第十四話 アルバム
営業は、会う前の下調べで八割が決まる。
深夜の電話を乗り切った翌日から、茎一は、空いた時間を見つけては、石凝鏡子の過去と人間関係の洗い出しに没頭した。
生織と会う、来週の土曜日までの勝負だ。
商談の前には、相手の趣味、経歴、交友関係、発言の傾向を、可能な限り頭に入れておく。
仕入れた情報があるかないかで、最初の数分の空気はまるで変わる。
だが同時に、つけ焼き刀の知識がどれほど危ういかも、茎一は身をもって知っていた。
浅い知識で知ったかぶりをすれば、生織のような長年の親友には、一発で見抜かれる。
だからこそ、深く掘る場所を、戦略的に絞り込む必要があった。
(要は、共通の思い出と、共感のポイントだ。命と意気投合したときもそうだった。専門的な技術の話じゃなく、たわいない雑談で距離が縮まったんだ。生織との勝負も、そこになる)
手っ取り早く確実なのは、本人への取材だ。
いまの自分の身体に入っている本物の鏡子に、「生織ってどんな子?」「昔、二人でどんなふうに遊んでた?」と聞けば、正確な答えが返ってくるだろう。
しかし茎一は、その選択肢を、自分から外した。
会社では顔を合わせる。
だが、過去のプライベートを根掘り葉掘り尋ねるのは、筋が違う気がした。それに——。
(これは、この身体とポジションを引き受けた、俺自身の責任だ。自分の力で調べる)
幸い、鏡子のマンションの書斎を探すと、思いがけない掘り出し物が見つかった。
重厚な革装丁のアルバムが数冊。
鏡子が実家から大切に持ち出してきたらしい、幼少期からの紙の写真集だった。
間接照明の琥珀色の光が落ちるソファで、茎一は静かにアルバムの表紙を開いた。
一頁一頁を繰る指先。爪先にはテラコッタ色が静かに光り、肌は吸い付くように白く滑らかだ。
自分の手なのに、アルバムの中に写っているのは自分ではない。
最初に現れたのは、幼稚園の入園式らしい一コマだった。
上質な仕立ての紺色の制服に身を包んだ、人形のように愛らしい少女。
透き通るような肌と大きな瞳、どこか大人びた寂しげな表情を浮かべる幼い鏡子。
その脇には、威厳に満ちつつ、今より髪が黒く、鋭い眼差しをした若い日の烏太朗が立っていた。
そして鏡子の隣で優しく微笑んでいる可憐な女性——すでに他界しているという、鏡子の母親の姿があった。
「……そっくりだな」
茎一は息を殺し、思わず指先で写真の上の母親の顔をそっと撫でた。
今の鏡子の凛とした美貌、すっと通った鼻筋、どこか儻げでありながら芯の強さを感じさせる独特の佇まいは、間違いなくこの母親譲りだった。
写真の中の母親は、烏太朗の影に寄り添いながら、幼い鏡子の肩に愛おしそうに手を添えている。
指先を滑らせ、次のページへ、さらに次のページへと手繰り寄せていく。
ページを繰るたびに、茎一の胸には重く複雑な感情が渦巻いた。
アルバムに写っているのは、間違いなく「いまの自分の肉体」の幼い日の足跡だ。
しかしその情景のどこを探しても、鏡子自身の記憶は存在しない。
自分が知らない七五三、自分が知らないピアノの発表会、自分が知らない旅の記念写真。
庶民的な家庭で、泥をかぶりながら必死に生きてきた「叢雲茎一」の半生とは、あまりにもかけ離れた、温室の薔薇のような高貴な成長の軌跡だった。
(俺は今、この少女の成長の果てにある身体を預かって、その声で嗋り、その名前で生きているんだ……)
他人の美しい人生の密室に忍び込んだような、背徳感と切なさ。
そして、自分がこの美しい世界の異物でしかないという、奇妙な浮遊感。
だが、ページを進めるうちに、茎一はある一つの「影」に気づき始めた。
アルバムの中盤、小学生から中学生へ、そして高校へと成長していくにつれ、家族三人で写る写真は急に姿を消していく。
母親が病に伏せりがちになったのか。
あるいは烏太朗の事業が多忙を極め、家庭が冷えていったのか。
成長した鏡子の写真は、広いリビングや豪華な調度品を背景にしながら、どこかポツンと独りきりで佇んでいるものが目立つようになっていた。
周囲に人は大勢いるはずなのに、誰とも視線を合わせず、固い仮面を被ったような冷ややかな表情。
(鏡子は……ずっと孤独だったんだな)
烏太朗という巨大な父親の影、母の不在、そして名家の令嬢という逃げ場のない橋。
