第十七話 対決は料亭にて
ベルベットの小箱の蓋が、かちりと小さな音を立てた。
十二月中旬の朝。
街はクリスマス前のイルミネーションに彩られ、空気は、肌を刺すほど冷え込んでいる。
タワーマンションのドレスルーム。
薄い朝の光が差し込む全面鏡の前で、茎一は、ドレッサーに置いた小箱に視線を落としていた。
蓋の下には、朝の光を受けて、澄んだ輝きを放つダイヤのリング。
秋の日に、命が少し照れながら贈ってくれた婚約指輪だった。
(……指輪、か)
茎一は息を整え、左手の薬指に、ゆっくりと指輪をくぐらせた。
ひやりとしたプラチナが肌に触れ、すぐに、あつらえたようにしっくりと馴染む。
中央のダイヤは、華美すぎず、けれど揺らがない気高さを主張していた。
指輪をはめた手をかざし、鏡の中の自分と向き合う。
今日の装いは、挨拶の席にふさわしい、きちんとした黒だ。
長袖の、落ち着いた膝下丈のワンピースに、襟元は白いレースの付け襟。
胸元には小ぶりな真珠のネックレスを添え、足元は黒のタイツに、スエードのローヒールパンプス。
髪は、ゆるくカールさせた毛先を後頭部で低くまとめた、ハーフアップに仕上げた。
爪先には、年の瀬らしい、淡いシャンパンゴールドが光っている。
その上から、ミルクティーベージュのカシミヤのロングコートを羽織り、ウエストのベルトを結ぶ。
(見た目は、百点満点だ。この指輪が、いまの俺——石凝鏡子の、いちばんの『お守り』であり、覚悟の証だ。今日向き合うのは、この身体を、ビジネスの道具としか思っていないあの親父、石凝烏太朗)
鏡の中の女性が、指輪の輝きを確かめるように、薄く微笑んだ。
その瞳の奥には、営業の修羅場を渡ってきた男の、鋭い意志が宿っている。
(相手は、ビジネスと権力に飢えた成り上がりだ。油断すれば、一瞬で呑まれる。だが、こっちには、命から預かった指輪と、練り上げたシナリオがある。……行くぞ、石凝鏡子)
深呼吸をひとつ。
コートの襟を整え、ハンドバッグを手に取って、茎一は決戦の地へ向かった。
◆◆◆
都心の閑静な住宅街にたたずむ、老舗の和食料亭。
送迎車を降りると、木枯らしが吹き抜け、コートの裾を冷たく揺らした。
石畳にはうっすらと打ち水の跡が光り、庭の竹林が、乾いた葉擦れの音を立てている。
命も、場にふさわしい装いだった。
ダークグレーのウールのチェスターコートの下は、ネイビーのテーラードスーツ。清潔感のある、若き経営者のセミフォーマルだ。
重厚な門をくぐって玄関へ向かう道すがら、茎一は、自分の鼓動が、少し速くなっているのを感じていた。
隣を歩く命の指先が、緊張で、かすかにこわばっている。
茎一はそっと微笑み、左手の薬指のダイヤが見えるように、命のコートの袖口を、軽く摘んだ。
「大丈夫ですよ、命さん。私たちの準備に、隙はありません。堂々といきましょう」
命は茎一の指先に光る指輪を見つめ、はっと息をのんだあと、すぐに愛おしそうな笑みを浮かべて、深く頷いた。
「……ありがとう、鏡子さん。すごく綺麗だよ。……よし、いこう」
二人は暖簾をくぐり、玄関へ足を踏み入れた。
上がり框では、女将と仲居たちが三つ指をついて、静かに出迎えてくれる。
「いらっしゃいませ。お待ち申し上げておりました」
命と茎一は目配せをして、手際よくコートを脱いだ。
茎一がベルトを解き、肩からコートを滑らせると、仲居が恭しく両手で受け取り、ハンガーに預かってくれた。
コートを脱いだ黒のワンピースの落ち着いたシルエットに、胸元の真珠と薬指のダイヤが、室内の灯りを受けて、控えめに煌めく。
パンプスを脱いで框に上がると、畳の温もりが、タイツ越しに足の裏へ伝わってきた。
磨き込まれた木の床と畳の感触が、心地よい緊張感を、足元から与えてくれる。
女将に導かれ、中庭の竹林が見渡せる、格式高い個室の前で、二人は呼吸を整えた。
「失礼いたします」
女将が静かに引き戸を開けると、床の間の前に座っていた人物が、ゆっくりと振り返った。
JEホールディングス会長、石凝烏太朗。
その隣で、穏やかな微笑みを浮かべて立ち上がったのが、後妻の那美だった。
「おお、来たか! さあさあ、座りなさい」
烏太朗の声は、意外なほど弾んでいた。
威圧感はあるものの、その表情には、あからさまな満足の色が浮かんでいる。
フトダマとの提携、そして愛娘と、若き天才社長・玉屋命との婚姻という「願ってもない手柄」が、とんとん拍子に進んでいるのだ。
機嫌がすこぶるいいのも、無理はない。
