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鏡の中の超絶美女(中身34歳男)、政略結婚を利用して年下天才CEOと会社を攻略する  作者: ニボシ


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第十八話 鍋をつつく

 ふう、と長い息が、後部座席に落ちた。

 料亭の重い門をくぐり抜け、都心の喧騒に戻ってきた二人を、夕暮れの冷たい風が出迎える。

 コート越しにも、肌を刺すような冷たさだった。

 送迎車に乗り込むなり、命はシートに深く背を預け、糸の切れた操り人形のように脱力した。


「……終わった……終わったね……」

「お疲れさまでした、命さん。見事な立ち回りでしたよ。同棲の許可まで取れたんですから、満点以上の成果です」


 茎一はコートの襟元をゆるめ、柔らかな笑みを向けた。

 だが、命の表情は、どこか晴れない。眉間に小さくしわを寄せ、窓の外を流れるイルミネーションを、複雑な目で見つめている。


(……ん? 烏太朗が『フィジカルAI』の話を出したあたりから、急に顔色が悪くなったな。年明けの取締役会までの期日が短いから、だけか?)


 街灯の陰影が横顔をなぞるのを見ながら、茎一は察した。

 技術者として、あるいは経営者として、あの構想に、口にできない懸念か葛藤を抱いているのは、間違いない。

 だが、いまは極度の緊張から解放された直後だ。

 根掘り葉掘り問いただすのは、野暮というものだろう。


(深い理由があるんだろうが、無理に聞き出す場面じゃない。焦らず、命のペースに合わせよう)


 茎一は追及をやめ、声の調子を落として語りかけた。


「あちらへのお返事は、あらためて、私と命さんで戦略を練り直しましょう。急いで呼み込まれる必要はありませんから」

「……うん。ありがとう、鏡子さん」


 命は少しだけ表情をゆるめ、ぽつりと言った。


「それと、僕の実家の……玉屋家への挨拶なんだけど、年末年始の休みに来てもらえるかな。うちの両親にも、鏡子さんのことを、早く紹介したくて」

「もちろんです。喜んでお伺いします。しっかり準備しておきますね」


 笑顔で答えたものの、茎一は、命の目の下にうっすらと浮かぶクマに気づいた。

 料亭での大仕事を終えた安堵も手伝って、疲労が一気に表へ出てきたようだ。


「……命さん。今日は、お互い、ものすごく神経を使いましたね」

「そうだね……魂が抜けそうだよ」

「このままお店で外食するのも、気が引けますし……あ、そういえば」


 茎一はぽんと手を打ち、いたずらっぽく目を細めた。


「前におっしゃっていた、命さんが今住んでいるお部屋、見に行ってもいいですか?」

「えっ……僕の部屋!?」


 予想外の提案に、命は飛び起きた。


「い、いやでも、男の一人暮らしだし、急に言われても、片付いてないかも……! アポなしで人を入れるなんて、失礼じゃ……」

「大丈夫ですよ。散らかっていても気にしません。それに、これから二人で暮らすんですから、お互いの生活の様子を知っておくのは大事です。……だめですか?」


 上目遣いで首をかしげる「鏡子」の破壊力に、命は一瞬で撃沈した。


「うっ……だめなんて、言えないよ。じゃあ、本当に何もない部屋だけど、それでよければ……」


 ◆◆◆


 送迎車が着いたのは、都心の閑静なエリアに立つ、築浅のマンションだった。

 IT企業の若き社長が住む、タワーマンションの最上階——などではなく、ごく普通のワンルームだ。


「ここが、僕の部屋」


 命が鍵を開け、茎一を招き入れる。

 玄関でパンプスを脱いで上がった茎一は、思わず目を丸くした。


「……本当に、きれいですね」


 散らかっているどころか、恐ろしいほど整っていた。

 シンプルなローベッドに、作業用の大きなデスク、高スペックのモニターが三台、本棚がひとつ。

 余計な家具も装飾もなく、生活感は極限まで削ぎ落とされている。

 ごみひとつ落ちておらず、モデルルームのようだった。


「命さんって、実は掃除好きなんですか? 急に来たのに、こんなに片付いてるなんて」


 感心する茎一に、命は申し訳なさそうに苦笑した。


「ううん、違うんだ。掃除が好きなんじゃなくて、単純に、この部屋にいない時間が長すぎるだけ」

「……え?」

「開発室に泊まり込むことが多くてさ。新モデルのチューニングやエラーチェックを始めると、どうしても帰れなくなっちゃって。週に二、三日、寝に帰ってくるだけだから、部屋が汚れる暇もないんだよ」


