第16話 私の幼馴染
藍川が帰ってしまって、部屋が一気に静かになった気がした。勿論それは気のせいなんだろうけど、異様に心細くなる。
何だか切ない。リビングに行き、ソファーに転がってみる。体を丸めて自分で自分を抱く。それでもこの気持ちは変わらなかった。
例えるならばこれは、小学校の修学旅行の夜の時、無性に家に帰りたいと思った時の気持ちと同じだった。
「ホームシック? 今は家にいるのに」
呟いた言葉が空中で霧散する。家にいるのにホームシックとはこれいかに。小学校の時は家に帰れば直ったけれど、今はしばらくこの気持ちが収まりそうにない。何が原因なのか。
「お父さんとお母さんかな」
修学旅行は帰れば両親が家にいた。お父さんがリビングで新聞を読んでいて、お母さんがキッチンで料理を作っていた。いつも通りの光景を見て、酷く安心したことを覚えている。お母さんは私が帰って来るからって、大好物のハンバーグを作ってくれた。
そんな光景も、今はもうない。
ソファーの上から跳ねるように起きあがり、お風呂場に向かう。とにかく濡れた体を温める為にお風呂に入りたかった。ちょっと早いがパジャマを持って来て着替え用の籠に入れておき、お湯が溜まるまでテレビを適当に見ていた。お湯が溜まったら急いで脱衣所に行き、服を脱いで洗濯籠に放り込む。お風呂で湯船に浸かっている時も、モヤモヤとした気持ちは晴れない。
やっぱり両親が恋しいのかもしれない。けれど、
「あ」
不意に思いだしてしまう。
膝を抱える。体を猫背にして縮込める。
顔を俯かせ、お湯の湯気を顔に当てながら、
「誠……」
大好きな人の名前を呟いた。
大好きだった人の名前を呟いた。
私には昔、幼馴染がいた。品木誠、性別女。誠という名前の所為で男に間違われやすいと、よくあの子は嘆いていた。
私は誠が大好きだった。誠は凛々しく、間違っていることはきちんと正すようなタイプだった。しっかり者で皆に慕われ、それでいて明るく元気で、大人しい子にも友達が多くて。そんな子と幼馴染だったというのは私の誇りだった。
家が近かった為、赤ちゃんの頃からもう仲良しだった。同じ幼稚園に行き、同じ小学校に行き、同じ中学校に行き。同じ高校に行こうと約束していた。筈だった。
ある暑い夏の日の五時間目。次の時間が外での体育の為、着替えて廊下に出た時に誠と鉢会わせた。
「あれ、誠どうしたの? もう次の授業始まっちゃうよ?」
誠と私はクラスが離れていたので時間割は違う。誠のクラスが移動教室という時間じゃないし、真面目な誠が授業前に廊下を歩いていることが不思議だった。
誠は私を見て笑顔を作った。長年誠を見てきて分かったことだったが、誠は本当に笑っている時は少し頬が赤くなる。この時の誠は頬が赤く、異様にハイテンションだった。
私の問いかけに答えず、いきなり誠は私に抱きついてきた。
「凪……」
「誠? ど、どうしたのさ一体?」
普段スキンシップをすることなど無に等しい誠の抱擁。これは夢か幻か、などと考えていると、私の背を掴む誠の力が強くなる。
「……誠?」
おかしいと感じた。けれど私が何か聞こうとする前に、誠は顔を上げる。
まるで澄み切った青空のような印象を与える。そんな清々しい笑みを誠は浮かべていた。
「凪、大好きだよ!」
弾けるように私から離れ、誠は走り去る。誠の教室とは正反対の方へと。
もやっとした、不安が胸を浸食する。追いかけようかとそちらへ一歩踏み出した時、
「ねー凪早く行こうよー! 授業始まるって!」
「あ、うん。……今行く」
友達に腕を引かれ、私は誠が去った方向に背を向けた。
六時間目のことだった。
蝉がうるさく鳴いている外で体育をしている時、近くで何か重い物が落ちた音がした。先生は最初訝しげな表情で無視を決め込んでいただけだったが、好奇心旺盛な男子数人が先生の目を盗んでその場に向かった。悲鳴が聞こえた。
先生が慌てて悲鳴の現場に向かい、先生の悲鳴も聞こえた。
誰もがそこから動かなかった。全員が察したようだった。ああ、誰かが飛び降りたんだ、と。
女子は泣き、男子は青ざめ。そんな中私は、何故だかとても嫌な予感がした。
突っ立ったままのクラスメートを無視し、現場に駆け出す。予感が外れて欲しかった。せめて別の人であってくれ。そんな気持ちのままにそこへ着くと、数人の先生と生徒達が中庭の一ヶ所に集まり、何かを叫んでいた。
緑色の草が生えた地面に、鮮やかな赤色が広がっている。草や土を赤色に染めながら、その赤い水溜りはじわじわと広がり続け、誰かの靴を濡らす。
好奇心によってまずここに来たクラスメートの男子数人は、近くの壁に手を付いて嘔吐していた。その醜悪な匂いに混じり、ぷんと鼻を付く匂いがする。料理の時に誤って手を軽く切った時、微かにだが同じ匂いがした。血の匂いだと分かった。