「お邪魔します、お父さん」
茎一は膝をついて丁寧に一礼し、命とともに、畳に置かれた座布団へ腰を下ろした。
運ばれてくる、繊細な京風の懐石料理。湯気とともに、上品な出汁の香りが、室内を満たしていく。
「鏡子ちゃん、最近忙しそうだったけれど、元気にしていた? 今日はお顔が見られて、本当に嬉しいわ。お庭の竹林も、きれいでしょう?」
那美が、穏やかな声をかけた。
「ええ、那美さん。お心遣い、ありがとうございます。本当に素晴らしいお庭ですね。街もすっかりクリスマスの空気で、慌ただしい季節ですけれど、おいしいお料理とお庭を前にすると、心が落ち着きます」
茎一は自然な笑顔で、季節の食材の話題へ場をつないだ。
穏やかな歓談で、烏太朗の警戒を削ぐ。それが狙いだった。
だが、叩き上げの野心家が、世間話で満足するはずもなかった。
「ふむ。那美、風景の解説は、それくらいにしておきなさい」
烏太朗は盃をことりと置き、鋭い眼光を、まっすぐ命へ向けた。
上機嫌な笑みは残したまま、言葉の重みだけが、直球だった。
「で、どうなんだね、玉屋くん。うちの鏡子との結婚の件だが、君の口から直接、はっきりした意思を聞かせてもらおうじゃないか」
一瞬で、個室が静まり返る。
「まあ、あなたったら……」
那美が窘めようとするが、烏太朗は手で制した。
腹の探り合いどころか、口火を切るなり踏み込んでくる烏太朗。
だが、命は動じなかった。
事前に茎一と対策を練り、覚悟を決めていた命は、座布団の上で背筋を伸ばし、烏太朗の視線を、正面から受け止めた。
「はい、烏太朗会長。僕は、鏡子さんと、正式に結婚させていただきたいと考えています。最初は仕事上のパートナーとしての出会いでしたが、彼女の聡明さ、情熱、そして、僕を支えてくれる温かさに触れるうちに、生涯を共に歩みたいと、心から思うようになりました。立場や周りの勧めからではなく、僕自身の意志として、鏡子さんを幸せにしたいんです」
命の言葉に偽りがないことは、その瞳を見れば、誰の目にも明らかだった。
烏太朗は口元を歪め、満足そうに「ほう」と頷いた。
そして視線を、娘である茎一へ移す。
「鏡子、お前はどうなんだ。言われたから従っているだけ、などという半端な覚悟なら、今この場で、お断りするが?」
(……は? アンタが結婚を仕組んだ張本人だろ!)
心の中で強烈に突っ込みながらも、茎一は、凛とした表情を崩さなかった。
左手の薬指の指輪を、テーブルの上でそっと烏太朗に見せるように重ね、まっすぐ見返す。
「お父さん。私も、自分の意志で、命さんとの結婚を決めました。誰に強要されたわけでもありません。フトダマで副社長として働く中で、命さんの誠実な人柄と、高い志を、いちばん近くで見てきました。この指輪の重みと一緒に、命さんとなら、どんな困難も乗り越えていけると、確信しています」
茎一は、さらに言葉を重ねた。
「それに、お父さんが繋いでくれたご縁があったからこそ、私は、命さんという素晴らしいパートナーに出会えました。その点については、お父さんに、本当に感謝しているんですよ」
あえて「お父さんのおかげ」という言葉を差し込むことで、烏太朗の承認欲求とメンツを、心地よく刺激する。
烏太朗は膝をぽんと叩き、顔をほころばせた。
「よし、よく言った! 玉屋くんがそこまで言い切り、鏡子もそこまで感謝しているなら、文句はない。婚約を、正式に認めよう!」
二人の意思が噛み合い、第一関門を突破した瞬間だった。
ここで茎一は、計画どおり、間髪入れずに次の手を打った。
「ありがとうございます、お父さん。……婚約をお許しいただいた上で、もうひとつ、ご相談とお許しをいただきたいことがあるんです」
「ん? なんだね」
「結婚に向けた準備期間として、正式な挙式の前に、命さんと二人で、『同棲』を始めたいと思っています」
「同棲だと?」
烏太朗が、少し目を細める。
茎一は笑みを保ったまま、滑らかな口調で畳みかけた。
「ええ。正式な婚約者として一緒に暮らし、新生活の基盤を整える姿を社内外に示すことは、JEホールディングスとフトダマの絆が揺るがないという、何よりのアピールになります。お父さんの顔を立てて、この婚姻が順調に進んでいると周囲に見せるためにも、必要なステップだと思うんです」
烏太朗の立場とプライドに、直接訴えかける論理だった。
烏太朗は顎に手を当て、満足げに頷いた。
「なるほど。二人の仲が親密だと、公に示すわけか。ハハハ、いいじゃないか。急いては事を仕損じるというが、いまの時代、準備期間として一緒に暮らすのは合理的だ。認めよう!」
