第十六話 挨拶対策会議
社長室のモニターには、ログの文字列がひっきりなしに流れていた。
副社長室での密談を終えた茎一は、その足で社長室へ向かい、ドアを二回、軽く叩いた。
「どうぞ、入って!」
命の、穏やかで弾んだ声が返ってくる。
部屋に入ると、命はモニターから目を離し、柔らかな笑みで茎一を迎えた。
袖をまくった白いシャツに、ゆるいグレーのカーディガンという、気の抜けた格好だ。
「鏡子さん。北嶺出張の報告書、読ませてもらったよ。精度が高くて驚いた。武内部長も、君の現場での立ち居振る舞いを絶賛してたよ」
「ありがとうございます、命さん。ただ、今日伺ったのは仕事の報告だけじゃないんです。もっと個人的で、これからの私たちにとって、とても大事な相談がありまして」
茎一が表情を引き締めて切り出すと、命も察したように顔を改め、デスクから立ってソファへ促した。
「婚約の件……だね」
「ええ。玉屋家へのご挨拶はもちろんですが、その前に、父——石凝烏太朗への挨拶と、その対策を、じっくり練っておきたいんです」
二人は応接ソファに向かい合って腰掛けた。
お団子の後れ毛を指で直し、茎一はガラスのテーブル越しに、把握した烏太朗の生い立ちや家庭環境、人物像について、娘の立場から順を追って語り出した。
「まず前提として、ウチは代々続く名門ではありません。現場の営業から這い上がって、社内政治を勝ち抜いてトップに立った、成り上がりです。だからこそ父は、自分の社内での『手柄』や『実績』、『権威』に、異常なほど執着します」
「なるほど。自分を誇示するための実績が、いつも必要なんだね」
「はい。徹底した成果主義の人です。格式を盾にマウントを取ってくることもありますが、本質は叩き上げです。それと、挨拶に伺う相手は父だけではありません。いま父と暮らしている、後妻の那美さんにも、当然ご挨拶することになります。母が亡くなって、一年も経たないうちに迎えた方です。那美さん自身は決して悪い人ではなくて、むしろ私にも気を遣ってくれる人でした。問題は、父の思惑です」
(さっき、鏡子から名前も聞いておいた。あの親父のことだ、裏でろくでもない計算を働かせているに決まってる)
茎一は眉をひそめ、命の瞳をまっすぐに見つめた。
「命さん。挨拶の席で、父はほぼ確実に、ビジネスの話を持ち出します。たとえば、JEとフトダマの間での、とんでもない案件の提示。あるいは、社内外に示しをつけるための無茶な要求です。向こうは『娘をやるんだから、これくらいの便宜は図れ』というスタンスで来る可能性が高いです」
命は目を見開いた。
「そこまで……? 娘の結婚の挨拶っていうプライベートな場で、いきなりビジネスのディールを持ちかけてくるなんて、僕には想像がつかないな」
「甘いですよ、命さん。あのタイプは、プライベートの慶事さえ、政治のカードに使います。それが、のし上がってきた人間の業なんです。だから、先に手を打っておく必要があります」
「対策か。具体的には? その場できっぱり断る?」
「いいえ、それは悪手です」
茎一は首を振った。
「ここで真っ向から対立するのは、私たちの目的ではありません。表向きは、父に従順なふりをして警戒を解かせ、じわじわと私たちの土俵に引き込む。それがベストです。だから、命さんにお願いがあります。挨拶の席で、父から何か提案や打診をされても、その場での即答は、絶対に避けてください」
「即答を避ける……」
「はい。『非常に魅力的なご提案ですが、持ち帰って、メンバーと慎重に協議させていただきます』と言って、持ち帰るポーズを取ってください。その場で言質を与えないことが、いちばんの防衛線になります。こちらから出す手柄の提案は、私のほうで用意しますから、命さんは、相手の提案を持ち帰る役をお願いします」
