第十三話 親友
六回目のコールが鳴り終わる前に、茎一の親指は、緑色の通話ボタンの上に載っていた。
稚日生織。
過去ログの残骸から浮かび上がった、私立の小学校時代から続く、石凝鏡子のたった一人の親友。
画面で明滅する緑の光と、深夜の部屋に響き続けるコール音。
それはまるで、爆弾のタイマーのように茎一の鼓膜を叩いていた。
(嘘だろ……文字なら誤魔化せても、声の調子や即興の掛け合いまで、鏡子になりきれってのか……!)
手汗で滑りそうなスマホを、固唾をのんで見つめる。
一瞬、このまま居留守を決め込もうか、という逃げ腰の考えがよぎった。
だが、修羅場をくぐってきた営業マンの頭が、すぐに回りはじめる。
(落ち着け。相手は幼馴染だ。ただ、俺の喉からは、石凝鏡子の可憐な声が出る。あとは「事故の後遺症」と「環境の激変」を盾にして、ボロを出さずに乗り切るしかない)
深呼吸をひとつ。
喉の奥を締めて、上品で澄んだ「石凝鏡子」の声に、頭の中で調律する。
茎一は腹をくくり、震える指で通話ボタンをスワイプして、スマートフォンを耳に押し当てた。
「……も、もしもし——」
『だいじょうぶっ!? きょうこっ!!!』
つながって一秒もたたないうちに、耳を突き破るような叫び声がスピーカーから爆発した。
茎一は思わず「うおっ!?」と声を上げかけ、反射的にスマホを十センチほど耳から離した。
「あ、いおり……ちょっと待って! 深夜なんだから、声が大きい……静かに……!」
サテン地のバスローブの胸元を片手で押さえ、ひそひそ声で慌てて制する。
声は鏡子らしく整えているつもりだが、鼓動のほうは、とっくに上限まで駆け上がっていた。
電話の向こうで、はっと息をのむ気配。
『あ、ごめんごめん! びっくりしすぎて……! だって、事故とか入院とか書いてあるんだもん、マジで心配で! ほんとに大丈夫なの!? どこか折れたり、痛かったりしない!?』
生織の声は、心底からの焦りと、切実な怒りに満ちていた。
過去ログの写真で見たとおりの、飾らない優しさと、過保護なほどの近さが、電話越しにまっすぐ伝わってくる。
茎一はベッドの端に腰を下ろし、乾かしきれなかった髪を指で押さえながら、必死に声の調子を保った。
「大丈夫……大丈夫だから。もうすっかり元気になって、こうして部屋で一人でいるから、安心して? 心配かけてほんとにごめんね……」
『もう〜、バカ! 本当に心配したんだからね……! 連絡もないし、急に消えるし、どうしようかと思ったんだから……!』
生織は、へたり込むような大きな溜息をついた。
『ちょっと待って、ちゃんと病院には行ったの? 検査とか受けたんでしょうね? 後遺症とかないの?』
「うん、MRIもレントゲンも全部撮ったよ。脳の精密検査でも異常なしで、一時的な記憶の混乱だろうって、先生に言われたの。身体はどこも悪くないから」
『ほんとかなぁ……。でもさ、きょうこ、事故のせいで昔の記憶が一部抜けてるとか、自分のノリが変わったかもとか書いてたじゃん! それ、頭打った影響じゃないの!? 私のこととか、ちゃんと覚えてる!?』
(来た。先に張っておいた防衛線への突っ込みだ)
茎一はごくりと唾をのみ、声を慎重に整えた。
「いおり……そんなの当たり前じゃない。いおりのことを忘れるわけないよ。私立の小学校の頃からずっと一緒だった、私のたった一人の大切な親友でしょ?」
過去ログから拾った断片を、さも当然のように差し出す。
電話の向こうで、生織が小さく息をのんだ。
『……ふん、そこ忘れてたら、殴り込みに行ってたけどさ。でも、やっぱりなんか違和感あるんだよね。だっていつものきょうこなら、「入院してて本当に大変だった」なんて、素直に言わないもん。「ちょっと入院してた」くらいで済ませて、あとは嫌そうに「お父さんが勝手に病院を手配した」とか言うじゃん』
(うぐっ……。言葉のニュアンスの違いまで、一発で見抜かれたか。幼馴染の観察眼、恐ろしいな)
背中を冷たいものが伝う。
茎一は頭をフル回転させ、すぐに「事故と環境」のせいにすり替えた。
「あ……それはね、さっきも言ったとおり、入院生活と……あと、環境がガラッと変わったからなの」
『環境……?』
生織の声が、少し真剣になった。
明るさが引いて、警戒を含んだ低い響きになる。
『ねえ、事故のことだけじゃなくて、聞きたいことが多すぎるんだけど。急にJE辞めてベンチャーに移ったって、どういうこと!? メッセージには全然詳しく書いてなかったし……あの話のこと?』
「あの話……?」
茎一の背筋に、冷たいものが走った。
(あの話って何だ!? 過去ログには出てこなかったぞ。何か決定的な出来事があったはずだ。鏡子がJEを辞める引き金になるような……)
頭の中で、過去の経緯を猛スピードで検索する。
政略結婚、烏太朗の指示、フトダマへの出向命令——。
『忘れたなんて言わせないよ! お父さんに言われてた、フトダマの社長さんと婚約するために出向するってやつ! あんなに嫌がってたじゃない! 「また、お父さんの道具にされる」って、泣いて電話してきたの、忘れたの!? なのに、なんでそのままJE辞めて、その会社に移っちゃってんの!?』
(……政略結婚の件か。しかも「泣いて電話してきた」だと?)
