第五話 覚悟と告白
有休消化に入って数日後。
茎一は銀嶺街のビルの一角にある完全予約制のネイルサロンで、ふかふかのソファに腰掛けていた。
「石凝様、本日は付け替えのご予約ですね。デザインはいかがなさいますか?」
ネイリストの女性が手際よく電動ファイルで爪の表面を削り、爪先のケアを進めていく。
自分の爪が綺麗に整えられていく妙な感覚にむず痒さを覚えつつ、茎一は手元の小さなデザインカタログに目を通した。
(うーん……派手なのはどうも苦手だな)
鏡子のクローゼットやドレッサーの引き出しには、ラインストーンがゴテゴテと盛られたパーツや、派手なゴールドの装飾チップも眠っていた。
だが、茎一の好みに合わないのはもちろん、ベンチャー企業の副社長として現場を仕切るこれからの立場でも、TPOに欠ける印象を与えてしまう。
「派手な装飾は無しで、肌なじみのいいヌーディーなピンクベージュのグラデーションにしてください。シンプルで、落ち着いた清潔感のある印象にしたいんです」
「承知いたしました。爪の形は自然なラウンド型でお整えしますね」
プロの滑らかな手つきで施術が進む間、茎一は空いている左手で鏡子のスマートフォンを開き、彼女の過去のメッセージ履歴やSNSのアカウントをこっそりチェックしていた。
そこで気づいたのは、ある奇妙な事実だった。
(……この鏡子って子、プライベートの友達がまともにいないのか?)
メッセージのやり取りにあるのは、JEホールディングスの役員や秘書室、あるいは社交界のフォーマルなパーティの連絡ばかり。
「明日飲みに行こうよ」
「週末買い物行かない?」
などといった、等身大の友人同士のフランクなやり取りは、ここしばらく存在しなかった。
ただ一人、頻繁にやりとりしている女性はいるようだったが、今月に入ってからは音沙汰がない。
「JEホールディングス会長の娘」という強力なカードを持ちながら、それをプライベートの人脈形成に一切活かしていないのだ。
親の七光りから脱却して自立したいという反発心やプライドは理解できなくもないが、叩き上げの営業マンとして泥臭く生きてきた茎一からすれば、もったいなさすぎて目眩がするほどだった。
(『立っている者は親でも使え』って言うだろうに……。俺だったら、その肩書きを存分に利用して政財界や若手起業家との繋がりを作りまくって、いくらでもビジネスの足がかりにするんだがな)
人脈こそがビジネスの最大の武器だ。
彼女の不器用さと頑なさに苦笑しながらも、これからは自分が「石凝鏡子」という最強のカードを使い倒してやると、茎一は新しく塗られたピンクベージュの爪先を光にかざしてほくそえんだ。
◆◆◆
そして迎えた、土曜日のデート当日。
「……うーん、やっぱりヒールとスカートは歩きづらいな」
姿見の前で、茎一は少しぎこちなく足首を回した。
ローヒールでも、スニーカーで駆け回っていた頭の感覚が抜けず、足首に余計な神経を使う。
本日のデート服は、クローゼットに並ぶ膨大な高級服の中から、茎一の独断と偏見(男目線)で選んだコーディネートだ。
命の服の好みなどまだ知る由もないし、女性同士で評価されるような最新トレンドも分からない。
だが——「男なら、こういう女子の服が好きに決まっている」という確信のもとに選んだ。
トップスは、鎖骨のラインが綺麗に覗く、柔らかいオフホワイトの細リブニット。
