第二十話 ドレスアップと聖夜
ウォークインクローゼットの観音扉が、勢いよく開いた。
クリスマスを数日後に控えた、穏やかで冷え込みの厳しい休日の午後。
タワーマンションの広々とした自室で、暖房の効いたリビングには、クリスマスツリーの小さなオーナメントが、冬の光を受けて静かに輝いていた。
窓の外には、澄み切った冬の青空が広がっている。
キャメル色のガウンを羽織った茎一は、寢起きのまま緩く結んだ髪をして、クローゼットの巨大な全面鏡の前で、腕を組んで佇んでいた。
(……よし。今日は誰とも会う予定がない、完全なオフだ)
箱のように並ぶ、ハイブランドのアウター、ドレス、ランジェリーの山を見つめる。
ここを断捨離する前に、一度、全部を確かめておく必要がある。
——というのが、表向きの名目だった。
副社長としてのTPOやブランディングのための服選びではない。
今日は、純粋な好奇心と、男として培ってきた視点を満たす、ただそれだけの時間だ。
「誰にも見られる心配はないしな。ちょっと『研究』と称して、色々試してみるか」
いたずら小僧のように口元を歪め、茎一はニヤリと笑った。
(男が好きな女子の格好なんてのは、相場が決まってるんだよ。世の男たちの身勝手な妄想を、どこまで現実に再現できるか。試してやろうじゃねえか)
最初に手を伸ばしたのは、クローゼットの奥にしまわれていた、黒の透け感のあるシフォンのネグリジェだった。
胸元が深いVネックになった、繊細なレース刺繍入り。
明らかに、夜のための衣装だ。
ガウンを脱ぎ、シフォンの生地を頭からかぶる。しなやかな布が肌を滑り、全身を包んだ。
姿見の前に立った瞬間、茎一はごくりと喉を鳴らした。
「……うわ、すご。マジで色気がありすぎだろ、これ……!」
黒いシフォンの向こうに透ける、陶器のように白い肌、きゅっと引き締まったウエスト。
鏡の中の「石凝鏡子」は、素肌以上に生々しい色気を放っていた。
茎一はがに股になりそうになるのをこらえて、腰を少しひねり、モデルのようなポーズを取ってみた。
「ふふん、どうだ! 男なら誰だって一発でノックアウトだろ! 『先輩……私、今夜は帰りたくありません……』なんて言われたら、どんな男だって理性が吹っ飛ぶわ!」
一人でノリノリになり、ポーズを連発する。
かつての知識と妄想をフル回転させて、鏡の中の自分にニヤニヤと見とれていた。
続いて引き出しの奥から引っ張り出してきたのは、冬用のワインレッドの勝負ランジェリーと、毛足の長い白いファーガウンだった。
ネグリジェを脱ぎ、ワインレッドのレースの上下を身につける。
白く滑らかな肌に、深い赤が鮮烈に映え、その上からファーガウンを羽織って、片方の肩をはだけさせてみた。
「うわぁ……やばい、色気がすごすぎる! 自分の身体なのに、どきどきするぞこれ……!」
胸元にそっと手を当てると、肌が、やけに繊細に反応した。
自分が超絶の美女であり、その身体を好きなだけ着替えさせられるという、最高の特権。
下心と背徳感が、脳内で駆け巡っていた。
さらに茎一は調子に乗り、ハンガーにかかっていた「冬の勝負ドレス」を取り出した。
深いサファイアブルーのベルベットドレス。
体に吸い付くようなタイトなシルエットで、背中が腰の近くまで大胆に開き、胸元にはきれいなドレープが施されている。
ファーガウンを脱ぎ、ドレスに足を通して、背中のジッパーを苦戦しながら引き上げた。
仕上げに、ドレッサーから真っ赤なルージュを取り出し、唇に丁寧に塗ってみる。
「よし……! 完成だ!」
姿見の前に立ち、茎一は悦に入った。
しっとりと体を包むベルベットが引き立てる、美しいボディライン。
背中の滑らかな曲線と、赤く濡れたように輝く唇。
「これぞ全男の理想だろ! どんな堅物の男だって、この姿を見せられたら、一発で落ちる……」
ここまで自画自賛を口にした、その瞬間だった。
(……あ)
茎一の思考が、しんとした静寂の中で、唐突に止まった。
「……どんな男だって……?」
ぽつりと呼いた言葉が、自分の頭の中で繰り返される。
「どんな男」ではない。
今、自分がこの姿を見せたい「相手」は誰だ。
脳裏に真っ先に浮かんだのは——あの男の顔だった。
チャコールグレーのニットを着て、少し照れくさそうに笑う、天才エンジニア・玉屋命。
公園で、まっすぐな瞳で「君の意志に惚れたんだ」と告げてくれた姿。
臨海エリアのスイートルームで、自分を抱きしめ、熱い口づけを重ねてくれたあの夜。
左手の薬指にいも冷たく馴染んでいる、彼がくれたダイヤの婚約指輪。
(……っ!?)
