表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
最後のチャイムまで、僕は嘘をつく  作者: 水前寺鯉太郎
第一章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/24

第五話:台本のない特別授業

「今日は教科書を横に置いてくれ。……残り少ない時間で、僕がどうしてもお前たちに伝えておきたいことがある」

 加藤の声は、いつになく低く、そして澄んでいました。

 窓の外からは、体育の授業で走る生徒たちの歓声が聞こえます。その「生」の騒音を背景に、加藤はチョークを手に取り、黒板に大きく二つの言葉を書きました。

 『日常』と『異常』。

「お前たちは、明日が来ることを疑っていないだろう。明日の朝、目が覚めて、この教室に来て、隣の席のやつとくだらない話をする。それが『日常』だと思っている」

 加藤はゆっくりと教室を見渡しました。

「だがな、その『日常』は、実は奇跡のようなバランスの上に成り立っている、脆いガラス細工のようなものなんだ。ある日突然、何の前触れもなく、それは『異常』に取って代わられる」

 教室が、しんと静まり返りました。寝たふりをしていた生徒も、スマホを隠していた生徒も、今は加藤の背中を見つめています。

「もし、今日が人生最後の一日だとしたら、お前たちは隣のやつに何を言う? 家に帰って、親にどんな顔を見せる?」

 加藤の脳裏に、昨夜の真由美の震える肩が浮かびました。彼女が「知らないふり」をしてくれたからこそ、自分は今、この教壇に立っていられる。その感謝と、言いようのない切なさが言葉に熱を宿らせます。


高橋の問い


「先生」

 静寂を破ったのは、最後列の高橋でした。彼はいつもの冷めた表情ではなく、どこか縋るような、それでいて挑むような瞳で加藤を見つめていました。

「……先生は、もし今日が最後だとしたら、何をするんですか?」

 教室中の視線が加藤に集まりました。

 加藤は微かに微笑みました。その笑顔は、病を抱えてから初めて見せた、無理のない、穏やかなものでした。

「僕は、……こうして、お前たちの前で授業をしている。それが、僕にとっての『一番生きたい日常』だからだ」

 嘘の中に、最大の本音が混じった瞬間でした。

 高橋はハッとしたように目を見開き、やがて視線を落としました。


限界の予兆


「いいか。自分の時間を、誰かのために使いなさい。そして、大切な人に『ありがとう』と言うのを、明日に回すな。明日、その人がそこにいる保証なんて、どこにもないんだから」

 そこまで言い終えた時、胃を直接掴まれたような激痛が加藤を襲いました。視界が急激に狭まり、冷や汗が吹き出します。

 彼は、生徒に悟られないよう、教卓を両手で強く握りしめました。爪が白くなるほど、死に物狂いで耐えます。

「……今日の授業は、ここまでだ。チャイムより少し早いが、お前たちは先に出ていい」

 生徒たちがざわめきながら教室を出ていく中、高橋だけが席を立ちませんでした。加藤が振り返ると、少年は黙ったまま、まっすぐに加藤を見ていました。

 二人の間に、言葉はありませんでした。ただ、高橋の視線だけが、加藤が必死に積み上げてきた「大丈夫」という壁を、静かに、しかし確実に透かして見ていました。

 加藤は、小さく頷きました。それは「ありがとう」でも「気づくな」でもない、もっと手前にある、ただの呼吸のような仕草でした。

 チャイムが鳴りました。

 加藤は教卓から手を離し、ゆっくりと息を吐きました。今日も、乗り越えた。ただそれだけを確かめながら、彼はチョークの粉で白くなった指先を、静かに見つめていました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