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鏡の中の超絶美女(中身34歳男)、政略結婚を利用して年下天才CEOと会社を攻略する  作者: ニボシ


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第四話 暴走機関車

 週明けの朝。

 都心のパノラマを一望するタワーマンションの書斎で、茎一は静寂の中に身を置いていた。

 昨夜のカールがわずかに残る髪を無造作に後ろでまとめ、淡いグレーのニットのルームウェアにカーディガンを羽織っただけの、気の抜けた格好だ。

 デスクの上には、JEからフトダマの役員就任にあたって届いた事前資料。

 読み込むうちに、営業畑を歩んできた茎一の頭の中で、法的な枠組みとビジネスの構図が見る間に組み上がっていった。


「待てよ……『出向』とは言っているが……」


 茎一は鏡子のノートPCを開き、JEホールディングスとフトダマの資本関係、就任予定の契約書類のデータを手早く洗い出していく。

 一般的に「大手企業からの出向」といえば、親会社の籍を残したまま関連会社へ赴任し、給与も身分も親会社に保障されるケースが多い。

 だが、今回はまったく違っていた。

 フトダマはJEの出資を受けて持分法適用会社になる予定だが、連結子会社ではなく、あくまで独立したベンチャーだ。

 しかも株の過半数を握るオーナーは、他ならぬ創業者の玉屋命自身。

 さらに重要なのは、鏡子が就くポジションが「社員」ではなく「取締役副社長」という役員ポストである点だった。


「取締役への就任……つまり、会社法上の委任契約だ。JEの『社員』としての雇用契約は終了して、退職手続きを取ることになる……」


 画面の書類を確かめながら、茎一は小さく息を詰めた。

 JEを辞めれば、大企業の手厚い社会保険や厚生年金からも抜けることになる。

 加えて、JEの就業規則は副業も他社役員の兼任も認めていない。

「籍を残したままお手伝い」などという甘い選択肢は、最初から存在しないのだ。

 つまり、石凝鏡子がフトダマの副社長になるということは——大企業の庇護を捨て、退職金を清算し、一人の経営幹部として一本足で立つ「片道切符」を意味していた。


「……なるほどな」


 茎一は画面を見つめたまま、口元をゆるめた。


(烏太朗会長は、娘を『出向』の名目で送り込んでフトダマを手中に収めたつもりだろうが……構造的には逆だ)


 会長の狙いは、JEの資本力と政略結婚を使って、フトダマの革新的なAI技術をグループの傘下に収めることにある。

 では、現実はどうか。

 オーナー株主は命で、JEの影響力は出資比率の範囲に収まる。

 その命は今や、中身が茎一である鏡子にすっかり惚れ込み、彼女の言うことなら何でも聞きそうな状態だ。

 そのうえ鏡子本人がJEを正式に退職すれば、身分のうえでもフトダマ側の人間になる。


「……親父の言うことを聞く義理なんて、最初からないじゃねぇか」


 茎一は椅子の背もたれに体重を預けた。

 烏太朗の顔色を窺ってJEの利益のために動く必要はない。

 鏡子(茎一)は、フトダマの業績を伸ばして市場価値を高め、副社長としての地位とリターンを手にすればいい。

 淹れたてのブラックコーヒーをひと口含み、画面に目を戻す。

 開いていたのは、JEの人事部の社内ポータルと、有給休暇の申請フォームだった。


「……よし、腹は決まった」


 手入れの行き届いた細い指でマウスを握り、残っていた三十日分の有給休暇を一括申請の欄に入力していく。

 消化し終えた最終日をもって、JEを自己都合で退職する段取りだ。

 烏太朗が描いたシナリオは、おそらくこうだろう。

 退院後はいったんJEの経営企画部へ復帰し、提携の準備を進めながら、出向の形でフトダマへ送り込む。

 だが、そんな予定調和に素直に乗るつもりはなかった。


「親父の敷いたレールを歩くフリをして、先手を打って主導権を奪う。それが一番利口な戦い方だ」


 烏太朗の指示を待つ必要はない。

 こちらから先にJEを抜け、会長の思惑より大幅に前倒しでフトダマへ飛び込んでしまえばいい。


「親父殿には『従順な娘』のフリをして、うまく報告しておくか」


 茎一はスマートフォンを取り出し、烏太朗の直通番号を呼び出した。

 数回のコールのあと、低く落ち着いた初老の声がスピーカーから響く。


『鏡子か。体調はどうだ』

「はい、お父さん。おかげさまで、すっかり落ち着きました。今日は今後の進路について、ご報告があって連絡しました」


 鏡子の澄んだ声に、真摯な響きを混ぜる。

 バス停で彼女が口にしていた「お父さん」という呼び方をなぞりながら、数々の修羅場で身につけた、相手の心を動かすための「嘘のない声」を作った。


「JEとフトダマの提携が、我が家にとっても大事な案件だということは理解しました。ただ、いったんJEの経営企画部に復帰してから出向する形では、手続きにも社内の目にも時間を取られます。それに、出向という立場のままでは、命さんもフトダマの社員も、私をJEの目付け役として警戒するでしょう。これでは関係づくりも現場の把握も遅れてしまうと考えました」


