第六話:命を削る執筆
カチリ、と万年筆のキャップを外す音が、今の加藤には戦いの開始の合図のように聞こえました。
彼は、まだ指先に残っている教え子たちの視線の熱を忘れないうちに、言葉を叩きつけました。
二月十七日 放課後。
今日、僕は初めて教科書を捨てた。正確には、教科書の行間に隠れていた僕の「本音」をさらけ出した。生徒たちに「明日が来る保証はない」と説きながら、一番その言葉に打ちのめされていたのは、僕自身だった。
高橋が僕に問うた。「先生なら何をするのか」と。答えはもう出ている。僕は、僕を演じ切る。最高の夫として、最高の教師として、死ぬその瞬間まで「日常」という舞台に立ち続ける。
真由美。君が僕の嘘に付き合ってくれていることに、僕は甘えさせてもらう。君の沈黙は、僕にとって世界で一番優しい抱擁だ。
滲んだ文字
書き進めるうちに、一滴の雫が紙面に落ちて、黒いインクを滲ませました。それが自分の涙なのか、こらえきれずに溢れた脂汗なのか、加藤にはもう判別がつきませんでした。
「……っ、う……」
突然、鉛を流し込まれたような重みが下腹部を襲いました。加藤は思わず机に突っ伏しました。ノートを抱きしめるようにして、歯を食いしばります。
このノートは、もはや単なる記録ではありません。彼が「生きていた」という唯一の物証であり、彼の魂の抜け殻でした。
予期せぬ来訪者
「……加藤先生」
不意に名前を呼ばれ、加藤は跳ねるように顔を上げました。ノートを素早く腕の中に隠し、引き出しに放り込みます。
顔を上げると、そこには数学教師の佐々木が、いつになく真剣な表情で立っていました。
「佐々木先生、……何か?」
「いや。……さっきの授業、廊下で少し聞いてました。熱のこもった、いい授業でしたね。でも……」
佐々木は言葉を切り、加藤の机の上に置かれた、真っ白な指先を見つめました。
「あんまり、根を詰めすぎないでくださいよ。先生の代わりは、僕らじゃ務まりませんから」
佐々木はそれだけ言うと、加藤の返事を待たずに自分の席へ戻っていきました。
加藤は引き出しの中のノートを指先でなぞりました。「代わりはいない」——その言葉が、今の彼には救いでもあり、最も重い呪縛のようにも感じられました。




