第十八話 鍋をつつく
ふう、と長い息が、後部座席に落ちた。
料亭の重い門をくぐり抜け、都心の喧騒に戻ってきた二人を、夕暮れの冷たい風が出迎える。
コート越しにも、肌を刺すような冷たさだった。
送迎車に乗り込むなり、命はシートに深く背を預け、糸の切れた操り人形のように脱力した。
「……終わった……終わったね……」
「お疲れさまでした、命さん。見事な立ち回りでしたよ。同棲の許可まで取れたんですから、満点以上の成果です」
茎一はコートの襟元をゆるめ、柔らかな笑みを向けた。
だが、命の表情は、どこか晴れない。眉間に小さくしわを寄せ、窓の外を流れるイルミネーションを、複雑な目で見つめている。
(……ん? 烏太朗が『フィジカルAI』の話を出したあたりから、急に顔色が悪くなったな。年明けの取締役会までの期日が短いから、だけか?)
街灯の陰影が横顔をなぞるのを見ながら、茎一は察した。
技術者として、あるいは経営者として、あの構想に、口にできない懸念か葛藤を抱いているのは、間違いない。
だが、いまは極度の緊張から解放された直後だ。
根掘り葉掘り問いただすのは、野暮というものだろう。
(深い理由があるんだろうが、無理に聞き出す場面じゃない。焦らず、命のペースに合わせよう)
茎一は追及をやめ、声の調子を落として語りかけた。
「あちらへのお返事は、あらためて、私と命さんで戦略を練り直しましょう。急いで呼み込まれる必要はありませんから」
「……うん。ありがとう、鏡子さん」
命は少しだけ表情をゆるめ、ぽつりと言った。
「それと、僕の実家の……玉屋家への挨拶なんだけど、年末年始の休みに来てもらえるかな。うちの両親にも、鏡子さんのことを、早く紹介したくて」
「もちろんです。喜んでお伺いします。しっかり準備しておきますね」
笑顔で答えたものの、茎一は、命の目の下にうっすらと浮かぶクマに気づいた。
料亭での大仕事を終えた安堵も手伝って、疲労が一気に表へ出てきたようだ。
「……命さん。今日は、お互い、ものすごく神経を使いましたね」
「そうだね……魂が抜けそうだよ」
「このままお店で外食するのも、気が引けますし……あ、そういえば」
茎一はぽんと手を打ち、いたずらっぽく目を細めた。
「前におっしゃっていた、命さんが今住んでいるお部屋、見に行ってもいいですか?」
「えっ……僕の部屋!?」
予想外の提案に、命は飛び起きた。
「い、いやでも、男の一人暮らしだし、急に言われても、片付いてないかも……! アポなしで人を入れるなんて、失礼じゃ……」
「大丈夫ですよ。散らかっていても気にしません。それに、これから二人で暮らすんですから、お互いの生活の様子を知っておくのは大事です。……だめですか?」
上目遣いで首をかしげる「鏡子」の破壊力に、命は一瞬で撃沈した。
「うっ……だめなんて、言えないよ。じゃあ、本当に何もない部屋だけど、それでよければ……」
◆◆◆
送迎車が着いたのは、都心の閑静なエリアに立つ、築浅のマンションだった。
IT企業の若き社長が住む、タワーマンションの最上階——などではなく、ごく普通のワンルームだ。
「ここが、僕の部屋」
命が鍵を開け、茎一を招き入れる。
玄関でパンプスを脱いで上がった茎一は、思わず目を丸くした。
「……本当に、きれいですね」
散らかっているどころか、恐ろしいほど整っていた。
シンプルなローベッドに、作業用の大きなデスク、高スペックのモニターが三台、本棚がひとつ。
余計な家具も装飾もなく、生活感は極限まで削ぎ落とされている。
ごみひとつ落ちておらず、モデルルームのようだった。
「命さんって、実は掃除好きなんですか? 急に来たのに、こんなに片付いてるなんて」
感心する茎一に、命は申し訳なさそうに苦笑した。
「ううん、違うんだ。掃除が好きなんじゃなくて、単純に、この部屋にいない時間が長すぎるだけ」
「……え?」
「開発室に泊まり込むことが多くてさ。新モデルのチューニングやエラーチェックを始めると、どうしても帰れなくなっちゃって。週に二、三日、寝に帰ってくるだけだから、部屋が汚れる暇もないんだよ」