 電話の向こうで、烏太朗がわずかに言葉を探す気配がした。


「そこで、残っている有給休暇の消化申請を今日付けで出しました。休暇が明けたらJEを退職し、お父さんの指示される時期を待たず、前倒しでフトダマの副社長に就任します。籍を抜いて同じ船に乗ったほうが、命さんの懐にも入り込めます。一刻も早く現場に入って経営を支えることが、最善の道だと存じます」


 受話口の向こうに沈黙が落ちた。烏太朗が考えを巡らせているのが分かる。

 事故の前は「お父さんのコネなんて嫌」と激しく反発していた娘が、事故のショックと記憶の混乱を経て、フトダマへの関与も命との関係づくりも受け入れ、しかも自分から先手を打って動き出した——烏太朗の目には、そう映っているはずだ。


(どうだ。自分の指示に従わせてやったと、いい気分になってるだろ、親父殿)


 実際には、従うフリをしながら、会長の手が届かない独立したポジションへ真っ先に逃げ込もうとしているだけなのだが、烏太朗には「娘が親の意向を汲んで目覚めた」としか見えない。


『……フン。事故をきっかけに、少しは物事の優先順位が分かるようになったか』


 声から、張り詰めた圧が少し抜けていた。


『いいだろう。人事部には私からも話を通して、有休処理と退職の手続きを最速で進めさせる。命君にもその旨を伝え、受け入れの準備を急がせろ。石凝の人間として、成果を出してみせろ』

「はい、お父さん。ご期待に添えるよう尽力いたします」


 通話を切ると、茎一は書斎のソファに身を沈め、喉の奥でくくっと笑った。


「一本取ったぞ。これで親父の警戒を解いたうえで、JEの縛りから抜けられる」


 烏太朗は「娘を操ってフトダマを手に入れた」と信じている。

 だが実際は、茎一が誰の指示も受けず、自分の意志だけでフトダマの副社長の座へ乗り込むのだ。


 ◆◆◆


 烏太朗との化かし合いを制した茎一は、手元で小刻みに震え続けるスマートフォンに視線を落とした。

 緑色のメッセージアプリには、未読件数「38」の数字が躍っている。

送り主はすべて、昨夜のフレンチレストランで意気投合した玉屋命だ。


「……さて、こっちの暴走機関車をどう料理するかな」


 トーク履歴を開くと、昨夜ハイヤーの前で別れた直後から今朝まで、途切れないメッセージが滝のように流れ落ちてきた。


『鏡子さん! 昨日は本当に夢のような時間をありがとう! 君と話した『銀翼のアルカナ』の伏線回収について、僕なりに考察をまとめたメモを作ってみたよ!(ファイル十二ページ添付)』

『夜中に送りつけてゴメン! でも君と話した余韻で興奮して、眠れなくて……!』

『朝起きてすぐ君の顔が浮かんだよ。黒カレーのお店、今度の土曜日で予約を取ってもいいかな!?』

『返信は気にしないでね! でも君の声をもう一度聞きたいな……!』


 スクロールしても、愛の弾幕は途切れない。


(……うん、これは相当な惚れられ方をしたな)


 茎一は片手で額を押さえた。

 客観的に見て、命の行動は「理想の女神に出会って冷静さを失った、純情なオタク青年」そのものだった。

 自分の趣味を余すところなく理解し、絶妙な相槌で乗せてくれる、しかも深いブルーのドレスの似合う美しい女性。

 そんな存在が現れたのだから、命の頭のヒューズが飛ぶのも無理はない。

 ところが、履歴をさらに下へたどると、今朝の七時半を過ぎたあたりで、文面の調子が急に変わっていた。


『……鏡子さん、本当にごめんなさい。今、自分で読み返して、顔から火が出るほど恥ずかしいです』

『昨日出会ったばかりなのに、夜中に十二ページの考察を送りつけるなんて、気持ち悪かったよね……? 本当にゴメンナサイ……!』

『引かれたよね……僕、好きなことが溢れると周りが見えなくなるんだ。君に嫌われたらと思うと、今すごく後悔して震えてます』

『もう迷惑な連投はしません。不快にさせてしまったなら、本当にごめんなさい……』


 我に返って猛烈に自己嫌悪に陥り、パニックになっている様子が、文面の端々から生々しく伝わってくる。

 茎一はふっと表情をゆるめた。


(はは、可愛いところあるじゃないか)


