第十五話 鏡子の気持ち
ことり、とカップが受け皿に触れる音だけが、深夜のリビングに落ちた。
生織との、冷や汗まじりの休日を無事に乗り切ってから、数日が過ぎている。
季節は晩秋から冬へ。
夜の都心には、冷たい木枯らしが吹き荒れていた。
静まり返った自室のソファの端に、茎一は深く腰掛けていた。
濃紺のフリースガウンの下には、厚手のコットンのルームウェア。
足元は、ふかふかのファースリッパだ。
湯上がりの髪はドライヤーで乾かし、ダークグレージュの毛先を、大きめのクリップで無造作にまとめてある。
湯気の立つハーブティーを口に含みながら、茎一はタブレットの画面に視線を落とした。
今後の状況の整理とシミュレーションに、頭を使う時間だった。
(……さて、生織の件は、どうにか乗り切った。だが、本当の問題はここからだ)
命との「婚約」。
始まりは、石凝烏太朗が仕掛けた政略結婚だった。
娘を手駒として使うための、体のいい罠。
だが、命と出会い、互いの思想と人間性に惹かれ合ったいま、茎一(身体は鏡子)は、フトダマの副社長として命の隣に立ち、ビジネスパートナーとしても「婚約者」としても、関係を確かなものにしている。
それでも、形の上で「婚約」と呼ぶ以上、避けて通れない儀式がある。
両家への、婚約の挨拶だ。
命の実家の玉屋家はもちろん、最大の問題は、もう一方の当事者である烏太朗だった。
(あの親父が、一筋縄でいくはずがない……)
タブレットの画面に指を滑らせながら、茎一は眉間にしわを寄せた。
実のところ、茎一が烏太朗と面と向かって言葉を交わしたのは、事故のあと、病室で目覚めたときの面会の一度きりだ。
あのとき、娘を人間ではなく政治の道具として見ているような冷たい眼差しを、確かに感じた。
それだけで、彼がどれほど手強い男かは、嫌というほど分かる。
だが、営業の目で烏太朗の立場を解剖していくと、いくつか重要な構造が見えてくる。
JEホールディングスは、特定の創業家が代々受け継ぐ世襲の企業ではない。
烏太朗は、巨大組織の頂点に立つ会長ではあるが、オーナーではなく、雇われた経営陣のトップにすぎないのだ。
(つまり、あの親父にとってフトダマとの提携や婚約は、自分の王国を築くためじゃない。会社への貢献という実績を積み上げて、社内外に、自分の手柄と威光を示し続けるためのパフォーマンスだ)
幸い、鏡子はすでにJEを完全に退職していて、籍は残っていない。
フトダマへ片道切符で移り、副社長として実績を上げている。
もし烏太朗が、「娘を盾にして、フトダマの株式の過半数を差し出せ」などと身勝手な要求をしてきたなら、話は決定的にこじれる。
そのときは、拒絶するしかない。
だが、彼が求めているのが「JEの利益と、それを引き寄せた自分の手柄」であるなら、落としどころを作る余地はあるはずだ。
(相手が欲しいのは、実利と名声。だったら、こっちの事業の成長が、あの親父の手柄にも見えるような、うまいギブ・アンド・テイクの筋書きを作って、突きつける。それが営業としての勝ち筋か)
ガウンの襟元を合わせ直し、茎一は小さく息をついた。
◆◆◆
翌日の昼下がり。
フトダマ本社の副社長室に、茎一は、ある人物を密かに呼び出していた。
今日の茎一は、深いボルドーのシャツワンピースに黒のロングベストを重ね、頭の高い位置で髪をお団子にまとめている。