上機嫌な烏太朗の勢いが、見事に、いい方向へ働いた。
同棲の許可も、あっさりと勝ち取ったのだ。
(よし……! 同棲の許可まで、首尾よく取れた。ここまでは、計算どおりだ)
茎一は心の中で、胸をなで下ろした。
——しかし、安心したのも束の間だった。
盃を干した烏太朗の目が、ぎらりと、したたかな経営者の光を帯びはじめる。
ここからが、茎一の予測していた「本番」だった。
「さて……めでたく身内の話がまとまったところで、だ。玉屋くん」
烏太朗は身を乗り出し、声を低くした。
「先日のデータセンターの件、君たちの素早い対応には感謝しているよ。おかげで、JEホールディングスとしても、非常に格好がついた。……でだね、あの件のように、今後もうちとフトダマの間で、より踏み込んだアライアンスを組んでいきたいと考えていてね」
「まあ、あなた。今日は、二人のお祝いの席ですのよ? お仕事のお話は、また改めて……」
那美が困ったように割って入ろうとするが、烏太朗は完全に無視した。
「黙っていなさい。これからは身内になるんだ、早いほうがいい。……玉屋くん。うちが誇る最先端の『光電融合技術』と、フトダマが持つ世界最高峰の『言語モデル』。この二つを融合させた、まったく新しいビッグプロジェクトを立ち上げたい」
烏太朗は不敵に笑い、続けた。
「狙いは、対人・家庭向けの『フィジカルAI』の共同開発構想だ」
「フィジカル、AI……!?」
命が、思わず息をのんだ。
画面の中のAIではない。
光電融合による超高速処理と低消費電力を武器に、人間の身体能力や、家事・介護・接客を、リアルタイムで支える次世代のヒューマノイド・ロボティクスへの参入。
莫大な利権と市場規模を秘めた、JEがフトダマを丸ごと呑み込むための、巨大な罠だった。
「フトダマの技術力と、うちの資本・販売網が組めば、世界市場を独占できる。どうだね、素晴らしい提案だろう?」
強烈な圧を伴う、烏太朗の視線。
プライベートな席で、いきなり突きつけられた超大型案件のスケールに、命の額へ、薄く汗がにじむ。
(来たな。想定どおりの、ビジネスの不意打ち。しかも予想以上にでかい案件だ)
茎一はテーブルの下で、命の膝にそっと手を置き、あらかじめ決めておいた「合図」を送った。
同時に、茎一自身も、烏太朗へ向けて、静かに口を開く。
「お父さん、すごくスケールの大きい構想ですね。私もわくわくします。でも、これだけのプロジェクトになると、フトダマ側の開発リソースやロードマップの調整も、慎重に進める必要がありますよね」
娘としてのフォローを入れつつ、命へバトンを渡す。
命は深く息を吐き、茎一に教わったとおり、表情を崩さずに「持ち帰り」の姿勢を作ってみせた。
「……会長。鏡子さんの言うとおり、大変魅力的で、未来を見据えた、素晴らしいご提案だと思います。光電融合と弊社の言語モデルの融合には、無限の可能性を感じます。ですが、これほど大きく、会社の将来を左右するプロジェクトとなりますと、僕ひとりの独断で、即答することはできません。持ち帰らせていただき、弊社のボードメンバーと技術責任者と、慎重に協議を重ねた上で、改めて正式にお返事させていただいてもよろしいでしょうか」
角を立てず、相手の提案を称えつつ、その場での言質は、決して与えない回答。
烏太朗は一瞬、拍子抜けしたように、目を丸くした。
だが、そこは叩き上げの交渉人だ。
簡単に引き下がる男ではなかった。
「フッ。相変わらず堅実だな、玉屋くん。だが、ビジネスはスピードが命だぞ。……分かった、持ち帰って協議したまえ。ただし! 新年の定例取締役会までには、前向きな回答を用意しておいてほしい。それでいいね?」
期日を、はっきりと切ってくる。
「あ……はい。努力いたします……」
想定外の強引な期日設定に、命は苦笑いを浮かべて、引き下がるしかなかった。
「ほら、あなた。二人をあまり困らせないでくださいな。温かいお茶が入りましたわよ」
那美が絶妙なタイミングで、湯気の立つ湯呑みを差し出し、刺々しくなりかけた空気を、柔らかくほぐした。
烏太朗から強烈なビジネスの一撃を食らいながらも、二人は、「婚約の成立」と「同棲の許可」という最大の成果をつかんだ。
緊張に満ちた石凝家への挨拶は、こうして、ひとまず幕を下ろした。
湯呑みから立ちのぼる湯気の向こうで、烏太朗の目だけが、まだ笑っていなかった。