何気ない口調だった。
だが、茎一の中で、営業としての、そして副社長としてのセンサーが、警報を鳴らした。
(おいおい、マジかよ。筋金入りのワーカホリックじゃねえか。自分を追い込みすぎだろ)
「……命さん。それって、自社でブラック労働をしているということですか?」
「えっ? いや、プレイングマネージャーだし、社長だから、残業とか労働時間の概念はないっていうか……」
「そういう問題じゃありません!」
茎一の急な大声に、命はびくりと肩を跳ねさせた。
茎一はつかつかと歩み寄り、鋭い眼光で命を見据えた。
「いいですか、命さん。経営者だから残業の概念がない? そんなのは言い訳です。トップが睡眠不足と過労で倒れたら、フトダマの社員も、投資家も、私も、どうすればいいんですか」
「う、うぐっ……」
「健康管理と良質な睡眠は、パフォーマンスの要です。徹夜で書いたコードより、万全の体調で集中して書いたコードのほうが、精度は高いに決まっています。自分を削って働くのが美徳だなんて思っていたら、大間違いですからね!」
胸を張って説教する茎一。
体調管理を怠って自滅していく人間を、営業の現場で嫌というほど見てきたからこその剣幕だった。
圧に押されて正座しそうになった命だったが、厱られている中身が、あまりにも自分の身体を気遣うものだったので、胸の奥が、じんわりと温まるのを感じていた。
「……ごめんなさい。鏡子さんのうとおりだよ。最近、ちょっと根を詰めすぎてたかもしれない」
素直に反省する命を見て、茎一は表情をやわらげ、息をついた。
「分かってくれればいいんです。……さて!」
茎一はぱんと両手を叩いた。
「疲れ切った命さんに、ちゃんと栄養を取ってもらわないと、気が済みません。いまから、近くのスーパーに買い出しに行きましょう」
「えっ、買い物? 鏡子さんが、作ってくれるの?」
「もちろん。私の手料理で、体力を全回復させてあげますよ。……あ、でも、このキッチンに、調理器具や調味料って、ありますか?」
おそるおそる、小さなシステムキッチンを覗き込む。
案の定、コンロの上には小さなケトルがぽつんと置かれているだけで、まな板も包丁も、真新しいままだった。
(本当に、寝に帰るだけの部屋か。いい、調達から付き合ってやる)
「……よし、調理器具と調味料の調達から、スタートですね」
「あはは……すみません、副社長」
「ふふ、いいですよ。さあ、コートを着て出発です。今夜は、おいしいものをたくさん食べて、泥のように眠ってもらいますからね」
頼もしい婚約者に引っ張られるように、命は嬉しそうな笑みを浮かべて、また寒空の街へ出ていった。
◆◆◆
マンションを出てすぐの、夜のスーパーマーケット。
クリスマスソングが流れる店内は、夕食の買い出しに来た近所の家族連れや、お年寄りでにぎわっていた。
冷えた身体に、店内の暖気が心地よく絡みつく。
「へえ……夜にスーパーなんて、普段来ないから、なんだか新鮮だな」
命は子どものように目を輝かせて、カートを押す茎一の隣を歩く。
「しっかりしてくださいね、命さん。今日の主目的は、あなたの体力の回復です。……さて、何にしましょうか」
並んで青果コーナーへ向かう。
色とりどりの野菜の棚を眺めながら、茎一は考えた。
命の部屋のキッチン設備は最小限だ。
手の込んだ料理は作れない。
(手軽で、栄養が丸ごと取れて、芯から温まる、冬の定番といえば——)
「決まりました。今夜は豆乳鍋にしましょう。野菜がたっぷり摂れて、消化もよくて、たんぱく質も補給できます」
「豆乳鍋! いいね、おいしそう!」
メニューが決まると、買い出しは手際よく進んだ。
「白菜は半分、長ネギは太いものを二本。しめじとえのき、豆腐。それから、豚のバラ肉とロースを半々で。スープは調整豆乳と和風だしに、隠し味で味噌とごま油を少し足せば、完璧です」
てきぱきと食材をカートに入れていく姿に、命は「買い物まで手慣れてるんだね」と感心しきりだ。
