第二十一話 フトダマ大忘年会
焼き鳥の煙が、古い換気扇に吸い込まれていく。
クリスマスが過ぎ、街の装いが一気に年の瀬の賑わいへ塗り替えられた、十二月下旬の夜。
都心の駅前にある、活気あふれる大衆居酒屋の座敷は、貸し切りになっていた。
焼き鳥ともつ鍋の湯気が立ち込める広いフロアに、今年一年の労をねぎらう社員たちの笑い声が満ちている。
今夜は、株式会社フトダマの「年末納め・全社忘年会」だ。
畳の座布団に腰を下ろし、茎一は手元のグラスを見つめていた。
今夜の装いは、座敷に合わせた、ゆったりしたベージュのカーディガンに白のシャツ、紺のワイドパンツ。
髪は、ざっくりとした一本の三つ編みにして、肩へ垂らしている。
首元には細身のゴールドのネックレス、爪先には、深みのあるプラムの色。
左手の薬指では、婚約指輪が、さりげなく光っていた。
(……はぁ。それにしても、まったく酒が飲めない身体ってのは参るな)
グラスの中でシュワシュワと泡を立てる、琥珀色の辛口ジンジャーエール。それを見つめながら、茎一は心の中で深い溜息をついた。
営業マンだった頃は、夜の街を駆け回り、相手のペースに合わせて何杯でも酒を煌り、したたかに酔いながら契約を勝ち取ってきた。
アルコールは、茎一にとって最大の「営業ツール」だったのだ。
だが——入れ替わってしまったこの「石凝鏡子」の身体には、致命的な弱点があった。
驚くほどの超・下戸体質。
グラス半分のワインどころか、カクテル一口で全身が真っ赤になり、強烈なめまいに襲われて倒れ込んでしまうのだ。
(これまでの業界交歓会でもウーロン茶で誤魔化してきたし、一昨日の命とのクリスマスディナーでも、スパークリンググレープジュースで乾杯したしな。この酒豪ぞろいの宴会で酒が飲めねぇのは、元営業として地味に悔しいぞ)
炉端の炭酸を喉に滑らせて、茎一は苦笑いした。
だが、そんな身体の制約を差し引いても、今夜の忘年会には大きな意味があった。
命を除く全社員が、副社長とこうして宴席を囲むのは、今回が初めてなのだ。
理由は明白だ。
フトダマ社の自律型AI「フトダマ・コア」は、今や数多くのクライアントの基幹システムを支えており、二十四時間三百六十五日、一瞬たりと止めることが許されない。
特に年末年始は、大規模メンテナンスやアクセス集中の監視が重なる。
いつもなら二チームに分かれて交代で休むのが限界で、全社一斉の宴会など不可能に近かった。
それでも今夜、こうしてみんなが集まれているのは、ひとえに社長の玉屋命の献身のおかげだった。
(なにしろ、今夜の現場運用と夜勤監視は、命が一人で引き受けてくれてるんだからな)
社員の三分の二を占める開発部員たちを「今夜くらいはみんなで羽を伸ばしてきて」と笑顔で送り出し、自らは自社開発の自動監視AIを駆使して、たった一人で開発室の端末に向かっているのだ。
(どこまでも社員思いで、現場を大切にする男だ。……ただし、過労を厱ったばかりだ、差し入れには釘をひとつ添えておこう。食べたら、ちゃんと仮眠を取ること、と)
一人で留守を守ってくれている、愛おしい相棒に思いを馳せ、茎一は胸の奥を温かな熱で満たした。
「皆さん、今年一年、本当にお疲れさまでした!」
座敷の中央へ立ち上がり、茎一は、よく通る澄んだ声で、フロア全体へ呼びかけた。
「我が社がここまで飛躍できたのは、現場で昼夜を問わず技術とサービスを支え続けてくれた、ここにいる一人ひとりのおかげです。今夜は、社長の命さんが、皆さんに心置きなく楽しんでもらうために、一人で現場を守ってくれています。その想いに応えるためにも、今夜は無礼講で、一年分の疲れを吹き飛ばすくらい、楽しんでいってください。乾杯!」
「乾杯——!!!」
大衆居酒屋のジョッキがぶつかり合う、豪快な音が響き渡った。
「いやぁ〜! 副社長、乾杯ですっ!」
「副社長〜! 本当にお世話になりました!」
乾杯の発声が終わるやいなや、茎一の席には、代わる代わる社員たちがグラスを手に挨拶にやってきた。
営業部の武内部長をはじめ、開発部の若いエンジニアたちが、口々に副社長の指示や判断への感謝を伝えてくる。
茎一は一人ひとりの名前を呼び、目を見つめながら、元営業らしい細やかな気配りと爽やかな笑みで接して回った。
そして、宴が一番の盛り上がりを見せ始めた頃——。
「副社長〜っ! 探しましたよ〜!」
