case 4
次の日の早朝。
食事の準備をしていたカアナは、義行からの電話に声を潜めて問う。
「――明日じゃダメなの?」
今日はあいにくのお天気だった。
窓に打ち付ける、横殴りの雨は外出被りたい。
『ツユさんを連れてちょっと来てほしいんだ、頼むよ』
やわらかい口調で、いやなお願いをしてくる。
詳細なことはFOCUSで。
それ以上は言及せず。
「もうおしまいか?」
「ちょっと来てほしいんだって」
「もったいぶりだな」
朝ごはんを食べても雨は止まなかった。
弱まってもない。
見る分には好きでも、出るのとではまた違う。
普通の傘と折りたたみを持って、いざ。傘は2本しかないので、ツユがマウロを抱っこして、彼に差してもらう。肩を並べれば、マウロがずぶ濡れだった。
ちなみにタクシーなるものは数十年前に廃業している。
「ボクが折りたたみでもいいんだぞ」
カアナとツユの相合い傘は、双方の肩が濡れてしまうので却下になった。
それくらいの雨の中、行かねばならないのだ。
「重たくない?」
「大丈夫です」
「いつでも変わるから、すぐ言ってね」
瞳孔がまんまるな彼らは3倍増しに可愛くて、綺麗だった。
*
バス停はスーパーよりも近くて、あっという間に着いた。
「散らないといいな」
「ほんとね。雨が降ってなかったら、寄り道がてらにお花見できたのに」
屋根もあってツユたち以外は誰もいないが、マウロをおろしていいものか。
悩むツユに、カアナは手を伸ばした。「そろそろ交代しましょ」とマウロを抱っこすると、一気に手持ち無沙汰だ。
「か、傘っ、持ちますっ」
「大丈夫♪ アタシ力持ちだし――」
マウロはカアナの肩によじ登って、肩車。背中に足が回らない彼のほうがちょっと大変そうだった。
カアナの頭をがっしり掴みながら、頭上の電光掲示板をのぞく。
そんなマウロにつられて、ツユも顔を上げた。
『霈晉ソシ荳ュ螟ョ』
『◆假シ夲シ費◆』
『霈晉ソシ隘ソ』
『托シ』
『霈晉ソシ邱丞粋逞◆劼』
『◆大●蜑◆』
『霈晉ソシ蟄ヲ蝨貞燕』
文字が大きくなったり小さくなったり。
脈打つ、歪む、主張する。
おびただしい量の字列に、ツユはすぐさま目をそらしたが、こみ上げてくる吐き気は止まらない。
昨日とは比べものにならなかった。
口元をおさえ、喉に力を入れる――――その様に、ARたちは慌てふためいた。
「ツユさんっ!?」
「ツユ!!」
白砂病の兆候。かと思いきや、
「――……せっかくのサンドイッチ、吐くかと……思った……」
ほんの少しだけ口内に到達したのは液体で、ツユは青い顔して安堵する。
「よかったッ……よくないけど、よかったッ!」
マウロたちも白砂病でないことを喜んだ。
「おちつくまで待ってるぞ」
「ありがと……マウロくん。でも」
「ここからなら、どれ乗っても着くからだいじょーぶだ」
「……そう、なの?」
でも、もう1度見る気にはなれなくて、
「もしかして、読めない?」
「むずかしい漢字ばっかりで……」
「――漢字?」
手のひらに書こうとするが、また口が酸っぱくなる。
「ツユさん、無理しないでっ」
行き先はともかく、数字に関しては漢字ではなく、◆などの記号も使われていない…………と言われて、ツユの識字問題が顕著となった。
「ツユはおおくを知りすぎた。キミツローエーをおそれた犯人はのろいをかけたんだ!」
「0点。なによ、呪いって。いきなりメルヘンね」
「まじょが言葉をうばった、ほうがいいのか?」
「アンタねぇ、変な気遣いしないの」
慣れというものは恐ろしいものだ。
立て続けの問題なくないことに、ツユはもう悲観していなかった。
電光掲示板のような、膨大な情報量はどうにもならないが、読むぞ! と集中しなければいいだけで、マウロの言う病み上がりにかけて、そのうち落ち着くだろうと踏んだのだ。
今は流れに身を任せて、お店へ向かう。
「ツユ海の外説はどうだ! エーゴ圏のヒトだったら、日本語わかんないだろッ?」
「まぁ無きにしも非ずね」
――――考え出すと、きりがないから。
そう腹をくくったのに、店内で待っていたのはツユにぞんざいな診察をした、お医者さまの影津氏だった。
「近くに来たから、ついでに」
「――ふんッ!!」