「一人鍋なら、以前からよくやっていましたから。手軽で、栄養のバランスもいいですし」
一瞬、男だった頃の習慣が顔を出し、茎一は咳払いでごまかしたが、命は気にする様子もない。
本当は、入れ替わる前の鏡子本人は、自炊をほとんどしなかった。
冷蔵庫の中身が物語っている。
あのまま結婚していたら、夫婦そろって、外食と出来合いに頼り切っていただろう。
「手作りのお鍋、本当に楽しみだよ」
そんな事情を知る由もない命は、嬉しそうに微笑んでいた。
ミニ土鍋とカセットコンロ、小さな包丁とまな板、最低限の調味料も買い込んで、二人は、ほくほくした気持ちでマンションに戻った。
◆◆◆
狭いワンルームのローテーブルに、買ったばかりのカセットコンロと土鍋が据えられた。
茎一は、バッグから取り出したヘアゴムで髪をひとつに結び直し、袖をまくって、白菜やネギをざく切りにしていく。
豆腐を切り分け、土鍋にきれいに並べた。
豆乳ベースの出汁が煮立ちはじめると、ごま油とだしのやさしい香りが、部屋じゅうに立ちのぼった。
「はい、命さん。豚肉に火が通りましたよ。熱いうちにどうぞ」
「わあ、いただきます……! うん、おいしい……! 豆乳がまろやかで、野菜の出汁が、じんわり染みるよ……」
ふうふうと息を吹きかけながら、うまそうに鍋をつつく命。
湯気と熱で頬がほんのり赤く染まり、目の下のクマも、少し和らいで見えた。
「よかった。野菜もたくさん食べてくださいね」
茎一も、自分の椀に具を取り分けて、ひと口運ぶ。
口いっぱいに広がる、豆乳の甘みと旨み。
(誰かと一緒に鍋をつつくなんて……何年ぶりだろうな)
ふと、茎一の胸の奥に、淡い寂しさがこみ上げた。
学生だった頃は、冬になれば、両親と三人でこたつを囲んで、にぎやかに鍋をつついたものだ。
だが、社会人になって間もなく、両親は不運な交通事故で、同時に世を去った。
それ以来、天涯孤独の身で、営業の世界を、ひたすら一人で戦ってきた。
仕事帰りの深夜、静まり返ったアパートで、煮込んだ一人鍋を黙々とつつく日々。
温かいものを食べているはずなのに、心は、ずっと冷えたままだった。
(親父とお袋の墓参りも、最近は、ずっと行けてなかったな……)
日々の激務と、目まぐるしい展開に追われ、故郷の墓に足を運ぶ余裕は、すっかり失われていた。
茎一の思いは、自分から、いま身にまとっているこの身体の本来の持ち主——石凝鏡子へと向かった。
あの革装丁のアルバムにあった、七五三や公園で、幼い鏡子の肩に手を添えていた、凛と儺げな母親の姿。
あの人も、すでに病で世を去っている。
(親を亡くした寂しさは、鏡子も俺と同じか。烏太朗に道具として扱われ、本当の家族のぶんもりを失ったまま、生きてきたんだな)
いま自分は、鏡子の身体と人生を引き継ぎ、命という、かけがえのない相手と、新しい未来を作ろうとしている。
ならば、自分の両親の墓前はもちろん、鏡子の亡き母の墓前にも、足を運んで、顔を合わせておく必要があるのではないか。
(この身体を預かり、彼女の人生を歩く者としての、筋と仁義だ)
「鏡子さん、何か言った?」
出汁を飲んでいた命が、不思議そうに首をかしげた。
茎一ははっと我に返り、愛おしそうに命を見つめ返した。
「ううん、なんでもありません。……あの、命さん。年末年始、玉屋家へのご挨拶に伺いますけれど、その前か後に、少しお時間をいただけますか?」
「もちろん。行きたいところがあるの?」
「ええ。……私の母の、お墓参りに。私のルーツにある大切な場所に、ご挨拶をしておきたいんです」
鏡子の亡き母への報告と、「叢雲茎一」の両親への報告。
二人分の人生を預かった者として、新しい年を迎える前に、どうしても果たしておきたい誓いだった。
命はやさしく頷き、自分の温かい手で、茎一の手を包んだ。
「分かった。僕も一緒に行くよ、鏡子さん。大切なお母様に、ちゃんと、ご挨拶させてほしい」
「命さん……はい、ありがとうございます」
鍋の湯気が、狭い部屋の窓ガラスを、うっすらと曇らせていた。