周囲の人間は誰もが「石凝家の娘」として自分を見つめ、等身大の彼女自身を見てはくれなかった。
彼女が周囲に高い壁を築き、心を閉ざしていった理由が、アルバムの余白から痛いほど伝わってくる。
だからこそ——そのアルバムの中で、唯一彼女が「本当の笑顔」を見せている写真群が、あまりにも鮮烈に目を引いた。
「……やっぱりな」
写真の中に頻繁に登場する、弾けるような笑顔の少女。
稚日生織だ。
二人の母親同士が親密だったのだろう。
小学校に上がるより前の写真にも、もう二人は並んでいた。
幼い鏡子と生織が、母親たちに連れられて公園の砂場で泥だらけになって笑い転げている写真。
お揃いの浴衣を着て夏祭りのアイスを分け合っている写真。
高校の制服姿で、二人でかき氷を前に変顔をして破顔している写真。
そこには、副社長としての凛とした顔も、お嬢様としての澄ました顔もない。
ただ年相応の、純粋に幸せそうな一人の少女としての「石凝鏡子」が写っていた。
逆に言えば——生織以外の友人と個人的に親しく写っている写真が、恐ろしいほど存在しなかった。
PC内に保管されていたデジタル版の学校行事写真も確認してみたが、大勢の生徒が群がる修学旅行や文化祭の集合写真でも、鏡子はいつも集団の輪から少し離れた端の方で、無表情にカメラを見つめていた。
(なるほどな……。鏡子は幼い頃から、烏太朗会長の娘という特別な立場もあって、自分から壁を作っていたんだ。本当に心を許し、素の自分をさらせていたのは、この生織ただ一人だったんだな)
アルバムを閉じ、重厚な革の表紙に手を置いたまま、茎一は暗い天井を見上げた。
胸を締め付けるのは、切なさと、営業マンとしての冷静な直感だった。
本物の鏡子ですら、大して親しくもなかった同級生や知人の顔や名前など、今となっては相当怪しいはずだ。
覚えていないのが当たり前で、忘れていても不自然ではない。
(つまり……他の人間関係のリサーチは、全部捨てていい。生織との思い出だけに絞って掘り下げれば、それだけで何とかなる)
迷いは消えた。
茎一は再びアルバムを開き、生織が写っているすべての写真——二人が着ている服、背景の季節感、写真の裏に母親の筆跡で記された「○年○月 ○○にて」という小さなメモ、そして二人の距離感と表情の変化を、穴が開くほど見つめ直した。
これは、かつての「石凝鏡子」が遺した、たった一つの宝物だ。
その大切な絆を、偽者である自分がボロを出して踏みにじるような真似は、絶対にできない。
(生織との思い出を頭に叩き込む。それが、鏡子の人生を預かった俺の仁義だ)
静まり返った部屋で、スマホの画面にメモを打ち込む茎一の瞳には、静かな覚悟が宿っていた。
◆◆◆
約束の土曜日。
秋が深まり、冷たさを帯びた澄んだ風が、都心の街並みを吹き抜けていた。
鏡子のマンションのドレスルームで、茎一は入念に本日の「お出かけコーデ」を仕立て上げた。
チャコールのチェスターコートに、下はミルクティー色のとろみブラウス、黒のワイドパンツ。
足元はべたんこのローファーで、首元には柔らかく巻いたチェック柄のストール。
髪は、ベロア地のカチューシャで前髪を上げた、ゆるやかなストレートだ。
左手薬指には、ダイヤの婚約指輪を通した。命との関係は、隠さずにおく。
二十代後半の大人の女性にふさわしい、落ち着きと季節感を備えた秋冬の装いだ。
ドレッサーの鏡に向かい、最後にリップグロスを唇に薄く馴染ませる。
(よし。見た目は問題ない。あとは、仕入れた『情報』と現場のノリで、どこまで食らいつけるか)
鏡の中の美貌の令嬢——「石凝鏡子」に向かって、茎一は心の中でぐっと気合を入れた。
待ち合わせ場所に指定されたのは、銀嶺街の路地裏に静かに佇む、緑に囲まれた一軒家風のおしゃれなカフェだった。
テラス席からは色づいた木々が覗き、店内には香ばしいコーヒーの香りと心地よいジャズが流れている。
女子同士の再会としては少しベタすぎる気もしたが、今回の目的は、映える写真を撮ることでも、豪輝な食事をすることでもない。
二人でゆっくり顔を突き合わせ、積もる話をすることだ。
店内に入り、予約されていた奥のソファー席へ向かう。
すると、すでに席についてメニューを眺めていた一人の女性が、「鏡子」の姿を認めるやいなや、ぱっと顔を輝かせて立ち上がった。
