第二十三話 初詣
年が明けた元旦の静謐な朝。
雲ひとつない冬の澄み切った朝日が、静まり返ったタワーマンションのリビングにやわらかな光の筋を投げかけていた。
都心の高層階から見下ろす街並みは、昨夜までの喧騒が嘘のように落ち着き、どこか息をひそめたような、凛としたおめでたい空気に満ちている。
昨夜は年越しを一緒に過ごすため、命がこのタワーマンションに泊まっていたのだが、そんな正月の早朝から、フトダマの社長である彼は、年末年始の二チーム制シフトの後半戦として、元気に出社していった。
年明けのシステムアクセス集中に備えた大規模メンテナンス作業と、24時間態勢のリアルタイムサーバー監視のためだ。
「鏡子さん、行ってくるね。夕方には作業の目処が立つと思うから、夜には一度連絡するよ」
「ええ、命さん。無理をなさらないでくださいね。システムも大事ですが、命さんのお身体が一番なんですから」
「ふふ、ありがとう。鏡子さんも、今日はいおりさんと楽しんできてね」
玄関先で愛おしそうにこちらの頬を優しく撫で、爽やかな笑顔を残して立ち去った命を見送り、一人残された茎一は、リビングのふかふかのソファーに身を投げ出した。
(はぁ……相変わらず真面目で現場思いの奴だな。社長自ら元旦から出社して陣頭指揮を執るなんて、大企業じゃ考えられねぇぞ……)
指先で喉元に触れながら、茎一はそっと独りごちた。
料亭で烏太朗の親父から「結婚前の同棲」の許可こそ勝ち取ったものの、お互いに多忙を極める中で具体的な新居探しは年明けに持ち越しとなっている。
二人の将来のための戸建てを見つけ、そこへ本格的に引っ越して新生活を始めるまでは、こうしてお互いの部屋を行き来する日々が続いているのだ。
だが、そんな焦らされるような距離感すらも、今の茎一にとってはどこか愛おしく、心地よく感じられていた。
スマートフォンを取り出し画面をタップすると、メッセージアプリには社内三人娘からの賑やかな新年の挨拶が、次々と通知されていた。
『鏡子さん! あけましておめでとうございます〜! 夫の実家に帰省中なんですけど、なんと夫の売れないお笑いコンビの単独ライブのチラシ配りを手伝わされています(泣) 寒いよ〜! 年明け最初のフトダマ・オフィスの本格稼働、気合入れて頑張りましょうね!』
一番手は総務部の緑からだった。
夫の売れないお笑い芸人活動を、文句を言いつつも健気に支えている様子が目に浮かび、茎一は思わずクスリと笑みを漏らした。
続いて届いたのは、営業部の乙女からのメッセージだった。
『副社長〜っ! あけましておめでとうございます! 私は今、南国のビーチリゾートでカクテル飲んでます! 太陽が眩しい〜! 休み明けには営業部全員分のお土産を大量に抱えて出社しますからね! 鏡子さんの分は特別豪華なやつ買っておきます!』
開放感あふれる青い海とビーチチェアの写真が添えられている。
外回りでの強気な姿勢とは裏腹に、プライベートを満喫しているようで何よりだった。
そして最後は、今まさに命とともに開発室の端末に向かっているはずのエンジニア、筆美からの短文だった。
『副社長、あけましておめでとうございます。これから、社長とともに開発室にてシステム全体の負荷監視およびデータ統合メンテナンスを実施予定です。現在のところ異常値はなく、極めて順調に稼働しておりますのでご安心ください。追伸:お正月用の美味しいお重の差し入れ、心より楽しみにお待ちしております』
(筆美の奴、相変わらず抜け目ねぇな……。出社組の労いに、帰りに何か美味いもんでも買っていってやるか)
茎一は三人娘の一人ひとりに、丁寧に返信メッセージを打ち込んで送った。
さて、自分自身の本日の予定はというと、石凝烏太朗への形式的な新年の挨拶ではなく、親友である生織との初詣の約束だった。
◆◆◆