爪先は、冬らしい深いボルドーに塗り替えたばかりだ。
ドアがノックされ、入ってきたのは、仕立てのいいダークグレーのスーツを隙なく着こなしたビジネスマン——茎一の元の肉体、中身は本物の石凝鏡子だった。
ワックスで整えた短髪、きれいに切り揃えた爪先、無駄のない立ち姿。
鏡子の美意識で見違えるほど磨かれた、かつての自分の身体を見るたびに、いまだにシュールな気分になる。
「副社長、お呼びでしょうか」
ドアを閉め、誰も見ていないことを確かめると、鏡子はふっと肩の力を抜き、慣れた所作でソファに腰を下ろした。
男の身体から滲む、洗練された女性らしい柔らかなギャップに、茎一は苦笑をかみ殺した。
「急に呼び出して悪いな、鏡子さん。ちょっと、お互いの情報共有と、報告をしておきたくて」
「別にいいよ、茎一さん。出張の件も片付いたし」
茎一の元の低い声なのに、言葉のニュアンスは、まぎれもなく鏡子のものだ。
茎一はデスクから立ち、応接ソファの対面に腰を下ろすと、少しばつが悪そうに切り出した。
「実は、事後報告になって申し訳ないんだが、先日、生織さんと会ってきた」
「……え?」
その名前が出た瞬間、鏡子の全身が、ぴくりと固まった。
整えられた男の眉が揺れ、瞳が、一瞬、深い寂しさに陰る。
生織——幼い頃から唯一、固い心を開いて素の自分を見せられた、たった一人の親友。
身体が入れ替わってしまってから、もう二度と、昔のように笑い合うことはできないと、諦めていた相手。
「いおりと……会ったの?」
「ああ。深夜に突然電話がかかってきて、誤魔化しきれなくなってな。土曜日にカフェで会ってきた。事故のことや、JEを辞めてフトダマへ移ったこと、それから、命さんとの結婚を決めたことを話した」
茎一は頭を下げた。
「本当にすまない。本来なら、先にあんたに相談すべきだった。だが、あの状況じゃ引き延ばせなくてな。ただ、安心してくれ。生織さんとの思い出は、過去のアルバムまで見て頭に叩き込んで、言葉も選んで話した。事故の後遺症と環境の変化ってことで納得してくれたし、『鏡子が自分で道を選んで、前を向いたんだね』と、すごく喜んで応援してくれたよ」
鏡子は男の手を膝の上でそっと握りしめ、静かにうつむいた。
「そう……いおりが……」
男の太い喉仏が、切なげに動く。
自分の大切な思い出と親友が、目の前の「偽者」によって紡がれていく寂しさ。
けれど同時に、親友がいまも石凝鏡子を心配し、祝福してくれていることへの、あふれるような愛おしさ。
いくつもの感情が交錯しているのが、茎一にも痛いほど伝わってきた。
「悪かった。あんたのプライベートに、勝手に上がり込んで」
「ううん、謝らないで」
鏡子はゆっくり顔を上げた。
さっきまでの陰りが消え、その顔に、どこか悪戯っぽく、何かを企むような表情が浮かんでいる。
「むしろ、感謝してるのよ。いおりが元気で、アタシを応援してくれてるって知れて、本当に救われた」
(……ん?)
茎一は、かすかな違和感を覚えた。
鏡子の瞳の奥に、妙な光が宿っている。
彼女は、心の中で、あることを思いついていた。
(そうか。いまのアタシは『叢雲茎一』っていう、一人の男性社員。だったら、この姿で別の女性に近づいて、新しい友人として——ううん、『信頼できる異性』として、付き合っていくことだってできるんじゃない?)