体のラインに程よく沿い、豊かな胸元と華奢なウエストのメリハリをさりげなく引き立てている。
ボトムスには、歩くたびにしなやかに揺れるスモーキーサテンのロングフレアスカート。
足元は控えめなグレージュのローヒールパンプス。
髪は低い位置でゆるくまとめ、耳元に後れ毛を残した。
過度な露出はせず、上品で清潔感がありながら、女性らしい柔らかなシルエットと隙を酔し出すスタイルだ。
(よし。絶対こういう清楚でちょっと色気のある服装に弱いはずだ。……まあ、中身の男の俺が選んでるんだが)
自分のチョイスに一定の満足感を覚えつつも、年下の上司である社長と「デート」をするという事実に、茎一の胸中はなんとも複雑なモヤモヤに包まれていた。
計画のため、そしてフトダマでの副社長のポジションを盤石にするための付き合いとはいえ、男の精神としては気恥ずかしさが勝ってしまう。
小さなショルダーバッグを肩にかけ、待ち合わせ場所である鳳鳴台駅の改札前へと向かった。
◆◆◆
休日で賑わう鳳鳴台駅の改札前。
少し早く着いた茎一は、人目を引いてしまう自分の容姿を意識しつつ、柱の陰でスマホの画面に目を落としていた。
すれ違う男性たちが振り返る視線を感じるが、それもあえて無視する。
「鏡子さん……!」
聞き慣れた声に名前を呼ばれ、茎一は顔を上げた。
「あ、命さ——」
返事をしようとした茎一の言葉が、喉の奥でぴたりと止まった。
混雑する人波をかき分けてこちらへ歩いてくる男の姿を目にした瞬間、女の頭の中が真っ白になった。
そこにいたのは、普段会社で着ているシワシワのTシャツ姿でもなければ、前回のフレンチレストランで見せたガチガチのスーツ姿でもなかった。
身体のラインに合ったネイビーのカジュアルジャケットに、明るいグレーのノーカラーシャツ。
細身のダークパンツをすっきり着こなし、癖のある黒髪は自然にスタイリングされている。
細縁の眼鏡の奥で、切れ長の瞳が休日らしい爽やかな光を宿していた。
猫背だった背筋がすっと伸びた立ち姿は——街中で振り返られても不思議はない、「爽やかイケメン」そのものだった。
(……え、待て……あいつ、こんなカッコよかったか……!?)
社内ではいつも開発部屋にこもり、ボサボサ頭でコードを書いている姿しか見ていなかった。
だからこそ、見違えるように垢抜けた私服姿のギャップは、あまりにも衝撃的だった。
「鏡子さん! お待たせしてごめんね! ……わあ、今日の服、すごく似合っていて……本当に綺麗だ……」
命が目の前に立ち、照れくさそうに頭を掻きながら、まっすぐな瞳で自分を見つめてくる。
その瞬間。
ドクン、と茎一の胸の奥が大きく跳ね上がった。
(……っ!?)
何だこの感覚は。
理性は「落ち着け、相手は社長だぞ」と警鐘を鳴らしているのに、鏡子の身体が、目の前の魅力的な男性に素直すぎるほど反応してしまっている。
「あ……あはは、ありがとうございます……命さんも、すごく素敵ですよ……」
とっさに可憐な笑みを作って返したものの、耳たぶから頬にかけて、じんわり熱が昇っていくのが自分でも分かった。
「それじゃあ行こうか! 僕が世界一美味しいと思っている黒カレーの店、すぐ近くだから!」
「は、はい……!」
無邪気に笑って歩き出す命の後ろ姿を追いかけながら、茎一は真っ赤になった頬を片手でそっと押さえた。
(ヤバい……! 身体が勝手に反応しやがって……っ! しっかりしろ俺の精神!!)
