第八話:放課後の書記係
ここからは高橋が語っていこうと思います。
あの日の放課後、夕闇に染まった教室で先生の鮮血を見た時、自分の時間は一度止まったような気がしました。
先生は、最後まで嘘をつこうとしました。「大丈夫だ」「ただの貧血だ」と。でも、肩に預けられたその体は、驚くほど軽くて、まるで中身が空っぽの枯れ木のようでした。母さんがいなくなった時の、あの冬の日の匂いがしました。
それから高橋と加藤先生の間には、奇妙な契約が結ばれることになりました。先生が誰にも言わずに書き続けていた「記録」を、高橋が手伝うというものです。先生の指先は、もうペンを長時間握り続ける力さえ失いつつあったからです。
二人の秘密基地
「いいか、高橋。これは僕たちが交わした、一生の約束だ。誰にも、僕の妻にさえ、このノートの存在を教えてはならない」
先生は、学校の裏手にある使われていない旧図書準備室で、そう言いました。カビ臭い空気と、埃の舞う光の筋。そこが二人の「仕事場」になりました。
先生は椅子に深く腰掛け、窓の外を眺めながら、ぽつりぽつりと独白のように言葉を紡ぎます。高橋はそれを、先生から預かった一冊の黒いノートに書き留めていく。それが日課になりました。
「二月二十五日。今日は、二年生の数学の佐々木先生が、僕の好物だと言っていた羊羹を差し入れてくれた。本当はもう、固形物を受け付ける余裕なんてない。でも、僕はそれを一口食べ、彼に向かって『最高だ』と笑ってみせた。嘘をつくのは、とても体力がいる。けれど、彼が僕を憐れむことなく、いつものようにガハハと笑って立ち去っていく背中を見て、僕は救われた気がした……」
ペンを動かしながら、胸が締め付けられるような思いでした。
先生は、死ぬ瞬間にまで「加藤渉という男」を演じ続けようとしている。それは、高橋にはとても滑稽で、そして、どうしようもなく気高いことのように思えました。
「先生。どうしてそこまでして隠すんですか? みんなに言えば、もっと楽になれるのに」
思わず口にすると、先生は少しだけ困ったように眉を下げて笑いました。
「高橋。人は、誰かの弱さを知ると、どうしても優しくなってしまう生き物なんだ。それは美しいことだが、同時に、その人を『弱者』という檻に閉じ込めてしまうことでもある。僕は最後まで、一人の対等な人間として、君たちの教師として、この場所を去りたいんだよ」
その言葉を聞いた時、高橋は初めて、先生が嘘をつき続けている理由が分かった気がしました。それは、誰かを騙すための嘘ではなかった。先生が「先生であること」を最後まで守るための、命を懸けた誓いだったのです。
書記係の誕生
以来、二人の秘密の時間は、放課後の旧図書準備室で静かに続きました。
先生が言葉を選び、高橋が書き留める。そのやり取りはいつも、チャイムが鳴り終わった後の静けさの中で始まりました。
先生の語りは、時に授業の話でした。今日、生徒の誰かが初めて手を挙げた。あの子の答えは間違っていたけれど、声に力があった。時に、もっと個人的な話でした。真由美の好きな花を、今年は買えそうにない。もしかしたら、もう買えないかもしれない。
高橋は、どんな言葉も、同じ筆圧で、同じ速さで書き留めました。立派な話も、情けない話も、すべてを同じ重さで受け取ることが、書記係としての自分の仕事だと思ったからです。
ある日、先生が唐突に言いました。
「高橋、君は不登校だったな」
「……はい」
「学校が怖かったか」
「怖いというより、意味が分からなかったです。来ても来なくても、何も変わらない気がして」
「そうか。……じゃあ今は?」
高橋はペンを止め、少し考えました。
「今は、来る理由があります。先生の言葉を、誰かが残しておかないといけないから」
先生は、それ以上何も言いませんでした。ただ、窓の外に目を向け、夕暮れの空を眺めていました。その横顔が、高橋にはとても穏やかに見えました。
ノートに刻まれた、先生の本音
二月のある夜、先生は珍しく、自分でペンを握ろうとしました。指が震え、文字は歪みましたが、それでも先生は一行だけ、自分の手で書きました。
『高橋くん。君にしかできない仕事がある。ありがとう。』
その文字を見た時、高橋は涙をこらえるのに必死でした。それはもしかすると、先生が生徒に向けて書いた、最初で最後の「本音」だったかもしれないからです。
嘘で塗り固めた先生の記録の中に、一行だけ、真実が紛れ込んでいた。
高橋はその一行だけ、いつもより少し力を入れて、丁寧になぞりました。消えないように。忘れないように。




