第九話 社交会デビュー
都内有数の外資系ホテルのグランドボールルーム。
間接照明が広い天井にやわらかく光を散らし、クリスタルグラスの触れ合う繊細な音が、静かな弦楽四重奏の調べとともに大空間を包んでいた。
今夜開かれているのは、国内の先進IT・AI事業者や大手メガバンク、主要産業の経営幹部、さらには関係省庁の要職までが一堂に会する「新興IT・AI産業ビジネスレセプション」。
会場の熱気から少し離れた壁際の大きな鏡の前で、茎一は身だしなみを最終確認していた。
今日の装いは、実務を仕切る副社長の初陣にふさわしいビジネスフォーマルだ。
深みのあるブラウンのウールギャバジンで仕立てたノーカラージャケットに、きれいなドレープを描く同素材のテーパードパンツ。
インナーはシャンパンホワイトのシルクのブラウスで、首元には細身のプラチナのネックレスを添えている。
髪は、ゆるく巻いた毛先を左肩へ流し、耳の後ろを小さなピンで留めた。
手元は、銀嶺街のサロンで付け替えたばかりの、透け感のあるミルキーなグレージュ。
足元は、歩きやすさと立ち姿の美しさを両立するレザーパンプスだ。
ドレスで華やかに媚びるつもりはない。
「現場と経営を両輪で回す実力派の女性役員」として見せるための、選び抜いた一着だった。
(……よし、仕上がりは上々だな)
鏡の中の「石凝鏡子」に、心の中で頷きかける。
メッセージの履歴によれば、本物の鏡子は、烏太朗への反発もあり、実業家たちの集まるパーティや社交の場へはほとんど顔を出してこなかったらしい。
招待の連絡は山のように届いていたのに、ことごとく欠席。
JE内でも一介の平社員として、目立たないよう振る舞っていたという。
普通なら、社交界での顔の薄さは気後れの種になる。
だが、営業畑で修羅場を渡ってきた茎一の見方は逆だった。
(顔が割れていないのは、ビジネスの場では強みだ)
「あのJE会長の娘」という先入観に縛られずに済む。
しかも、こちらが身につけてきた立ち居振る舞いを見せれば、鏡子を知る人間ほど「さすが石凝家の令嬢、英才教育を受けている」と勝手に深読みしてくれる。
素性を知られていないぶん、多少の不慣れも「鏡子の個性」として通せるわけだ。
(……よし)
深く息を吐き、背筋を伸ばす。
今夜の目的ははっきりしている。
本日の肩書きは、株式会社フトダマ取締役副社長兼COO(最高執行責任者)。
本来はCEOの玉屋命が立つべき場だった。
しかし命は、フォーマルな場も、腹の探り合いや社交辞令の応酬も大の苦手で、今回は実務トップの茎一が代理として一人で乗り込んできたのだ。
フトダマはすでに、烏太朗のJEホールディングスと、業務資本提携・第三者割当増資の交渉を進めている。
だが、JE一社に資金もチャネルも頼り切れば、将来、烏太朗に経営権を揺さぶられ、フトダマの自律性が奪われかねない。
(親父の影響力を薄めるには、フトダマ独自の実用化パートナーと、大きな導入先のチャネルを、自力で押さえておく必要がある。出資ではなく『業務提携』のパイプをここで作っておくのが、JEに対する一番の牽制になる。……それにしても命のやつ、こういう場を避けてきたのに、よくJEのような巨大企業との窓口まで漕ぎ着けたな)
命の照れくさそうで気まずそうな顔が浮かび、苦笑が漏れそうになる。
(まあ、あの技術力と純粋さが、烏太朗の目に留まったのは事実だろう。だがこれからはフトダマのトップとして、公の場にも慣れてもらわないと困る。後で『フォーマルマナー特訓講座』でも組んでやるか)
社内教育のプランを胸の中で練りながら、茎一は名刺入れを手に、レセプション会場へ滑らかに足を踏み出した。
◆◆◆
会場は、日本のビジネスの最前線に立つ人間たちの熱気と野心で満ちていた。
吹き抜けの天井から降る光の下、黒やダークグレーのスーツの男性たちと、ドレス姿の女性たちが、シャンパングラスを片手に、軽やかな社交辞令と鋭い情報交換を交わしている。
