第二十四話 もう一つの墓参
三が日を迎えた都心の朝は、元旦の華やいだ空気から一転し、ひんやりと澄んだ冬の静寂に包まれていた。
タワーマンションの天井近くまであるガラス窓の向こうには、冬の澄み切った青空がどこまでも高く広がっている。
だが、地上を見下ろせば、ビル群の隙間を吹き抜ける風が街路樹に残った枯れ葉を容赦なく攫い、街全体が冷たく引き締まった空気に身をすくませているようだった。
昨夜もこのタワーマンションに泊まっていた命が、今朝も早くから起きて支度を整えていた。
「鏡子さん、行ってくるね。昨日のメンテナンスでいくつか微調整したい箇所が見つかったから、今日も夕方までは開発室に詰めていると思うよ」
「ええ、命さん。新年早々から本当にお疲れ様です。どうかあまり根を詰めすぎないで、適度に息抜きもなさってくださいね」
「ふふ、ありがとう。鏡子さんも、今日は寒くなりそうだから温かくして過ごしてね」
玄関先で、命は愛おしそうにこちらの頬に手を添え、柔らかな微笑みを残して部屋を出て行った。
一人残された広いリビング。
暖房の風がかすかに吹き出す音だけが響く空間で、茎一は静かに深呼吸をした。
(……はぁ。あいつと過ごす時間は本当に居心地がいいが……早く新居の戸建てを見つけて、正式に同棲を始めたいもんだな)
料亭で烏太朗の親父から「同棲」の快諾こそ得たものの、お互いに多忙を極める中で具体的な物件探しは年明けに持ち越されている。
家族が増えても住みやすい都内の一戸建てを見つけ、そこへ引っ越すまでは、こうしてお互いの部屋を行き来する状態が続いているのだ。
だが、今日はその寂しさを噛みしめている場合ではなかった。
(……よし。命が出かけたな)
命に隠し事をするのは胸が痛むが、今日これから向かう場所だけは、彼に同行してもらうわけにはいかなかった。
茎一はドレスルームへ向かい、事前に用意していた本日の衣装へと袖を通した。
元旦に纏ったあの華やかな朱色の振袖とは対照的な、真冬の寒さに身を沈めるような、シックで落ち着いた装い。
上質なブラウンのロングウールコート。
コートを脱いでも品格を損なわないよう、首元を包み込むブラックのオフタートルニットと、しなやかに揺れるスモーキーネイビーのウールタイトスカートを合わせている。
足元はシックな黒のショートブーツ。
手元には、派手さを抑えたプラムカラーのグラデーションネイルが、冬の光を優しく弾いていた。
(……よし。鏡子の立場としても、一人の人間としても、決して恥ずかしくない格好だな)
鏡の前で髪を品の良いハーフアップにまとめ、黒い革手袋を手にした茎一は、静かに部屋をあとにした。
◆◆◆
茎一は、郊外の山麓に位置する霊園へと向かうタクシーの車窓から、流れていく風景を眺めていた。
都心を離れるにつれ、ビル群はまばらになり、沿道の樹々は葉を落としきった寒々しい枝を寒空へ伸ばしている。
関東特有のカラリと晴れ渡った冬晴れの空。
日光そのものは眩しいほどに燦々と降り注いでいるが、地面を温める熱量は一切なく、空気は刃物のように研ぎ澄まされていた。
(……天気はいいが、冷えそうだな)
鏡子本人はマイカーどころか運転免許すら所有していない。
そのため、茎一はやむなく最寄り駅からタクシーに乗り込み、この郊外の山麓までやってきたのだ。
タクシーが坂道を登り切り、小高い丘の上に広がる広大な霊園のロータリーに滑り込む。
運賃を払い、外へ一歩踏み出した瞬間、山から吹き下ろす乾燥した激しい北風が、容赦なくコートの裾を冷たく揺らした。
「くっ……冷えるな……」
思わず首をすくめ、手袋をはめた両手をコートのポケットに押し込む。
風が木々の細い枝を揺らし、カサカサと乾いた音を立てて山肌を駆け抜けていく。
管理事務所で線香と生花(白い菊と青いカーネーション)を購入し、茎一は石畳の参道を一人、足音を響かせて歩いた。