肩の上で跳ねるボブヘアに、暖色系のカジュアルながら上品なニットを纏った女性。
稚日生織だった。
「きょうこーっ!! こっちこっち!」
周りの客が少し振り返るほどの明るい声で手を振る生織。
茎一は奮い起こしたように高鳴る鼓動を押し殺し、アルバムで叩き込んだ彼女の顔と、生身の「生織」を頭の中で一致させた。
一瞬の硬直も悟らせないよう、しなやかな足取りで近づき、上品なお辞儀とともにソファーへ腰を下ろした。
「いおり、待たせちゃってごめんね……」
「全然! 私もいま着いたところだし! っていうかさ……」
生織はテーブル越しに身を乗り出し、茎一の顔をまじまじと覝き込んできた。
大きな瞳が、至近距離で茎一の表情を探る。
(近い。いきなり試されてるのか)
背中に冷や汗が滲むのを耐え、茎一は引きつりそうな頬の筋肉を抓え込んで、微笑みを崩さなかった。
すると生織は、ぱっと満面の笑みを浮かべ、ぽんっと自分の胸を叩いた。
「よかったぁ〜! 電話では元気そうだったけど、直接顔見るまでは心配だったんだから! 肌ツヤもいいし、相変わらず超キレイじゃん!」
「ふふ、ありがとう。いおりこそ、相変わらず元気そうでよかった」
そのとき、生織の視線が、ふと茎一の左手の上で止まった。
薬指で光る、大粒のダイヤ。だが彼女は、何も言わなかった。
「もう、ほんとだよ! 事故って聞いた時は心臓が止まるかと思ったんだからね! 本当にどこも後遺症とかないの?」
「うん、ちょっと……記憶が怠しい部分があったりすると思うけどね」
さりげなく、事前に打っておいた言い訳を挿し込む。
生織は「まあね〜」と苦笑しながら、注文したカフェラテと季節のアップルパイが運ばれてくると、満足そうにフォークを手にした。
「でもさ、メッセージでも言ってたけど、本当に雰囲気がちょっと変わったよね。前のきょうこなら、もっとこう……肩に力が入ってて、今にも折れちゃいそうなトーンだったもん。今のきょうこ、なんかドシッとしてるっていうか……たくましい?」
「た、たくましい……?」
思わず男としての地が出そうになり、茎一は慌てて喉を鳴らした。
「あ、ううん、なんていうか……自分の足でちゃんと立ってるって感じ! きっと、自分で決めて転職したからだね。私、そういうきょうこ、すごく好きだよ!」
「……いおり」
まっすぐな言葉に、茎一の胸が不意に熱くなった。
最初はぎこちなく、探り探りだった会話。
過去の思い出の話題が出そうになるたびに、茎一はアルバムで仕入れた「昔二人で行ったあの公園の砂場」や「高校のときの夏祭り」を巧みに小出しにしつつ、基本は「生織の話を聞く側に回る」という営業の基本を貫いた。
聞き手に回り、相手の言葉に共感し、リアクションを返す。
生織は近況や仕事の愚痴、最近ハマっているカフェの話などを楽しそうに次々と語り、茎一が可憐な笑みで「うんうん、それで?」と耳を傾けると、さらに饑舌になっていった。
「やっぱりきょうこと話してると落ち着くなぁ! 最近仕事忙しくてさ、誰も私の話なんて真剣に聞いてくれなかったから嬉しい!」
「私でよかったら、いつでも聞くよ。いおりの話、すごく面白いし」
「ホント!? じゃあ来月もまたお茶しよ! 温泉旅行も行こうね!」
無邪気に笑う生織を見ながら、茎一は心の中で、ようやく肩の力を抜いた。
ぎこちなさは次第に解け、心地よい会話のテンポが生まれていた。
徹底した下準備と、相手への敬意、そして営業で鍛えたコミュニケーション力。
それらが噋み合い、茎一は「石凝鏡子」としての休日を、どうにか成立させつつあった。
だが、打ち解けた空気の中で、生織がふと思い出したようにストローをくるくると回し、少しだけ声を落として問いかけてきた。
「ねぇ、きょうこ。……さっき『ノリが変わった』って言ってたけどさ。ほんとはさ……何か私に隠してることとか、あったりしない?」
楽しかった空気から一転、生織の投げかけたその一言に、茎一の全身の血が冷たく凍りついた。
テーブルの上のカフェラテの湯気が、ゆらゆらと揺れている。
生織の瞳は冗談めかした色を捨て、どこか真剣で、どこか寂しそうな色を帯びて茎一を見つめていた。
(嘘だろ……どこでボロが出た!? 相槌の打ち方か? 写真の記憶の整合性か? それとも……指輪か?)
