第二話 鏡子の一日
重苦しい静寂と、微かなラベンダーの香りで目覚めた。
まぶたを開けると、視界を遮ったのは見慣れぬ高層マンションの天井と、肌に吸い付くようなシルクのシーツだった。
昨日の昼過ぎ、病院を退院して港区のタワーマンションへと移った。
石凝鏡子が一人で暮らしていた、あまりにも広大で生活感のない空間。
薄いレースの縁取りが施されたスモーキーピンクのキャミソール型パジャマの胸元が、寝起きの吐息とともに大きく上下する。
下腹部の奥に、ズンと鈍い痛みが居座っていた。
全身が怠く、関節の節々がどこか熱を帯びているような不快感。
「……くっ、きついな……」
額にへばりついた髪を指先で払いながら、茎一はガバッと上体を起こした。
身体の不調を確かめようと、滑らかな脚をベッドの外へと投げ出す。
裸足のまま冷たいフローリングを歩き、足を引きずるようにしてトイレの扉を開けた。
自動で蓋が開く最新型の便座を前にして、キャミソールの裾をたくし上げ、レディースのショーツをゆっくりと下ろす。
便座に腰を下ろし、クロッチ部分に貼り付けられたナプキンを剥がした。
粘着テープが小さく音を立て、サニタリー用のゴミ箱へと滑り落ちる。
「ハァ……これの取り換えが毎月あるのか……」
茎一はぽつりと呟いた。
冷たい陶器の肌触りが、否応なしに現実を突きつけてくる。
この身体は、ただの綺麗なフィギュアでもなければ、着せ替え人形でもない。
血が通い、周期的に子宮が収縮して月経が訪れ、命を育む機能を備えた「大人の女性の肉体」そのものなのだ。
(もし……このまま命社長と結婚させられたら……)
便座に座ったまま、茎一は自分の滑らかな太ももを見つめた。
電話で本物の鏡子から「ウィンウィンじゃない」と言われ、「超絶美女の体になれて、副社長になれるなら最高か?」などと浮かれてしまった自分に、猛烈な後悔が押し寄せてきた。
考えが甘すぎたのだ。
男と身体を重ねるという生々しい恐怖。
それだけにとどまらない。
夫婦になれば、早晩「子供」を望まれるだろう。
探り探りの新婚生活どころか、実際にこのお腹の中に夫の子を宿し、十ヶ月間身体を膨らませ、激痛に耐えて産み落とし、子育てをしていくことになるのだ。
(烏太朗会長にとっては、願ってもない展開だろうな……)
JEグループの利益と、「フトダマ」の権益。
それを完全に一つに束ねる血縁の証としての孫。
上場企業のトップとして結果を出し続けなければならないあの親父にとって、それほど確実なカードはない。
「……なるほどな」
茎一は便座の上でポツリと漏らした。
(本物の鏡子が、あそこまでブチ切れて親元を飛び出したわけだ……)
自分のキャリアも、思想も、果ては子宮や出産の機能までも、すべて企業の利益と父親の成果のために利用される。
自由と独立を何よりも重んじる彼女にとって、親父のコネ入社だの、出向だの、結婚だのという話は、魂を殺されるような屈辱だったのだ。
「ふぅ……」
トイレットペーパーで拭い、新しいナプキンの袋をカサカサと破って、手際よく粘着面をショーツへと貼り付ける。
ショーツを引き上げて立ち上がり、水を流す排水音を聞きながら、茎一は深く吐息をついた。
だが、泣き言を言っていても始まらない。
三十四歳の男としての図太い開き直りが、ジワジワと戻ってくる。
「脱出の算段をつけるにしても、まずはこの姿で社会に足を踏み出さなきゃ始まらないからな……」
手洗いを済ませ、茎一はアイランド型の最新式システムキッチンへと向かった。
ピカピカに磨き上げられたステンレスのワークトップには、生活感がほとんどない。
冷蔵庫のドアを開けて、茎一は片眉を跳ね上げた。
中にあるのは、ミネラルウォーターのボトル、輸入ものの果汁百パーセントジュース、高級スーパーのオーガニックサラダパック、そして未開封のドレッシング類。
本格的に料理をした形跡がまるでなかった。
