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鏡の中の超絶美女(中身34歳男)、政略結婚を利用して年下天才CEOと会社を攻略する  作者: ニボシ


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第六話 初出社

 朝の光が薄く差し込む書斎の静けさの中で、茎一はデスクに置かれた小さな革製の名刺入れを手に取った。

 ゆっくりと蓋を開けると、白い高級紙に、漆黒の文字がくっきりと刻まれていた。


『株式会社フトダマ 取締役副社長兼COO 石凝鏡子』


 指先で文字をなぞる。

 紙の柔らかな質感を確かめるうちに、胸の奥へ、ズシリと心地よい重みが広がっていった。

 あの土曜日、公園で命が見せた、まっすぐな瞳。

 そして、飾り気のない覚悟の言葉。

 これまで、人間の欲望や裏切り、薄っぺらな損得勘定を嫌というほど見てきた。

 だからこそ、年下の天才エンジニアが一切の計算なしにぶつけてきた誠意が、どれほど得がたいものか、痛いほど分かる。

 彼は自分を信頼し、会社も人生も預けて愛そうとしてくれている。

 その想いを、打算や目先の利益のために踏みにじることなど、人としても、ビジネスパーソンとしてもできない。


(……考えを改めよう。俺は今日から、本当の意味で『石凝鏡子』として生きる)


 入れ替わりの傍観者でも、仮面をかぶった居候でもない。

 彼が心血を注いで創り上げた会社と技術を、共に守り抜くパートナーとしての「鏡子」になるのだ。

 茎一は深く呼吸を整え、洗面台の大きな姿見の前に立った。

 鏡の中の自分と、正面から視線を合わせる。

 今日の装いは、信頼感と華やぎを兼ね備えた、ネイビーのフレアスカートスーツ。

 仕立ての良いジャケットが華奢な肩を引き締め、膝丈のスカートから伸びる脚には薄手のストッキング。

 足元は、歩きやすさと品格を両立した五センチヒールの黒いパンプスだ。

 髪は、ゆるく内巻きにして肩に下ろし、片側だけ耳にかけた。

 動画を見ながら手を震わせて練習したメイクも、いまは手慣れたものだ。

 素肌感を活かしたベースに、知的さを添える控えめなアイライン、唇には健やかな色のルージュをのせる。


「よし……行くぞ、石凝鏡子」


 声に出して気合を入れる。

 鏡の中の美女が、迷いのない強い眼差しで頷き返した。

 ハイヤーの手配は断ってある。

 令嬢の威圧感を脱ぎ捨て、自分の足で新しい戦場へ向かうためだ。

 澄んだ朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、軽やかにヒールを鳴らして、茎一はオフィス街へ歩き出した。


 ◆◆◆


 株式会社フトダマは、社員二十名ほどの、典型的な技術主導型ベンチャーだ。

 命との婚姻届の提出はまだ先で、婚約の事実も社内には伏せてある。

 いきなり「社長の婚約者」として君臨すれば、社員たちの警戒と反発は決定的になってしまうからだ。

 茎一の最初の戦略は、地道に社内で味方を作ることだった。

 長年の営業経験から、開発陣と営業陣のあいだに横たわる溝の深さは熟知している。

 営業が無茶な納期で受注して開発が疲弊する。

 あるいは開発がこだわりすぎて納期が遅れ、顧客の信頼を失う。


(双方の立場と感情を理解して、通訳として案件を回す『調整役』になる。それが副社長としての最初の仕事だ)


 ビルに入り、エレベーターで目的のフロアへ上がる。

 自動ドアが開くと、見慣れたオフィスが目の前に広がった。

 整然と並ぶデスク、サーバーの静かな駆動音、壁に掲げられた「フトダマ」のロゴマーク。

 出迎えた命が、フロアの中央で声を張った。


「皆さん、おはようございます。少し手を止めてもらえますか」


 はっきりとした声が、静かなオフィスに響く。

 出社していた二十名ほどの社員が、一斉にデスクから顔を上げた。開発陣、営業陣、総務。

 その中央に、命と並んで立つ茎一。スカートスーツをまとい、息をのむほど美しい姿に、ざわめきが広がる。


「本日付で、我が社の取締役副社長兼最高執行責任者に就任された、石凝鏡子(いしこり きょうこ)さんです」


 命の紹介を受け、茎一は滑らかに一歩前へ出た。

 背筋を伸ばし、真新しい名刺を忍ばせた胸元にそっと手を当てて、社員一人ひとりの目を静かに見つめる。


「皆様、はじめまして。石凝鏡子と申します。大企業の会長の娘という肩書きで、皆様には困惑やご不安もあるかと思います。ですが私はJEを退職し、フトダマの一員として参りました。皆様が手塩にかけて育ててこられたこの技術と会社を、世界一にするためです。現場の声を何より大切にし、皆様が一番働きやすい環境を作ることに全力を尽くします。未熟な点も多いかと思いますが、どうかご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」


 高圧的な態度を一切排した、低姿勢で誠実な挨拶。

 数々の修羅場で培った確かな発声と人当たりの良さに、「おお……」「思ったより腰が低い人だな……」と、安堵と好感の空気が広がりかけた、その時だった。

 営業部のデスクの端。

 パイプ椅子に背筋を伸ばして座りながら、冷ややかで鋭い視線をこちらへ突き刺している男がいた。

 見覚えのあるスーツ。

 少し日焼けした無骨な手。

 どこか疲れの滲む目元。

 かつて自分が三十四年使い続けた、見慣れた男の顔。


(……本物の、石凝鏡子……!)


