第十話 陥落
「……何を今さら緊張しているんだ、俺は」
鏡の中の自分に向かって、低く吐き出す。
高層マンションの広いドレッサーの前。
週末の午後の光が、澄んだ秋の色で差し込んでいる。
手元には、銀嶺街のサロンで塗り直したばかりの、テラコッタボルドーのネイル。
派手な飾りのないその色は、すっかり日常の一部になっていた。
今日の装いは、上質なメリノウールのダスティーブルーVネックニットに、キャメルのセミタイトなミモレ丈スカート。
足元はグレージュのレザーショートブーツ。
髪は、襟足でゆるく編んだ三つ編みを、片側の肩へ垂らしている。
鏡子のワードローブから、今日という日のために茎一がさんざん迷って選んだ一着だ。
上品で、露出もない。
だがVネックの胸元からは、白い肌と華奢な鎖骨の線が覗き、細リブのニットが胸の起伏と引き締まったウエストをごまかしてくれない。
姿見に映るのは、相変わらずどこから見ても、一人の美しい女性だ。
(……落ち着け。ただの週末のプライベートだ。ビジネスの延長線上で、関係を深めるための戦略の一つにすぎない)
自分にそう言い聞かせる。
だが、胸の奥の落ち着かなさはごまかせなかった。
これまで、数々の修羅場を潜り、相手の心理を読んで契約を勝ち取ってきた。
自分の感情など、いつでも手綱を握ってきたはずだった。
なのに、サウナで三人娘に命のことを話したときの、胸の温かさ。給湯室で元の肉体の鏡子本人に『本気で彼に惚れちゃったわけ?』と突っ込まれたときの、血の引くような動揺。
それらがじわじわと、茎一の心を追い詰めていた。
(相手は本来なら年下だ。俺はこの十数年、男として生きてきた人間なんだ)
理性が、冷静な自戒を叫び続ける。
しかし身体は二十代の女性だ。
そして何より——命はこの「石凝鏡子」に対して、駆け引きも計算もなしに、自分の人生を貭した愛と覚悟を、まっすぐにぶつけてきている。
「……ふぅ」
スカートの裾をそっと撫で下ろし、茎一は小さな息を吐いた。
指先が、かすかに震えている。
頭が弾き出すビジネスの合理性とは裏腹に、鏡子の身体は、命の存在を強く求めてしまっている。
その事実を、茎一はもう無視できなくなっていた。
◆◆◆
待ち合わせに指定されたのは、翠ヶ丘の静かな路地裏に佇む、ブックカフェだった。
重厚なオーク材の書棚に囲まれ、暖色の間接照明が落ちる店内で、命はすでに到着していた。
今日の彼は、いつものTシャツ姿でも、ガチガチのビジネススーツでもない。
体に合ったチャコールグレーの上質なローゲージニットに、ダークグレーのウールパンツ。
足元は手入れの行き届いた革靴という、落ち着いた大人の休日スタイルだった。
「あ……鏡子さん!」
茎一が席に近づくと、命は弾かれたように立ち上がり、ぱっと顔を輝かせた。
眼鏡の奥の瞳には、隠しようもない感動と憧れが宿っている。
「申し訳ありません、命さん。お待たせしてしまいましたか?」
茎一はいつもの滑らかで丁寧な語調で挨拶を交わした。
「ううん、全然! 僕も今着いたところだよ。……あのさ、鏡子さん。今日の服、すごく……すごく綺麗だ。似合ってるよ」
命は頬をほんのり赤らめながら、照れくさそうに頭を掻いた。
「ありがとうございます。命さんも、今日のニット、とてもシックで素敵ですね」
「ほんと!? 嬉しいな……。実はね、鏡子さんと一緒に行く場所に恥ずかしくないように、スタイリストさんに相談して選んでもらったんだ。普段は服なんて何でもいいって思ってたのに……君と会うとなると、少しでもカッコいいって思われたくて」
無邪気に笑いながら、自分のための努力を素直に明かす命。
そのまっすぐさに、茎一の胸の奥がきゅっと締めつけられた。
(この男は……いつだってそうだ。俺のために、全力で向き合おうとしてくれる)
そう感じていると、目の前に深い紫色のリングケースが差し出された。
「前回は言葉だけだったけれど、今日改めてこれを贈らせてほしい。よろしくお願いします!」
箱が開かれると、大粒のダイヤモンドが結晶のようにまばゆく光を弾いた。
婚約指輪。
最初は、『彼氏持ち』という魔除けの口実くらいにしか考えていなかった茎一だったが、今は素直に、これを想いの形として受け止めていた。
「ありがとうございます。……早速、指に通してみても?」
「じゃあ、僕につけさせてほしい!」
命の大きな手が、ゆっくりとテーブルの上を滑ってきた。
茎一の細い左手の薬指。
