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鏡の中の超絶美女(中身34歳男)、政略結婚を利用して年下天才CEOと会社を攻略する  作者: ニボシ


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第十二話 稚日生織

 ガタン、と車体が小さく揺れて、乙女の頭が窓にこつんと当たった。

 それでも彼女は目を覚まさない。

 北嶺での交渉と実務協議をすべて終え、都心へ戻る新幹線の車内は、夜の静けさと、心地よい疲れに満ちていた。

 窓際の席に身を沈めた茎一は、暗い車窓へ目を向けた。

 斜め向かいでは、緊張から解放された乙女が小さな寝息を立て、武内部長は目を閉じて腕を組んでいる。

 筆美だけは膝の上のノートPCに、データセンター見学で得たインフラ要件のメモを、猛烈な勢いで打ち込み続けていた。

 そして茎一の正面の席には、「自分の元の肉体」が静かに腰掛けている。

 男物のジャケットの襟を指先で正し、窓の外の夜景を、どこか冷ややかな気品で見つめるその横顔。

 骨格は荒々しい男のものなのに、眼差しや指先の力の抜き加減には、育ちの良さが隠しきれずに滲んでいた。

 身体が入れ替わっても損なわれない、本物の石凝鏡子の佇まい。

 茎一は、心の中で不思議な感心を覚えていた。

 ふと、膝の上の手提げ袋に目が留まる。

 乗車前、改札前の売店で、筆美や乙女たちと交わしたやり取りが思い出された。


「副社長! 留守番してくれてる緑先輩に、ここで何かお土産買っていきませんか?」


 乙女が目を輝かせ、特産品の並ぶコーナーを指差したのだ。


「そうですね。会社で留守を守ってくれている緑さんに、何か美味しいものを買っていきましょうか」

「あ、緑先輩は甘すぎない焼き菓子が好みですよ! この北嶺産りんごのアップルパイとか、スティックケーキとか、どうでしょう?」

「日持ちもするし、デスクでも食べやすそうですね。筆美さんはどう思います?」

「いいと思います。りんごの配合も多そうですし、紅茶にも合いそうです」


 にぎやかに品定めをして、緑が喜びそうな焼き菓子の詰め合わせを選んだ。

 留守番の仲間を思いながらの買い物は、短いながらも、どこか心地よい時間だった。


(……それにしても、忙しい出張だったな)


 窓の外を流れる夜の景色を眺めながら、茎一は今日の成果を噛みしめた。

 いまの時代、商談の大半はリモート会議で済む。

 効率だけを見れば、出張は無駄なコストだと言われても仕方がない。

 だが、わざわざ北嶺まで足を運び、膝を突き合わせた意味は、決して小さくなかった。

 要塞のようなデータセンターの冷えた空気、稼働するサーバー群の熱と唸り。

 あの現場の一次情報は、これから営業メンバーが語る言葉に、確かな重みを与えてくれる。

 助っ人の筆美にとっても、教科書の理論ではない、現場インフラの設計思想に触れた経験は、技術者として新しい気づきになったはずだ。

 高倉社長や技術責任者たちと名刺を交わし、顔と名前を覚えてもらえたことも、将来のシステム連携で効いてくるだろう。


(やっぱり、ビジネスは現場の空気を吸ってナンボだ)


 とはいえ、今の新幹線は全席でWi-Fiが飛び、コンセントも完備されている。

 行きも帰りも膝の上でノートPCを開き、メールの返信と報告書、データシートの修正に追われていた。

 観光も、ご当地の味をゆっくり楽しむ暇もない、ただ仕事をしながら移動しただけの日帰りの強行軍だ。

 かつてのような社員旅行は、コンプライアンスやコスト削減の波に呑まれ、いまやほとんど姿を消した。

 仕事抜きの旅を楽しもうと思えば、プライベートで仲間と計画を立てるしかない。


(プライベートの旅行、か……)


 そう思った途端、茎一は、はっとした。

 自分には鏡子の過去の記憶も、人間関係の蓄積もない。

 この女性が普段どんな休日を過ごし、どんな友人を持っているのか、見当もつかないのだ。


(……そういえば、鏡子のプライベートなんて、ほとんど知らないな)