 元の自分の身体に入った鏡子が、腕を組み、小馬鹿にしたような笑みを浮かべてこちらを見ていたのだ。


(親のコネも名前も関係ない男の身体なんて最高じゃない! これで誰の邪魔も受けずに、現場の営業から自分の力で成り上がれる!)


 電話口でそう言い放った彼女が、平社員の「叢雲茎一」として、副社長となった自分の身体を、挑むような瞳で射抜いている。


(ふっ……面白くなってきたじゃねぇか)


 茎一はネイビーのジャケットの胸を張り、引き締まった笑みを返した。


 ◆◆◆


 朝礼が解散し、社員たちがそれぞれのデスクへ戻っていく。

 キーボードの打鍵音とサーバーの駆動音が、再びオフィスを満たし始めた。

 茎一はスカートの裾を軽く整え、奥のデスクへ向けて静かに歩き出した。


(社員二十名という規模は、武器になる)


 営業現場や組織調整の修羅場で身につけた感覚が、頭の中で素早く計算を弾き出す。

 数百人規模の組織では全員との直接対話など不可能だが、二十人なら一人ひとりの性格も、業務内容も、抱えている不満まで、自分の耳で把握できる。

 もちろん全員と親友になれるわけではないし、相性もある。

 だが、敵を一人でも減らしておくことが組織運営でどれほど効くか、茎一は痛いほど知っていた。


(一番やりにくい相手は、間違いなく『元の俺の肉体(鏡子)』だな)


 ちらりと営業部の端へ視線を向けると、元の自分の身体に入った鏡子は、脚を組んで気だるそうにディスプレイを眺めていた。

 あの「元・自分」との距離感は、慎重に見極める必要がある。

 そしてもう一つ。

 石凝鏡子という美貌の持ち主として社内を動くうえで、避けるべきリスクがあった。


(男性社員と不用意に親しくなりすぎるのは、公私ともに危ない)


 この容姿で親しげに距離を縮めれば、勘違いして好意を抱く者が出かねない。

 ましてや、公にはしていないとはいえ、命という婚約者がいる。

 社内で不貞を疑われるような誤解だけは、何があっても避けたい。


(こういう時の鉄則は、『彼氏持ち』であることを早々に匂わせておくことだ。一番の魔除けになる)


 聡明でガードの堅い女性たちが使っていた防御策だ。

 雑談の中でごく自然にパートナーの存在をにおわせ、余計な誤解が入り込む余地を消しておく。

 そして、社内での立ち位置を固めるための絶対条件がある。


(社内の女性社員グループ……ここだけは、必ず味方につける)


 フトダマの女性社員は三人。

 開発エンジニアの名田筆美(なだ ふでみ)、営業担当の宇之乙女(うの おとめ)、総務の鹿野緑(かの みどり)。

 二十代後半から三十代前半の彼女たちは、社内では「三人娘」と呼ばれている。

 この三人と良好な関係を築けるかどうかが、社内の空気や非公式な情報網を握る鍵になる。

 女性同士のコミュニティから外れれば、どんなに優秀な役員でも浮いてしまうのだ。


(茎一としては、毎日顔を合わせてきた同僚だ。だが今日の俺は、初対面の副社長でなきゃならない)


「名田さん、少しお時間よろしいですか?」


 茎一はまず、開発部のデスクでキーボードを叩いていた筆美のもとへ向かった。

 ボブカットに黒縁メガネ、オーバーサイズのパーカーを着こなした、長身でボーイッシュな女性だ。

 筆美は手を止め、驚いたように顔を上げた。


「あ……石凝副社長。はい、なんでしょうか?」

「朝礼でもお伝えしたのですが、現場の皆様がどんな環境で開発されているのか、私自身がしっかり把握しておきたくて。名田さんが今担当されているアルゴリズムの調整で、やりづらい点や負荷がかかっている部分はありますか?」

「えっ……あ、えっと……」


 筆美は拍子抜けしたように瞬きをした。

 世間知らずな大企業出身役員なら高圧的に命令してくるかと思いきや、開口一番に現場のやりやすさを気遣ってきたからだ。


「実は……代理店経由で入ってくる急な仕様変更が多くて。開発ラインがその度に止まっちゃうのが、一番キツいです」

「なるほど。代理店との契約条項で、仕様変更の受付期間と追加工数の費用ルールが曖昧になっているのが原因ですね。そこは私のほうで契約内容を見直して、無茶な割り込みが入らないようガードを作ります」