幾重にも立ち並ぶ黒御影石や白御影石の墓標。
そこにはさまざまな家族の歴史が刻まれており、整然とした静寂が漂っている。
その霊園のやや奥まった、日当たりの良い傾斜地へと足を進めていくと——お目当ての区画の前に、すでにひとりの先客の姿があった。
「……あ」
茎一は足を止め、息を呑んだ。
墓前に立ち、長柄の柄杓で桶から水を汲み、墓石の頭から優しく水をかけている背の高い男性。
ピシッとスチームが当てられた冬物のウールジャケットを着こなし、ワックスで綺麗にスタイリングされたショートヘア。
その姿は——かつて自分自身の身体であった「叢雲茎一」その人であり、中に宿っているのは本物の「石凝鏡子」だった。
彼女は公共の路線バスを乗り継ぎ、先にここへ到着していたらしい。
水が滑り落ちる清らかな音に混じって、茎一の足音が石畳を鳴らすと、男の姿をした鏡子が静かに振り返った。
「来たんだね、茎一さん」
「ああ……。先に着いてたのか、鏡子さん」
周りに他の参拝客の影がないことを確認すると、茎一は可憐な副社長としての丁寧語を捨て、素の男としてのトーンで短く応じた。
その声のトーンや口調は、かつて泥臭く営業現場を駆け回っていた男のそれに戻っていた。
すれ違う風が、二人の間を冷たく吹き抜けていく。
端から見れば、どこかの企業の美しい女性副社長と、その部下である清潔感あふれる男性社員が、一緒に墓参りに訪れているようにしか見えないだろう。
だが、その実態はあまりにも奇妙で、運命の悪戯としか言いようのない複雑な対峙だった。
茎一にとっては、自分の本当の血の繋がった父と母の墓。
だが、現在の女性の肉体としては「赤の他人」の墓だ。
一方、茎一の姿をした鏡子にとっては、現在の肉体の血の繋がった両親の墓。
だが、その精神としては「見知らぬ他人の親御さん」の墓である。
「アタシもさっき着いたところよ。お花と線香、買ってきてくれたのね」
鏡子が男の太い声で、さっぱりとした口調で言い、静かに脇へ退いて場所を譲ってくれた。
「サンキュな。手伝うよ」
茎一は持参した生花を、先に供えられていた花束のとなりの花立てに挿し、線香束に火を点けた。
ゆらゆらと立ち上る白い煙。
線香の香りが冬の引き締まった北風に乗って、あたり一面に漂っていく。
墓石の正面に刻まれた「叢雲家之墓」の文字。
その文字の窪みに溜まった水滴が、冬の弱々しい日差しを浴びて、静かにキラキラと輝いていた。
茎一は手袋を外し、冷たい風に素肌を晒しながら、胸の前でそっと両手を合わせた。
(親父、お袋……。ずっと墓参りにも来れなくて、本当にごめんな。……俺だ、茎一だ)
風が木々を揺らす音に耳を澄ませながら、茎一は心の中で切々と語りかけ始めた。
(信じてもらえないかもしれないけどさ……俺はいま、事故をきっかけに、こんな信じられないくらい綺麗な女性の身体に入っちゃって、まったく別の人生を歩んでるんだ)
合わせた両手、その左手薬指。
そこに嵌められたダイヤモンドの婚約指輪が、冬光を受けてひときわ強く瞬いた。
(両親を事故で同時に失って、天涯孤独になって……ただ泥水をすするみたいに営業で体を張りながら生きてきた俺がさ。今じゃ、素晴らしいパートナー……玉屋命っていう天才的な男と出会って、彼の会社の副社長として、そして……彼の婚約者として生きてる)
冷たい北風が、ニットの襟元の隙間から首筋へと吹き込んでくる。
だが、その寒さとは裏腹に、指輪の冷たさと胸の奥の熱量は、どこまでも鮮明に存在を主張していた。
(親父とお袋にはさ……本当なら、いつか俺が自慢の嫁さんでも連れてさ、『親父、お袋、俺の嫁さんだ』って、ここで胸を張って紹介するのが男としての筋だったはずなんだけどな……。まさか……俺自身が女になって、男と結婚報告をすることになるなんて……夢にも思わなかったよ)