呼び寄せられるようにふらふらと近づく。人々に囲まれ、その場に倒れている人間の顔が見えた。
誠だった。
「……まこと?」
力の抜けたような私の呟きで、一人の女の先生がようやく私に気づく。漂白剤で脱色したかのように白い顔ながらも、私の腕を引いてその場から離れようと走る。真っ白な頭のまま私は走り、とある一本の木の下に強制的に座らせられた。その先生は上擦った声で「絶対にここにいなさい! 来ちゃ駄目!!」と叫んで校舎へ走って行く。他の先生を呼びに行ったのだろうが、その時の私はそんなことさえも考えられなかった。
誠のあの様子を見て私は何も思わなかった。悲しくも、恐ろしくも、驚愕も、何も。だから必死に叫んであの場に残るようなことはしなかった。叫んだら意味を理解しそうで怖かった。
赤い水たまりに浮いていた誠からは、生気が感じられなかった。いつもの明るい笑顔さえも消え去っていた。
『まことがしんだ』。現実味を帯びない単語が頭を埋め尽くす。
まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。まことがしんだ。
「まことがしんだ?」
うそだぁ。
もう一回、
「まことがしんだ?」
違う。
「誠が死んだ?」
疑問形。
「誠が死んだ」
肯定。
声にならない叫び声は蝉の騒音に掻き消された。
私の幼馴染、品木誠は、中学二年生の時に自殺した。
校舎からの飛び降り自殺だった。屋上には揃えて置かれた靴、それだけ。遺書もなにも見つからなかった。
地元ニュースでも報道されていたが、そこでインタビューを受けていた生徒数人は、当たり障りのない言葉だけを述べていた。「明るくて元気な子でした」「自殺なんてするようには見えなかった」「驚きました」。それをボーっと見ている私。
葬儀は予定通り行われていた。誠の両親が泣き叫び、誠の弟も顔を顰めて涙を零す。私のお父さんとお母さんも、出張から一時的に帰って来ていた。皆が皆泣いていたけれど、何故だか私は泣かなかった。泣けなかった。
誠が死んでからも、私は日常を普段通りの態度で過ごしていた。授業を受けて、友達と笑って、普通に帰って。誠が死ぬ前よりも笑顔を絶やさないようにしていたけれど、それは私と誠の関係を知っている人達から見れば不自然だったようで、私を不気味だと陰口を言う女子もいた。それでも私は気にせず笑っていた。
三年になりクラス替えが行われた。クラスが変わったところで私の生活に変化は無いと思っていた。
実際のところ、私の生活に劇的な変化が訪れたのはこの年だった。
ある日の放課後、忘れ物を取りに教室に戻った。教室には誰もおらず、少し薄暗かった。
忘れ物を鞄に詰めている時、廊下から話し声が聞こえてきた。そして教室の扉を開ける音。
「あっれぇ? 川瀬さんじゃない」
そんな事を言われて顔を上げると、教室の入り口にクラス委員長とその友達二人が立っていた。
委員長は誠と正反対の性格で、委員長になったのも『クラスの頂点に立ちたいから』という我儘な理由だった。勿論そんな理由は委員長になることが決定されるまで言わず、正式に決まった所で本性を表した。
そのまま教室に入り、扉を閉め、廊下に声が聞こえないようにした彼女達は、ニヤニヤとしながら尋ねて来た。
「ねえ川瀬さん。あなた、品木さんと仲良かったのよねぇ?」
「そうだけど、何?」
「品木さんってねぇ、何で自殺したのか知らない?」
「……知るわけないでしょ」
そう答えると、委員長は大げさに口に手を当てる。そして、信じられない! という感じに目を見開き、友達二人を交互に見つめた。友達二人も面白そうにくすくすと笑い、その笑い声と動作が私を苛立たせる。
「今更それが何だっていうんだよ」
ぶっきらぼうにそう言って立ちあがり、教室を出る。扉を閉める寸前に見えた、やけにニヤ付いた笑みを浮かべる三人の顔が、酷く不快だった。
出来るだけ彼女達に関わらないようにして過ごすうちに、彼女達の性格が明らかになっていった。
彼女達は無差別に誰か標的を決め、その標的になった人を苛めていた。
些細な失態も大げさに笑い、根も葉もない噂を流す。ネット掲示板に個人情報を載せたり、暴力を振るう。友達に情報通な子がいるのか、その子の弱みを握って行動するので、抵抗することも出来やしない。
最初はそれを、酷いと思うだけだった。
「にしても笑えるよねー」
外を歩いていた時、女子トイレから委員長の声が聞こえた。
大嫌いな声に眉を歪め、こっそりとその場を通り過ぎようとした時、続きの言葉が聞こえる。
「品木が死んだの、うちらの所為なの誰も気づいてないもん」
…………は?