 正面で静かに目を閉じている「本物の鏡子」に視線を送りながら、茎一は、胸の奥に小さな引っかかりを覚えていた。


 ◆◆◆


 深夜近く、港区の自宅マンションに帰り着いた茎一は、リビングの照明をつけ、大きな溜息とともにパンプスを脱ぎ捨てた。

 静まり返った部屋。

 出張の汗と長距離移動の疲れを流そうと、まっすぐバスルームへ向かう。

 脱衣所でハーフアップを留めていたピンを外し、ジャケットとパンツ、ブラウスを順に脱いで、洗面台の大きな鏡の前に立った。

 映っているのは、陶器のように滑らかな白い肌と、しなやかな脚、どこか儚げでいて気品のある顔立ち——石凝鏡子という一人の女性の身体だ。

 鏡の中の自分と、静かに視線を合わせる。

 茎一は、そっと右手を伸ばし、冷たいガラス越しに、自分の頬をなぞった。


(俺は今、本当に、この『石凝鏡子』の身体で呼吸して、生きているんだな……)


 ガラス扉を押し開け、シャワーブースに入る。

 温かい湯を浴びると、全身の疲れがゆっくりと溶け出していった。

 濡れたダークグレージュの髪をかき上げ、泡立てたボディソープで、自分のものではなかったはずの肌を洗っていく。

 細い肩、くびれた腰、柔らかな胸のふくらみ——その感触のひとつひとつが、いまでは当たり前のように、自分の神経へつながっている。

 最初は、ただのハプニングで、パニックの連続だった。

 だが、命と共にフトダマの副社長として社内外の荒波に揉まれ、今日は北嶺での大商談を、自分の知恵と手腕で乗り切った。

 この「石凝鏡子」という存在の責任も、決断も、身体も背負って、ビジネスの最前線に立っているのだという実感が、腹の底から湧いてくる。

 自分は茎一であり、同時に、この会社と仲間を守るための「石凝鏡子」でもあるのだ。

 シャワーを止め、曇った鏡を手で拭う。

 湯気の向こうの瞳は、さっきまでの迷いを振り払ったように、まっすぐだった。

 タオルで身体を拭き上げ、ホワイトのサテン地のバスローブを羽織る。

 ドレッサーの前でナイトセラムを頬に馴染ませていると、その上に置いたスマートフォンが、ヴッと短く震えた。

 暗い画面に、通知が浮かんでいる。


『メッセージ1件:稚日生織』


「……わかひ、いおり……?」


 茎一は首をひねった。

 聞き覚えのない名前だ。

 取引先のアドレス帳にも、こんな名前はなかったはずだが——。

 そこで、ふと記憶の隅が引っかかった。

 ネイルサロンの待ち時間に履歴を流し見したとき、頻繁にやり取りしていた唯一の女性が、確かこんな名前だった。

 仕事の連絡ではなさそうだ。

 戸惑いつつ、バスローブの袖口を整えて、通知をタップする。

 開いたメッセージ画面に、軽快なフォントの文面が並んでいた。


『きょうこ〜! 最近全然連絡くれてないけど生きてる?(笑) そろそろ仕事落ち着いたかな? 久しぶりにお休み合わせて、どこか出かけよ〜! 温泉でもカフェ巡りでも付き合うよ〜』


 スタンプまで添えた、親密でくだけた文面。


(おいおい……なんだ、この遠慮のなさは……)


 茎一の背に、うっすらと冷や汗がにじんだ。

 これまで知っていた石凝鏡子は、厳格でガードの堅い女性だった。

 こんなふうに砕けた口調で話しかけてくる相手がいるとは、想像もしていなかった。

 相手がどういう人間なのかを知らなければ、返事ひとつ打てない。

 茎一は、メッセージの履歴を、上へ上へとスワイプしはじめた。

 ところが、遡るうちに、指が止められなくなった。

 ここ数年の分しか見ていなかったが、画面に流れてくるのは、ビジネスの場の鏡子からは想像もつかない、素の表情と感情だった。


『いおり、今日のゼミの課題終わらん……助けて』

『お父さんとまた揉めた。本当にもう家にいたくない』

『ねえ聞いて、昨日言ってたあのお店行ってたよ』


 仕事の重圧、父・烏太朗への複雑な思い、他愛ない雑談や日常の愚痴、独立への不安、そして深夜の悩み相談。

 文字だけでなく、大量の写真も残っていた。

 海辺で風に髪をなびかせ、笑い合う二人。

 和菓子屋で、かき氷を前におどけたポーズをとる二人。

 私立の制服を着た、幼い少女たちの写真まで出てくる。


(これは……ただの友達じゃないぞ……)