その瞬間、茎一の胸の奥を、ぎゅっと掴まれたような熱が走った。
「〜〜〜〜〜っっ!?」
全身の血が、一気に逆流したように熱くなる。
耳たぶから首筋、頬にかけて、火がついたような熱が駆け昇っていく。
さっきまでの下心丸出しのスケベ心が、一瘠にしてどこかへ吹き飛んだ。
代わりに胸を埋め尽くしたのは、逃げ場のないような照れくささと、甘く痺れるような、胸のとめきだった。
(な、なんだこれ……っ!? なんで俺、命の顔を思い出してこんなにパニックになってんだよ……っ!?)
鏡の中を見る。
背中が大きく開いたベルベットのドレスを纏い、赤いリップを塗った「石凝鏡子」が、頬を真っ赤に染め、瞳を潤ませて、息を乱している。
(もし……もし、この姿を命に見られたら……)
頭の中で、勝手にシチュエーションが再生され始める。
このドレス姿で部屋に命を迎え、彼が目を丸くして固まる姿。
眼鏡の奥の瞳が熱く潤み、息を乱しながら、自分に歩み寄ってくる姿。
「鏡子さん……すごく、綺麗だ……」
耳元で囁かれる、あの低い男らしい声。
背中の開いた肌に直接触れる、命の大きくて温かい手のひら。
「ひやああっ……っ! あ、あいつ……絶対、顔真っ赤にして……それから、あんな目をして俺を抱きしめてくるに決まってるだろ……っ!」
あまりの恥ずかしさと、身体が勝手に反応してしまう甘い痺れに、茎一は膝の力が抜け、どさりと絨毯の上へ座り込んだ。
ドレスの裾が広がり、深い青の生地の上に、真っ赤になった顔を両手で埋める。
「ううう……っ! なんなんだよこれ……! 俺の精神はもとは男なんだぞ……! 下心で試着してただろ……! なんで命のこと考えただけで、こんな乙女みたいにときめいてんだよ……っ!」
身体の奥から湧き上がるのは、拒絶の感情など微塵もない、素直すぎる反応だった。
命に愛されたい。
この身体を、この美しい姿を、彼だけに見てほしい。
彼に「綺麗だ」と囁かれ、強く抱きしめられたい。
鏡子の身体が持つ素直な欲望と、命へのあふれる想いが混ざり合い、茎一の理性を容赦なく溶かしていく。
「あいつのバカ……。あんな真っ直ぐ愛してくるから……俺の頭がおかしくなっちまったじゃねぇか……」
絨毯の上で体育座りのようになりながら、茎一は消え入りそうな声で呟いた。
ベルベットに包まれた胸の奥で、繊細な鼓動が、いつまでも落ち着かない。
下心で始まったはずの一人ファッションショーは、自分の身体と心に刻まれた「命への深い想い」を、嫌というほど思い知らされる結果で終わった。
「……脱ご。もう脱ぐ……っ」
顔を真っ赤にしたまま、茎一は慌ててドレスの背中のジッパーへ手を伸ばした。
だが、その指先はまだ、命のことを想う甘い熱で震え続けていた。
◆◆◆
それから数日が経ち、街全体が色とりどりのイルミネーションと賑やかな賛美歌の音色に包まれる、十二月二十四日、クリスマスイブの夜を迎えた。
タワーマンションのドレスルーム。
姿見の前に立つ茎一の胸には、あの日クローゼットで一人パニックになった甘い熱と照れくさが、いまだにしつこく残っていた。
(あのバカげた一人ファッションショーのせいで……命の顔を見るたびに妙な意識をしちまうんだよ……っ)
ドレッサーの前で頬を少し赤らめ、茎一は静かに深呼吸を繰り返した。
だが、今夜は待ちに待った命とのクリスマスデートだ。
あの日、クローゼットの鏡の前でさんざん悶絶した末に、「本当に命に見せたい姿」として厳選し直した一着を、身に纏っていた。
着ているのは、聖夜の街並みに映える、アイボリーホワイトの上質なカシミヤのノーカラーコート。
コートを脱いだ中は、深いフォレストグリーンのベルベットのワンピースだ。
長袖で膝丈の、裾がふわりと広がるAライン。
袖口には薄いシアーをあしらい、胸元にはプラチナの細身のペンダント。
左手の薬指には、命から贈られたダイヤの婚約指輪が眼しく光を弾いている。
足元は黒のロングブーツ、手元には、冬の装いに寄り添うプラムカラーのネイル。
髪は、金のバレッタで留めた低めのポニーテールにして、耳元に後れ毛を一筋だけ残している。
(よし……見た目は問題ない。あの日試したドレスほど過激じゃないが、これだって、命の好みを考え抜いた勝負服だからな)
鏡の前で微笑みを確かめ、胸の鼓動を落ち着けて、茎一はハンドバッグを手に、待ち合わせ場所の翠ヶ丘のハイクラスなフレンチレストランへ向かった。
ガラス張りの壁面から美しい都市の夜景が一望できる、落ち着いた間接照明のレストランの個室。
「あ……鏡子さん!」
予約された席に茎一が着くと、先に到着していた命が、ぱっと顔を輝かせて立ち上がった。
今日の命は、深いネイビーのジャケットにグレーのハイゲージニットという、落ち着いた大人のドレスアップだ。
「お待たせしました、命さん。素敵なお店ですね」
「ううん、僕も今着いたところだよ。……あのさ、鏡子さん。今日の服、すごく……すごく綺麗だ。深い緑と白が、聖夜らしくて、息をのむほど美しいよ」
命は頬をほんのり赤らめ、まっすぐな瞳でこちらを見つめてくる。
(うぐっ……! 直接そんな目で褒められると、あの部屋での妄想がフラッシュバックして、目を合わせられねえ……っ!)
