第三話 初顔合わせ
都心の中枢、高層ビルの最上階に位置する完全会員制のモダンフレンチレストラン。
ガラス張りの壁面の向こうには、宝石を撒き散らしたような夜景がどこまでも広がっていた。
分厚い絨毯が足音を吸い込み、柔らかな間接照明が、テーブルの銀食器と結晶グラスを静かに照らしている。
その個室の静けさの中で、深い青のシルクドレスに身を包んだ茎一は、ミネラルウォーターのグラスをそっと口元へ運んだ。
今夜はいよいよ、「玉屋命」との初顔合わせの日だ。
世間的には、JEホールディングス会長の娘である石凝鏡子と、注目の成長ベンチャー・株式会社フトダマの創業者兼CEO、玉屋命による「政略結婚の初顔合わせ」。
両社の資本提携をより強固なものにするための場、という名目になっている。
本物の鏡子にとっては、一度もまともに言葉を交わしたことのない、一つ年上の経営者との緊張の一夜であるはずだった。
だが、茎一にとっては事情がまるで違う。
フトダマは、社員わずか二十名ほどのAIベンチャー。
中途入社したばかりの茎一にとって、命は日常的に「お疲れ様です、社長」と挨拶を交わす身近な上司だった。
その顔も、プログラミングへの偏執的な情熱も、人間関係における壊滅的な不器用さも、手に取るように知っている。
命は二十八歳にして、自律型日本語AI「フトダマ」のコアアルゴリズムを書き上げた生粋のエンジニアだ。
その一方で、組織調整や人脈作り、利害の調整といった泥臭い人間模様は大の苦手。
中途面接では、三十四歳の茎一が積んできた営業経験と対人折衝の力を高く買い、「君のような人が欲しかったんだ!」と熱く手を握って引き抜いてくれた張本人でもある。
立場上、これまでは当然のように敬語で接し、この若い社長の弱点を陰ながら支えていこうと心に決めていた。
ところが今の茎一は、その「叢雲茎一」ではない。
命より一つ年下の二十七歳、石凝鏡子の身体の中にいる。
(本物の鏡子としては初対面だ。過去のしがらみも先入観もない分、まっさらな状態で向き合えるのは強みだが……)
茎一はグラスを置き、指先でドレスの裾を軽く整えた。
ドレスコードに合わせて選んだのは、深みのあるブルーのAラインだ。細やかなドレープが上品に立ち上がり、フレアスカートが動きに合わせてしなやかに揺れる。
首元には繊細な真珠のネックレスが、鎖骨の美しい線を引き立てていた。
髪は、このクラスの店に合わせて、動画で何度も練習したハーフアップのカールに仕上げてある。
ほのかに色づいた艶髪が優美な曲線を描いて背中に流れていた。
ナチュラルメイクは、彼女の整った顔立ちに親しみやすさと知的さを添えている。
姿見に映った己の姿は、客観的に見れば溜息が出るほど完璧な「令嬢」だった。
相手は、自分の上司。
だが今夜は、対等な立場で振る舞わなければならない。
その奇妙な立ち位置に、茎一は静かな深呼吸を繰り返した。
そのとき、木製のドアが音もなく開いた。
「お待たせいたしました、お連れ様がお見えです」
ウェイターに導かれて入ってきた人物を見て、茎一は目を細めた。
仕立てのいいダークグレーのオーダースーツを着ているのに、肩に力が入り、どこか落ち着かない青年。
細縁の眼鏡の奥で、黒目が小刻みに泳いでいる。
玉屋命、二十八歳。
「あ……初めまして……玉屋、です……」
茎一と目が合った瞬間、命の動きがぴたりと止まった。
青いドレスを纏い、髪を揺らしてこちらを見つめる石凝鏡子の美しさに息を呑んだまま、微動だにしない。
額にはうっすらと冷や汗が滲んでいた。
握りしめた小さな花束のラッピングが、指先の震えでカサカサと乾いた音を立てている。
(……めちゃくちゃ緊張してんな、こいつ)
茎一は胸の内で苦笑した。
人付き合いが苦手で、普段は開発部屋にこもって一心不乱にコードを書いているタイプの青年だ。
大企業の会長の娘で、社交界でも評判の美女と噂される婚約者との二人きりの初対面など、拷問に等しいのだろう。
挨拶を済ませて席に着いても、命はナイフとフォークをいじるばかりで、自分から話題を切り出す余裕など微塵もなさそうだった。
前菜のオマール海老のコンソメジュレとキャビアが運ばれてきても、個室の空気は凍ったように張り詰めたままだ。
(よし、営業スキルの出番だな。まず相手の緊張を解いて、主導権はこっちで握る!)