命は納得して、大きく頷いた。
「分かった。僕の独断では決められないフリをして、持ち帰る。それなら角も立たないし、僕たちで冷静に判断する時間も稼げるね」
「そのとおりです。相手の面子を潰さずに、こちらが主導権を握る、基本の手ですよ」
営業で培った交渉術を「鏡子の機転」として披露する茎一に、命は心から感心したように、吐息を漏らした。
「鏡子さん、本当に頼もしいよ。君が隣にいてくれて、よかった」
「ふふ、これくらい当然です。大事な『商談』ですから」
照れくささをごまかすように、茎一は上品に微笑んだ。
「さて、挨拶の対策が決まったところで、次は今後のスケジュールの話です」
手元の資料に視線を落とし、茎一は続けた。
「父への挨拶のとき、もうひとつ、その場で認めてもらう算段をしている件があります。私たちの『同棲』についてです」
「同棲……!?」
命は声を裏返らせた。頬が、ほんのり朱に染まる。
「ええ。正式に婚約を交わすわけですから、結婚に向けた準備として、一緒に暮らすことを提案します。父にとっても、娘の結婚が順調に進んでいる証拠になりますから、拒む理由はまずありません。二人の仲が親密だと見せられれば、警戒も薄れるはずです」
(あの親父に余計な勘繰りをさせないためにも、同棲の実績は作っておくに限る。……それに、だ)
茎一は背筋を伸ばし、自分の懐事情と暮らしぶりを思い返した。
(鏡子の総資産は、すでにFIRE状態だ。働かなくても暮らせるだけの金はある。だが、無計画な散財を放っておくのは、営業上がりの俺の性分が許さない。クローゼットに並ぶハイブランドの山、毎月とんでもない額になる美容の維持費。副社長としての品格やTPOに必要な分は残すにしても、さすがに贅沢が過ぎる。無駄を削ぎ落として、適正な額に戻そう。浮いた予算は、業界関係者との人脈づくりの交際費や、堅実な資産運用、鏡子名義での独自事業の軍資金、そして、命との暮らしのための家計に回す。それが、金の本当の使い方だ)
鏡子の暮らしぶりの見直しを、胸の内で固く誓いながら、茎一は命に、実利的な提案を切り出した。
「それと、同棲で家計が一緒になりますから、税金面でも、二人で資産管理会社を新しく設立したいと考えています。今後の役員報酬や株式投資、不動産の管理を、個人ではなく法人に分散させることで、合法的な節税と、効率的な資産運用ができます。早急に税理士と詰めるべき課題ですね」
命は感心しきりで、何度も端末にメモを取った。
「鏡子さんの経営感覚には、脱帽だよ。技術畑の僕には、そこまで細かい資産防衛の発想は、なかなか出てこない」
「これでも、数字とコスト管理にはうるさいほうですから。……ただ、同棲を始めるにあたって、もうひとつ、根本的な問題があります」
「根本的な問題?」
「ええ。私、まだ命さんのご自宅に、一度も伺ったことがないんです」
「あ……!」
命ははっとしたように、目を見開いた。
「そうだった! 考えてみたら、僕たちの付き合いって、会社やレストランが中心で、お互いの部屋に招いたことがなかったね」
「そうなんです。だから、命さんの暮らしぶりが、まだ掴めていません。同棲の前に、お互いのライフスタイルや、住まいへの希望をすり合わせておく必要があります」
茎一は足を組み替え、考えを述べた。
「少なくとも、いま私が住んでいるタワーマンションのような場所は、長期の同棲生活には向かないと思っています。見晴らしはいいですが、生活感が薄くて、家賃と管理費が無駄に高い。かといって、浮世離れした大豪邸が欲しいわけでもありません」
(あのタワマンの維持費は、見直しの筆頭だ。どうにも、俺には落ち着かない空間でもあるしな)