 何気ない口調だった。

 だが、茎一の中で、営業としての、そして副社長としてのセンサーが、警報を鳴らした。


(おいおい、マジかよ。筋金入りのワーカホリックじゃねえか。自分を追い込みすぎだろ)


「……命さん。それって、自社でブラック労働をしているということですか?」

「えっ? いや、プレイングマネージャーだし、社長だから、残業とか労働時間の概念はないっていうか……」

「そういう問題じゃありません!」


 茎一の急な大声に、命はびくりと肩を跳ねさせた。

 茎一はつかつかと歩み寄り、鋭い眼光で命を見据えた。


「いいですか、命さん。経営者だから残業の概念がない? そんなのは言い訳です。トップが睡眠不足と過労で倒れたら、フトダマの社員も、投資家も、私も、どうすればいいんですか」

「う、うぐっ……」

「健康管理と良質な睡眠は、パフォーマンスの要です。徹夜で書いたコードより、万全の体調で集中して書いたコードのほうが、精度は高いに決まっています。自分を削って働くのが美徳だなんて思っていたら、大間違いですからね!」


 胸を張って説教する茎一。

 体調管理を怠って自滅していく人間を、営業の現場で嫌というほど見てきたからこその剣幕だった。

 圧に押されて正座しそうになった命だったが、厱られている中身が、あまりにも自分の身体を気遣うものだったので、胸の奥が、じんわりと温まるのを感じていた。


「……ごめんなさい。鏡子さんのうとおりだよ。最近、ちょっと根を詰めすぎてたかもしれない」


 素直に反省する命を見て、茎一は表情をやわらげ、息をついた。


「分かってくれればいいんです。……さて!」


 茎一はぱんと両手を叩いた。


「疲れ切った命さんに、ちゃんと栄養を取ってもらわないと、気が済みません。いまから、近くのスーパーに買い出しに行きましょう」

「えっ、買い物? 鏡子さんが、作ってくれるの?」

「もちろん。私の手料理で、体力を全回復させてあげますよ。……あ、でも、このキッチンに、調理器具や調味料って、ありますか?」


 おそるおそる、小さなシステムキッチンを覗き込む。

 案の定、コンロの上には小さなケトルがぽつんと置かれているだけで、まな板も包丁も、真新しいままだった。


(本当に、寝に帰るだけの部屋か。いい、調達から付き合ってやる)


「……よし、調理器具と調味料の調達から、スタートですね」

「あはは……すみません、副社長」

「ふふ、いいですよ。さあ、コートを着て出発です。今夜は、おいしいものをたくさん食べて、泥のように眠ってもらいますからね」


 頼もしい婚約者に引っ張られるように、命は嬉しそうな笑みを浮かべて、また寒空の街へ出ていった。


 ◆◆◆


 マンションを出てすぐの、夜のスーパーマーケット。

 クリスマスソングが流れる店内は、夕食の買い出しに来た近所の家族連れや、お年寄りでにぎわっていた。

 冷えた身体に、店内の暖気が心地よく絡みつく。


「へえ……夜にスーパーなんて、普段来ないから、なんだか新鮮だな」


 命は子どものように目を輝かせて、カートを押す茎一の隣を歩く。


「しっかりしてくださいね、命さん。今日の主目的は、あなたの体力の回復です。……さて、何にしましょうか」


 並んで青果コーナーへ向かう。

 色とりどりの野菜の棚を眺めながら、茎一は考えた。

 命の部屋のキッチン設備は最小限だ。

 手の込んだ料理は作れない。


(手軽で、栄養が丸ごと取れて、芯から温まる、冬の定番といえば——)


「決まりました。今夜は豆乳鍋にしましょう。野菜がたっぷり摂れて、消化もよくて、たんぱく質も補給できます」

「豆乳鍋! いいね、おいしそう!」


 メニューが決まると、買い出しは手際よく進んだ。


「白菜は半分、長ネギは太いものを二本。しめじとえのき、豆腐。それから、豚のバラ肉とロースを半々で。スープは調整豆乳と和風だしに、隠し味で味噌とごま油を少し足せば、完璧です」