ドレスルームのハンガーフックに掛けられているのは、鏡子が実家から持ち出していた自前の見事な振袖だった。
深みのある鮮やかな朱色地に、繊細な金糸と銀糸で伝統的な鳳凰と四季折々の花々が見事に刺繍された、息をのむほど眩い逸品だ。
(去年、命と正式に婚約したからな……。鏡子(俺)が、未婚女性の第一礼装である『振袖』を着て初詣に行けるのは、今年が最初で最後なんだよな……)
ハンガーに飾られた振袖の裾をそっと撫でながら、茎一は複雑な感慨に浸った。
新居の戸建てが決まり、命と正式に結婚して既婚女性となれば、和装のフォーマルは留袖や訪問着へと変わる。
この気品あふれる晴れ着を全身に纏う機会は、今年限りなのだ。
だが——最大の問題は、その「着付け」にあった。
(……おかしいな。昨日の夜、ネットでプロの着付け動画を三回も巻き戻して完璧に予習したはずなんだが……)
ドレスルームの床に広げられた長襦袢、帯、伊達締め、帯揚げ、帯締めといった大量の和装小物を前に、茎一は頭を抱えて立ち尽くしていた。
実際に自分の身体に布を巻き付けようとすると、どこをどう結べばいいのか、帯の折り返しがどうなっているのか、まったく意味が分からない。
右往左往すること三十分、自力での着付けを完全に断念した茎一は、深々と溜息をついた。
(ダメだ、降参だ。素人が動画見ただけで着られるような甘いもんじゃねぇ……)
あらかじめ「着付けに不安がある」と話していた親友の生織に助けを求めるため、茎一は大きな風呂敷に振袖と小物一式を丁寧に包み、午前中のうちに生織の自宅マンションへと向かったのだった。
◆◆◆
「あはは! ちょっと、きょうこ! 自分で着ようとして挫折したでしょ〜! 連絡もらった時、絶対そうだろうなーって思ってたよ!」
生織の自宅リビングで、和装用の肌着一枚の姿になった茎一を見て、生織は抱腹絶倒していた。
「笑わないでよ、いおり。動画で見たらすごく簡単そうに見えたんだよ? なのに実際に手を回そうとすると、腕が背中に届かなくて帯がボロボロ落ちてくるんだから……」
茎一は可憐な唇を尖らせて、困り顔を作ってみせた。
表向きは長年の親友同士としての会話だ。
鏡子としての自然で親しい口調で話しつつも、心の中では男時代の理性が「頼むから早く着せてくれ」と冷や汗をかいていた。
「まあまあ! 昔からきょうこは不器用なんだから、素直に私を頼ればいいんだよ! さ、まずは補正から入るよ!」
生織は手際よく、大量のフェイスタオル、ガーゼ、そして和装用の補正パッドを取り出してきた。
「え……? 補正? もう肌着は着てるよ?」
「甘い! きょうこ、あんたのそのスタイルが、着物にとっては一番の大敵なんだからね!」
生織は茎一の全身を上から下までジロジロと検分するように眺めた。
「胸はしっかりとボリュームがあって、ウエストはキュッとくびれてて、ヒップの位置が高い……。洋服なら誰もが羨む最高のプロポーションだけど、和服は『寸胴体型』が一番美しく着こなせるんだよ! くびれや凹凸があると、着物にシワが寄るし、帯が崩れてズリ落ちてくるの!」
「え……っ、じゃあ、どうするの……?」
「こうするんだよ!」
生織は容赦なく、茎一のみぞおちからウエストのくびれ部分にかけて、何枚ものフェイスタオルを巻き付け、上からガーゼで力任せにギューッと縛り上げた。
「ぐっ……! い、いおり……! ちょっと締めすぎじゃ……!?」
あまりの強烈な圧迫感に、茎一は思わず男らしい呻き声を上げそうになり、慌てて可憐な悲鳴へと変換した。
さらに、豊かな胸の膨らみを押し潰すように和装用ブラジャーで固定され、タオルが何重にも巻き付けられていく。
(くっそ……! 女の身体のスタイルの良さが、和服じゃ完全に裏目に出るのかよ……! お腹周りがまるで餅みたいに平らに固められていくぞ……!)