「ほんとですか!? それ、めっちゃ助かります……!」


 筆美の表情が、ぱっと明るくなった。


「ふふ、任せてください。……あ、それから名田さん。そのメガネのフレーム、すごくお洒落ですね。私、そういう知的なデザインが好きなんです」

「えっ、本当ですか!? これ、鳳鳴台のセレクトショップで買ったお気に入りなんです!」


 現場の痛みに寄り添う実務的な回答と、さりげない褒め言葉。

 筆美の警戒心が解けていくのが分かった。

 続いて向かったのは、総務の緑のデスクだ。

 ロングヘアを後ろでまとめ、落ち着いたオフィスカジュアルを着こなす彼女は、社内の庶務と手続きを取り仕切る要の存在だった。


「鹿野さん、備品の手配や入社手続き、迅速にご対応いただきありがとうございます。すごく助かりました」

「いいえ、副社長。それが私の仕事ですので」


 控えめな緑に、茎一は柔らかく微笑んだ。


「これからの私のスケジュール管理や社内手続きで、不手際があったら遠慮なく教えてくださいね。……あ、それから、これ鳳鳴台の百貨店で見つけた焼き菓子なんです。よかったら皆さんで召し上がってください」


 手渡したのは、個包装のクッキー。露骨な賄賂ではなく、感謝を形にしただけの、ささやかな気遣いだ。


「まぁ……! ここの焼き菓子、ずっと気になっていたんです! ありがとうございます、副社長!」


 緑の表情が和らぎ、柔らかな笑顔がこぼれた。

 最後に、営業部の乙女のデスクへ。

 ショートカットが似合うハキハキとした印象で、営業部らしい押しの強さをまとった、貴重な女性戦力だ。


「宇之さん、今期の新規案件の提案書、拝見しました。ターゲットの選定がすごく的確ですね」

「えっ、副社長……見てくださったんですか!?」

「ええ。ただ、クロージングで提示する価格交渉の幅が、少し営業側に不利な設定になっている気がしました。もしよければ、過去に私が……あ、ううん、知人の営業マンから聞いた交渉のノウハウなんですが、こういうロジックで押すと、クライアントの予算を引き出しやすいですよ」


 現場で磨いた生々しいテクニックを伝えると、乙女は「うわ、それスゴいですね……! 明日の商談で早速使ってみます!」と身を乗り出した。

 いつの間にか、筆美と緑も乙女のデスクのそばに集まっていた。

 ひと通り業務の話が盛り上がったところで、茎一はふっと息を抜き、三人を見渡して、彼氏持ちシールドを張るタイミングをうかがった。


「……ふぅ、皆さんすごく熱心で、刺激になります。私、実は入社までずっと慌ただしくて……休日に彼氏と美味しいお店に行くくらいしか、息抜きがなかったんです。だから、こうして現場で皆さんと前向きなお話ができるのが、すごく新鮮で」


 自然な流れで差し込んだ「彼氏」という言葉に、乙女がぱっと身を乗り出した。


「えっ! 副社長、彼氏さんいらっしゃるんですか!? やっぱりすごく素敵な方なんですか!?」

「ええ……少し不器用な人なんですけど、自分の仕事にすごく情熱を持っていて、誠実な人なんです。休日も、彼のお気に入りのお店に連れて行ってもらったりして……」


(よし、『彼氏持ち』の既成事実化は完了だ)


 男性社員への無用な牽制になりつつ、命との関係は伏せたまま、嘘もついていない絶妙なラインだった。


「いいなぁ〜! 副社長みたいな美人が相手なら、彼氏さんも自慢でしょうね!」

「そんなことないですよ。……あ、そうだ。よかったら今度、四人でランチでも行きませんか? 鳳鳴台の近くに、すごく美味しいイタリアンを見つけたんです」

「えっ、本当ですか!? 行きたいです!」

「ぜひお願いします!」


 筆美、緑、乙女の三人が、楽しそうに顔を見合わせる。

 高圧的な令嬢役員という事前の懸念は消え、彼女たちの目に映るのは、仕事ができて、気遣いがあって、話の分かる素敵な上司の姿だった。


(よし……三人娘の攻略は上々だな)


 ふと視線をやると、少し離れた席から、その光景を苦々しげに睨む「元・自分」と目が合った。

 本物の鏡子にはできなかった「周囲との調和と人脈作り」を、かつて男だった自分が、鏡子の身体でやすやすとこなしている。

 その事実に、鏡子が悔しそうに唇を噛んだのが見えた。

 茎一は、ピンクベージュのネイルを施した手でコーヒーカップを持ち上げ、彼女に向かって小さく笑ってみせた。

 新生フトダマの布陣は、茎一の思い描く形へと、着実に組み上がろうとしていた。

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