ギャハハと不快な笑い声が聞こえ、委員長の友達二人の声も聞こえる。
「ちょっとそんなこと言って大丈夫なのー?」
「大丈夫っしょ。ここにうちら三人しかいないし」
また笑い声。
「ほんと、死ぬとかマジなくね? ちょっと遊んだだけじゃん」
「反抗したら品木の弟や友達と『遊ぶ』って言っただけなのにね。めっちゃ睨んできてキモッ! って感じ」
「でもいんじゃね? 万引きとかさせたし、こっちも儲かったじゃんね。楽しかったなー」
足が震える。目の前が段々暗くなって、顔が熱くなる。
委員長が笑い、言う。
「今度遊ぶの誰にする? 四組の奴はもう飽きたし、次はそろそろクラスの奴にしよっか」
「いいねー! あ、川瀬とかどうよ。品木繋がりでさ」
「そんであいつのこと言うか? 実はうちら犯人でーすって!」
「いやいや、あたし達は遊んでただけで、死んだのはあいつの自業自得っしょ!」
その台詞の辺りで、その場から逃げるように走り出した。
誠が死んだのはあいつ等の所為で誠が死んだのは虐められてたからで誠は強いけどそれでも耐え切れなくて誠は私と一緒にいたのに私は全然気づかないで誠は助けて欲しかったから私が気付かなきゃ駄目で誠が死ぬ時に最後に話したのは私で誠のあの笑顔で私は何も言わなくて誠の後を私は追わなくちゃ駄目だったのに誠を私は救えなくて誠は私が誠は誠誠に誠私誠誠誠誠――――
息が切れても足が震えても、私は走った。必死に走って走って、混乱したままに付いた所は家だった。
玄関に飛び込んで、その場で倒れて。ぜぃぜぃと息を切らし、見開いた目から無意識に涙が零れる。
零れる涙を拭かず、ふらふらとした足取りでキッチンに向かう。料理器具を置いている棚を開け、床に思いっ切り落とした。
ガシャンと音を立てて器具が転がる。泡だて器、お玉、菜箸。その中で鈍く銀色に光る包丁を手に取る。普段料理に使うべきそれを右手でしっかりと掴み、刃先に少しだけ指を刺す。
小さな痛みが走り、ぷつりと小さな赤い玉が指先に浮ぶ。それを見ながら床にへたり込み、涙を垂れ流す。
「……ねえ…………誠、」
誠は正義感の溢れる子だった。万引きなんて、誠にとっては苦痛以外の何物でもない。昔からちょっとしたことでも注意し、そんな誠に憧れる私は、犯罪なんて一生起こさないと決めていた。だけど、
「私、やるよ」
包丁を、強く強く、握る。
「ごめんね、誠」
私は、人を殺すことを決意した。
「…………ん」
瞼を開く。ぼんやりとした思考の中で、今まで夢を見ていたと理解する。理解したと同時に周りの温度がはっきりと感じ取られるようになる。蒸し暑く、じっとりと湿った空気が体を包み込んだ。
体を起こして周りを見てみると、私は薄いシーツを敷いたベッドの上で横向きに寝ていた筈が、いつの間にかうつ伏せに。更にはシーツも、上にかけていたタオルケットもぐしゃぐしゃになって端に追いやられていた。
時計を手に取り見ると、午前二時。もう一度寝ようとしても蒸し暑い空気の所為で寝辛い。喉も渇いていたので、階段を下り、キッチンへと向かう。
キッチンの電気を付け、冷蔵庫を開け常備しているお茶を出し、コップに注いで一息に飲む。冷たいお茶が喉を通り、胃に落ちて行くのが分かった。
息を付き、ふと回想に浸った。
私が最初に人を殺した理由は、復讐だった。
幼馴染の誠を自殺に追い込んだクラスメート三人を殺したかった。純粋にそいつらが憎いということもあったけれど、誠の悩みを気付けなかった自分自身への怒りも、理不尽に上乗せしていた。