もちろん、そんな内心の企みに、茎一が気づくはずもない。
ただ「意外とあっさり納得してもらえて助かった」と、胸をなで下ろすだけだった。
茎一は軽く咳払いをして、本題に戻った。
「それで、もうひとつ確認したいことがある。烏太朗会長のことだ」
「お父さんの?」
「ああ。近いうちに、命さんとの婚約の件で、会長にも挨拶に行かなきゃならない。だが俺は、あの人のことを何も知らない。実家のこと、家庭環境のこと、差し支えない範囲で教えてほしい」
鏡子は深い溜息をつき、静かに語り出した。
「父の過去、ね。あんまり思い出したくないけど、みんな父を華やかな名門財界人みたいに思ってるでしょう。実際は、泥くさいサラリーマンからの成り上がりよ」
「成り上がり……?」
茎一は目を丸くした。あの傲岸な権力者が、自分と同じ、現場から這い上がった側の人間だったとは。
「旧JEグループの末端の営業から這い上がって、社内政治を勝ち抜いて、頂点まで行った人。だから、代々続く屋敷も、生家も、最初からない。アタシが幼い頃に住んでたのも、ごく普通のマンションだった」
「なるほど……そういうことか」
茎一の頭の中で、ピースがかちりとはまった。
「あんたの荷物を調べたとき、幼い頃からのアルバムが何冊も、あの部屋の書斎にあった。実家じゃなくて、なぜあそこに全部あるのか、不思議だったんだ」
「ふふ。アタシが大学に上がるとき、父が仕事の都合で、そのマンションを売って都心へ移ったの。アタシは一人暮らしを始めたから、自分の荷物は全部自分で引き取った。それだけよ」
「じゃあ、いまの会長は、どこに住んでるんだ?」
「都心の別の高級マンション。後妻の人と一緒に」
「後妻……」
鏡子の表情が、少しだけ苦く翳った。
「母が亡くなって、一年も経たないうちに、父は新しい奥さんを迎えたの。誤解しないでほしいんだけど、その人自体は、全然悪い人じゃない。アタシにもすごく気を遣って、優しくしようとしてくれた。でも、母の記憶がまだはっきり残ってるのに、父が仕事と保身のために、あっさり新しい家庭を作ったことが、あの頃のアタシには、どうしても許せなかったの。……アタシ、ホント子どもだったと思うけどね」
鏡子は苦笑いを浮かべた。
「父との不仲の決定打は、それ。母の死、再婚、それにアタシを政略結婚の道具みたいに扱う冷たさ。全部が重なって、父とはずっと冷戦状態。避けるようになっちゃった」
(そうだったのか……)
茎一は胸を打たれた。
実家がない理由。
アルバムがあのマンションにあった理由。
その裏にある母の死と、後妻の存在。
そして、鏡子がなぜあれほど頑なに心を閉ざし、父への憎しみと葛藤を抱えていたのか。
人間模様の根っこが、すべてつながった。
「教えてくれて、ありがとう。これで、あの親父の人間像が、ずいぶん立体的に見えてきた」
「それで、どうするつもり? 父は、自分の手柄や権威にならないことには、絶対に首を縦に振らない人よ。会ったら、きっと図々しい要求を突きつけてくると思う」
鏡子が心配そうに見つめてくる。
茎一は、令嬢の顔に、元営業らしい不敵な笑みを浮かべた。
「商談の基本だよ。相手が成り上がりで、社内での実績と名声に一番こだわるタイプだと分かれば、攻め方はいくらでもある。あの親父がいちばん喜ぶ『手柄』のパッケージを、こっちから出してやるのさ。断れない条件でな」
「相変わらず、頼もしい営業魂ね、茎一さん」
鏡子は感心したようにくすりと笑い、自分の元の肉体の胸を張ってみせた。
「よし。近いうちに命さんと日程を調整して、会長との『決戦』に臨む。覚悟を決めるよ」
鏡子が執務に戻ったあと、茎一は応接ソファから立ち上がり、窓の外の晩秋の澄んだ空を見上げた。
烏太朗の過去と弱み、そして彼が本当に欲している手柄の正体。必要な情報は、そろいつつある。
だが、これは一人で進める商談ではない。
(……次は、命との戦略会議だ)
茎一はデスクへ戻り、内線電話の受話器を取った。
三回目のコールで、弾むような声が返ってきた。
『はい、命です! 鏡子さん、どうしたんだい?』