(やっぱりな……。鏡子、料理は全然ダメな口か)
一人暮らしの自炊生活が長かった茎一は、苦笑した。
三十四年の人生のうち、一人暮らしは十数年に及ぶ。
手取りの限られた給与の中で少しでも貯金を回すため、毎週末にスーパーの特売で食材をまとめ買いし、手際よく節約料理を作るのが茎一の日常だった。
「これだけの設備があって宝の持ち腐れだな。まあ、あるものでパパッと作るか」
野菜室に転がっていた卵と、賞味期限ギリギリのキャベツ、冷凍庫の隅で眠っていた食パンを取り出す。
食パンはトースターに放り込んでおく。
まな板の前にキャミソール姿で立ち、包丁を握る。
トントン、トントンと、軽快なリズムの刻み音がキッチンに響いた。
細かく千切りにしたキャベツをフライパンに投じ、オリーブオイルでサッと炒める。
真ん中に窪みを作り、卵を落としてフタをした。
雑誌の表紙を飾るような超絶美女が、キャミソール姿でフライパンを操り、手際よく目玉焼きキャベツトーストを作り上げている。
そのアンバランスさに、自分でも笑えてきた。
皿に盛り付け、淹れたてのコーヒーとともにダイニングテーブルへ運ぶ。
「いただきます」
サクッとした食感と、香ばしい卵の甘み。
「うん、うまい。やっぱり朝はちゃんと食べないと力が出ねぇからな」
本物の鏡子なら、おそらくデリバリーのカフェメニューかプロテイン飲料で済ませていたであろう朝。
元・独身男の手料理が、タワマンの豪奢な空間にささやかで温かい生活感を持ち込んでいた。
腹を満たすと、下腹部の痛みがほんの少し和らいだ気がした。
「よし……今日は一日、特訓日だな」
食器を食洗機にセットすると、茎一は広々としたドレッサーの前へ腰掛けた。
ズラリと並んだブランドコスメのボトル、色とりどりのアイシャドウパレット、繊細な筆の数々。
昨日までは「触るのも恐ろしい未知の道具」だったものが、今日からは完璧に乗りこなさなければならない武器になる。
スマートフォンで「初心者向けナチュラルメイク」「オフィスカジュアルの基礎」「失敗しないベースメイク」の動画を流し、画面と鏡を交互に見比べた。
まずはスキンケア。
洗顔後、化粧水を手に取り、パンパンと叩き込もうとしてハッと止める。
「あ、ダメダメ。優しくプレス、だ」
手のひらで包み込むように肌へ染み込ませる。
手のひらに吸い付くモチモチとした素肌の感触。
続いて日焼け止め下地を伸ばし、ファンデーションをスポンジで叩き込んでいく。
リキッドの量を間違えて厚塗りになり、「うわ、歌舞伎役者みたいになった!」と慌ててティッシュオフする一幕もあった。
特に難関だったのはアイラインだ。
繊細なブラシの先がまつ毛の隙間に触れるたび、敏感な目元がチクチクとして、涙がにじむ。
「くっ……痛い痛い! 目の中に刺さりそうだぞこれ! 世の女性たちは、毎日こんな危険な真似をしてたのかよ……!」
だが、格闘を続けるうちに、不思議な感覚が茎一を襲い始めた。
生理特有のホルモンバランスの乱れのせいだろうか。
身体が過敏になっているところへ、鼻先をくすぐるコスメの甘い香りに包まれ、パフで自分の肌を優しく撫で回しているうちに、頭の奥がぽうっと熱くなってくるのだ。
鏡の中に映る、少しずつ洗練されていく超絶美女の顔。
指先でリップグロスを塗り、唇を「んー、パッ」と馴染ませてみる。
うるうると濡れた桃色の唇が、室内灯を受けて妖しく輝いた。
「……っ」
鏡の中の自分と目が合い、茎一はドキリと胸を跳ね上げた。
男としての精神が、自分自身の「女性としての美しさ」に魅了されそうになる感覚。
触れている指先からも、触れられている皮膚からも、甘い痺れのような快感がじんわりと立ち昇ってくる。
(ヤバい……なんか変な気分になってきたぞ……。自分の顔を見てドキドキするなんて、俺、頭がおかしくなってるんじゃないか……!?)
