第十二話 稚日生織
ガタン、と車体が小さく揺れて、乙女の頭が窓にこつんと当たった。
それでも彼女は目を覚まさない。
北嶺での交渉と実務協議をすべて終え、都心へ戻る新幹線の車内は、夜の静けさと、心地よい疲れに満ちていた。
窓際の席に身を沈めた茎一は、暗い車窓へ目を向けた。
斜め向かいでは、緊張から解放された乙女が小さな寝息を立て、武内部長は目を閉じて腕を組んでいる。
筆美だけは膝の上のノートPCに、データセンター見学で得たインフラ要件のメモを、猛烈な勢いで打ち込み続けていた。
そして茎一の正面の席には、「自分の元の肉体」が静かに腰掛けている。
男物のジャケットの襟を指先で正し、窓の外の夜景を、どこか冷ややかな気品で見つめるその横顔。
骨格は荒々しい男のものなのに、眼差しや指先の力の抜き加減には、育ちの良さが隠しきれずに滲んでいた。
身体が入れ替わっても損なわれない、本物の石凝鏡子の佇まい。
茎一は、心の中で不思議な感心を覚えていた。
ふと、膝の上の手提げ袋に目が留まる。
乗車前、改札前の売店で、筆美や乙女たちと交わしたやり取りが思い出された。
「副社長! 留守番してくれてる緑先輩に、ここで何かお土産買っていきませんか?」
乙女が目を輝かせ、特産品の並ぶコーナーを指差したのだ。
「そうですね。会社で留守を守ってくれている緑さんに、何か美味しいものを買っていきましょうか」
「あ、緑先輩は甘すぎない焼き菓子が好みですよ! この北嶺産りんごのアップルパイとか、スティックケーキとか、どうでしょう?」
「日持ちもするし、デスクでも食べやすそうですね。筆美さんはどう思います?」
「いいと思います。りんごの配合も多そうですし、紅茶にも合いそうです」
にぎやかに品定めをして、緑が喜びそうな焼き菓子の詰め合わせを選んだ。
留守番の仲間を思いながらの買い物は、短いながらも、どこか心地よい時間だった。
(……それにしても、忙しい出張だったな)
窓の外を流れる夜の景色を眺めながら、茎一は今日の成果を噛みしめた。
いまの時代、商談の大半はリモート会議で済む。
効率だけを見れば、出張は無駄なコストだと言われても仕方がない。
だが、わざわざ北嶺まで足を運び、膝を突き合わせた意味は、決して小さくなかった。
要塞のようなデータセンターの冷えた空気、稼働するサーバー群の熱と唸り。
あの現場の一次情報は、これから営業メンバーが語る言葉に、確かな重みを与えてくれる。
助っ人の筆美にとっても、教科書の理論ではない、現場インフラの設計思想に触れた経験は、技術者として新しい気づきになったはずだ。
高倉社長や技術責任者たちと名刺を交わし、顔と名前を覚えてもらえたことも、将来のシステム連携で効いてくるだろう。
(やっぱり、ビジネスは現場の空気を吸ってナンボだ)
とはいえ、今の新幹線は全席でWi-Fiが飛び、コンセントも完備されている。
行きも帰りも膝の上でノートPCを開き、メールの返信と報告書、データシートの修正に追われていた。
観光も、ご当地の味をゆっくり楽しむ暇もない、ただ仕事をしながら移動しただけの日帰りの強行軍だ。
かつてのような社員旅行は、コンプライアンスやコスト削減の波に呑まれ、いまやほとんど姿を消した。
仕事抜きの旅を楽しもうと思えば、プライベートで仲間と計画を立てるしかない。
(プライベートの旅行、か……)
そう思った途端、茎一は、はっとした。
自分には鏡子の過去の記憶も、人間関係の蓄積もない。
この女性が普段どんな休日を過ごし、どんな友人を持っているのか、見当もつかないのだ。
(……そういえば、鏡子のプライベートなんて、ほとんど知らないな)
正面で静かに目を閉じている「本物の鏡子」に視線を送りながら、茎一は、胸の奥に小さな引っかかりを覚えていた。
◆◆◆