あらかじめ用意していた無数の想定問答が、茎一の頭の中で駆け巡る。
しかしどれも、今の生織のまっすぐな眼差しの前では、薄っぺらで嘘くさい「言い訳」にしか思えなかった。
長年、鏡子の隣にいた親友だからこそ感じる違和感。
それを適当な嘘で誤魔化せば、二人の絆そのものを壊してしまう。
茎一は静かに呼吸を整えた。
(落ち着け。ここで営業マンの嘘をついたら、一発で破綠する。必要なのは、この身体で生きる『石凝鏡子』としての、偏りのない本音だ。命との関わりで、俺自身の心が動いたのは事実なんだから)
茎一はゆっくりとグラスから手を離し、生織の瞳を正面から見つめ返した。
「……気づかれてたんだね」
「……うん。やっぱり、何かあるんでしょ?」
生織が身を乗り出す。
茎一は微笑みを少しだけ崩し、照れくさそうに、けれどどこか強い意志を込めた瞳で語り始めた。
「隠してる……っていうかさ。言わなかったのは、自分でもまだ信じられないくらい、私の中で大きな変化があったからなの」
「大きな変化……?」
「うん。……命さんとの結婚のこと」
生織が息をのんだ。
「最初はね、本当にお父さんからの政略結婚で、逃げ場のない橋の中に押し込められたような気持ちだったの。お父さんの指示通り動くだけの人生なんて絶対嫌だって思ってたし……」
会話ではごく自然に「お父さん」と口にしながらも、茎一の脳裏には、威圧感に満ちた烏太朗の苦々しい顔が浮かんでいた。
(あんな狡猾な親父の言いなりになってたまるかって怒りから始まった移籍だったが……怪我の功名ってやつだな)
言葉を選びながら、茎一は慎重に言葉を紡いでいく。
それは、命と出会い、互いの存在を認め合ってフトダマの副社長として立ち上がることを決めた、自分自身の偏りのない「魂の事実」だった。
「でも……実際に彼と出会って、色んな話をしていくうちに……私、自分でも驚くくらい変わっちゃったんだよね」
「命さんと出会って……?」
「そう。彼と一緒にいるとね、お父さんの娘としての『石凝鏡子』じゃなくて、ただの私として息ができるんだ。仕事でも、プライベートでも、彼の隣にいるときの自分がすごく好きになれた。だから……最初は親から押し付けられた話だったかもしれないけれど、今は違う。私自身の意志で、命さんの隣にいて、彼と一緒に歩んでいきたいって思ってる」
左手薬指の指輪の上に、そっと右手を重ね、茎一はまっすぐに生織を見つめた。
「だから……雰囲気が変わったのも、ドシッとしたのも、全部そのせい。彼と出会って、自分の意志で生きようって決めたから。事故で吹っ切れたっていうのも本当だけど……一番大きかったのは、命さんとの出会いだったんだと思う」
この気持ちは、決して嘘ではない。
今、石凝鏡子の身体で命を支え、フトダマを大きく動かしている自分の誇りと決意そのものだった。
(あの親父の庇護下から抜け出して、自分で自分の生き方を掴み取る。鏡子本人だってきっとそれを望んでいたはずだ)
静まり返ったカフェの席で、生織は口をぽかんと開けたまま茎一を見つめていた。
やがて——生織の表情がゆっくりと緩み、目尻にじんわりと涙が浮かんだ。
「……なぁんだ」
生織はふっと力を抜き、背もたれに深く体重を預けた。
「なにそれ……! めっちゃノロケじゃない!!」
「え……? ノ、ノロケ……?」
「ノロケだよ!! なんだよー、事故の後遺症とか性格が変わったとか言ってたくせに! 要するに、大好きな彼氏さんができて、人として一回り大きくなっちゃいました〜って話じゃん!」
生織は涙を指先で拭いながら、呆れたように、でも心の底から幸せそうに笑い出した。
「もうっ! 私、何か怪しい事件にでも巻き込まれてるんじゃないかとか、一人でめちゃくちゃ心配しちゃったんだからね!? なんだ……そうだったんだ……。きょうこがそんなふうに目を輝かせて誰かのことを話すの、私、生まれて初めて見たよ」
「いおり……」
「うん、納得! 完全に納得した! やっぱり色々と変わったね、きょうこ。でも……今のきょうこ、すっごく魅力的で素敵だよ。あ、それとさ、さっきからずっとその指輪が気になってたんだけど、やっぱり、命さんから?」
「……うん、そう」
生織はテーブル越しに手を伸ばし、茎一の手をキュッと温かく握りしめた。
「そっかぁ……命さんかぁ。今度絶対に私にも紹介してよね! 私が厳しくチェックしてあげるんだから!」
「ふふ……うん。命さんに言っておくね」
(ふぅ……危ねぇところだったが、どうにか乗り切れたな。あの親父との政略結婚という重箱の隅をつつかれる前に、命との信頼関係に着地させられたのは我ながら上出来だ)
握り返した生織の手の温もりを感じながら、茎一は、テーブルの下でそっと、左手の指輪に触れた。