溢れ出す自嘲と、胸を突き上げてくる愛おしい照れくささ。
かつての自分が泥臭い営業マンとして描いていた未来とは、あまりにもかけ離れた現実。
だが、その現実は決して嫌なものではなく、いまの自分にとってかけがえのない幸福そのものだった。
命に事情を明かせない今、彼をこの場所へ連れてくることはできない。
だが——ふと横を見やると、男の身体に入った「本物の鏡子」が、凛とした佇まいで墓前に頭を下げている。
もしかしたら、これからの長い人生の中で、彼女がこの「叢雲茎一の肉体」を通じて新しい誰かと出会い、連れ添って、再びこの場所へ親父とお袋に挨拶へ来てくれるのかもしれない。
(親父、お袋。俺は……石凝鏡子として、命と一緒に新しい幸せを絶対に掴み取ってみせるから。近いうちに二人で住む新居も見つけて、温かい家庭を築いてみせる。だから……どうか安心して、空から見守っていてくれよな)
心の底からの強い誓いを捧げ、茎一はゆっくりと深く深く頭を下げた。
その隣で、男の姿をした本物の鏡子もまた、目を閉じ、真摯な表情で手を合わせ続けていた。
(アタシも……この『叢雲茎一』っていうあなたの息子さんの身体で、新しい自分の道を堂々と生きていくから。アタシもこの体を借りて、絶対に恥じない人生にしてみせるよ)
鏡子の心の中での静かな呟きが、冬の空気に溶け込んでいくようだった。
長い祈りを終え、二人はほぼ同時に手を下ろし、顔を見合わせた。
「……来てくれてありがとな、鏡子さん。俺の親父とお袋のこと、大事に思ってくれて……サンキュな」
茎一が素の男の口調で感謝を伝えると、鏡子は男の太い喉を鳴らして、ふっと気恥ずかしそうに目を細めた。
「当然でしょ。アタシの今の身体を産んで育ててくれた、大切な親御さんなんだから。……アンタのお父さんとお母さんだって、きっと空の上で驚いてるんじゃない? まさか自分の息子が、こんな綺麗な副社長さんになってるなんてさ」
「……フッ、そうかもな。親父なら目ぇ丸くして倒れてるかもしれねぇ」
二人して小さく笑い合った。
そこには、性別も立場も越えた、不思議な絆と理解が存在していた。
「それじゃ、アタシはそろそろバスの時間があるから先に行くね。新年早々、風邪ひかないようにね、副社長」
「ああ、鏡子さんもな。気をつけて帰れよ」
鏡子は軽く手を振り、男の長い脚でしっかりと落ち葉を踏みしめながら、静かな参道を一人歩み去っていった。
◆◆◆
静まり返った霊園の丘に、再び一人残された茎一。
山から吹き下ろす北風がサァッと木々を激しく揺らし、枯れ葉が舞い散りながら墓石の周りを踊る。
遠ざかっていく「かつての自分の後ろ姿」と、目の前にある「親父とお袋の墓標」。
その光景を見つめていた瞬間——茎一の胸の奥から、抑え込んでいた様々な感情の波が一気に溢れ出してきた。
両親を事故で突然奪われ、天涯孤独となったあの日の絶望。
ワンルームのアパートで一人、レトルトの飯を食いながら『なんで俺だけがこんな目に遭うんだ』と膝を抱えていた夜。
そこから不運な事故を経て、この可憐で美しい「石凝鏡子」という身体を得て、命というかけがえのない愛するパートナーと出逢えた奇跡。
過去の自分との完全な別れと、新しく踏み出す未来への確固たる覚悟。
「……っ……ふ……」
ふたつの瞳から、ポロポロと大きな涙の粒がこぼれ落ちた。
手袋を外した指先で顔を覆い、茎一は北風の中で静かに肩を震わせた。
それは悲しみの涙ではなかった。
泥臭く生きてきた過去への感謝と、自分を育ててくれた親父とお袋への愛おしさ、そして「石凝鏡子」として生きる新しい運命を心から受け入れるための、温かく誇らしい涙だった。
(親父、お袋……。俺、命と一緒に……絶対に幸せになるからね……っ)
何度も何度も涙を拭い、茎一は力強く顔を上げた。




