第七話:綻び(ほころび)ゆく日常、重なり合う孤独
学校という場所は、残酷なまでに「未来」が溢れている場所です。進路指導、来年度の予算案、そして卒業式の準備。そんな、自分にはもう関係のないはずの予定が次々と舞い込んでくる中で、加藤渉は薄氷を踏むような毎日を過ごしていました。
朝、鏡の前で自分の顔を確認するのが、一日のうちで最も苦痛な時間となりました。土気色の肌、窪んだ目。彼はそれを「寝不足」という名の化粧で覆い隠し、妻・真由美が用意した朝食を、祈るような気持ちで胃に流し込みます。真由美は何も言いません。ただ、彼が家を出る際、背中に向けてかける「いってらっしゃい」という声が、日に日に震えを帯びてきていることを、加藤は痛いほどに感じていました。
「沈黙」という名の共犯関係。それが二人の間の、言葉にできない愛の形になっていました。
放課後の教室にて
その日の放課後も、加藤は一人、夕闇に沈みかける教室に残っていました。
手帳を開き、震える指先で万年筆を走らせます。文字は以前よりも歪み、乱れていました。それは、彼の体力の限界をそのまま映し出しているようでした。
二月二十日。
チョークを握る力が弱くなっている。黒板の文字が、以前のように真っ直ぐ書けない。
授業中、生徒たちの顔が二重に見える瞬間がある。
けれど、僕は止まるわけにはいかない。
嘘をつき通すと決めたのは、僕のエゴかもしれない。
だが、同情の目で見られた瞬間、僕は「教師」ではなく「病人」になってしまう。
それだけは、耐えられない。
書き終えた瞬間、背後のドアが静かに開きました。
いつものように、不登校気味の生徒、高橋がそこに立っていました。しかし、今日の彼はいつもの無表情ではありませんでした。その手には、一冊の古い文庫本が握られていました。
「先生、……これ、読み終わりました。先生が言ってた『こころ』」
高橋は無造作に本を教卓の上に置きました。加藤は驚きを隠せませんでした。授業をまともに聞いているのかさえ疑わしかった彼が、自ら本を読み、感想を言いに来たのです。
「そうか。……どうだった、高橋」
加藤は努めて明るい声を出しました。しかし、高橋の視線は加藤の手元、急いで隠そうとした手帳へと注がれていました。
「……先生。嘘、ついてるでしょ」
心臓が、大きく脈打ちました。
「何のことだ?」と返そうとした加藤の唇を、高橋の言葉が遮りました。
「俺、知ってるんだ。……俺の母親も、そうだったから」
高橋の声は震えていました。
「ずっと『大丈夫』って笑っててさ。俺に心配かけたくないからって、ずっと隠してて。でもある日、急にいなくなった。……先生も、同じ匂いがする」
高橋の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちました。それは、彼がずっと隠し続けてきた孤独と、加藤の嘘がぶつかり合った瞬間に溢れ出したものでした。加藤は何も言えませんでした。言葉を扱うプロであるはずの彼が、教え子の剥き出しの悲しみの前で、ただ立ち尽くすことしかできませんでした。
崩れ去る境界線
「高橋、僕は——」
何かを言いかけようとした瞬間、加藤を襲ったのは、これまでにない激しい、焼け付くような痛みでした。
彼は反射的に腹部を押さえ、教卓に崩れ落ちました。
「先生!?」
高橋が慌てて駆け寄ります。加藤の口からは、鉄の味がする熱い塊がせり上がってきました。
彼は咄嗟にハンカチで口元を押さえましたが、白い布地には鮮やかな赤が広がっていきました。
「……大丈夫だ……なんでも、ない」
それでも加藤は嘘をつこうとしました。
しかし、高橋は加藤の肩を強く掴み、必死の形相で叫びました。
「もういいよ! 先生、もう嘘なんてつくなよ! 俺、もう誰かが消えていくのを、ただ見てるだけなんて嫌なんだ!」
生徒の叫びが、静まり返った教室に響き渡りました。
それは、加藤が張り巡らせていた「完璧な教師」という結界が、音を立てて崩壊した瞬間でした。
加藤は、自分の肩を支える少年の温もりを感じながら、ぼんやりと開いたままの手帳を見つめました。そこには、血に染まった自分の指紋がついていました。
「……悪いな、高橋。……少し、肩を貸してくれるか」
嘘をつき通すことを誇りとしていた男が、初めて見せた、本当の弱さでした。
外はもう、すっかり夜の帳が下りていました。しかし、教室の中には、これまでにはなかった、血の通った温かな絆が生まれようとしていたのです。