テンションの上がった声とともに上座へなだれ込んできたのは、社内三人娘だった。
営業部の宇之乙女は、すでに頬を真っ赤に染めて生ビールのジョッキを掲げており、総務の鹿野緑は、手慣れた手つきで苋焼酎のロックを嗜んでいる。
そして開発部の名田筆美は、普段の黒縁眼鏡姿からは想像もつかないほど本格的な地酒の冷酒徳利を抱えていた。
「ちょっと、三人とも……もう出来上がってるじゃない」
茎一が苦笑して制すと、乙女が膝を乗り出してきた。
「当たり前ですよ〜! 一年分の仕事のストレスをアルコールで消毒する日なんですから! ほらほら副社長、私がお酌しますからグラス出してください!」 「そうですよ副社長、今夜くらい一緒に飲みましょう! この地酒、辛口で最高に美味しいんですから!」
筆美が徳利の口を茎一のグラスへ向けようとした、そのときだった。
「あ、待って待って! 筆美ちゃん、乙女ちゃん、だめだよ!」
慌てて割り込んできたのは、緑だった。
四人でランチに行ったときに、副社長が飲めないとこっそり聞いていたのだ。
「副社長のグラスを見てみなさいよ! それ、お酒じゃないよ!」
「えっ……!?」
乙女と筆美が目を丸くして、茎一の手元のグラスを覗き込んだ。
「ジンジャーエール……? え、副社長、ウーロン茶とか炭酸水しか入ってなくないですか?」
気まずそうに微笑む茎一に、緑が苦笑交じりに教えてあげた。
「副社長ね、実はお酒が全く飲めない体質なの。お酒全般がNGなの!」
「「えええええーーーっっ!?!?」」
乙女と筆美の叫び声が、賑やかな居酒屋の喧騒を突き抜けた。
「うそでしょ!? こんなに凛としてて、仕事もバリバリこなして格好いい副社長が、お酒ダメなんですか!?」 「あんなに堂々とジョッキ掲げて乾杯してたのに……! ずっとソフトドリンクだったんですか!?」
ショックを受けたように肩を落とす二人。
「ごめんなさいね、二人とも。体質的にアルコールが本当にダメで……一杯で倒れちゃうのよ」
茎一は上品に首をすくめ、申し訳なさそうに詫びてみせた。
(まあ、昔どころか最近この体になって知った事実なんだがな……)
「うぅ……残念ですぅ……! 副社長と一緒に酔っ払って、いろいろ語りたかったのに〜!」
乙女がううーっと唧りながら、自分の生ビールを豪快に煌った。
「でも……お酒が飲めないのに、私たちのためにこんなに楽しいお店を手配してくれて、ずっとシラフでみんなの相手をしてくれてたんですね……」
筆美が眼鏡を直し、感心したように深く頷いた。
「お酒が飲めないって、実は一番大変ですよね。酔っ払いのウザい絡みも全部シラフで受け止めなきゃいけないし……副社長、格好良すぎます……!」
「そうよ〜。副社長のおかげで、今年の忘年会は最高に楽しいわ」
緑も穏やかに微笑み、焼酎のグラスを傾けた。
「ふふ、喜んでもらえてよかった。お酒は飲めなくても、みんなの楽しそうな顔が見られれば私は十分だよ」
茎一はジンジャーエールのグラスを持ち上げ、三人娘のジョッキやグラスと、軽やかにカチンと音を響かせた。
◆◆◆
宴が最高潮を迎える中、司会マイクを握って座敷のステージに立ったのは、なんと、叢雲茎一(本物の鏡子)だった。
ワイシャツの袖をさっとまくり、ワックスで整えた髪と清潔感のある立ち姿で、爽やかな好青年ぷりを発揮している。
「皆様! これより、豪華景品が当たる『フトダマ年末大ビンゴ大会』を開催いたします!」
マイクを通した張りのある男の声に、フロア全体からワーッと大きな歓声が上がった。
乙女は、ステージの上の叢雲に、うっとりと目を細めている。
実は、今回の忘年会の実行委員・幹事を買って出たのは、ほかでもない鏡子だった。
これまで、そういった裏方の苦労を避けてきた彼女だったが、総務の緑とタッグを組んで、庶民的な居酒屋の調達から予算管理、景品のラインナップに至るまで、猛烈な熱量で準備を進めてきたのだ。
「一等賞はなんと……最新型の超高スペック自作PCパーツセット! 開発部の皆さん、狙ってください!」
流暢で軽快なマイクパフォーマンス。
景品が当たるたびに社員たちが一喜一憂し、会場の熱気はピークに達していった。
ビンゴ大会が大盛況で終わり、フロアが歓談モードに戻った頃。
生ビールがなみなみと注がれた大ジョッキを片手に、鏡子が茎一のもとへ歩み寄ってきた。