生理中の不安定な身体と、男だった精神が混ざり合い、脳が奇妙な快感と混乱を起こしていた。
首をブンブンと振って変な妄想を振り払い、今度はクローゼットへと向かった。
ズラリと並ぶ高級ブランドの洋服、スーツ、ブラウス、そして色とりどりの下着類。
「服も、着て試してみないとサイズ感や立ち居振る舞いが分からないしな……」
手始めに、ハンガーにかかっていたシルクのブラウスと膝丈のタイトスカートを取り出した。
キャミソールを脱ぎ捨て、下着の上に直接ブラウスを羽織る。
胸元が開かないようボタンを留め、スカートに脚を通した。
ジッパーを引き上げると、引き締まったウエストとヒップラインが強調される。
歩いてみると、タイトスカート特有の裾の狭さに戸惑った。
「うわ、歩幅がいつもの三分の一くらいしか出ない……! 大股で歩いたら破けそうだな」
さらに、高さ七センチのハイヒールを履いてリビングを歩く練習をしてみる。
カツ、カツ、と乾いた音が響くが、重心の置き方が分からず膝がカクカクと揺れた。
「姿勢をピンと伸ばして、お尻を少し引く感じ……? くそっ、足首が折れそうだ!」
鏡の前で何度も歩き直し、ポーズを確かめる。
最初は不格好だった足取りも、持ち前の観察力と練習により、次第にしなやかで堂々とした「キャリアウーマン」らしい歩行へと変わっていった。
夕方になる頃には、何着も着替えた末に、ドレッサーの前には洗練されたナチュラルメイクの美女が立っていた。
サファイアブルーのパンツスーツを完璧に着こなして、鏡を見つめている。
スマホの写真で見た本物の鏡子のクールで尖ったメイクとは違い、茎一の持つ人当たりの良さが自然と滲み出る、温かみと知的さを兼ね備えた姿だ。
「よし……ビジュアルはこれで何とかなる!」
ドレッサーの前でセクシーに首を傾げてみると、鏡の中の美女も魅力的な笑みを返してきた。
生理の痛みや体調の違和感、そして妊娠や結婚に対する生々しい恐怖。
それらすべてを抱え込みながらも、茎一は「石凝鏡子」として生きていくための第一歩を、着実に、そして図太く踏み出していた。
「さて……次は、あの年下の天才社長、玉屋命とどう向き合うか、だな」
サファイアブルーの袖口を整えながら、茎一は不敵に目を細めたのだった。
◆◆◆
翌日は土曜日だった。
復職前の療養期間中で、会社に出る必要はない。
タワーマンションの静かなリビングで、茎一は朝食の片付けを終えると、ソファに深々と腰掛け、鏡子のスマートフォンを操作し始めた。
カレンダーアプリを開き、月表示の画面を目にした瞬間、茎一は「うわ……」と声を漏らした。
びっしりと埋め尽くされた予定のカラーブロック。
「どれだけ予定詰めてんだよ、この子……」
だが、よく見るとそれらは友人との旅行や飲み会、プライベートの娯楽といった類のものではなかった。
土曜日、日曜日の枠に規則正しく並んでいるのは——
『翠ヶ丘サロン ヘアトリートメント&スパ』
『鳳鳴台プライベートエステティックサロン ボディメンテナンス』
『恵雅 パーソナルジム シェイプアップコース』
『銀嶺街 ネイル&ハンドケア』
「週末、全部自分の『お手入れ』で埋まってるじゃねぇか……」
遊ぶわけでもなく、ひたすら己のビジュアルと肉体のクオリティを維持・向上させるためのメンテナンス。
JEの経営企画部に所属しながら、この過密な美容スケジュールを毎週のようにこなしていたのだから、そのストイックさには感心するほかなかった。
ふと、茎一の現実的な経済感覚が頭をもたげた。
(待てよ……これだけのタワマンに住んで、毎週こんな高級サロンに通い詰めて……収入と支出のバランス、どうなってんだ?)
気になって銀行口座や証券会社の管理アプリを開いてみた茎一は、画面に躍る数字の桁数を見て、開いた口が塞がらなくなった。
「……は? 嘘だろ……?」
鏡子名義の証券口座には、巨大企業の株式や海外のインデックスファンド、社債などがずらりとポートフォリオを形成していた。
年間の配当金と利息収入だけで、一般的なサラリーマンの年収を遥かに超える額が勝手に口座へ振り込まれる仕組みになっている。
親族から受け継いだ資産なのだろうか。
つまり彼女は、働く必要など一切ない、いわゆる「FIRE(経済的自立と早期リタイア)」状態を、すでに達成していたのだ。
その上で、JEホールディングスの社員としての給与まで上乗せされていたのだから、この豪奢な生活が成立するのも当然だった。
茎一は天井を仰ぎ、遠い目になった。
(親のコネだの、会社の道具だの言ってたけど……鏡子、アンタが思ってる以上に恵まれまくった『ぬるま湯環境』にいたぞ……)
指先で画面をスワイプしながら、ゾッとするような想像が頭をよぎった。
現在、自分のあの三十四歳・中途採用社員の身体に入っている、本物の鏡子のことだ。
