第八話 競争と共存
社員たちが退社し始め、薄暗くなりかけたオフィスで、茎一は給湯室へ足を運んでいた。
副社長室で飲むハーブティーを淹れようと、電気ケトルのスイッチを入れたそのときだった。
カツン、と靴音が響き、給湯室のドアが開く。
入ってきたのは、かつて自分が長年使い込んできた肉体——「叢雲茎一」だった。
だが、以前とは明らかに違う。
シワの寄っていた量販店のスーツはきちんとプレスされ、無造作だった黒髪は清潔感のあるワックスで自然に整えられている。
伸び放題だった眉も、形よく揃っていた。
爪先は短く切り揃えられ、肌からは男性用化粧品らしい淡いシトラスの香りが漂っている。
男の身体になっても、身だしなみへのこだわりは衰えるどころか、男向けに洗練されたようだった。
ドアを背中で閉め、カチリと内鍵を下ろす。
狭い給湯室に、張りつめた空気が満ちた。
「……何かご用でしょうか、叢雲さん?」
茎一は、今日着ているチャコールグレーのタイトスカートスーツの裾を整え、うなじで丸めたシニヨンの後れ毛を耳にかけて、滑らかな丁寧語で応じた。
だが、目の前の男は鼻で笑うように息を吐いた。
「いいって、誰も見てないし鍵もかけたし。わざわざその見た目で副社長ぶらなくてもさ」
発せられたのは、聞き慣れた男の低い声。
だが、言葉のテンポも仕草も、「石凝鏡子」本人のものだった。
茎一もそこで肩の力を抜き、鏡子の姿のまま、素の口調に戻した。
「……そうか。なら手短に頼むよ。給湯室で二人きりなんて、変な噂を立てられたくないからな」
自分の口から出るのは鈴を転がすような女の声なのに、紡がれる言葉は男そのもの。
向こうは身なりの整った男の姿なのに、口調はすっかり育ちのいいサバサバしたお嬢様。
鏡越しに自分と話しているような、ちぐはぐな感覚に目眩がしそうになる。
「元・アタシの身体で、ずいぶんうまくやってるみたいじゃない。宇之さんから聞いたよ。女子たちとサウナ行って、すっかり味方につけたんだって?」
叢雲茎一(中身:鏡子)は壁に背を預け、腕を組んだまま、羨望とも皮肉ともつかない笑みでこちらを見据えてきた。
「副社長室にきっちり収まって、社内を掌握しようとしてる。令嬢の立場を使いこなして、さぞ気分がいいでしょ、茎一さん」
「フン、お互い様だろ。……それにしても、俺の身体をずいぶん丁寧に手入れしてくれてるみたいだな」
茎一は感心したように、整えられた眉や肌、仕立ての良いスーツへ視線を滑らせた。
「そっちはどうなんだ? 金銭感覚も違えば、住んでたアパートの暮らしも、足で稼ぐ営業の仕事も……俺の身体と環境に放り込まれて、相当苦労してるんじゃないか?」
タワーマンションの暮らしから、都内の狭い賃貸アパートへ。
高級フレンチから、スーパーの値引き惣菜やカップ麺へ。
何から何まで落差が激しいはずだ。
だが、鏡子はバッサリと切り捨てた。
「は? 馬鹿にしないでよ。そんなの最初から想定内でしょ」
鏡子は不敵に顎をしゃくった。
「そりゃ最初は、狭い風呂とか安物の服に引いたけどね? でも別に死ぬわけじゃないし。男の身体になったらなったで、メンズ用の美容液とか眉毛サロンとか試してみたら、案外楽しかったよ。自分の力で成り上がるための必要経費だと思えば、境遇に合わせて自分を作り変えるくらい何でもない。舐めないでよね」
「……へぇ」
茎一は少しだけ見直す目を向けた。
親の威光に反発して飛び出しただけの箱入り娘かと思っていたが、逆境に置かれると燃えるタイプらしい。
なるほど、あの父親にしてこの娘あり。
どんな環境でも自分の美学を通すタフさとハングリー精神は、ビジネスでは悪くない資質だ。
すると鏡子はふっと表情を緩め、挑発的に口の端を上げた。
「まあでも、一つだけアンタに感謝してあげてもいいかな」
「感謝?」
「そう。あの玉屋命のこと」
鏡子は呆れたように肩をすくめた。