営業マンのスイッチが入る。
茎一は目元をやわらげ、澄んだ声音を作って、親しみやすい笑みで語りかけた。
「玉屋さん、そんなに硬くならずに……少し、気楽にお話ししませんか? 実は私、こういう敷居の高いお店のお料理も素敵だと思いますけれど、本当は、路地裏の濃厚なラーメン屋さんや、ガード下の焼き鳥屋さんの方が大好きなんです」
「え……? ら、ラーメン……ですか?」
予想外の言葉に、命が目を丸くした。眼鏡を直そうとした手が空を切る。
「ええ。豚骨スープに背脂たっぷりで、ニンニクをドカンと効かせたやつとか。塩で焼いたレバーをつまみに、冷えた生ビールを流し込むようなお店とか。それから、休みの日には、あてもなくローカル鉄道に揺られて一人旅をしたり、少年漫画やアクションゲームに没頭したり。それが一番の息抜きなんです」
それは、かつて「叢雲茎一」としてフトダマの面接を受けたとき、命と大笑いしながら意気投合した鉄板のネタそのものだった。
あの日も、ガチガチだった命の緊張はこの話題で一気にほどけ、最後には固い握手を交わしたのだ。
いわば、二番煎じの再演である。
効果は劇的だった。
命の瞳がキラリと光り、猫背だった背筋がぴんと跳ね上がる。
「え、えぇっ!? 鏡子さん、君、そんな趣味があるのかい!? 嘘だろ、僕とまったく同じじゃないか……!」
「嘘ではありませんよ。例えば、少し昔の『銀翼のアルカナ』というSFファンタジー漫画、ご存じですか? 第八巻の、主人公と宿敵が崩れゆくバベルの塔で決闘する場面……あそこ、何度読んでも熱くなりますよね」
「知っているのかい!? 『銀翼のアルカナ』を!!」
命がガタッと椅子を鳴らして身を乗り出した。
テーブルの上でグラスが揺れるのも構わず、眼鏡の奥の目を爛々とさせる。
「あの第八巻の見開き! アナログ原稿ならではの線の密度と、見開きいっぱいの魔法陣のカットイン! 漫画史に残る名場面だよ! まさか君みたいな人が、あの作品のディープな良さを知っているなんて……!」
「分かります! 特にあの場面で、主人公が序盤の弱小魔法をあえて重ね掛けして、敵のバリアを破るロジック。最高にアツいですよね!」
「そうなんだよ! 単なるパワーインフレじゃなくて、序盤の伏線を回収した戦略勝ちっていうのが堪らないんだ! 鏡子さん、君は本当に分かっているね!」
最初は、緊張を解くための営業トークのつもりだった。
だが、同じマニアックな作品を共有し、少年のような勢いで語りかけてくる命の目を見ているうちに、茎一自身の内側で、オタクとしての血が騒ぎ出してしまった。
三十四歳になっても捨てきれなかった、漫画、ゲーム、B級グルメ、そして一人旅への愛。
前の職場の同期には、この熱を分かってくれる人間が一人もいなかったのだ。
「命さん、ゲームなら『クロノス・キー』のマルチエンディングは、全部回収しました!?」
「もちろんさ! あの作品は音楽が好きすぎて、オーケストラアレンジのCDまで輸入したよ! 鏡子さんはどの場面が好きなんだい!?」
「私は断然、魔王城に突入する直前の、あの静かな雨の場面ですよ! B級グルメで言えば、下町の老舗洋食屋の『黒カレー』みたいに、濃くて深い味わいがあるじゃないですか!」
「例えが秀逸すぎる! 黒カレー! 分かるよ、あのスパイシーさとコクだね! 実は僕、鳳鳴台の裏通りにある『キッチン・タカハシ』の黒カレーが大好きなんだ!」
「あそこ、知ってるんですか!? ルーの上にドカンと乗ったカツの、衣のサクサク感がたまらないですよね! 俺……じゃなくて私、あそこの大ファンなんです!」
一人称がぐらついたのにも、命は気づいた様子がない。
「奇跡だ……! 奇跡だよ鏡子さん! あの店主の頑固なこだわりを分かってくれる女性に、人生で出会えるなんて!」
二人の会話は加速しながら盛り上がっていった。
メインのフォアグラのポワレも、黒トリュフをあしらった牛フィレのロティも、手つかずのまま冷めていく。
ナイフとフォークを動かすことすら忘れて、二人は熱弁を振るい続けた。
ウェイターが料理を下げに入る隙もない。
高級フレンチの個室は、いつしか学生街のガード下の居酒屋のような、むせ返る熱気に包まれていた。