深夜近く、港区の自宅マンションに帰り着いた茎一は、リビングの照明をつけ、大きな溜息とともにパンプスを脱ぎ捨てた。
静まり返った部屋。
出張の汗と長距離移動の疲れを流そうと、まっすぐバスルームへ向かう。
脱衣所でハーフアップを留めていたピンを外し、ジャケットとパンツ、ブラウスを順に脱いで、洗面台の大きな鏡の前に立った。
映っているのは、陶器のように滑らかな白い肌と、しなやかな脚、どこか儚げでいて気品のある顔立ち——石凝鏡子という一人の女性の身体だ。
鏡の中の自分と、静かに視線を合わせる。
茎一は、そっと右手を伸ばし、冷たいガラス越しに、自分の頬をなぞった。
(俺は今、本当に、この『石凝鏡子』の身体で呼吸して、生きているんだな……)
ガラス扉を押し開け、シャワーブースに入る。
温かい湯を浴びると、全身の疲れがゆっくりと溶け出していった。
濡れたダークグレージュの髪をかき上げ、泡立てたボディソープで、自分のものではなかったはずの肌を洗っていく。
細い肩、くびれた腰、柔らかな胸のふくらみ——その感触のひとつひとつが、いまでは当たり前のように、自分の神経へつながっている。
最初は、ただのハプニングで、パニックの連続だった。
だが、命と共にフトダマの副社長として社内外の荒波に揉まれ、今日は北嶺での大商談を、自分の知恵と手腕で乗り切った。
この「石凝鏡子」という存在の責任も、決断も、身体も背負って、ビジネスの最前線に立っているのだという実感が、腹の底から湧いてくる。
自分は茎一であり、同時に、この会社と仲間を守るための「石凝鏡子」でもあるのだ。
シャワーを止め、曇った鏡を手で拭う。
湯気の向こうの瞳は、さっきまでの迷いを振り払ったように、まっすぐだった。
タオルで身体を拭き上げ、ホワイトのサテン地のバスローブを羽織る。
ドレッサーの前でナイトセラムを頬に馴染ませていると、その上に置いたスマートフォンが、ヴッと短く震えた。
暗い画面に、通知が浮かんでいる。
『メッセージ1件:稚日生織』
「……わかひ、いおり……?」
茎一は首をひねった。
聞き覚えのない名前だ。
取引先のアドレス帳にも、こんな名前はなかったはずだが——。
そこで、ふと記憶の隅が引っかかった。
ネイルサロンの待ち時間に履歴を流し見したとき、頻繁にやり取りしていた唯一の女性が、確かこんな名前だった。
仕事の連絡ではなさそうだ。
戸惑いつつ、バスローブの袖口を整えて、通知をタップする。
開いたメッセージ画面に、軽快なフォントの文面が並んでいた。
『きょうこ〜! 最近全然連絡くれてないけど生きてる?(笑) そろそろ仕事落ち着いたかな? 久しぶりにお休み合わせて、どこか出かけよ〜! 温泉でもカフェ巡りでも付き合うよ〜』
スタンプまで添えた、親密でくだけた文面。
(おいおい……なんだ、この遠慮のなさは……)
茎一の背に、うっすらと冷や汗がにじんだ。
これまで知っていた石凝鏡子は、厳格でガードの堅い女性だった。
こんなふうに砕けた口調で話しかけてくる相手がいるとは、想像もしていなかった。
相手がどういう人間なのかを知らなければ、返事ひとつ打てない。
茎一は、メッセージの履歴を、上へ上へとスワイプしはじめた。
ところが、遡るうちに、指が止められなくなった。
ここ数年の分しか見ていなかったが、画面に流れてくるのは、ビジネスの場の鏡子からは想像もつかない、素の表情と感情だった。
『いおり、今日のゼミの課題終わらん……助けて』
『お父さんとまた揉めた。本当にもう家にいたくない』
『ねえ聞いて、昨日言ってたあのお店行ってたよ』
仕事の重圧、父・烏太朗への複雑な思い、他愛ない雑談や日常の愚痴、独立への不安、そして深夜の悩み相談。
文字だけでなく、大量の写真も残っていた。
海辺で風に髪をなびかせ、笑い合う二人。
和菓子屋で、かき氷を前におどけたポーズをとる二人。