「あの政略結婚の話、本当は反吐が出るほど嫌だったんだよね。お父さんの指示だからってだけじゃなくて……そもそも、玉屋命本人と結婚なんて絶対無理だったの。ビジネスパートナーとしては天才かもしれないけど、恋愛対象としては、全っ然アタシのタイプじゃない。オタクっぽくてピュアで、見てるとイライラする」
鏡子は身を乗り出し、きれいに整えた元の自分の顔を近づけてきた。
「だからさ、アンタがアタシの代わりにあのオタク社長の相手を引き受けてくれて、心底助かったわ。……あ、でもさ?」
鏡子は意味ありげに目を細め、クスクスと意地の悪い笑い声を漏らした。
「アンタ、命社長の相手してて、案外まんざらでもなさそうな顔してるよね?」
「……なっ!?」
茎一は言葉に詰まった。
「社長を見つめてうっすら顔赤くしてたとか、社内では敬語なのに、社長の前だけ声のトーンが変わって親しげだとかさ。ねえ、元々そっちの気があったの? それとも……アタシのその身体の感度に引きずられて、本気で彼に惚れちゃったわけ?」
「ば、バカなことを言うな!」
思わず声が上ずり、茎一は慌てて口元を押さえた。
艶のある爪先が、かすかに震える。
(くそっ……鋭いところを突きやがって……!)
命が見せた誠意に触れ、鏡子として生きていく覚悟を決めたのは事実だ。
彼に特別な感情や絆を感じ始めているのも、否定できない。
だが、それを元の自分の姿をした鏡子本人に直接つつかれると、強烈な気恥ずかしさと動揺が込み上げてくる。
「ふふっ、図星みたいだね。素直になればいいじゃない。その綺麗な身体で、命社長と仲良くやってなよ」
鏡子は満足そうに鍵を外し、ドアノブに手をかけた。
「アタシはアタシで、この男の身体と足で稼ぐ営業の立場で、アンタを超える成果を出して成り上がってみせるから。……お互い、このままの方が何もかもうまくいきそうだしね」
「……ええ、そうですね」
茎一は深呼吸をして動揺を抑え込み、副社長の穏やかな笑みと丁寧語を取り戻した。
「せいぜい足元をすくわれないよう気をつけてくださいね、叢雲さん。副社長として、あなたの営業成績は厳しく評価させていただきますから」
「言われなくても叩き出してやるよ、副社長さん」
鏡子はフンと鼻を鳴らし、給湯室を出ていった。
一人残された給湯室で、茎一はハーブティーをひと口含み、火照った頬を冷たい手のひらでそっと押さえた。
「……まったく、食えない人だな」
だが、これで吹っ切れた。
元の自分との腹の探り合いを経て、お互いの立場と覚悟ははっきりした。
茎一はタイトスカートの裾を軽やかに翻し、新しい「石凝鏡子」として、次の一手を打つために執務室へ戻っていった。
◆◆◆
入社から一週間が経ち、オフィスに差し込む朝の光も、どこか張りのある色に感じられるようになっていた。
タワーマンションの自室で身支度を整えながら、茎一が選んだ今日の装いは、柔らかな印象の中に芯の強さを感じさせる、ベージュのテーラードパンツスーツだ。
インナーにはとろみのあるシルクのブラウス、足元はポインテッドトゥのパンプス。
髪は、今日は高めの位置で一つに結い上げ、うなじをすっきりと見せた。
鏡の前で、つやのある爪先を光にかざす。
「よし……。今日は攻めの話になるからね」
鏡の中の「鏡子」に向かって、低く、力強く囁く。
営業時代、数千万円の契約を巡って胃が痛くなるような交渉を重ねた経験が、副社長というより大きな舞台を前にして、心地よい緊張感に変わっていた。
◆◆◆
「——これが、現在の世界の『戦場』の地図です」
フトダマ社、フロアの奥にあるCEO執務室。
大型ディスプレイに、茎一は市場分析のスライドを映し出した。
向かいでコーヒーカップを手に、真剣な眼差しを向けているのは社長の玉屋命だ。
「命さん。私たちがまず直面すべき現実は、桁違いの資金力の差です。米国を拠点とする巨大IT企業各社は、汎用AIモデルの開発に、一社あたり年間数兆円から数十兆円規模の設備投資を続けています」
「……わかっている。彼らの計算資源の物量には、正面からでは逆立ちしたって勝てない」
命が、苦いものを噛みしめるような表情で頷いた。