営業マンの計算と、女の身体が勝手に取る反応。
その両方に振り回されながら、初デートは思いのほか落ち着かない幕開けを迎えた。
◆◆◆
駅前の喧騒を抜け、鳳鳴台の裏通りにひっそりと佇む老舗洋食屋『キッチン・タカハシ』。
レトロな赤レンガの壁と香ばしいスパイスの香りが漂う店内で、茎一と命は奥のテーブル席へと通された。
注文したのは、もちろん二人が熱望していた名物「特製黒カレー」だ。
やがて運ばれてきたのは、漆黒のように濃厚でツヤのあるルーの上に、揚げたての大きなロースカツがどっしりと鎮座した圧巻の一皿だった。
「うわぁ……やっぱりこれだよ! 鏡子さん、冷めないうちに召し上がれ!」
「はい、いただきます!」
スプーンを取り、一口運ぶ。
香ばしいコクと濃厚な旨味、その後に押し寄せるピリッとしたスパイスの刺激。
カツの衣はサクサクで、脂の甘みが黒いルーと見事に絡み合う。
「……ああ、やっぱりうまい……! この舌で味わうと、さらにうま味が深いんですね……!」
「でしょう!? ここの店主、じっくり炒めた玉ねぎと秘伝のスパイスを三日間煮込んでるんだよ!」
記憶どおり、いや、それ以上の味に、舌が歓声を上げる。
だが同時に、茎一の頭の中では冷静な警告が点っていた。
(待て……今の俺は、オフホワイトの細リブニットにスモーキーサテンのスカートを着ている超絶美女だ。この漆黒のルーが一滴でも飛んだら一発アウトだ……!)
茎一は首元に紙ナプキンを丁寧に差し込み、スプーンを運ぶ角度に細心の注意を払った。
カツを一口大に切り分け、ルーが跳ねないよう静かに口へと運ぶ。
その上品な仕草と、頬を緓ませて味わう無防備な表情の落差に、向かいの命はすっかり見とれていた。
ゲームや漫画、そしてこのカレーの味についての会話は大いに盛り上がり、二人はそれぞれあっという間に一皿を平らげた。
◆◆◆
満足感に包まれた二人は店を後にし、近くにある鳳鳴台公園へと向かった。
休日とあって、緑豊かな樹々が並ぶ遊歩道には家族連れやカップルが散策を楽しんでいる。
風が木々の葉を揺らし、心地よい日差しが二人の足元にまだらの影を落としていた。
(……さて、ここからが本番だな)
スカートの裾をふわりと揺らして歩いていた茎一は、すっと表情を引き締めた。
ただ楽しくB級グルメを食べ、趣味の話で盛り上がるだけの「デート」で終わらせるつもりはなかった。
これから自分たちは、株式会社フトダマという社員二十名の命運を握る会社で、社長と副社長、そして夫婦として歩み出そうとしているのだ。
茎一は歩みを止め、ベンチの近くで命の方へと振り返った。
「命さん。……少し、真面目なお話をしてもいいですか?」
木漏れ日の中で、ピンクベージュの爪を施した指先を胸元でそっと重ねる。
真剣な眼差しで自分を見つめる「石凝鏡子」の空気に、命も笑顔を収め、すっと背筋を伸ばした。
「うん、どうしたんだい? 鏡子さん」
「……私たちの、この政略結婚と副社長就任のことです」
茎一は静かに、だが一言一言を噼みしめるように問いかけた。
「私たち、実際に会うのはこれでまだ二回目です。……命さんは本当に、私の見た目ではなく、中身の人間性や性格を理解してくれているのでしょうか? 形式的な『提携のための結婚』として割り切っているのか、それとも……一生を共にするパートナーとして、本気で私と向き合う覚悟があるのですか?」
命の眼鏡の奥の瞳が、かすかに揺れた。
茎一は攻め立てる手を緩めず、さらにビジネスの現実へ踏み込んだ。
「それに、会社のことです。交際期間はゼロ、年単位の信頼関係の蓄積もありません。そのうえ私は、JEを退職して参加するとはいえ、JEホールディングス会長の娘であることに変わりはありません。取締役としていきなり乗り込む二十代の女性です。社内の二十人の社員たちから見れば、『父のコネで乗り込んできた異物』にしか映りません」
茎一は自分の胸元に手を当て、まっすぐに命の目を見つめた。