彼の姿を見るや、マウロは不愉快さ全開を隠しもしないで、大雨の外へ出て行ってしまった。
「待ちなさいよっ」と、カアナも踵を返せば、ツユは置いてけぼりに。
あとに続きたくても、傘はもうない。
***
小さな体に不釣り合いな傘を差すものだから、捕まえるのに苦労はしなかった。
FOCUSには戻らず、近くのビルの軒下で診察が終わるのを2人で待った。
「喧嘩中、だったわね」
「ぷす」
義行が詳しく言わなかった理由が、なんとなく。
「あの人が意地悪なこと、今に始まったことじゃ ないじゃない」
それでも、影津氏のそばにいることを選んだのはマウロだ。ARの管理局が無理やり押しつけたわけでも、影津氏がお迎えしたいと立候補したわけでもない。
イヤなら、勝手にどこかへ行く。
それがマウロだし、子どものARだからと許された特権でもあるのに。
「……ボクがひとりで怒ってるだけ。きょーはくぶんがきたってのに、せんせーは……」
「脅迫っ!?」
「なんとか教団の教祖さまじゃないなら、くすりの開発に協力しろって」
悔しそうに拳を握る。
マウロは影津氏の方針を理解して、そばにいるのだ。
白砂病はウイルスでも細菌でも、突然変異でもない。
彼は、白砂病が海を越えないことを誰よりも早く気づき、治す治せないの次元ではないと提唱した医師であり、その界隈ではちょっとした有名人でもあった。
ヤブだと言われた頃もあったが、隔離病棟に押し込まれるより、彼のところにいたほうが穏やかでいられ、食事の制約もなく面会もできて、最期の散り際までも誰かが看取る。
遺骨がわりの砂を、故人を想う人が集めることこそが、なによりの弔いだと。
「――それのどこか教祖さまなんだッ!!」
公言できるものならしてやりたい。
強制的な隔離こそなくなったが、影津氏のところのほうが、未だに長く生きられることを。
「医者よ」
カアナは腰を下ろして、必死に涙をこらえるマウロの目尻を拭いながら断言した。
「ケイの主治医なんだから、教祖さまでも困るわ」
マウロのかつての主も影津氏の元にいた。自分の大切な人を教祖なんて眉唾な相手に任せたつもりなど一切なく。
マウロは影津氏の潔白を証明するために、病院を飛び出したのだ。
「……だから、ツユさんのそばにいるの?」
彼女は似ていた。
突然白砂病に見舞われ、街1つが散り逝った領域の生き残りである、カアナの主に。
彼も記憶喪失であり、髪の脱色こそ見受けられるものの、白砂病の兆候はない。ただ、以前の自分を取り戻そうと悩んでいた彼とは違い、ツユはこうしたいあぁしたいが希薄で、とくに最初の食事なんて物を口に運ぶことをしているだけで、空腹を満たそうとしているようには見えなかった。
――なにか自分で気づいたことは?
ケイをなぞるような彼女を影津氏も気づかないわけがない。
FOCUSの中2階での問診は、いつぞやと変わらない。
偶然の産物にしては共通する部分も多く、髪や肌の色も相まって人形のように見えるのも、彼にそっくりだった。
「些細なことでも、なんでもいい。坊やのわがままにほとほと参ってる。坊やの寝相が悪くて眠れない、等な」
万が一、マウロがどこかに行ってしまったときの監視役としてカアナがついているのだろうが、状況は重なるばかり。
「……振り回しているのは、私、かも……です」
「ほう?」
「いつもマウロくんに起こしてもらってます。歯の磨き方、お風呂の入り方、スプーンの握り方……、こうしたほうがイイぞッ、て」
だが、完全に一致ではないようだ。
奇跡的に生き残った彼でさえ、そこまでではなかった。
「……あと」
ツユはおもむろに、目元に手を添えた。
「文字が変で……」
「変?」
「漢字ばっかりで……」
影津氏の持つペンのロゴを説明しようとするが、意識して見たばかりに吐き気が襲う。
今度は喉元もおさえて、逆流を阻止。さすがの影津氏も身を乗り出すが、「すっぱいものがっ……」とシンプルな吐き気を主張した。
「――……作為的に行ったツケ、か」
そう呟く影津氏はツユの背中をさする。
「さ、くい……?」
「いや。よくはないが、よかったよ」と、マウロと同じ台詞を口にする影津氏に、ツユはほんの少しだけ彼に対しての印象が柔らかくなった。