一人目は夜。取り巻きの一人を闇討ち同然に襲い、頭を突き刺した。いきなりで混乱してたのか全く抵抗せず、殺すことは案外楽だった。でも私は、この現場を誰かが見ているかもしれない恐怖と、人を殺してしまったことの罪悪感、そして包丁から垂れる血液、その全てが怖く不快だった。
急いで包丁の血液を拭い、現場に残した物が無い事を確認して慌てて帰宅する。心臓が激しく鼓動し、頭はぐちゃぐちゃに混乱し、帰って直ぐに吐いた。幸い道中誰にも見られなかったこと、殺害現場が人通りの少なかったことという条件が重なり、犯人だとはバレなかった。
しばらくしてから二人目も同じように。三人目であり、一番の目的であった委員長は、やはりと言うべきか私を疑っていた。
二人が殺されたことが、誠に関係しているのを知っていたのは私と委員長だけだ。誠は悩みを他人に打ち明けない性格だったし、委員長達も虐めを公にすることは一切無かったからだろう。その為、委員長はあの時期、常に私を睨んでいた。
ある夜、部活帰りの委員長に私は近付いた。周りの道路に車は通っていない、人もいない。木が多くて暗く、気付かれにくい。なるべく音を立てないよう、気を付けて、気を付けて。そして包丁を掲げた時、
「やっぱりあんただったのね」
委員長が振り向いた。
「…………」
無言で委員長を睨む私に、同じように睨みながらも委員長は笑う。拳を握り締めて振りかざす。その間に刺すことも出来たけれど、大人しく拳を受け入れた。頭が揺れ、頬がじんじんと熱い。
「何で殺したの」委員長が言う。
「何で虐めたの」私が言う。
「……暇だったから」委員長が答える。
「誠の復讐」私が答える。
無言になった委員長に、鼻で笑う。
「そんな理由で誠を虐めたの?」
委員長はギリッと歯を食い縛る。そして、震える声で呟いた。
「あたしの友達を殺して……それで、品木が喜ぶとでも思ってるの?」
その問いかけに首を振る。縦じゃなく、横。委員長はそれを見て吠えるように叫んだ。
「じゃあ何で! 何であんたは……っ、あたし達を殺すのよ!?」
「…………お前達が、嫌いだから」
憎いから。ムカツクから。そして何より、
「私の為」
目を見開き愕然とする委員長に一気に詰め寄る。そして包丁を振り上げた。
「ごめんね」
誰に謝っていたのかは、自分でも分からなかった。
「………………テレビでも見ようか」
頭を振って回想を強制終了。そのまま椅子に座りテレビを付ける。収納率が高い冷蔵庫の通販をやっているチャンネルがまず映り、しばし見てからチャンネルを変える。
深夜にはあまりテレビはやっていない。たまに映るアニメやら通販番組の他は、殆どが放送を終了していた。七色の直線で彩られている放送終了の画面を切り替えていくうちに、テレビはとあるニュースを映し出す。
『昨夜九時過ぎ××市の一軒家が燃え、会社員棚橋義三さん三十八歳の死体が発見されました。不自然な火から放火である線が強く現在も詳しい調査を……』
「…………」
無言でそのニュースを眺める。放火か。
『また、検視の結果義三さんの体内からは微量の毒物が検出され、毒物で動けなくなっていたところを炎でやられてしまったという模様です。それでは次のニュースです』
毒物と火災。二つの事柄が気になるけれど、やっぱり他の誰かなのかな。犯人の。
ふわぁと大きな欠伸が出る。蒸し暑いけれど段々と瞼が重くなっていく。
次のニュースで、近所でバイクに乗った不良集団が出始めたと言うことを聞きながら、私は目を閉じた。