 自分の暴走に気づき、嫌われるのを恐れて縮こまっている年下の天才エンジニア。その不器用な素直さに、兄貴分のような気持ちが少しくすぐられた。


「よし、安心させてやるか」


 茎一はソファの上で脚を組み替え、細い指でフリック入力を走らせた。


『命さん、おはようございます。考察ファイル、拝見しました! 第八巻の伏線をここまで深く読み込んでいるなんて、感動しました。不快になんて、全然思っていませんよ。むしろ、命さんのそういう純粋で熱いところが、私はすごく素敵だと思います』


 送信。

 すぐに「既読」がつき、返信が飛んできた。


『鏡子さんっっ!! 本当かい!? 嫌われてない……!? 気持ち悪いって思われなかった……!?』

『もちろんです! 命さんの熱意につられて、私もすごくワクワクしています。それと、先ほど父に連絡を入れて、JEへの復帰はやめて、有休消化のあとで正式に退職し、前倒しでフトダマの副社長に就任すると伝えました』


 送った瞬間、画面が静止した。

 一秒、二秒、三秒。

 直後、ブルルルルッ! とスマートフォンが激しく震え、音声通話の着信画面が画面いっぱいに広がった。


「やっぱりか……!」


 苦笑しながら応答し、スピーカーを耳に当てる。


『鏡子さんっっっ!!!!』


 耳がキーンとするほどの声量で、命の歓声が跳ね返ってきた。


『本当かい!? 嘘じゃないよね!? JEを辞めて、前倒しで僕の会社に来てくれるなんて……! しかも、僕の暴走したメッセージまで優しく受け止めてくれて……! 僕はなんて幸せ者なんだ……っ!』

「ふふ、本当ですよ、命さん。私は本気で、フトダマを世界一のAI企業にしたいんです。だからJEの顔色は窺わず、最初から副社長として全力を尽くします」

『ああ、鏡子さん……! 君が副社長になってくれるなら、僕はなんだってできる! 開発に全力を注いで、絶対に君の期待に応えてみせるよ!』


 電話越しでも、命の興奮と感動が痛いほど伝わってくる。


「それで入社日ですが、有休消化が終わる六週間後の月曜日でどうでしょうか。それまでの間に、フトダマの財務データとプロダクト資料を分析して、営業体制の再構築案を練っておきます」

『もちろんだよ! 最高の形で君を迎える準備を整えておく!』


(よし、前倒しの根回しはこれで盤石だ)


 茎一が満足して口元をゆるめた、その直後だった。

 電話口の命の声が急にしぼみ、もじもじとした調子に変わった。


『あ、あのさ……鏡子さん』

「はい? なんでしょう?」

『その……入社までの間、鏡子さんは準備で忙しいとは思うんだけど……』


 緊張しきった声で、ごくりと唾を飲む音がした。


『今週末の土曜日、一日だけでいいんだ! 僕のおすすめの『黒カレー』のお店と、僕が一番好きな鳳鳴台のレトロゲームショップへ……僕と、デートに行ってくれないかい!?』

「……え?」

『もちろん、無理にとは言わないよ! また暴走してたらゴメン! でも、君ともっと話したいし、僕の好きな世界を君に見てもらいたいんだ! お願いできるかな……!?』


 茎一の思考が一瞬止まった。


(デ、デート……!?)


 年下の上司である社長からの、あまりに直球の誘い。

 断る口実ならいくらでも作れる。

 だが相手は自分に惚れ込んでいて、ビジネスパートナーとしての信頼関係も絶頂期だ。

 ここで無下に断れば、ようやく立ち直った彼の純粋な気持ちに冷や水を浴びせかねない。

 それに何より、「黒カレー」と「レトロゲームショップ巡り」という言葉は、本来の茎一自身の趣味にも深く刺さるプランだった。

 土曜は美容サロンの予約が詰まっていたはずだが、動かしてしまえば済む話だ。


「……ふふ、いいですよ。土曜日ですね、楽しみにしています」


 気がつけば、鏡子の艶やかな声が、なめらかに承諾を紡いでいた。

 電話の向こうで『やったぁぁぁっ!!』と歓声が弾ける。

 通話を終えてスマホをローテーブルに置き、茎一は長い溜息をついた。

 書斎の姿見の前に立ち、自分の姿をじっと見る。

 淡いグレーのルームウェアにカーディガンを羽織った鏡子の身体。

 豊かな胸元、引き締まったウエスト、透き通る白い肌。


「仕事の盤面作りは上々だが……プライベートの防壁が崩れそうだな……」


 整えられた指先で、自分の頬を包み込む。

 烏太朗を欺いて手に入れた自由な立場と、前倒しで乗り込むフトダマの副社長の座。

そして週末に控えた、年下の天才社長との初デート。

 三十四歳の男の野心と、美しい女の身体、そして甘い恋の誘いが絡み合いながら、茎一の波乱含みの有給休暇が幕を開けたのだった。

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