メリハリのあった可憐なボディラインが、見事なまでに直線的な「寸胴柱」へと補正されていく苦悶に、茎一は心の中で悲鳴を上げ続けた。
「ふぅ〜! これでよし! 綺麗に平らになったね! きょうこ、本当にいつまでたっても振袖の着付けに慣れないよね〜。成人式の前撮りの時も、私が手伝ってあげたの覚えてる?」
生織は昔を懐かしむように微笑みながら、長襦袢を手際よく羽織らせ、衿芯を整えていく。
(成人式か……。もちろん俺にはその記憶はねぇが、本当の鏡子さんもこうやって生織に助けてもらってたんだな……)
生織の手付きは驚くほど手慣れていた。
自分の淡い藤色の着物と帯は、すでに独力でササッと粋に着付けており、親友のためにその上から振袖を重ね、伊達締めを整えると、豪華な「文庫結び」の変形を背中に作り上げていく。
「はい! 帯揚げと帯締めもキュッと結んで……完成! さあ、きょうこ、鏡を見てみなよ!」
苦しい締め付けに耐え抜き、髪型を綺麗にアップにまとめてかんざしを挿してもらい、メイクを整えられた茎一は、姿見の前に立った。
そこに映っていたのは——。
立ち姿の美しさに息をのむような、気品と華やかさを兼ね備えた、完璧な晴れ着姿の「石凝鏡子」だった。
朱色の地に金糸の鳳凰が鮮やかに映え、帯揚げの深い緑が全体を引き締めている。
寸胴に補正されたことで、着物には一枚のシワすらなく、まるで仕立て直したかのように美しく身体に沿っていた。
「……すごいね、いおり。自分で言うのもなんだけど……すごく綺麗に仕上がってるよ……」
「でしょ〜!? 私の着付け技術を褒めてよね! さ、時間がもったいないから、初詣に出発するよ!」
生織は満足そうに胸を張り、二人で玄関へと向かった。
◆◆◆
二人が向かったのは、都心で最も格式高く、新年の参拝客で溢れかえる有名な神社「鳳鳴神宮」だった。
大鳥居をくぐると、参道には見渡す限りの人波が広がっていた。
露店から漂う焼き鳥の香ばしい匂いと甘酒の甘い香りの中、神楽の笛や太鼓の音が心地よく響いている。
境内の大銀杏は冬の陽光を浴びて堂々とそびえ、初空の青さに朱塗りの社殿が鮮やかに映えていた。
「うう……いおり……歩幅が狭くて、すごく歩きにくいよ……」
草履を履き、帯で腹部をガチガチに固定された茎一は、ロボットのようにぎこちない足取りで小刻みに歩いていた。
「がんばれー、きょうこ! 着物の時はね、内股気味にして、つま先に力を入れて小股で歩くのがコツなんだよ! 大股で歩くと着崩れちゃうからね!」
「わ、分かってはいるんだけど……重心がどこにあるのか分からなくなるんだよ……」
見た目の優雅な振袖姿とは裏腹に、茎一の内部では「転倒防止システム」がフル稼働していた。
周囲の参拝客たちからは、「うわ、あの振袖の人、モデルさんかな……?」「めちゃくちゃ綺麗な人たちだね」と感嘆の視線がひっきりなしに注がれていたが、当の茎一は足元に集中するだけで精一杯だった。
参道の行列に並ぶこと約四十分。冷たい冬の風に頬をほんのり赤く染めながら、ようやく手水舎で手と口を清め、拝殿の前へと辿り着いた。
重厚な賽銭箱の前で、二人はお賽銭を投げ入れ、大鈴の緒をしっかりとしごいて鳴らす。
カラコロと涼やかな鈴の音が境内に響き渡る。
二礼、二拍手——。
茎一は静かに目を閉じ、胸の前で繊細な指先を重ね合わせて深く手を合わせた。