茎一がミネラルウォーターのグラスを手に、歓談の輪の配置と、重要人物の動線を観察し始めた、そのときだった。
会場の一角で人波がすっと割れ、一人の男が歩み寄ってくる。
身体に吸い付くように仕立てられたダークグレーのサヴィル・ロウ製のスーツを、寸分の狂いなく着こなした三十代前半の男。
短く整えた黒髪に、堂々とした立ち姿。
公の場のマナーを踏まえながらも、隠しきれない自信と高慢さが滲んでいる。
(……鳴神武己か)
業界の知識が、茎一の頭の中で素早く結びついた。
大手通信インフラグループ「LTC」の取締役であり、中核子会社「ライトニングコミュニケーションズ」の社長を務める男。
LTC創業家の出身で、根っからの世襲トップだ。
本物の鏡子とは、親同士の付き合いやゴルフの噂話を通じて、名前と顔だけは互いに知っている間柄だったらしい。
ただ、鏡子が社交の場を避けて逃げ回っていたため、直接言葉を交わすのは、これが初めてになる。
「初めまして。噂の『フトダマ』で新たにCOOに就任されたと聞き、ご挨拶に伺いました。……石凝鏡子さんとお呼びしてよろしいでしょうか」
低く通りのいい、計算された声。
周囲の視線を集めながらも隙のない所作で、武己は胸元から名刺ケースを取り出した。
「初めまして、鳴神社長。株式会社フトダマで副社長兼COOを務めております、石凝鏡子と申します」
茎一は少しも動じず、きれいな角度のお辞儀と、知的な笑みで応じた。
名刺入れを取り出し、流れるような所作で名刺を交換する。
武己は受け取った名刺にそっと目を落とすと、満足げな、不敵な笑みを口元に浮かべた。
「石凝会長のご令嬢がビジネスの表舞台に立たれると聞いてはいましたが……噂以上に凛とした佇まいだ。失礼ながら、もっと温室育ちのお嬢様かと思っておりましたよ」
礼儀正しい言葉の裏に、相手の底を測ろうとする、試すような視線が透けている。
「恐縮です。弊社のCEOの玉屋が技術開発の陣頭指揮を執っておりますので、私が事業執行の責任者として、表の交渉をお預かりしております」
「玉屋社長は本日ご不在ですか。彼らしいと言えば彼らしいが……これほど聡明なパートナーを得られたとは、彼は運がいい」
武己はグラスを軽く傾け、余裕のある眼差しで茎一を見つめた。
「ご存じでしょうが、我がライトニングコミュニケーションズは、全国に通信インフラと法人チャネルを展開しています。拝見したところ、フトダマ社の『フトダマ・コア』は非常に優れた日本語対話AIだ。だが、我々のような大きなインフラと結びついてこそ、その真価は社会に実装される」
洗練された物腰のまま、一歩も引かない「俺様」の提案。
すべてを自分の掌の上で転がすのが当然と言わんばかりの空気が、静かに場を支配していく。
「どうでしょう、石凝COO。JEホールディングス様との資本提携の噂も耳にしていますが……我がLTCグループと組み、我が社のチャネルの上でフトダマを展開するおつもりはありませんか? 私が全責任を持って、貴社を業界の頂点へ引き上げてご覧に入れますよ」
言葉こそ滑らかだが、本質は「LTCの傘下に入れ」という、独占欲と主導権の主張だ。
普通の新人役員や箱入り娘なら、通信大手のトップからの直接の誘いに気圧され、言葉を詰まらせるところだろう。
だが、茎一にとって、この手の上品な揺さぶりは想定の範囲内だった。
ライトニングコミュニケーションズの法人チャネルは、確かに魅力的だ。
JEだけに頼らず、LTCの巨大なインフラを足がかりにできれば、フトダマの立場は一気に固まる。
(だが、ここで安易に膝を屈すれば、フトダマも自分も、この男の『所有物』として組み込まれるだけだ。主導権は渡せない)
茎一はブラウンのジャケットの胸元を張り、逃げることなく、武己の自信に満ちた視線を正面から受け止めた。
「大変魅力的なお言葉ですね、鳴神社長」
澄んだ声。
だがその語調には、気品とともに、はっきりとした拒絶が込められていた。
「ですが……どこかの傘下に入るという選択肢は、フトダマにはございません」