ピースがはまった。
だが、ここから先の返しを一歩間違えれば、本物の鏡子なら絶対に言わない台詞を口にして、かえって怪しまれる。
営業の勘が警報を鳴らしていた。
茎一は喉の渇きを覚えながら、袖口で額の汗を拭い、慎重に言葉を選んだ。
「ああ……それね。最初は確かに、お父さんからそういう話を振られて、すごくショックで、パニックになってたのは本当なの。でもね、実際に行ってみたら、全然違ったの」
『何が違うのよ? あんた、お父さんの言いなりになるのが一番嫌いだったじゃない。あの会社で何があったの? 騙されてるんじゃないの!?』
生織の追及は鋭い。
長年、鏡子の父への反抗心や葛藤を、いちばん近くで見てきたからこその疑問だ。
茎一は声のテンポを落とし、ゆっくりと、熱を込めるように語りかけた。
「騙されてなんていないよ。実際にフトダマに行って、社長の命さんと直接会って話したの。そうしたらね……仕事の話だけじゃなくて、日常のたわいない雑談とか、趣味の話で、びっくりするくらい意気投合しちゃって。彼と一緒にいるのがすごく楽しくて、自然体でいられたの」
『え……? 雑談と趣味……? あのきょうこが……?』
電話の向こうで、生織の、呆気にとられた声が漏れた。
「そう。彼が作ろうとしている未来もそうだし、何より、一人の人間として命さんに出会えたことが大きかったの。だから、お父さんに敷かれたレールとか、婚約のためじゃなくて、自分の意志でフトダマで戦おうって決めたの。むしろ……お父さんの威光から離れて自立するために、転職して、副社長になったんだよね」
『……副社長!? あんた、出向じゃなくて、本当にJE辞めて、そのベンチャーの副社長になったの!?』
「うん。退路は断ったよ。自分の実力で、ゼロから実績を作ってみせるって決めたの」
一気に語り終えると、電話の向こうでぴたりと会話が途切れた。
静寂。
深夜の部屋に、スピーカーから漏れる、かすかなノイズだけが響く。
(……やりすぎたか? 鏡子らしくない熱量で語ったか。それとも、「雑談や趣味で意気投合した」なんて理由、本物の鏡子なら絶対に口にしない台詞だったか……)
鼓動が早鐘を打つ。
ドレッサーの姿見に目をやると、スマホの青白い光に照らされた「鏡子」の顔が、青ざめて見えた。
手汗でスマホが滑りそうになる。
「い、いおり……? 聞こえてる……?」
探るように声をかけた、そのときだった。
『……すごっ……!! えええーっ!? きょうこ、マジで言ってるの!? あの頑固なお父さんから離れるために、自分の意志でベンチャーの副社長になったの!?』
電話の向こうで、生織の声が爆発した。
「う、うん……まあ、そういうことになっちゃったかな……」
『あははっ! すごい! すごいよきょうこ! びっくりして、口開けたまま固まっちゃった! あんたがあのお父さんに真っ向から対抗して自立するなんて、夢にも思わなかった!』
生織は、心底感心したように、そして心から嬉しそうに声を弾ませた。
茎一は胸を撫で下ろし、背中の汗が冷えていくのを感じた。
『メッセージ読んだときさ、事故で人が変わっちゃったみたいで、変だな〜って思ったんだよね。文章も、なんか余計な予防線を張ってる感じっていうか、いつものきょうこっぽくなくて』
(ぎくり……)
図星だった。
やはり、見抜かれかけていたのだ。
「事故でノリが変わった」という防衛線さえ、長年の親友の目には、不自然な予防線として映っていたらしい。
冷や汗がまたにじむのを、茎一は必死で耐えた。
