case 8
そこは真っ白な空間だった。
いつか視た、あの場所。
でも、窓がない。
壁を縁取っているだけの窓枠なら、ある。
その先に広がるものなんてなくて――――窮屈、だと。
直感的にそう思う。
“窓も、扉もない”
不確かな『確信』が四方を見渡すことを拒んで、ツユは後ずさった。
足になにか当たる。
頭を垂れれば、プラスチックのトレー……と、そこに乗っていたボウルが衝撃に耐えかねて、空色のゲルをぶちまけていた。
ゼリーよりも どろっとしていて、透明度も低いそれにスプーンが添えてある。
(……ごはん? これ、が??)
そこに気を取られていると、今度は物が二重に見え始めてきた。
ガスだ。
どこからともなく噴射して、意識が遠退いていく。
霞む視界。
吹きすさぶ雪に、たゆたう身体。
ツユを抱く白衣を着たガスマスクの人に、心当たりはない。
――と、いう夢を繰り返す。
部屋に疑問を持っても、
『なにも考えなくていい』
食事に抵抗感を覚えても、
『ただ眠り、ただ食べ、ただ過ごすだけでいいんだ』
壁を叩き、外にいるであろうガスマスクの人に問いかけても、
『……そうすれば、白砂はおまえには微笑まないから』
気づけばまた真っ白な空間に――――
ツユはそこから抜け出すように、無理やり目を覚ました。「すぴぴ……」と、隣で寝息を立てるマウロに、どれだけ安堵したことか。
じんわり汗をかいていた。
イヤな夢、だった。
それが記憶の整理だと言われても、突然現れた男の話を鵜呑みにしすぎている。
それこそ不確か、だ。
でも、狂った環境下だったことは、今のツユになら理解できた――――と同時に、口内に違和感を覚えることが多くなってくる。
*
ごはんを食べているとき。
歯を磨いているとき。
バスに乗って、降りて。
「おはようございます」と、挨拶を交わすとき。
掃除をしているとき。
今日のオススメを運んでいるとき。
お冷やを配っているとき。
ゴミ捨て――……は、また待ち伏せられてもいけないので、勝手口に置いておく、そのときも。
口の中がじゃりじゃりする。
貝のお味噌汁みたい。
吐き出す量ではない。
でも、増えている感じはある。
確認する勇気がなくても分かっては、いる。
止まっていたカウントが再び動き始めたこと、くらい。
「シバくん、どうしたの。その手!」
「照明替えてたら、バチッといっちゃって」
「気をつけないとー」
「そうですね。お気遣い、ありがとうございます」
バンダナを外した彼だったら、どう答えるのだろうか。
――んなこと分かってる。or 無視……?
不思議と想像できてしまうのは、先日ようやく訪れた既視感のおかげだ。
シバばかり目で追ってしまう。
彼みたいな人が身近にいたんだ、と。
素を見せる間柄はきっと親しくて……――――憶測でしかない彼を、ツユは知りたいと強く思った。
そうとなれば、まずやることは読み書き、文字の判別だった。
口がじゃりじゃりするのもあって、ある程度吐き気に耐性がついてくる。
・ゼロ
・生まれ変わり
・信仰
・『貎懊』入『謐◆』査
・記『諞カ』を消す
複雑な漢字はより難解なものになってしまうが、読めなくはない。
男の言っていたことが本当ならアーカイブが残っているはずだと、ツユはタブレットを使って、ちょこちょこ図書館にアクセスするようになる。
が、常に虫の息だ。
単語を検索にかけるまではいい。
映像で残っているものは音声だけで◎。
問題は、膨大な記事とその文字数。
目を通すだけで一苦労だった。
――先にねるからな、よふかしするなよ。
――うん。おやすみなさい。
――ん。おやすみ。
寝る前に、もう1度。
“ゼロ”では引っかからず、記憶を消す団体はいないか、検索にかけてみる。
……。
どの記事も注意喚起ばかりだ。
治ることはまずなくて、最悪壁の向こう側に送る団体もいたらしい。が、潜入捜査で発覚するよりは内部告発が主。
中には次々と白砂病で倒れ、そのまま解散となった事例も。
読み進めていると、吐き気がピークに達した。
「……っ」
「ツユさん」と、カアナが背中をさすってくれる。
生き急ぐようになったツユに気付かないほど、薄情ではないのだ。
鼻も良い。
微かだった無機物臭が、どんどん強くなっていく。
「……“今”を生きないの?」
カアナは寂しそうに問いかけた。
「誰も咎めないわ」
以前の自分が正しくなくても、結果的に延命できたことも。
終わりよければすべて良し。
それではダメなのかと。
「過去がなくたって、生きていける」
「……『ケイさん』?」
「そうよ。ケイはね、昔のアタシを知らないの。でも、昔以上に愛してくれるわ。それでいいじゃない。だから、ツユさんも今を」
カアナの言葉を遮るように、ツユは砂をついに吐き出した。
髪の色と変わらない。
片手いっぱいの、真っ白な砂粒たち――――は、留まりそうにない。
カアナはすかさず、ツユの口元にビニール袋を。「う……ぇ……」と、吐砂するツユが少しでも楽になればと背中をさすり続けた。
そこへマウロが、目をこすりながら やってくる。
「おしっこ……」
――どころでなくなる。
「カアナ!! せんせーに連絡だッ!!」
「……い、いっ」
喘鳴まじりに、ツユが首を横に振った。「知りたい……こと、見つけた……の」と、主張するさまはお人形さんではない、歴とした人、だった。
「なにか思い出したの?」
「すこし、だけ……」
息が整うのを待って、話を続けた。
「……病院に行かなかったのは、そのひとを忘れたかった、かも」
というのは、ツユの憶測にすぎないが。
その真意を確かめれば、自ずと分かってくるはずだ。
親密な彼を想っての行動か、はたまた――――
「路地裏で逢った男の人は、私は潜入捜査官だった、って」
「ぽくないぞ」
マウロの言うとおり、そこはぴんとこなかった。が、あやふやなままにしておくには、どこか引っかかるものがあった。




