黄月英編 第1話 「10月13日、大安」
「しっかり者だけど抜けている」と評され続けて幾十年。今日はそんな情けないところを発揮してしまって、仕事に必要な資料を忘れたことに、夕方になってから気がついた。
使う直前になって、やっと。
ひたすら謝り倒してなんとか許してもらい、すぐ職場の廊下へ飛び出した。エレベーターが上がってこなくて鍵も見つからず、かれこれ10分が経過。実を言うとこういう日はたまにあって、だいたいは皮肉なくらいに悪いことが重なる日でもある。どうしてあの人みたいにデキる人間になれないのかと己を呪いながら車を走らせ、なんども信号に引っかかり、ようやく家に着いた。脱いだ靴をそろえる暇もない。自分の部屋へ行くために階段を2段ほど上がった時、今いるところとは反対の、リビングのむこう。電話が鳴った。
「あッ…もしもし?瞻です!お母さんですか?
今すぐ成都病院に来てください!あのッ、くわしい訳は後で話しますから、とにかくすぐ来てください!!劉備さんが…劉備さんが、たいへんなんですッ」
受話器を取るなり響いた、ひどく焦った息子の声。
今の自分の状況も相俟って完全に冷静さを失ってしまった私は、慌てて玄関へ向かって走り出した。ちょっとした段差につまずいて転び、どうにかして落ち着こうと、大きく深呼吸。だんだんと頭がすっきりしてくる。散らばった靴を履き直し、出ていこうとした。しかしふと違和感を覚え下を見る。
玄関の隅、咎めを恐れるかのように置かれた革靴。言うまでもなく、「あの人」のものだった。
どうして、という思いはあった。しかしそれよりも優先させるべきことがある。当然職場には連絡した。『病院』、『劉備さん』、『たいへん』。これだけキーワードが揃えば、何が起こったのか…起こってしまったのか、だいたいの想像がついてしまう。抑えきれない不安をそのままに、病院へと車を走らせた。
商店街で畳屋・くわのきを営んでいる劉備さんは、我が家の中では特別な存在だった。幼い頃に両親を亡くしどこにも引き取り手がなかったあの人を拾い、育て、見守ってくれた人。喬や瞻にとっては祖父のような、わたしにとっては義父のような。つまり、とても頼りにしていた。それはあの人も同じで、わたし達なんかよりもずっと想いは強い。「親子」なのだから、当然ともいえるけれど。劉備さんの身が危ないということを、孔明は知っているのだろうか。知らなければさっき教えてあげればよかったと思うし、もし知っていたのだとしたら、どうして忙しいはずのあなたが家にいるのかと疑問が浮かぶ。どちらにしろ、彼がこの時間に家にいることなんてあり得ない。
劉備さんの件が落ち着いたら、是非問い詰めなければ。
そのようなことを色々と考えながら、ハンドルを切っている。
頭を働かせていたおかげで、さっきまでと比べると随分冷静になれてきた。
さて、自分はなんとか持ちなおせたものの、瞻はどうだか。
「年来の疲れが溜まってもいたのでしょうね、小さな血腫が破裂していました。幸い、発見と処置が早かったようですから、完治とまではいかなくともほぼ全快できるでしょう。様子を見てですが、1ヶ月は入院していただきます。」
心配していた劉備さんの病状を告げられても、そうですか、としか言えなかった。いまのわたしの中には、劉備さんへの心配よりも瞻と孔明のことが大半を占めているのだから。何故か家にいた孔明が、倒れてしまった劉備さんと今日関わっていたのはたぶん間違いないこと。瞻の表情を見て直感した。
ぶつけるあてのない怒りが、顔だけでなく体全体から湧き出ていた。
瞻をあれほどに怒らせる人間を、わたしはひとりしか知らない。
まったく。今度はいったい、なにをやってくれたのよ。孔明。
ゆっくりと家路をたどる、重たい空気を負った車内。
助手席にすわって外の景色を眺める瞻の眼はここよりもずっと暗かった。
見慣れた道、家々を確認するたびに、これからの展開が案じられる。
瞻と孔明の間になにがあったのかは残念ながら想像できないけれど、この不穏さは尋常じゃない。もし瞻と孔明がケンカになってしまったら、果たしてわたしは、ふたりを止めきれるだろうか?事情をわかっていない上に、今の瞻が放っている強い眼の光に対抗できる気がしないし、あの、口も八丁諸葛孔明を抑えるほどの弁舌の才は持ち合わせない。こんなに「ない」だらけじゃ、結果は目に見えている。せめて喬がいてくれれば、そう思ったって、学生には学生の事情が。と言っても、サークルに行っただけなのだけれど。ものを考えていないとこの異常な重さに潰されてしまいそうになる。そろそろ限界かもしれない。
そんな時に、幸か不幸か家に着いてしまった。もう車を降りた瞻が玄関へと歩く。ドアを開け生真面目なところをみせて誰もいない家の中に「ただいま」と言う。厳密には、誰もいないわけではない…けれども。靴を脱ぐために座った瞻の視線が、自然と下方に移る。マジックテープでくっついているバックルに手をかけ、そのまま止まった。そして彼の可愛らしい顔は、まばたきよりも早く凍りつく。瞬間、土足のままで家の中へ走りわたしの視界から消えていった。耳が劈かれてしまいそうな声で、孔明のことを呼びながら。
第3章、黄月英編です。
読みにくさは相変わらずですがご容赦を…。