「……ほう?」
武己の眉が、わずかに持ち上がった。
「私たちは、LTC様をはじめインフラの巨人の皆様と、『対等なパートナー』として共存共栄する道を選びます。ライトニングコミュニケーションズ様の通信網と『フトダマ・コア』が組み合わされば、日本の産業界に大きな革新を起こせることは確かです。ですが、それは私たちが、独立した技術と明確な意志を持っているからこそ生まれるシナジーです」
茎一は自分の胸元を、指先でそっと示した。
「評価していただくのは光栄ですが……石凝鏡子も、フトダマも、そう安くはありませんよ、鳴神社長」
公の場のマナーは崩さないまま、武己の自尊心を正面から射抜く、品のある拒絶。
一瞬の静寂が、二人を包んだ。
武己は目を見開き、数秒間、無言で茎一を見つめていたが——やがて、心からの興味を湛えた笑みを口元に浮かべた。
「……素晴らしい。実に気高く、美しい回答だ」
武己は胸の前で軽くグラスを掲げ、茎一へ一礼した。
「気に入りましたよ、石凝COO。あなたはただの令嬢でも、借り物の役員でもない。本物の経営者の目をしておられる。……私から声をかけた以上、そう簡単に諦めるつもりはありません。近いうちに、正式な事業提携の場でお会いしましょう」
「ええ、もちろんです。実りあるご商談であれば、いつでも歓迎いたします」
武己は余裕のある仕草で会釈すると、ほかの参加者への挨拶へ、滑らかに去っていった。
(……ふぅ、一筋縄ではいかない大物だな)
茎一は名刺入れをそっと整え、静かに息を吐いた。
(鳴神武己……LTCのチャネルは、喉から手が出るほど欲しい。だが、あの男の主導権に飲み込まれるつもりは毛頭ない。親父のJE、そして武己のLTC。二つの大きな勢力を天秤にかけて競わせ、フトダマの利益を最大化してみせる)
ふと見渡せば、武己と対等に渡り合った「石凝鏡子」の様子を見ていた企業人たちが、感嘆の眼差しで集まり始めていた。
「石凝COO! 先ほどの鳴神社長とのご歓談、お見事でした……! ぜひ我が社とも……!」
「実証実験の件、ぜひ前向きに検討させてください!」
名刺交換を求める人の列が、あっという間にできる。
茎一は品のある笑みをたたえ、淀みない動作で、次々と名刺を交わしていった。
(見ていてくれ、命。おまえの創る技術を、俺が一番いい舞台まで押し上げてみせる)
鳴神武己という強敵の登場で、フトダマを巡る勢力図は、いよいよスリリングに、大きなうねりを上げて動き出そうとしていた。
◆◆◆
熱気に満ちた会場を後にし、ホテルの車寄せに手配していたハイヤーが滑り込んできた。
ドアマンに送られ、後部座席へ身を沈めた瞬間、茎一は長く息を吐き出した。
張りつめていた糸がふっと切れ、ウールのジャケット越しに、疲れがじんわりと押し寄せてくる。
(……想像以上に消耗したな。だが、収穫も大きい)
名刺入れには、国内屈指のメガバンクの事業投資部長、大手精密機器メーカーの取締役、そして鳴神武己の名刺が、ずしりと収まっている。
車窓を流れる東京の夜景を眺めながら、茎一はスマートフォンの画面を点けた。
ロック画面に、『玉屋命』からのメッセージが数件届いている。
『鏡子さん、レセプションお疲れ様! 無事に終わったかな? 僕はさっき、開発チームと新しいモデルのチューニングが終わったところだよ。もし良かったら、会社に戻る途中で遅めの夕食でもどうかな?』
その素直で飾らない文面を目にしたとたん、武己との化かし合いで尖っていた気持ちが、ふんわりとほどけていった。
『命さん、お疲れ様です。レセプション、大収穫でしたよ! いいご縁がたくさん繋がりました。夕食、ぜひご一緒させてください。パスタの美味しいお店、楽しみにしていますね』
返信を送り、スマホを胸元へ引き寄せる。
(命……おまえはそのまま、世界一のコードを書き続けてくれればいい。外との交渉も、大きな資本との駆け引きも、俺が全部引き受ける)
茎一は口元に、力強い笑みを浮かべた。