『でも、今の話聞いて、めっちゃ納得した! 事故とか環境の激変で、いろいろ吹っ切れたんだね! 長年抱えてたお父さんへのコンプレックスとか、全部吹き飛ばして、前を向いたんだ!』
「あ……うん、まあ……そんな感じかな……」
『ふふ、やっぱりね! どんなに立場が変わっても、ちょっとノリが変わっても、きょうこはきょうこでしょ? 自分が選んだ道で頑張ってるなら、私は全力で応援するからね!』
電話越しに伝わる、百パーセントの善意と、無条件の信頼。
疑いのかけらもなく、親友の「新しい出発」を祝福してくれる、まっすぐな言葉が、茎一の胸の奥を強く突いた。
(……参ったな)
暗い部屋で、茎一は、心の中でぽつりと呟いた。
本物の鏡子は、いま男の身体に入り、営業部で泥くさく戦っている。
そして電話の相手の生織は、ここにいる「自分」を石凝鏡子だと信じ、心から心配し、応援してくれている。
結果として、彼女の最も大切な思い出と信頼を、騙し騙し、横取りしているようなものだった。
ビジネスの現場では、どんなハッタリも狡さも武器にしてきた。
だが、この無垢な友情に嘘を重ねていることには、身を切られるような、苦い痛みが走った。
同時に、長年孤独の中にいた石凝鏡子を、陰で支え続けてくれたこの親友の存在に、深い感謝がこみ上げてきた。
「……ありがとう、いおり。ほんとに……素直に心配してくれて、応援してくれて、ありがとうね」
偽りの声音ではなく、茎一自身の心からの感謝が、自然と温かい響きになって声に乗った。
電話の向こうで、生織が一瞬口ごもり、照れたように笑った。
『ふふ、なになに、改まっちゃって! 気持ち悪い〜(笑) でも、元気な声が聞けて本当によかった。昔みたいに暗い顔で一人で抱え込んでるんじゃないかって、ずっと心配だったから』
生織はおどけたように言うと、楽しそうな調子で切り出した。
『じゃあさ! 無事も確認できたことだし、近いうちに絶対、お祝いも兼ねてお出かけしよ! 予定合わせよ!』
「うん、もちろん! いつにする?」
茎一はベッドから立ち上がり、ナイトテーブルの上の手帳を開いた。
これ以上引き延ばすのは危険だが、誘いを断る理由もない。
『私、来週の土曜日なら一日空いてるんだけど、きょうこは?』
「来週の土曜日なら、大きな打ち合わせもないから大丈夫そう。昼間から会えるよ」
『決まり! じゃあ来週の土曜日、久しぶりに二人でパーッと遊ぼうね! お祝いのおいしいケーキもおごっちゃう!』
「ふふ、楽しみにしてるね」
『うん! 夜遅くに電話しちゃってごめんね。ゆっくり休んでね、きょうこ! おやすみ!』
「おやすみ、いおり」
ぷつりと通話が切れ、重たい静けさが、また部屋を満たした。
暗転したスマホをナイトテーブルに置いて、茎一はドレッサーの鏡の前に立った。
映っているのは、「石凝鏡子」の美貌。
さっきまでの緊迫はもう引いて、親友とのやり取りの温かさが、その表情に、柔らかく残っていた。
(来週の土曜日か……)
親友との、直接の対面。
電話越しですら、これほど神経をすり減らしたのだ。
顔を合わせて何時間も過ごせば、立ち居振る舞いも、癖も、視線も、声の調子も、すべてが試される。
中身が別人だという事実に罪悪感を覚えながらも、この美しい親友の思い出と絆は、守り抜かなければならない。
戦う場所が、ビジネスの現場から、プライベートの領域にまで広がったのだ。
茎一は手帳の、来週の土曜日の欄に、そっと小さく書き込んだ。
『いおり』