 夢中で読み進めるうち、時計は午前一時、二時と進んでいた。

 さらに遡ると、ある地点で「これ以上のデータはありません」という表示が出た。

 機種変更の引き継ぎに失敗したのか、それより前の履歴は途切れている。

 それでも、たどれる限界の六年前——二人が大学三年生だった頃のやり取りだけでも、事実ははっきり浮かび上がった。

 稚日生織は、私立の小学校に通っていた頃からの幼馴染だ。

 多忙で厳格な家庭の中、孤独に育った鏡子が、唯一心を開き、唯一「友達」と呼べた親友なのだ。


(仕事の付き合いじゃない……本物の鏡子の、たった一人の親友か……)


 バスローブ姿のままベッドの端に腰掛け、茎一は、スマートフォンの青白い光の中で、深く息を詰めた。

 ビジネスの場なら、営業で鍛えた度胸とハッタリで「石凝鏡子」を演じ切れる。

 だが相手は、幼い頃から鏡子の癖も声の調子も知っている親友だ。

 下手に会えば、中身が別人だと無意識に悟られかねない。

 かといって、長年自分を支えてきた唯一の親友の誘いを、無下に突っぱねることも、本当の鏡子の人生を壊すことになりかねない。


(……仕方ない。とにかく防衛線を張りながら、返すしかない)


 茎一は腹を決め、流し読みした過去ログの文体を思い出した。

 語尾の伸ばし方、軽いノリ。

「〜だよ」「〜かなあ」と、頭の中で大雑把にトレースして、鏡子らしい文面をこしらえていく。

 営業時代に身につけた、相手を安心させる話し方も混ぜた。

 そして最大の防壁として、「事故の影響」を言い訳に盛り込む。

 事故のショックで記憶の一部が抜けたこと、環境の激変で性格やノリが変わったかもしれないこと。

 これを先に伝えておけば、多少話がかみ合わなくても、事故のせいにできる。

 

『いおり、連絡遅くなってごめんね! 実はちょっと前に事故に遭ってさ……しばらく入院してて本当に大変だったの。そのショックのせいか、最近ちょっと昔の記憶が一部抜け落ちてたり、自分の性格やノリまで変わっちゃったかも?って思うくらいなんだよね……(汗) それにJEも辞めて、新しい会社(フトダマってベンチャー)に移ったりで、バタバタで連絡できなかったの……心配かけてごめん! でも仕事も少し落ち着いてきたし、久しぶりにいおりに会いたいな。落ち着いたら出かけよ〜!』


 送信前に、ドレッサーの鏡へ目をやる。

 スマホの光に照らされた鏡の中の「鏡子」が、少し緊張した顔で、こちらを見返していた。


(……よし。長文になったが、事故の後遺症にしておけば、どんなボロも誤魔化せる。営業の危機管理を甘く見るなよ)


 自分の機転に小さく満足しながら、送信ボタンを押す。

 深夜の静けさに、シュッと、メッセージが飛んでいく軽い音が響いた。


(……ふぅ。これでひとまず、時間は稼げる。落ち着いたら、適当な理由をつけて——)


 胸を撫で下ろし、スマホをナイトテーブルへ置こうとした、その瞬間だった。

 画面の上に、一瞬で「既読」の文字が浮かんだ。


(……え? 早っ……)


 呆気にとられたのも束の間、画面が激しい振動とともに切り替わり、けたたましい着信音が、深夜の部屋に鳴り響いた。

 画面いっぱいに浮かぶ、大きな文字。


『着信:稚日生織』


「なッ……!? で、電話ァ!?」


 茎一はベッドの上で跳ね起き、危うくスマホを取り落としそうになった。

 文字のやり取りで時間を稼ぐつもりが、相手は「事故」「入院」という言葉に慌てたのか、あるいは違和感を察したのか、容赦なく音声通話をかけてきたのだ。

 画面で明滅する、緑色の通話ボタン。

 部屋に響くコール音。


「嘘だろ……完璧に鏡子になりきって喋れってのか……!?」


 手汗で滑りそうなスマホを握りしめ、茎一は青ざめた顔で画面を見つめた。

 コール音は、五回目に入った。

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