「ふふ、ありがとうございます。命さんのジャケット姿も、すごくスマートで格好いいですよ」
内面の激しい照れを微笑みの下に隠し、茎一は優雅に席へ腰を下ろした。
シャンパングラスが運ばれ、ささやかな乾杯から、夢のようなディナーが始まった。
前菜のフォアグラのムースや、メインの黒毛和牛のフィレ肉に舌鼓を打ち、やがてテーブルには、可愛らしく飾られた特製のクリスマスケーキと、スパークリンググレープジュースが運ばれてきた。
「美味しそう……いちごがたっぷりで可愛いですね」
フォークでケーキを一口サイズに切り分け、口へと運ぶ。
甘酸っぱいイチゴとまろやかな生クリームの風味が口いっぱいに広がり、茎一は思わず頬を緩めた。
「ねえ、命さん。年内の出社もあと少しですけれど、開発部のみんなの年末年始の予定って、どうなっているんですか?」
ケーキを味わいつつ、ふと気になっていた運用体制について尋ねてみた。
命はグラスを手に取り、苦笑交じりに語り始めた。
「うん。実はね、開発部は年末年始もシフト交代制で出勤することになってるんだ。我が社の『フトダマ・コア』は、今や多くの企業の基幹システムやWebサービスで二十四時間三百六十五日動いているからね。特に年末年始はメンテナンスが集中するし、サーバーの負荷監視や緊急のチューニング対応で、誰かしらが現場に常駐していないと危険なんだ」
「やっぱりそうですよね……。AIの運用に休みはありませんものね。……でも、若いエンジニアさんたちは年末年始くらい休みたくないですか?」
「そうだよね。だからね……申田開発部長がすごく気遣ってくれたんだよ」
命の表情が、温かい敬意に満ちたものに変わった。
「申田さんがね、『せめて半分ずつくらいは実家に帰したり、彼女と過ごさせてやれ。年内の宿直シフトと大晦日の徹夜監視は、おれが全部引き受ける』って言って、自ら買って出てくれたんだよ」
(あの申田部長が、そんな気遣いを……)
茎一の脳裏に、無精髭に束ねた長髪の、いかにもプログラマーらしい申田の顔が浮かんだ。
普段は「現場が死ぬ」と、リスクを真っ直ぐに口にする硬派な男だが、部下を思いやる兄貴背の熱さに、茎一は感心した。
「申田部長……見かけによらず、とても頼もしくて優しい上司ですね。あとで、特別手当の調整をしてあげなくちゃ」
「あはは、寸島部長も同じこと言ってたよ。……でね、僕自身のスケジュールなんだけど」
命はフォークを置き、少し真面目な顔で茎一を見つめた。
「仕事納めの後、年内に数日だけ冬休みが取れるんだ。だから……そのタイミングで、僕の実家へ挨拶に行こうと思ってる。うちの両親に、鏡子さんのことを正式に紹介したいんだ」
「玉屋家へのご挨拶ですね……! ええ、もちろんです。喜んでお伺いします。その前後で、私の母のお墓参りも、お願いしていいですか」
「もちろんだよ。……ただね、僕の休みは年内だけでさ」
命は照れくさそうに苦笑いを浮かべた。
「元旦からは、僕自身が初仕事として開発室に泊まり込む予定なんだ。申田さんと交代して、正月のメンテナンスの指揮をとるよ。だから、新年早々から泊まり込みになっちゃうんだけど……ごめんね?」
「まあ……元旦から初仕事で泊まり込みですか!?」
茎一は目を見開いた。
(どこまでも真面目で、現場を愛してる男だな……)
経営者としての過労を心配しつつも、そんな命の真摘な仕事への情熱が、茎一にはたまらなく愛おしく思えた。
「謝ることなんてありませんよ、命さん。会社と技術を守るための立派なお仕事ですから。ただし、三が日の最後はちゃんと家に帰って、布団で寝てくださいね。職場には私が美味しいお弁当を作って、差し入れに持っていきますから」
「本当かい!? 嬉しいな……! 最高の正月になりそうだよ!」