手取りは決して多くなく、家賃を払えば残るのはカツカツの生活費。
スーパーの特売チラシを睨みつけ、節約のために自炊し、満員電車に揺られて泥臭い現場営業をこなす毎日。
そんな一転したハードモードの現実に、あの世間知らずの元・超絶セレブ令嬢が放り込まれたのだ。
(大丈夫かあいつ……絶対、金銭感覚の違いで一週間も経たずに路頭に迷うぞ……)
苦労するのは目に見えている。
だが、「親のコネも名前も関係ない男の身体最高! 元に戻る気なんてサラサラないから!」と息巻いて電話を切ったのは彼女自身だ。
茨の道へ自ら飛び込んだ元令嬢のことを思い、茎一はハァと大きな溜息をついた。
「まあ……本人がいいって言ったんだし、俺が気にしてもしょうがないか。俺はこの恵まれた環境をフル活用させてもらうとしよう」
画面を見ると、ちょうど今日の午後二時から『鳳鳴台プライベートエステティックサロン』の予約が入っていた。
キャンセルするのも、もったいない。
「よし……行くか。初エステ体験!」
◆◆◆
午後二時前。
茎一は、動画で練習したナチュラルメイクを施し、動きやすいリラックス感のあるブラウスとスラックスに身を包んで、鳳鳴台の静かな高級ビルへと向かった。
看板すら出ていない、完全紹介制のプライベートサロン。
重厚なドアを開けると、静かなヒーリングミュージックと優雅なアロマの香りが茎一を迎えた。
「石凝様、いらっしゃいませ。本日もよろしくお願いいたします」
洗練されたエステティシャンの女性が、丁寧なお辞儀で迎えてくれる。
「あ、よろしくお願いします……」
「本日もお部屋の準備が整っております。まずはメイクをお落としいただき、お召し替えをお願いいたしますね」
個室に案内され、一人になる。
大きな鏡の前に立ち、用意されたクレンジングで丁寧にメイクを落とした。
すっぴんになっても、肌のキメの細かさと透明感は圧倒的だった。
続いて、ふんわりとした手触りの、胸元まで覆うラップガウンに着替える。
ガウン一着の姿になると、そわそわとした緊張感が押し寄せてきた。
「失礼いたします。石凝様、施術台へどうぞ」
施術台の上に横たわる。
清潔なタオルの上にうつ伏せになると、エステティシャンが優しく上からタオルをかけてくれた。
「本日は背中とお脚、デコルテを中心に、しっかりとお凝りをほぐしていきますね」
「あ、はい……お任せします」
ガウンがはだけられ、素肌の上にじんわりと温かいアロマオイルが垂らされた。
「〜〜〜っ!?」
最初の手が背中に触れた瞬間、茎一の背筋にビリリと強い衝撃が走った。
熟練の指先が、オイルの滑らかさを利用して、肩甲骨から腰にかけて滑るように圧をかけていく。
(う、うわあ……っ!? なんだこれ……めちゃくちゃ気持ちいい……っ!)
女性特有の繊細で過敏な肌に、温かいオイルとプロの絶妙な手圧が加わる。
体中のコリが解けていく快感とともに、肌の表面からゾクゾクとする未体験の甘い痺れが立ち昇ってきた。
「石凝様、少しお背中が張っていらっしゃいますね。力加減はいかがですか?」
「あ……はひっ……ちょうど、いいです……っ」
声が裏返りそうになるのを必死で耐える。
続いて仰向けになり、脚から太もも、そしてデコルテへと、職人技のような手つきで施術が進んでいく。
滑らかな手が、太ももの内側から付け根近くまでオイルを伸ばしていく。
指先が皮膚を撫でるたび、茎一はタオルの下で爪を立て、必死で吐息を殺した。
さらに、豊満な胸の上部、鎖骨の下あたりを優しくほぐされると、胸全体に甘い痺れが広がり、頭の中までとろけるような快感で満たされていく。
(ヤバい……ヤバすぎる……! エステってこんな極楽なのかよ……!? 男の身体じゃ絶対味わえない感覚だぞこれ……っ)
心地よいアロマの香りと、全身を包むトロけるような快感。
生理の怠さすら、オイルの温もりによって和らいでいく感覚があった。
「石凝様、お疲れ様でございました。お肌もすべすべで、とても美しい状態に整いましたよ」
約九十分の施術が終わる頃には、茎一は完全に骨抜きになり、ベッドの上でうっとりと目を細めていた。
ガウンから服へ着替え、鏡の前に立つ。
オイルとマッサージによって血行が良くなった肌は、まるで内側から発光しているかのようにモチモチと輝き、頬がぽっと桜色に染まっていた。
「はぁ〜……極楽だった……。美容に金をかける理由が、めちゃくちゃ分かったわ……」
男としての罪悪感など微塵もなくなり、茎一はすっかりこの最高に贅沢な「超絶美女の日常」に魅了されつつあった。
サロンを後にし、夕暮れの鳳鳴台の街をヒールで歩きながら、茎一は不敵に微笑んだ。
「この最高の生活と立場……絶対に手放してなるか。命を上手く転がして、結婚の話も主導権はこっちで握ってみせるぞ!」
茎一の図太い野望が、一段と強固なものとなったのだった。