「ええ。英語を起点とした多言語の汎用市場は、彼らの独壇場です。ですが——」
茎一はスライドを切り替えた。
画面には、フトダマが独自に磨いてきた日本語特化型モデル『フトダマ・コア』の解析データが並んでいる。
「私たちが挑むのは、汎用性の競争ではありません。日本独自の社会ルール、複雑な言語体系、文脈に頼った言外の意図、地域ごとの方言に宿る機微。こうした『ハイ・コンテクスト』な日本語の領域で、フトダマの精度は彼らを上回っています」
茎一はディスプレイの数値を指し示した。
「グローバル大手のAIは、確かに何でも知っています。ですが、日本語での感情の通った会話や、特に介護ロボットや接客端末といったフィジカルAIに載せたときのコミュニケーション能力では、フトダマが群を抜いています。ガラパゴス的と言われるかもしれませんが、同時に——」
「……共存の道、ということだね?」
命が、弾かれたように顔を上げた。
「その通りです。彼らが世界のインフラなら、私たちは日本という島国の『高度なコンシェルジュ』になる。敵対するのではなく、彼らの汎用モデルの上で、私たちの感性豊かなエージェントが重なって働く。それがフトダマの生き残る唯一の、そして最も強い道です」
「鏡子さん……君は、僕がぼんやり考えていたことを、これ以上ないほど鮮やかに言葉にしてくれた」
命が感動したように身を乗り出す。だが、茎一の報告はここからが本題だった。
「ただ、この独自路線を貫くには、二つの大きな壁を越える必要があります。一つは開発チームの大幅な強化。もう一つは——独自の大規模データセンターの確保です」
「データセンター……。自社で持つには、あまりにも資金が足りない」
「ええ。新興企業がこの規模のインフラ投資を自前で賄おうとすれば、普通は上場を急ぐことになります。けれど、いま無理に上場すれば、市場の短期的な利益圧力にさらされて、独自路線の研究開発は形骸化するでしょう」
茎一は一拍置き、いちばん扱いの難しい薬——毒にも特効薬にもなる話を切り出した。
「そこで、JEホールディングス、つまり父との『業務資本提携』と『第三者割当増資』です」
命の表情が引き締まった。
「上場を目指すのではなく、JEの資本を受け入れて、潤沢な資金で開発と運用のインフラ、つまりデータセンターを確保する。出資比率は二割に抑えたまま、私たちは雑音を排して、研究開発と社会実装に専念するんです。提携の合意書案も、ライセンス条項を中心に、私が全面的に見直します」
「……それが、君自身が決めたミッションなんだね?」
「はい。私は父の駒としてここに来たのではありません。フトダマという、世界で唯一の感性を持つAIを守り育てるために、JEの資本を『盾』として使うんです。父には『うまくやっている』と思わせながら、実際にはフトダマの自律性を守ったまま、彼らのインフラと資金だけを引き出します」
茎一は、艶のある指先を、命のデスクの上にそっと置いた。
「命さん。あなたは開発の総司令官として、理想のAIを創ることにすべての時間を注いでください。資金調達、組織の拡大、データセンターの契約、そしてJEとの複雑な政治交渉。そうした泥仕事は、副社長の石凝鏡子が引き受けます」
命が、深く、静かに息を吐いた。
眼鏡の奥の瞳に、深い信頼と、一人の男としての憧れの色が宿る。
「……君がいてくれれば、僕は本当に世界を獲れるかもしれない。鏡子さん、君にすべてを託すよ」
「ありがとうございます、命さん。……あ、お昼は会社近くのパスタ屋さんでしたね? 行きましょうか」
「あ、ああ! もちろん!」
命がぱっと明るい顔で立ち上がる。
穏やかな副社長の顔に戻って執務室を出ていく茎一の背には、現場の営業で磨いた交渉術と、これから手にする資本という二つの武器が、静かに研ぎ澄まされていた。
(さあ……親父の期待を裏切って、フトダマを守りきれる城に変えてみせるよ)
ベージュのスーツの裾を揺らしながら、茎一は心の中で、経営者としての宣戦布告を高らかに告げた。