命は子どものように顔を輝かせ、二人はケーキを挟んで楽しそうに笑い合った。
素晴らしいディナーコースを終え、二人はレストランを後にした。
ドアマンに送られて一歩外へ出ると、夜の澄んだ冬の空気が、肌をぴんと叩いた。
茎一はカシミヤのコートのボタンを留め、ベルトを結び直した。
「寒いですけれど……気持ちいい夜ですね、命さん」
「そうだね。……鏡子さん、少し歩かないかい? 見せたい場所があるんだ」
「ええ、ぜひ!」
命が自然な動作で差し出してきた手に、茎一は自分の手を重ねた。
コートの袖越しにも伝わってくる、命の大きな手のひらの熱。
二人が歩みを進めたのは、翠ヶ丘のメインストリートから続く広大な公園の散歩道だった。
曲がり角を曲がった、その瞬間——。
「うわぁ……っ!」
茎一の口から、感嘆の息が漏れた。
目の前に広がっていたのは、無数のシャンパンゴールドのLEDが街路樹の枝葉を埋め尽くす、果てしない光のトンネルだった。
夜空から光の雨が降り注いでいるかのような、幻想的なイルミネーション。散策するカップルたちの囁き声と、冬風にそよぐ光の樹々。
「すごい……まるで光の海の中にいるみたいですね……」
思わず足を止め、見上げる茎一。
光の粒が、アイボリーのコートとフォレストグリーンの袖口を纏った彼女の美貌を、ほの暗く照らし出し、瞳の中にきらきらと煌めきを映していた。
命は繋いだ手にそっと力を込め、隣に立つ茎一の横顔を、愛おしさに満ちた目で見つめていた。
「鏡子さん」
「はい?」
振り返った茎一の頬に、冬の冷気とは対極の、温かな命の指先が優しく触れた。
「綺麗だよ……。イルミネーションもそうだけど……君が、世界で一番綺麗だ」
「……っ」
街灯の光の下で、まっすぐに自分を見つめる命の情熱的な瞳。
その言葉と眼差しに、茎一の胸の奥が、かぁっと熱くなった。
(な、なんだよ……っ。不意打ちすぎだろ……っ)
部屋でのあのファッションショーの記憶と、いま目の前にいる命の熱い体温が重なり合い、鏡子の身体は、命のやさしい言葉と触れ合う指先の熱に、素直すぎる。
耳たぶから首筋、頬にかけて、火がついたように熱い血が昇っていくのが分かった。
「な……急にそんなことを言われたら、照れてしまいます……」
うつむき、赤くなった頬を隠そうとする茎一。
だが命は、逃がさないように繋いだ手を優しく包み込み、引き寄せるように抱きしめてきた。
ふわりと広がる、ウールのコートの質感と命の体温。
そして、彼が纏う爽やかなウッディノートの香水。
「照れなくていいんだよ。僕は……君と一緒にこのクリスマスを迎えられて、本当に幸せなんだ。君が僕の隣にいてくれることが、僕の人生で最高のプレゼントだよ」
耳元で囁かれる、命の温かく震える息。
その甘い抱擁に、茎一の手は無力にも、命の背中へ回されていた。
(あ……あぁ……。この男の腕の中にいると、どんどん胸が甘くなって……全部、許したくなっちゃう)
男だった頃の自我すら、きらめく光の海の中にすーっと溶けて消えていく。
自分は「石凝鏡子」であり、目の前にいる誠実で愛おしい男・命の婚約者なのだという幸福感が、全身に染み渡っていく。
「命……さん……。私も……命さんと一緒にいられて、すごく幸せです……」
コートの背中をぎゅっと握りしめ、茎一は命の胸元へ顔を埋めた。
冬風がそよぎ、二人のコートの裾をやさしく揺らす。
年が明ければ、烏太朗との年明けの決戦——定例取締役会が待っている。だが今の二人には、どんな困難も乗り越えられるという、確かな絆と確信があった。
「メリークリスマス、鏡子さん」
「メリークリスマス、命さん」
イルミネーションの光が、繋いだ二人の手の上で、静かに揺れていた。