 てきぱきと食材をカートに入れていく姿に、命は「買い物まで手慣れてるんだね」と感心しきりだ。


「一人鍋なら、以前からよくやっていましたから。手軽で、栄養のバランスもいいですし」


 一瞬、男だった頃の習慣が顔を出し、茎一は咳払いでごまかしたが、命は気にする様子もない。

 本当は、入れ替わる前の鏡子本人は、自炊をほとんどしなかった。

 冷蔵庫の中身が物語っている。

 あのまま結婚していたら、夫婦そろって、外食と出来合いに頼り切っていただろう。


「手作りのお鍋、本当に楽しみだよ」


 そんな事情を知る由もない命は、嬉しそうに微笑んでいた。

 ミニ土鍋とカセットコンロ、小さな包丁とまな板、最低限の調味料も買い込んで、二人は、ほくほくした気持ちでマンションに戻った。


 ◆◆◆


 狭いワンルームのローテーブルに、買ったばかりのカセットコンロと土鍋が据えられた。

 茎一は、バッグから取り出したヘアゴムで髪をひとつに結び直し、袖をまくって、白菜やネギをざく切りにしていく。

 豆腐を切り分け、土鍋にきれいに並べた。

 豆乳ベースの出汁が煮立ちはじめると、ごま油とだしのやさしい香りが、部屋じゅうに立ちのぼった。


「はい、命さん。豚肉に火が通りましたよ。熱いうちにどうぞ」

「わあ、いただきます……! うん、おいしい……! 豆乳がまろやかで、野菜の出汁が、じんわり染みるよ……」


 ふうふうと息を吹きかけながら、うまそうに鍋をつつく命。

 湯気と熱で頬がほんのり赤く染まり、目の下のクマも、少し和らいで見えた。


「よかった。野菜もたくさん食べてくださいね」


 茎一も、自分の椀に具を取り分けて、ひと口運ぶ。

 口いっぱいに広がる、豆乳の甘みと旨み。


(誰かと一緒に鍋をつつくなんて……何年ぶりだろうな)


 ふと、茎一の胸の奥に、淡い寂しさがこみ上げた。

 学生だった頃は、冬になれば、両親と三人でこたつを囲んで、にぎやかに鍋をつついたものだ。

 だが、社会人になって間もなく、両親は不運な交通事故で、同時に世を去った。

 それ以来、天涯孤独の身で、営業の世界を、ひたすら一人で戦ってきた。

 仕事帰りの深夜、静まり返ったアパートで、煮込んだ一人鍋を黙々とつつく日々。

 温かいものを食べているはずなのに、心は、ずっと冷えたままだった。


(親父とお袋の墓参りも、最近は、ずっと行けてなかったな……)


 日々の激務と、目まぐるしい展開に追われ、故郷の墓に足を運ぶ余裕は、すっかり失われていた。

 茎一の思いは、自分から、いま身にまとっているこの身体の本来の持ち主——石凝鏡子へと向かった。

 あの革装丁のアルバムにあった、七五三や公園で、幼い鏡子の肩に手を添えていた、凛と儺げな母親の姿。

 あの人も、すでに病で世を去っている。


(親を亡くした寂しさは、鏡子も俺と同じか。烏太朗に道具として扱われ、本当の家族のぶんもりを失ったまま、生きてきたんだな)


 いま自分は、鏡子の身体と人生を引き継ぎ、命という、かけがえのない相手と、新しい未来を作ろうとしている。

 ならば、自分の両親の墓前はもちろん、鏡子の亡き母の墓前にも、足を運んで、顔を合わせておく必要があるのではないか。


(この身体を預かり、彼女の人生を歩く者としての、筋と仁義だ)


「鏡子さん、何か言った?」


 出汁を飲んでいた命が、不思議そうに首をかしげた。

 茎一ははっと我に返り、愛おしそうに命を見つめ返した。


「ううん、なんでもありません。……あの、命さん。年末年始、玉屋家へのご挨拶に伺いますけれど、その前か後に、少しお時間をいただけますか?」

「もちろん。行きたいところがあるの?」

「ええ。……私の母の、お墓参りに。私のルーツにある大切な場所に、ご挨拶をしておきたいんです」


 鏡子の亡き母への報告と、「叢雲茎一」の両親への報告。

 二人分の人生を預かった者として、新しい年を迎える前に、どうしても果たしておきたい誓いだった。

 命はやさしく頷き、自分の温かい手で、茎一の手を包んだ。


「分かった。僕も一緒に行くよ、鏡子さん。大切なお母様に、ちゃんと、ご挨拶させてほしい」

「命さん……はい、ありがとうございます」


 鍋の湯気が、狭い部屋の窓ガラスを、うっすらと曇らせていた。

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