「実はね、僕……地方のローカル線に乗るときは、わざわざ各駅停車だけを乗り継いで、途中の無人駅で駅弁を食べるのが好きなんだ……。変だろう?」
命が照れくさそうに頭を掻くと、茎一はテーブルを叩いて身を乗り出した。ドレスのフレアスカートがふわりと揺れ、真珠が灯りを受けて光る。
「変なわけないじゃないですか! むしろそれがローカル旅の『正解』ですよ! カンカン照りの夏の無人駅で、セミの声を聞きながら、冷えたお茶とタコ飯を食べる……あの旅情が分からないなんて、人生損してます!」
「鏡子さん……っ!」
命の目から、感動の涙がこぼれそうになっていた。
最初のおどおどした態度はすっかり消え、命はグラスを高く持ち上げて叫んだ。
「乾杯しよう! 僕たちの出会いに! そして、僕たちの最高の趣味に!」
「乾杯です、命さん!」
グラスの触れ合う澄んだ音が、個室に響き渡った。
茎一自身も、営業トークであることなどすっかり忘れていた。
六つも年下の青年と、これほど波長が合い、好きなものを好きなだけ語り合える時間が、純粋に楽しくてたまらなかったのだ。
◆◆◆
二時間あまりに及ぶ宴のような会食が終わり、二人はレストランのエントランスへ向かった。
席を立つ前に、連絡先はもう交換してある。
「今日は本当に楽しかったよ、鏡子さん。僕の人生で、こんなに心が躍った夜はない」
命は顔を真っ赤にして、茎一の手を両手でしっかりと握りしめた。
「副社長の件も、結婚の件も、すべて僕に任せてほしい! 君のような人を手放すなんて、僕の人生のアルゴリズムがあり得ないと言っている! 僕のすべてを捧げて、君を幸せにしてみせる!」
「あ、あの……命さん、握る手が強いです……っ!」
「連絡先、交換してくれてありがとう! 今夜から毎日メッセージを送るからね! 明日は僕のおすすめの漫画リストを送るよ!」
「あ、はい……楽しみにしていますね」
茎一はぎこちなく笑った。
「あっ、これ! 忘れるところだった!」
命は、手の中ですっかりしおれかけた花束を、慌てて差し出した。
受け取った小さな花束から、ほのかに甘い香りが立ちのぼる。
命は夢見心地の足取りで、迎えのハイヤーに乗り込んでいった。
車窓から何度も大きく手を振りながら、夜の街へと消えていく。
見送った茎一は、一人残されたエントランスで、ぽつんと立ち尽くした。
夜風が、ドレスの裾をふわりと揺らす。
「……ふぅ。楽しかったなぁ……」
ぽつりと呟き、茎一は自分用に手配されたハイヤーの後部座席へ乗り込んだ。
革張りのシートに深々と身を沈め、窓の外を流れる夜景を見つめる。
楽しかった会食の余韻が、じんわりと身体から抜けていく。
そのときだった。
スーッと、背筋を冷たい汗が伝った。
(……待てよ?)
茎一は自分の手をじっと見つめた。
頭の中で、冷徹な論理が猛スピードで組み上がっていく。
かつて「叢雲茎一」として面接を受けたとき、命が自分に向けていたのは、「最高に趣味の合う飲み友達を見つけた」という、同性同士の爽やかな親愛とリスペクトだった。
だが今夜、命が「鏡子」に向けていたのは、あの熱っぽい眼差しと、真っ赤な頬と、「僕のすべてを捧げる」という、狂信的なまでの情熱だ。
(……これ、もしかして……)
茎一はドレスの胸元をぎゅっと掴んだ。
中身は、命の部下である三十四歳の男の趣味と会話術そのもの。
だが、それを繰り出していたのは、ハーフアップの髪を揺らす絶世の美女、石凝鏡子なのだ。
男受け抜群の美貌の持ち主が、自分のオタク趣味やマニアックな嗜好を余すところなく理解し、目を輝かせて共感し、一緒に大笑いしてくれる。
(男からしたら……そんなの『理想の女神』そのものじゃねぇか……っ!?)
「やっちまった……」
茎一は頭を抱え、シートの上で身悶えた。
緊張をほぐして仕事をやりやすくするための営業トークのつもりが、自分まで調子に乗って盛り上がってしまい、命の恋心の導火線に特大の爆薬を投げ込んでしまったのだ。
命は間違いなく、鏡子に惚れ込んでしまった。
それも、もう後戻りできないほどに。
「これ……結婚までのカウントダウン、逆に爆速で縮まったんじゃねぇか……!?」
夜の街を走るハイヤーの中で、茎一は己の営業スキルの高さとノリの良さを、これまでにないほど激しく後悔したのだった。