「じゃあ、どんな住まいがいいと思ってるの?」
「都心からアクセスがよくて、実用的な広さがある『一戸建て』です。都内の一戸建てとなれば、それなりの金額にはなりますが、タワマンの管理費を払い続けるより、よほど合理的です。それに、将来、家族が増えたときのことを考えると、一戸建てのほうが子育てもしやすく、長く住み続けられますし」
「将来……家族が増えたとき……」
命が、その言葉を噛みしめるように呟いた。
茎一の胸に、不意に、甘く恥ずかしい熱がこみ上げた。
(……家族が増える。つまり、俺がこの『石凝鏡子』の身体で、命との子どもを身ごもって、産むということだ……)
窓ガラスにうっすら映る、自分の華奢な姿。
そして、目の前にいる、誠実で愛おしい男。
自分は男としての意識とキャリアを持ったまま、いまは石凝鏡子という女性の身体と人生を、まるごと引き受けて生きている。
命と心で通じ合っている以上、彼との間に子どもを授かる未来は、もう遠い空想ではなかった。
かなり現実味のある選択肢として、目の前に横たわっている。
頬が、じわりと熱を帯びていく。
ワンピースの胸元にそっと手を当てると、掌に伝わる自分の脈が、いつもより速かった。
(恥ずかしい。めちゃくちゃ恥ずかしいぞ、これは。……でも)
恥ずかしさに顔が火照り、うつむきそうになるのを、茎一は意志の力でこらえた。
ここで照れて話をぼかすのは、パートナーとして失格だ。
結婚や同棲において、子どもや家族計画についての価値観のズレは、あとで取り返しのつかない食い違いを生む、最大の火種になる。
互いに納得するまで、面と向かってはっきり話しておかなければならない。
茎一は深呼吸をし、赤くなった頬を隠さないまま、命の瞳を見つめた。
「……命さん。恥ずかしい話ですけど、これは、とても大事なことなんです。私たちは、これから婚約して、同棲して、いずれ正式な夫婦になります。そうなったとき、将来、子どもを持つかどうかという人生設計について、いまここで、お互いの意思を確認しておきたいんです。将来のすれ違いは、私たちにとって、いちばんの損失になりますから」
命は、照れくさそうな、けれど真剣な茎一の眼差しを受け止め、瞳に、深い慈しみと覚悟の光を宿した。
テーブル越しに、ゆっくりと手を伸ばし、茎一の白く華奢な手を、包み込むように握る。
「鏡子さん。恥ずかしがらずに、僕にまっすぐ伝えてくれて、ありがとう」
命の声は、温かく、優しく響いた。
「僕の答えは、最初から決まってるんだ。僕は、君となら、どんな未来でも一緒に歩いていきたい。君が自分の手で切り拓こうとしている未来に、僕も、全力で寄り添いたい。もし君が望んでくれるなら、家族が増える未来だって、僕にとって、これ以上の幸せはないよ」
「命さん……」
握られた手から伝わる、命のまっすぐな温度。
茎一は、目頭が熱くなるのを感じた。
入れ替わった身体、冷たい父親からの脱却。
いくつもの嘘と策略が渦巻く中で、命が向けてくれるこの愛と信頼だけは、ひとつの偽りもない、本物だった。
「……ありがとうございます。命さんにそう言っていただけて、すごく安心しました」
茎一は、肩の荷が下りたような、美しい笑みを浮かべた。
「では、方針は決まりましたね。父と那美さんへの挨拶の対策、即答を避けて持ち帰る手はず、同棲の提案、資産管理会社の設立と家計の再構築、それから、実用的な一戸建てへの引っ越し計画。やるべきことは山積みですが、ひとつずつ、確実に片づけていきましょう」
「うん! よろしく頼むよ、副社長!」
命はお茶目に笑って、敬礼してみせた。
その大げさなポーズに、茎一は思わず吹き出した。
窓の外では、午後の日が、傾きはじめていた。