その上に、命の温かい手が、壊れものを扱うように優しく重ねられた。
「……っ」
息が、一瞬止まった。
命の手は、エンジニアらしく指先がしなやかでありながら、男らしく骨太で、驚くほど温かい。
その体温が、触れ合った皮膚から血流に混ざり、全身へじわじわと広がっていく。
(これが……命の手の大きさ。体温……)
かつては、女性の手を包み込むのは自分の側だった。
だが今は、この華奢な手を通して、命の「男としての物理的な熱」に包まれている。
逃げ出したいような照れと怖さ。
それと背中合わせに押し寄せる、とろけるような安心感。
プラチナのリングが、細い指の根元まで滑らかに収まった。
茎一は重ねられた手を振り払うことができず、熟くなった頬を隠すようにうつむいて、紅茶のカップを見つめることしかできなかった。
「命……さん……」
「君の手……すごく華奢で、温かいね」
命の指先が、茎一の指と指の間へ、優しく滑り込んでくる。
恋人同士が交わす、深い手の繋ぎ方。
その瞬間、手先から背骨へ走った甘い痺れに、茎一は思わず「ん……」と小さな息を漏らしてしまった。
運ばれてきた芳醇な香りの紅茶を口に含みながら、二人の会話は静かに、だが深く弾んでいった。
会社での堅苦しいプロジェクトの話ではなく、幼少期の思い出や、昔夢中になった本や映画の話。
命の語る言葉には飾り気がなく、どこまでも温かい。
「僕ね……昔から人と嗋るのが得意じゃなくて」
命はカップを両手で包み込みながら、ぽつりと語り始めた。
「親も厳しかったし、学校でも周りとなじめなくてさ。ずっと暗い部屋で、画面の中のコードだけが僕の唯一の友達で、世界のすべてだったんだ。会社を作ってからも、社員や取引先とは『ビジネスの数字』でしか繋がっていない気がして……どこかずっと一人で冷たい場所にいるみたいだった」
命はふっと顔を上げ、テーブル越しに茎一の目を見つめた。
「でもね、鏡子さんと出会ってから……あのフレンチレストランで君と話して、公園で君の覚悟を聞いてから、僕の世界は急に鮮やかな色を持ち始めたんだ。僕の創った技術を、僕という人間を、君はまっすぐに見つめてくれた。君と過ごす時間が、僕の人生で一番愛おしくて、温かいんだよ」
カフェを出た頃には、街はすっかり茜色の黄昏に包まれていた。
高層ビルの影が伸び、冷たさを増した秋の風が、茎一のスカートの裾をふわりと揺らす。
「鏡子さん。……もう少しだけ、僕と一緒にいてくれるかい?」
命の声は静かだったが、強い切実さを帯びていた。
拒む理由など、最初からどこにもなかった。
二人は命が手配していたハイヤーに乗り込んだ。
滑らかな走りの車内で、繋がれた手は一度も解かれなかった。
向かった先は、海を一望できる都心臨海エリアに佇む、超高層ホテルの最上階——プライベートラウンジ付きのVIPスイートルームだった。
重厚な扉が静かに開き、カードキーがかざされる。
「命さん……ここって……」
「今日、どうしても君に見てほしい景色があったんだ。誰の目も気にせず、二人だけで」
命に促され、足を踏み入れる。
壁一面のパノラマのガラス窓の向こうで、宝石を散りばめたような都市の夜景が、どこまでも眼しく広がっていた。
タワーの橙色の光、港を行き交う船のきらめき、そして眼下に広がる漆黒の海。
「……すごい……綺麗だ……」
思わず、感嘆の息が漏れた。
夜景の光が、室内をほの暗く幻想的に照らし出している。
茎一が窓に近づくと、隣に命が静かに寄り添ってきた。
ガラスに、二人の姿がくっきりと映っている。
背が高く、肩幅のしっかりしたチャコールグレーのニットの命。
その隣に立つのは、ダスティーブルーのニットに身を包み、彼の肩の下にすっぽりと収まる、可憐で小柄な鏡子(茎一)の姿。
端から見れば、どう見ても「男と女」の絵面だ。
(……俺は、この男の隣に立っているんだ)
その現実を噛みしめた、そのときだった。
「鏡子さん」
命が、低く静かな声で名前を呼んだ。
振り返ろうとした茎一の華奢な肩を、命の両手が優しく、だが確かな力で掴んだ。
「あっ……」
抵抗する間もなく、茎一の身体は命の腕の中へと引き寄せられた。
ふわりと広がる、ウールの質感と命の体温。
そして、彼がつけている男性用の爽やかなウッディノートの香水の香り。
命の両腕が、茎一の細いウエストにしっかりと回り、強く、強く抱きしめられる。
(抱きしめられている……俺が、男の腕の中に……!)