「副社長、少々よろしいでしょうか。今回のビンゴ大会の予算承認、改めてありがとうございました」
周囲の社員たちに聞こえるように丁寧な言葉で切り出しつつ、鏡子は茎一の隣へと腰掛けた。
「いえ、素晴らしい手際でしたよ、叢雲さん。会場も大盛り上がりでしたね」
茎一が穏やかな笑みで応えると、鏡子は男の身体の太い喉を鳴らし、生ビールをゴクゴクと勢いよく煌った。
「ふぅーっ……! うまい! やっぱり仕事の後のビールは最高ですね!」
喉仏を鳴らして豪快にジョッキを置く姿に、茎一は苦笑いを浮かべた。
「酒、かなり強いみたいだな……。羨ましいよ」
茎一が小声で呟くと、鏡子はニヤリと男の顔で不敵に微笑み、グラスの縁を指先でなぞった。
周囲には単なる「仕事熱心な上司と部下の密談」に見えるよう、絶妙に声を抑えながら、彼女は自らの本音を語り始めた。
「……ふふ。実はアタシ、昔ならこういう『忘年会の幹事』なんて、面倒くさくて絶対に避けて逃げ回ってたのよね。他人のために企画を考えたり、買い出しに行ったりなんて、絶対にやらないタイプだった」
「へぇ……。あんたがか?」
「ええ。でもね……この姿になって、自分で決めて動くようになってから、なんだか何にでもチャレンジしたくなっちゃってさ。今回も緑さんと一緒に庶民的な居酒屋を探したり、景品を選んだりするのが、苦労はしたけど……信じられないくらい楽しかったのよ」
男の凛々しい瞳を輝かせ、鏡子は心底満足そうに息を吐いた。
「環境が変わって、アタシ自身も大きく変わったみたい。……昔の狭い世界に閉じこもってた自分から、すっかり解き放たれた感じがするの」
「そうか……。すごくいい顔をしてるな、鏡子さん」
茎一が心からの称賛を送ると、鏡子は手元のビールジョッキを愛おしそうに見つめた。
「それにさ……この身体になって、一番驚いたし嬉しかったのが『お酒』なのよね」
「お酒……?」
「そう! 昔の身体の時は下戸すぎて、お酒の美味しさも、みんなで賑やかに飲む楽しさもサッパリ分からなかったの。でも……この『叢雲茎一』っていう身体は、驚くほどお酒に強くて、何杯飲んでもビクともしないじゃない?」
鏡子はクスクスと嬉しそうに笑った。
「取引先の人や、会社の仲間と一緒にグラスを交わして、本音で笑い合いながら飲むお酒が……こんなに美味しいものだなんて知らなかった。そういう意味では……アタシ、この入れ替わりに心から感謝してるのよ」
男の姿をした鏡子の口からこぼれた、偏りのない感謝と解放感。
自分もまた、女性の身体に入って命という相棒を得、副社長として新しい人生を切り拓いている。
互いに人生の軌道が大きく変わり、それぞれが新しい自分として解き放たれ、前に進んでいるのだ。
(……そっか。お前も、自分の足で新しい人生を全力で楽しんでるんだな)
茎一の胸の奥に、言葉にできない温かな連帯感がこみ上げてきた。
「……乾杯しよう、鏡子さん。お互いの新しい人生と、フトダマの未来に」 「ええ! 乾杯しましょう、副社長!」
辛口ジンジャーエールのグラスと、なみなみと注がれたビールのジョッキ。二つが、カチンと静かな音を立てて重なり合った。
◆◆◆
宴が終盤に差し掛かった頃、茎一はそっと席を立ち、お店の厨房へ向かった。
「すみません、あらかじめお願いしていたテイクアウトの包み、できていますか?」
「はい、副社長。出来立ての居酒屋特製つくね重と、温かいお出汁のセットをご準備しております」
丁寧に梱包された折箱を受け取り、茎一は満足そうに微笑んだ。
(一人で黙々とサーバー監視をしてくれている命への、極上の差し入れだ)
忘年会を大成功させること。
そして、留守を守るパートナーを最高の料理で労うこと。
両方をこなしてこそ、一流の副社長であり、最高の「婚約者」だ。
座敷に戻り、一本締めで宴をきれいに締めくくると、上機嫌で帰路につく社員たち一人ひとりを、送迎タクシーへ見送った。
「副社長、本当にお疲れ様でした!」 「幹事の叢雲さんも、最高でした!」 「良いお年を〜!」
夜の都心の街並みに消えていく、社員たちの笑顔。
冷たい冬の風が吹き抜ける中、茎一は折箱の温もりを、両手でしっかりと抱き直した。
(さあ……次は、俺の愛しい社長の元へ向かうとしますか)
折箱から立ちのぼる出汁の湯気が、冷たい夜気の中に、細くほどけていった。