私立の制服を着た、幼い少女たちの写真まで出てくる。
(これは……ただの友達じゃないぞ……)
夢中で読み進めるうち、時計は午前一時、二時と進んでいた。
さらに遡ると、ある地点で「これ以上のデータはありません」という表示が出た。
機種変更の引き継ぎに失敗したのか、それより前の履歴は途切れている。
それでも、たどれる限界の六年前——二人が大学三年生だった頃のやり取りだけでも、事実ははっきり浮かび上がった。
稚日生織は、私立の小学校に通っていた頃からの幼馴染だ。
多忙で厳格な家庭の中、孤独に育った鏡子が、唯一心を開き、唯一「友達」と呼べた親友なのだ。
(仕事の付き合いじゃない……本物の鏡子の、たった一人の親友か……)
バスローブ姿のままベッドの端に腰掛け、茎一は、スマートフォンの青白い光の中で、深く息を詰めた。
ビジネスの場なら、営業で鍛えた度胸とハッタリで「石凝鏡子」を演じ切れる。
だが相手は、幼い頃から鏡子の癖も声の調子も知っている親友だ。
下手に会えば、中身が別人だと無意識に悟られかねない。
かといって、長年自分を支えてきた唯一の親友の誘いを、無下に突っぱねることも、本当の鏡子の人生を壊すことになりかねない。
(……仕方ない。とにかく防衛線を張りながら、返すしかない)
茎一は腹を決め、流し読みした過去ログの文体を思い出した。
語尾の伸ばし方、軽いノリ。
「〜だよ」「〜かなあ」と、頭の中で大雑把にトレースして、鏡子らしい文面をこしらえていく。
営業時代に身につけた、相手を安心させる話し方も混ぜた。
そして最大の防壁として、「事故の影響」を言い訳に盛り込む。
事故のショックで記憶の一部が抜けたこと、環境の激変で性格やノリが変わったかもしれないこと。
これを先に伝えておけば、多少話がかみ合わなくても、事故のせいにできる。
『いおり、連絡遅くなってごめんね! 実はちょっと前に事故に遭ってさ……しばらく入院してて本当に大変だったの。そのショックのせいか、最近ちょっと昔の記憶が一部抜け落ちてたり、自分の性格やノリまで変わっちゃったかも?って思うくらいなんだよね……(汗) それにJEも辞めて、新しい会社に移ったりで、バタバタで連絡できなかったの……心配かけてごめん! でも仕事も少し落ち着いてきたし、久しぶりにいおりに会いたいな。落ち着いたら出かけよ〜!』
送信前に、ドレッサーの鏡へ目をやる。
スマホの光に照らされた鏡の中の「鏡子」が、少し緊張した顔で、こちらを見返していた。
(……よし。長文になったが、事故の後遺症にしておけば、どんなボロも誤魔化せる。営業の危機管理を甘く見るなよ)
自分の機転に小さく満足しながら、送信ボタンを押す。
深夜の静けさに、シュッと、メッセージが飛んでいく軽い音が響いた。
(……ふぅ。これでひとまず、時間は稼げる。落ち着いたら、適当な理由をつけて——)
胸を撫で下ろし、スマホをナイトテーブルへ置こうとした、その瞬間だった。
画面の上に、一瞬で「既読」の文字が浮かんだ。
(……え? 早っ……)
呆気にとられたのも束の間、画面が激しい振動とともに切り替わり、けたたましい着信音が、深夜の部屋に鳴り響いた。
画面いっぱいに浮かぶ、大きな文字。
『着信:稚日生織』
「なッ……!? で、電話ァ!?」
茎一はベッドの上で跳ね起き、危うくスマホを取り落としそうになった。
文字のやり取りで時間を稼ぐつもりが、相手は「事故」「入院」という言葉に慌てたのか、あるいは違和感を察したのか、容赦なく音声通話をかけてきたのだ。
画面で明滅する、緑色の通話ボタン。
部屋に響くコール音。
「嘘だろ……完璧に鏡子になりきって喋れってのか……!?」
手汗で滑りそうなスマホを握りしめ、茎一は青ざめた顔で画面を見つめた。
コール音は、五回目に入った。