理性が、最大級の警鐘を鳴らす。
(落ち着け! ここまで、男として泥をすすってきたはずだろ! 相手は自分より年下の男だぞ!)
だが、鏡子の身体は、その悲鳴を嗤うように、命の抱擁に敷感すぎるほど反応していた。
命の胸板の厚み、背中に回された腕の力強さ、服越しに伝わる激しい鼓動。
それらが「自分は今、一人の愛される女性として、命の腕の中にいる」という逃れようのない現実を、全身に叩きつけてくる。
「命……さん……っ」
声が震える。
茎一の手は、命の胸元を押しのけようと、彼のニットの生地を掴んだ。
だが、そこに力を込めることがどうしてもできなかった。
指先が、無力にも命の胸元をぎゅっと握りしめてしまう。
「鏡子さん……僕は、君を心から愛している」
耳元で囁かれる、命の熱く震える息。
「会社のこと、君のお父さんとのこと、副社長としてのプレッシャー……君がたくさんのものを背負って戦っているのは分かっている。でも……僕の前では、どうか無理をしないでほしい。君の苦しみも、不安も、すべて僕が受け止めるから」
その言葉が、これまでずっと一人で戦い、誰にも弱みを見せずに歩んできた茎一の心の奥にあった、分厚い孤独を、優しく溶かしていった。
(あ……ああ……。この男は……本当に、俺をこの身体ごと、丸ごと救おうとしてくれているんだ)
不覚にも視界がじんわり濾れ、熱いものが目頭に込み上げた。
男だった頃の泥臭い努力も、この身体になってからの言いようのない不安も、すべてを包み込んでくれようとする命の愛。
茎一の胸の中で、男としてのくだらないプライドや理性の防壁が、ガラガラと音を立てて崩れていった。
「命……さん……」
茎一は自ら、命の胸元へ顔を埋めた。
スカートがカサリと小さな音を立て、二人の身体が隙間なく寄り添う。
命の鼓動と、自分の胸の奥の激しい脉打ちが、ひとつに溶け合っていく。
命が、そっと茎一の顎に指をかけた。
滑らかな指先が、白く華奢な顎をゆっくりと上へ向かせる。
視線が、至近距離で交差した。
命の眼鏡の奥の瞳には迷いがなく、愛おしさと、一人の男としての強い情熱が燃えていた。
あの公園で見せた誠実な覚悟が、いま、もっとも率直な「男の想い」として鏡子(茎一)へ向けられている。
「……鏡子さん」
「……っ」
拒む言葉など、もうどこにも残っていなかった。
命の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
瞼を閉じると視界が真っ暗になり、代わりに全神経が唇へと集中した。
触れ合う一秒前。
命の温かい息が、茎一の唇をかすめる。
そして——。
やわらかく、熱い感触が、茎一の唇を包み込んだ。
「ん……っ……」
口づけ。
触れ合った瞬間、電流のような熱が背筋を駆け抜けた。
命の唇は優しく、でも迷いなく、茎一の唇を重ねていく。
(あ……あぁ……っ……!)
頭の奥が、真っ白に弾けた。
繊細な皮膚感覚が、命の口づけの熱をそのまま吸い上げていく。
息が詰まり、胸の奥が締め付けられ、膝の力が抜けていく。
立っていられなくなった茎一の腰を、命の腕がしっかりと支え上げ、さらに深く、口づけを重ねてくる。
唇が離れるたびに、小さな息の音が、静かなスイートルームに溶けていく。
「はぁ……っ……命……さん……」
息を漏らしながら目を開けると、命の顔が目と鼻の先にあった。
彼の瞳もまた、熱で僅かに潤み、荒い息を吐いている。
「鏡子さん……愛してる……」
再び重ねられる、熱い口づけ。
今度は茎一の方からも、吸い寄せられるように命の首元へ細い腕を回していた。
指先が、命の黒髪を愛おしそうに包み込む。
(もう……引き返せない……)
男だったことなど、いまこの瞬間、夜景の光の中で、すっかり溶けて消えていた。
自分は「石凝鏡子」であり、命の愛を受け止める一人のパートナーなのだ。
彼の誠意と愛に応え、彼と共に世界を獲る。
その覚悟が、口づけの熱さとともに、茎一の血肉へと落ちていった。
唇が重なったまま、二人とも、窓の外の夜景には目を向けなかった。