(神様……。急な入れ替わりから始まったこの奇妙な運命ですが……俺に大切な居場所と、愛する人を与えてくれてありがとうございます)
澄み切った冬空の下、茎一は心の中で静かに祈りを捧げ始めた。
(どうか……命の健康と、彼の夢がまっすぐに叶いますように。そして……今年、これから探す新居の戸建てで命と二人で始める新生活が、温かく幸せなものになりますように。それから……フトダマの仲間たち全員が、健康で笑顔で働ける、素晴らしい一年になりますように)
自分自身のこと、命とのこれからの新生活のこと、そして会社と大切な社員たちの発展。
言葉ひとつひとつに強い願いを込め、長い時間をかけて祈りを捧げた。
一礼をして顔を上げると、隣でお参りを終えていた生織が、クスリと優しく微笑んでいた。
「ふふ、きょうこ、すごく長いお祈りだったね。何をそんなにお祈りしてたの?」
「うーん、秘密。でも……大切な人の健康と、これから始まる新生活のことをお願いしていたんだ」
「そっか! きょうこがそんなに幸せそうな顔をしてるの、私すっごく嬉しいよ!」
生織は心から喜ぶように目元を緩めた。
「さあ! 参拝が終わったら、次はお楽しみの『おみくじ』だよ! 今年の運勢、占ってみよう!」
二人は境内のおみくじ授与所へと向かい、百円を納めて木製の筒をシャカシャカと振った。
落ちてきた棒の番号を巫女さんに伝え、手渡された折りたたまれたおみくじの紙を受け取る。
「せーの、で開くよ! せーの!」
生織の掛け声とともに、紙をそっと広げた。
茎一の目に飛び込んできたのは、一番上に大きく印字された力強い朱色の文字だった。
「……あっ、大吉だよ!」
「ええっ!? すごい! 私なんて『吉』なのに! どれどれ、見せて見せて!」
生織が身を乗り出して、茎一の手元のおみくじを覗き込んできた。
「すごーい! ほら見て、きょうこ! 『恋愛・婚姻』のところ!」
生織の指し示す行を目で追う。
『恋愛・婚姻:またとない良縁あり。互いに慈しみ合えば、万事大いに栄え、将来にわたり揺るぎない絆となる。迷わず進むべし』
「またとない良縁だって! きょうこ、命さんとの結婚、大吉のお墨付きだよ! 良かったねぇ〜!」
生織が無邪気に喜んで肩を揺すってくる。
「も、もう……いおり、声が大きいよ……! 周りの人が見てるじゃない……!」
茎一は顔を真っ赤にしておみくじを胸元に隠したが、内心では嬉しさと安堵がこみ上げていた。
(またとない良縁、か……。神様も、俺と命のこの絆を認めてくれてるんだな……)
最後に、二人は木製の絵馬を一枚ずつ授与され、境内の授与所で墨筆を手に取った。
生織は『仕事もプライベートも大充実! 最高の出会いがありますように!』と元気いっぱいの文字で書き込んだ。
茎一は、少し緊張した手つきで筆を整え、絵馬の木肌に慎重に文字を走らせた。
『命さんと共に、心温まる家庭を築けますように。フトダマの仲間と共に、世界へ羽ばたけますように。 石凝鏡子』
願いを込めた絵馬を、大銀杏の横にある絵馬掛け所にしっかりと掛ける。
風に揺れるたくさんの絵馬の中で、自分の書いた絵馬が凛とたたずんでいた。
神社をあとにし、参道の端で温かい甘酒のカップを両手で包み込みながら、茎一は冬の青空を見上げた。
(……命。俺はもう、何があっても迷わないぞ)
朱色の振袖の袂をそっと整え、茎一は小さな口元に、元営業マンとしての力強く不敵な笑みを浮かべた。