「もちろん、私自身も副社長として、泥をかぶる覚悟で努力します。ですが……命さんは、そうした社内の軸轢や反発から、私を支え切る覚悟がありますか? 逆に……もし私が、JEの利益のためにフトダマへ不利な条件を突きつけるような動きをした時、パートナーである私に対して、経営者として毅然と戦うことができますか?」
一息に突きつけられた、あまりにもリアルで容赦のない現実。
普通なら気まずさに逃げ出したり、お茶を濁したくなったりするような重い問いかけだった。
だが、命は目をそらさなかった。
彼は一瞬だけ深く息を吐き、眼鏡の位置を指先で直すと、歩み寄って茎一の真正面に立った。
その表情から頼りなげな雰囲気は消え、そこにあったのは、社員二十名の命運を背負って会社を創業した「一人の経営者」の顔だった。
「……鏡子さん。君の懸念は、すべて正当だ」
命の声は、低く、力強く木々の間に響いた。
「まず、君の中身についてだ。確かに会ったのはまだ二回目だ。でもね……僕は開発者として、人の目の奥にある情熱や嘘を見抜くことには自信があるんだ。君がフレンチレストランで、そして今日、僕の好きなものやフトダマの課題について語ってくれた時……君の瞳にあったのは、親の威光に頼る令嬢の顔じゃない。自分の足で立ち、僕の技術と会社を本気で理解しようとしてくれる、一人の情熱的な人間そのものだった」
命は澄んだ瞳で、茎一をまっすぐに見つめ返した。
「だから僕は、君の見た目だけに惚れたんじゃない。君という人間の『意志』に惚れたんだ。形式的な結婚で終わらせるつもりなんてサラサラない。一生をかけて、君と本気で向き合い、愛し抜く覚悟がある」
茎一の胸が、小さくうずいた。
命の言葉には、一切の打算も偽りもなかった。
「そして……会社での君の立ち位置についてだ」
命は拳を強く握りしめた。
「社員たちが君をどう見るか……最初は間違いなく『会長のコネで来た役員』として警戒するだろう。でも、僕はCEOとして社員全員にハッキリと言うつもりだ。『彼女はJEの人間じゃない。僕が惚れ込み、僕たちの会社を世界一にするために引き抜いた僕の最高の副社長だ』とね」
「命さん……」
「君が社内で孤立することなんて絶対にさせない。僕が君の盾になる。……だけどね」
命の表情が、一転して鋭い経営者の眼光へと変わった。
「君の最後の問いについて答えるよ。もし君が……いくら愛する者であっても、JEの利権のためにフトダマを害するような無理な条件を突きつけてきたら……僕は社長として、絶対に拒絶する。君と戦ってでも、この会社と技術を守る」
命は茎一の肩へと手を伸ばしかけ、踏みとどまるように拳を引いた。
「なぜなら……君が飛び込んでくれるのは、自分の創った会社と技術に誇りを持っている『玉屋命』だからだろ? 僕が信念を捨ててJEに屈するような情けない男になったら、君に合わせる顔がない。だから僕は、夫としても、社長としても、君に対して毅然とあり続ける。——高い壁だと思うけど、だからこそ言うよ。結婚してください!」
誠実で、温かく、しかし芯には強い熱を秘めた覚悟の言葉。
長年、社会の駆け引きを見てきた茎一にとって、命の不器用なまでの真っ直ぐさと覚悟は、眩しいほどに胸を打つものだった。
(……参ったな)
茎一はふっと自嘲気味に微笑み、手元でスカートを軽く払った。
目の前の年下の社長は、ただ「自分にデレデレなオタク男子」ではなかった。
自らの足で立ち、会社を守り、自分をまるごと受け止めようとする、立派で魅力的な一人の「男」だったのだ。
「……ふふ。合格です、命さん」
茎一は可憐で美しい笑みを浮かべ、命に向かって軽く手を差し出した。
「頼りにしていますよ、社長」
「鏡子さん……っ!」
命はぱっと顔を輝かせ、差し出された茎一の手を、今度は優しく、だがしっかりと両手で包み込んだ。
木漏れ日の降り注ぐ公園で、二人の間に漂っていた「政略結婚」という建前は藄れ、代わりに、この先を共に歩むという覚悟だけが、確かな重みをもってそこに残った。




