて、ニヤ付いた笑みを浮かべる。
「まだ遊ぶ?」
皮肉交じりのその台詞に、二人の女子が化粧が落ちてドロドロになった顔を見合わせた。悔しそうに唇を噛んで、佳奈美を睨みながら背を向けて早歩きで立ち去る。
「……バッカみたい」
佳奈美の溜息混じりのその言葉が、私の耳に残った。
「ごめんなさい、本当すみませんでした」
哀歌が必死に私達に頭を下げる。その表情は助かったというより、迷惑をかけてしまったという脅えの表情だった。
佳奈美の方はそっぽを向いて無言だったので、代わりに私が手を振って答える。
「大丈夫だよ。それより、頭とか拭こう?」
哀歌も哀歌でびしょびしょだ。早く拭かなくては風邪を引いてしまう。
けれど哀歌は首を横に振って「大丈夫です」と言うばかり。そしてまた「すみませんでした」と謝る。
「ごめんなさいごめんなさい……あ、私、そろそろ…………すみませんすみませんすみません」
と、謝るだけ謝り倒して哀歌は去ってしまう。逃げるように脱兎のごとく。
「……あたしも、もう帰るわ」
「あ、うん。ばいばい」
佳奈美からの返事は無い。手に持っているホースからはまだ水が流れ出しているのを見て、かなり勿体無いなと思った。
そして佳奈美もそれを思っていたのか、口を狭めてひょいとホースを校舎の端に向けたのと、
そこから藍川が出て来るのは殆ど同時だった。
「「あ」」
「ぶわっ!?」
顔に水が直撃してその場に倒れ込む。その間も水はかかる。佳奈美がホースから手を話した時にはすでにもう遅かった。
「うわー何だこれ」
濡れた制服を嫌そうに握る藍川。運が悪いのか、丁度雨も本降りとなって来た。
「だ、大丈夫? 藍川」
「え? あ、凪ちゃん」
「……ごめん」
一応と言う感じで佳奈美が謝罪する。引き攣った顔で明後日の方向を向きながら。
藍川はそれを見て状況が分かったのか、にへらっと笑う。
「んーん、大丈夫。購買に傘が無いかなーと思って来ただけだし、買う必要も無くなったからある意味良かったよ」
良いのか。
「でも雨降って来たよ? 傘はあった方が良いんじゃない?」
「んや、買うの面倒だし……まあ良いかな」
そして立ち上がって、今来た道に戻ろうとする。
「凪ちゃんばいばーい。佳奈美ちゃんもねー」
手を振り、歩く。その背中に声をかけた。
「風邪引くなよー」
藍川は、分かってるって。とでも言うように手を振った。
翌日、藍川は風邪で学校を休んだ。




